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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第三章・横浜発
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第14話 生きた器械

 三月中旬、伊藤俊輔は水戸の志士たちをれて京都へ入った。

 そしてこの頃、俊輔には朗報ろうほうがもたらされた。

 俊輔をあしがるから“じゅんさむらいやとい”の身分へ昇進させる、という辞令が藩から出たのだ。


 俊輔はこれでとうとうさむらいはしくれになったのである。

 辞令は次のように書かれていた。

「先年より吉田(とら)次郎じろう(松陰)に従学じゅうがくせしめ、かねて尊王攘夷の正義を弁知べんちし、心得こころえよろしきにつき格別の筋をもって“じゅんさむらいやとい”として一代限りの名字みょうじ名乗なのりを差し許す。文久三年三月二十日」

 ちなみに山尾庸三(ようぞう)も、この頃同じく“準士雇”となっている。

 やはり俊輔と一緒に「仕事に励んだ」ことが評価されたのであろうか。


 京都に着いた俊輔は久しぶりに聞多と会った。そして驚天動地きょうてんどうちの話を聞かされた。

「俺は現在、藩の重役に“洋行ようこう”を願い出ている。俊輔、お前も一緒にロンドンへ行かんか?」

 俊輔は最初、聞多が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

「願い出るって……、幕府がまたヨーロッパへ使節でも派遣するのか?もしそうだとしても洋行希望者は他にも大勢いるだろう?ワシらが選ばれるとは限らんぞ」

「いや、幕府は関係ない。我が藩の留学生として行くのだ」

「だから何なのだ、それは?」

にぶい奴だなあ。だから密航みっこうして行くんだよ」

「密航!?」

「シィー!でかい声を出すな。これは藩内でも極秘の話なんだぞ」


 俊輔はまったくきもをつぶし唖然あぜんとした表情になった。そして聞多の顔をまじまじと見つめた。

(密航してロンドンへ行くなどと、こいつはまったく何という恐ろしいことを考える奴だ……)

 俊輔はあまりに突拍子とっぴょうしもない話を聞かされて面食めんくらったが、その反面、何か遠くに明るい光がほのかに見えたような気もした。

「……とにかく、即答はできん。少し考えさせてくれ。萩では嫁を取ったばかりだし、近々父上が上京する予定もある。それに桂さんにも聞いてみなければならん」

「それはもちろん、そうだろう。ただ、お前にだけは言っておくが、俺はこの洋行が実現したあかつきには今の志道しじ家を出て、井上家へ戻ろうと思っている。今の養家である志道家に罪をおよぼさないためにな。それだけの覚悟でことのぞむつもりだ」

 聞多は養子に入った際に志道家の女性と結婚しており、すでに娘が一人いる。

 志道家から井上家へ戻るということは、その妻と娘と離縁りえんするというである。そのことからしても生半可なまはんかな覚悟でないことは確かであろう。


 このあと俊輔は久坂玄瑞にも再会した。そしてそれとなく久坂に、聞多の密航の件を知っているか聞いてみた。

 久坂は憮然ぶぜんとして答えた。

「もちろん知っている。俺は今そんな悠長ゆうちょうなことをしている場合ではないと言って反対した。しかし桂さんや高杉は賛成した」

「そうか。桂さんは賛成か……」

「というよりも、桂さんは自分自身が行くことを申し出ていたぐらいだ。ただしもちろん、今あの人に何年も藩を空けられたら我が藩はどうにもならん。だからそれは却下きゃっかされた」

「この前の賀茂かも行幸ぎょうこうに引き続き、今度はいわ清水しみず八幡はちまん行幸があると聞いたのだが……」

「その通り。今は朝廷を先頭に全国一丸となって攘夷実行を目指めざしている最中だ。それなのに何が洋行だ、聞多の奴め。我々はいずれくに(長州)へ帰って夷狄いてきを打ち払わねばならん。それはもうそんな遠い先のことではないぞ。当然その時は俊輔もいくさに参加するだろう?」

「もちろん。それが松陰先生の教えだったからな」

「そうだ。さすが俊輔は我ら松下村塾の一員だ。聞多とは違う」


 俊輔はこの時、聞多の密航に参加すべきか、久坂の夷狄いてき打ち払いに参加すべきか、迷っていた。

 洋行は俊輔にとって年来の大望たいもうだったとはいえ、まだ計画が確定している訳でもなく海の物とも山の物とも分からない状況だ。しかも、もしそれを希望したとしても家族をはじめまわりの環境がそれを許さない可能性もある。

 かたや長州へ帰っての攘夷実行は松下村塾生として当然の選択肢であり、なにより俊輔が準士雇という侍の端くれになれたのも、松陰の松下村塾生として尊王攘夷に命をけてきた結果である。俊輔の義兄ぎけい(妻すみ子の兄)である入江九一なども当然久坂の方針に賛同さんどうしている。

 この時の俊輔からすれば、久坂、入江たちのほうに参加して戦っている姿こそが、普通に予想された自分の将来像だった。


 この頃ちょうど山尾庸三と野村弥吉(やきち)のちの井上(まさる))が藩のがいまるを運航して兵庫ひょうご港へやって来ていた。

 以前何度か書いたように、山尾は洋行を強く希望している人間である。

 ちなみに聞多と山尾の関係は、以前横浜でじんじゅつまるの航海練習を一緒にやっていた頃から、その後の金沢一件、御殿山()()ちとずっと一緒に活動してきた仲である。

 それゆえ聞多は密航の計画をくわだてた際、すぐに山尾を誘った。山尾が以前から洋行を希望していたことを聞多はよく知っていたからだ。

 無論、山尾は一も二もなく賛成した。

 そこで山尾はさらに、以前から付き合いのあった野村弥吉もこの計画に誘った。


 野村の家は上士じょうしの家柄である。しかも本人はかなり早くから洋学にはげんできた藩内きっての洋学エリートである。この時、がいまるを兵庫へ運航してきた肩書きも野村は船将せんしょう(船長)で、山尾は測量そくりょう方だった。ちなみに年齢は野村が(かぞえ年で)二十一歳、山尾は二十七歳である。山尾が以前箱館(函館)で洋学を勉強していた時に野村もそこで一緒に学んでおり、この両者はそのとき以来の仲だった。

 もちろん野村も喜んで密航計画に参加するむねを山尾と聞多に伝えた。


 この密航仲間の三人を代表して、聞多が藩の重役である周布すふ政之まさのすけに洋行の許可を願い出て直談判じかだんぱんした。

 周布は「どうせ聞多のことだから、また洋行の許可願いの件であろう」とすべてお見通しだった。それで他人に立ち聞きされないよう障子しょうじを開け放った部屋で聞多と面会した。

 周布というと以前「酔っ払って問題(特に土佐藩との問題)ばかり起こしていた人物」という印象しかないかも知れないが、これでもれっきとした藩の重役で藩の政策決定に大きな影響力を持っている人物なのだ。

「なんだ聞多、また洋行願いのもうじょうか」

「このたびは周布様に海外から買い入れて頂きたいしながありまして談判に参りました」

「なんだと?聞多。まさかまた蒸気船でも買えというのではあるまいな。昨年買った壬戌丸、今年買った癸亥丸で、すでに我が藩は手一杯じゃ」

「いえ。そのような器械ではありません。買い入れて頂きたいのは“きた器械きかい”です」

「なに?“生きた器械”だと?」

「はい。私と野村、山尾をイギリスへ行かせてくだされば、将来我が長州が開国する時にやくに立つ“生きた器械”となって帰って参ります。つきましては何卒なにとぞ、この際“生きた器械”を買ったと思って我々をイギリスへ送って頂きたいのです」

「ハハハ、なるほど、“生きた器械”か!上手いこと言うたわ!」

「器械をイギリスへ送るだけですから、これなら万一の場合、幕府への言い訳にもなるでしょう」

「バカもの。幕府にそのような詭弁きべんが通ると思うか。されど面白い申し状じゃ。藩内で異論が出た時は、その言い分を使うとしよう。伊豆倉いずくらの貞次郎に出国手続きの依頼をする際にもな」

「それではお許し頂いたということで?」

「元々ワシはお前たちの洋行に反対しておらん。他の重役が幕府に露見ろけんするのを恐れて反対しておったのだ。ワシはむしろ行くなら今のうちだと思っている。攘夷実行が始まる前にな。万一外国と戦争になったら外国へ人を送り込むこともできなくなる。特に一番危ないのは横浜だ。もしあそこで戦争が始まったら、お前たちも洋行どころではなくなるぞ」

「周布様、もし仮に洋行する人間が増えた場合、それも許可して頂けますでしょうか?」

「どのみち洋行する者は脱藩だっぱん扱いとなる。臨機(りんき)応変おうへん。あとはおぬしに任せる」


 周布が許可したことにより聞多たちの「英国留学」は藩から許可が()りることになった。

 四月十八日、聞多、野村、山尾の三人に次のような辞令が(くだ)された。その概略を現代文であらわすと次の通りである。

「海外への留学希望の件は了承した。今のご時世では幕府に海外留学を願い出ても許可されがたく、また、もし外国と交戦状態になった時は海外への留学は難しくなる。それゆえ三人には五年間のひまを与えるのでしっかりと技術習得に励むように。そして後年帰参(きさん)したあかつきには海軍の強化に尽力(じんりょく)すべし」

 そして三人には留学費用として一人二百両(合計六百両)が与えられることになった。




 一方この頃横浜では、三月下旬以降やや緊張緩和(かんわ)の方向へ向かいつつあった。

 神奈川奉行(ぶぎょう)は横浜帰還をうながす通達を出し、横浜の商取引は復活する傾向にあった。そのため日本人も戻り始め、町の様子も少しずつ以前の状態に戻り始めていた。

 すでにイギリス艦隊が出現してから一月ひとつき以上もち「恐怖にれてしまった」という事もあるが、それ以上に「結局幕府は賠償金を支払うのではないか?」という漠然ばくぜんとした雰囲気が広がり始めた、ということもその背景にはあった。

 しかし、この横浜を襲撃するために京都を出発した清河(きよかわ)八郎と浪士たちは、三月二十八日に江戸へ戻って来た。そして彼らはそのあと着々と計画を進めていき、横浜襲撃の予定日を四月十五日と決定した。


 横浜のサトウの住居では、サトウと高岡が日本の政治状況について話し合っていた。

 高岡はサトウに日本側の事情を説明した。

「京都で新しい事情が発生したため、上様うえさまの江戸帰還は未定となりました」

 サトウは疑問に思っていたことを高岡に尋ねた。

大君タイクン(将軍)の江戸不在を理由に回答を延期してきた幕府は、これからどうするんですか?」

「分かりません。とにかくこれで、先日サトウさんに話した“老中より偉い人”からの回答延期願いもご破算になりました」


 この少し前に“老中より偉い人”からひそかに高岡へ連絡が来て、サトウ経由でニールに回答期限の延期を打診だしんしていた。その偉い人とは御三家尾張(おわり)藩主の徳川茂徳(もちなが)であった。茂徳は江戸の“留守るす政府”における最高責任者の一人で、横浜のニールと京都の将軍(および一橋慶喜(よしのぶ))の間で右往(うおう)左往さおうしている状態だった。

 本来の最高責任者である将軍家茂と一橋慶喜がいつ江戸へ戻ってくるのか?その日取ひどりが確定されないことにはニールへ回答延期を要請することも出来ない。それゆえ高岡・サトウ経由でニールへ回答延期願いを要請しようとしていた茂徳は、その要請を取り下げたのである。

 高岡は話を続けた。

「近い内に外国奉行の竹本様がまたこちらへ談合だんごうしに来られると思います。それでどのようになるのか決定するでしょう」


 数日後、京都へ行って将軍に会ってきた竹本が横浜のイギリス公使館へやって来た。

 この時、外国奉行(なみ)の柴田剛中(たけなか)と通訳の福地(ふくち)源一郎(げんいちろう)なども会談に同席した。

 イギリス側の代表はもちろん代理公使のニールだが、フランスのベルクールも同席した。ちなみにサトウはまだ同席する立場にはなっていない。


 まず最初に、前回の会談で英仏側から提案された「軍事援助」の話から始まった。

 ニールは竹本にたずねた。

「この前の提案ついて、京都で大君タイクン(将軍)に会って確認を取ってきたのか?」

 竹本は答えた。

「将軍は両国の援助に対し非常に感謝していたが、やはり自分の力で解決したいので援助は受けられない、との回答である」

「了解した。その件はこれで終わりとしよう」

 ニールは無表情で答えた。ただしその隣りに座っているベルクールは、多少不快な表情をして押し黙っていた。

 つづいて賠償金支払いの問題に移った。竹本はとにかく回答期限の延長を求めてニールに食い下がった。

「あと数日、なんとか延長してもらいたい!」

 しかし竹本の期限延長の訴えはすべてニールに拒否された。

「これまで何度も延長を認めてきた。これ以上の延長は一切認められない」

 竹本はもはや賠償金の支払いを認めるしかなかった。

 あとは「どうやって内密に支払うか」という選択肢しか残っていなかった。最終的な落とし所として「分割払いで支払う」ということが決まり、この日の会談は終了した。


 ニールとしては、とにかく幕府の賠償金支払いにひとまず目処めどがついたのでホッとした。



 この会談に通訳として同席した福地源一郎は、江戸へ戻って上司の田辺太一(たいち)に会談の結果を報告した。

「それで福地君、会談の様子はどうだった?」

田兄でんけい見立みたて通り、賠償金を支払うことになりました」

「そうか。やはり外国奉行最古参(さいこさん)の竹本様でも、これ以上はねばれなかったか」

「薩摩が斬ったんだから、薩摩に責任を取らせりゃ良いんですよ」

「バカを言うな、福地君。薩摩も日本の一部であり、統治とうち責任は幕府にある。直接イギリスと交渉させる訳にはいかん。外国との交渉はすべて我々外国奉行の人間がやらなければならんのだ」

「しかし田兄でんけい。薩摩も長州も、わざと我々を困らせようとしているんじゃありませんか?」

「先日、京から戻って来られた小笠原図書頭(ずしょのかみ)様は、どうやら賠償金の支払いには反対らしいな」

「おそらく朝廷の意向いこうんでのことでしょう。これ以上朝廷が無茶を言うようなら、もはや京に兵を送って大掃除おおそうじすべきなんじゃないでしょうか?」

「あまり物騒ぶっそうなことを言うな。そうでなくても最近、不逞ふてい浪士が横浜を襲撃するという噂が流れているというのに」


 この田辺と福地は数年後、外国奉行の一員としてヨーロッパへ派遣されることになる。ただし福地は(先の会談に同席した柴田も)半年前に帰国した「竹内使節」の一員だったのでヨーロッパの事情についてかなり詳しい人間である。

 ちなみにこの頃、清河たち浪士組は横浜襲撃用の軍資金を調達するために江戸の豪商から「尽忠じんちゅう報国ほうこくのため」と称して大金の「り」をくり返していた。


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