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伊藤とサトウ  作者: 海野 次朗
第二章・尊王攘夷
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第10話 御殿山と塙次郎(前編)

 俊輔が江戸に到着した四日後の十一月二十七日、勅使(ちょくし)到着後一ヶ月近く延期となっていた勅使と将軍との対面がようやく実現した。

 将軍家茂(いえもち)は勅使に対してほうちょく攘夷じょういを約束した。

 すでに幕府上層部はその覚悟を固めていたとはいえ苦渋くじゅうの決断であったろう。以後、来春二月の将軍上洛(じょうらく)にそなえて幕府や諸藩はあわただしく動き出すことになる。十日後、勅使は京都へ帰るために江戸を出発し、勅使護衛のために山内豊範と毛利定広も京都へ向かった。


 江戸に帰って来た俊輔は久しぶりに土蔵相模で聞多と再会した。

「やはり品川の女は良い」

「京の女はダメかね」

「いや、久しぶりに江戸へ戻ってきたら、ここの馴染みのおんなからふみをもらったんでさっそく会いにきたのだ」

「俺は久しく京へ行っておらんので京の女が恋しい」

祇園ぎおんきみが寂しがっとったぞ」

「まあ将軍もいずれ上洛するし、近いうちに俺も京へ行くだろう。それまではおあずけだ」

「ところで金沢一件(いっけん)謹慎きんしんけたのか?」

「なに、あんなのは形式的なものに過ぎん。だからこうして相模屋にも来ているのだ」


 それから俊輔は聞多から金沢の件をくわしく聞いた。

「……そうだったのか。まったく相変わらず高杉さんは“あばれ牛”だな。あの人に関わると命がいくつあっても足りん」

「それにしても金沢の件は残念だった。もう二度と失敗は許されん。実は今、高杉と次の計画を準備中だ。内々で焼玉やきだまをいくつか作らせている」

「焼玉だと?そんなものを何に使うのだ?」

「俺もまだハッキリとしたことは知らん」

 焼玉やきだまとは、この時代に燃料としてよく使われていた炭団たどん(炭を団子だんご状にしたもの)に似ているが、それに火薬を混ぜ込んで発火するようにしたものだ。そして高杉は、前回の金沢一件では情報が漏洩ろうえいして失敗したので、今回はその直前まで情報を知らせないことにしたのだった。

「俊輔も計画に参加するかね」

「ワシも御楯みたてぐみに入ったんだから当たり前だろう」

 そう言いつつも俊輔は内心(おび)えていた。

(なにしろ高杉さんの計画だからな。下手したら地獄行きだな……)


 十二月十日、この日、横浜に竹内保徳(やすのり)下野守しもつけのかみ)を代表とした幕府遣欧(けんおう)使節団の一行いっこうが一年ぶりに帰国した。一行が乗船しているのはフランスのエコー号という船だった。

 総勢三十八名の使節団の中には福沢諭吉(ゆきち)もいた。

 福沢は万延まんえん元年(1860年)のけんべい使節に続いて二度目の海外渡航だった。


 横浜のイギリス公使館の前は道路を挟んで目の前に海が広がっている。

 サトウはエコー号の様子を見るために海岸沿いの道を歩いて行った。船のほうへ行ってみるとちょうどフランス公使のベルクールが出迎えの挨拶あいさつのためカッター(はしけ船)に乗ってエコー号へ向かっているところだった。エコー号は少し離れた沖に停泊しており、サトウは海岸から船上にいる日本人たちの様子を眺めた。

 サトウはおもわず故郷のことを思い出した。

(ロンドンへ行っていた日本の使節団が帰ってきたのか。ロンドンの父さんや母さん、家族の皆はどうしているだろう……)


 この使節団は各国代表に挨拶をするため横浜へ立ち寄ったのだが実際に上陸するのは品川であり、それはこの翌日のことである。


 この使節一行は一年前、イギリス船オーディン号で品川を出航してヨーロッパへ向かった。彼らの一番重要な使命は「開市かいし開港かいこうの延期」を西欧諸国に認めさせることであった。

 1858年(安政あんせい五年)に締結された「安政あんせい五カ国条約」の取り決めでは、翌1859年(安政六年)に横浜・長崎を開港、続いて江戸は1862年(ぶんきゅう二年)、大坂・兵庫は1863年(文久三年)に開かれる予定となっていた。ちなみに箱館はこだて(函館)はその前の和親条約ですでに開港済みで、新潟は港の機能が不十分だったので代替だいたい港を選定中だった。

 しかし1859年の開港以来、日本国内は物価高騰(こうとう)などで「人心(じんしん)不折合ふおりあい」の状態となり、外国人襲撃事件が相次いだことは以前述べた通りである。

 幕府は当初のスケジュールでの「開市かいし開港かいこう」は困難と判断し、さらにイギリス公使オールコックも自身が東禅寺で襲撃を受けた経験から日本の政情不安を痛感し、幕府使節のヨーロッパ派遣に協力した。


 途中フランスでの滞在もはさんだので使節団がロンドンに到着したのは出発から四ヶ月後のことだった。ちょうどその頃ロンドンでは万国博覧会が開催されており、彼らもそれを見学した。

 その後しばらくするとオールコックもロンドンに到着した。彼は使節派遣にあわせる形で賜暇しかを取って帰国したのだった。ちなみにこの賜暇しかというのは外交官の有給休暇のことで、当時のイギリス外務省では五年勤務ごとに一年の有給休暇が与えられていた。


 そのオールコックが日英交渉を主導した結果、1862年6月6日(文久二年五月九日)「ロンドン覚書おぼえがき」を調印することになった。

 日本側の署名者は竹内下野守、松平石見守(いわみのかみ)京極きょうごく能登守のとのかみの三名で、イギリス側の署名者はイギリス外相のジョン・ラッセルである。

 この「ロンドン覚書おぼえがき」によって江戸・大坂・兵庫・新潟の開市開港は1868年1月1日まで延期されることが認められた。

 ただしその条件として日本側も様々な要求(主に貿易面での規制撤廃(てっぱい)など)を受け入れ、さらに「日本が約束不履行(ふりこう)の場合は即座に開市開港を要求できる」と規定された。


 この「ロンドン覚書」が基本となってそのあと他の西欧諸国とも同様の取り決めを締結した。

 厳しい条件は付けられたものの、なんとか使節団は当初の使命を達成したのである。


 ところがイギリスを離れてロシアへ行った時に第二次東禅寺(とうぜんじ)事件の情報を知らされ、さらに帰路セイロン島でイギリスの海軍士官から生麦事件の新聞記事を見せられた。

 西欧社会を体験してきた彼らにとって、外国との関係をとうとする攘夷派の動きはバカげた行為としか思えなかったであろう。


 そう思っていた筆頭人物が福沢諭吉である。

 横浜のエコー号の船上では、福沢と薩摩藩士の松木まつき弘安こうあん(後の寺島てらしま宗則むねのり)が帰国を喜んでいた。そして福沢が松木に今回の欧州行きの感想を述べた。

「今回は運が良かったよ。もし生麦や東禅寺の殺傷事件がもっと早く発生して覚書おぼえがきの調印前にイギリスへ伝わっていたら、開市開港の延期交渉は失敗してただろう」

 松木がこれに答えた。

「そうだな。仮に延期に成功しても、もっと厳しい条件を飲まされたことだろう。なにしろ大英帝国グレートブリテンだからな」

 松木は薩摩藩士ではあるが幕府の西洋学問所に出仕しゅっしする身分である。ちなみに福沢も中津なかつ藩士として幕府の翻訳方ほんやくかたに出仕する身分なので境遇は似ている。

 福沢は話を続けた。

「それにしても、やはり幕府だけで政治をおこなうのは難しいだろう。ドイツ連邦のように日本も諸大名を集めて連邦制にしたらどうだ?」

「まあ、そのあたりが妥当だとうなところだろう」

「もしかなうなら将軍様の教授になって思うように開国の説を吹き込み、大改革をさせてみたいものだ」

「そりゃいい」

 松木はそう答えながらも、内心では福沢の発言を否定していた。

(幕府にそんなことが出来るわけないだろ。なりあきら様でも出来なかったのに……)

 この松木弘安は薩摩の先代藩主・島津斉彬(なりあきら)の開化政策を支えた蘭学者の一人で、翻訳係ほんやくがかり兼医師としてこの幕府使節に参加していた。

 松木はこの時代随一(ずいいつ)の開明家と言われた島津斉彬を敬愛していた。

 蘭学者である松木は今回の欧州歴訪(れきほう)でオランダの国力が思いのほか低いことが分かりショックを受けた。その一方でイギリスの発展ぶりには驚嘆きょうたんした。ただしロンドンにいる貧民や物乞ものごいの多さから、その格差社会の深刻さも十分に認識した。


 松木は福沢に蘭学をやめると言った。

「日本の土を踏んだら蘭学はもう誰にも勧めるつもりはない。これからは英学一本槍だよ」

 福沢は笑いながら答えた。

「そんなことは横浜で働いていた貴公きこうならとっくに承知していたはずだろう?全くとんだのんき者だな」


 この松木弘安はいずれ戦場でサトウとあいまみえることになるのだが、それはこれよりもう少し経ってからのことである。

 余談ながら、サトウはこの使節団の市川(わたる)清流せいりゅう)が書いた旅行記『尾蠅びよう欧行おうこう漫録まんろく』をこの一年後に英訳することになる




 同じ頃、品川の土蔵相模では高杉たちが集まって新しい襲撃計画の準備をしていた。集まったメンバーは前回同様十数人だが、今回はそこに新しく俊輔が加わっている。

 高杉は皆を前にして計画の全貌ぜんぼうを明かした。

「幕府は攘夷の勅命ちょくめいほうじておきながら御殿山(ごてんやま)に外国公使館の建設を続けている。二枚舌にまいじたはなはだしい。よって、あの外国公使館をちする。我々が幕府の尻に火をつけてやるんだ!」

 話を聞いた一同は多少ザワついたものの特に反対の声は上がらなかった。高杉は話を続けた。

「焼き討ちは明後日の夜に決行する。この前の決起は失敗したが今度こそ絶対にやりげてみせる。これが我ら御楯みたてぐみによる攘夷決行の第一歩だ。ただし、我々長州の名前は出さないことにする」


 今回は外国人を直接狙った攘夷ではなく、あくまで幕府の権威失墜(しっつい)を狙った破壊行為である以上、確かに長州の名前を出す必要はないであろう。いやむしろ、その後の幕府からの追及ついきゅうをかわすためには当然、長州の名前は出せないに決まっている。そのことはここに集まっている各人にもすぐに理解ができた。

 一同は高杉の計画を聞いて「それは面白い!」「是非ぜひやろうではないか!」と賛成した。

 あとは焼き討ち用の焼玉が到着するのを待つばかりで、皆はそのままいつものようにこの土蔵相模での「居続いつづけ」を決め込んだ。


 しかしこの時、俊輔と山尾に対しては、久坂から別の案件も伝えられた。

 それは人を斬る仕事の話であった。



 この翌日、福沢たち使節団一行は品川に上陸した。

 彼らは一人も欠けることなく一年ぶりに故郷の土を踏んだ(ちなみにアメリカ行きおよび上海行きの使節では、それぞれ数名の病死者が出ていた)。


 高杉たちが集まっている土蔵相模は品川の海に面している。

 俊輔と山尾はその近くの海岸から、この使節団が上陸する様子をながめていた。

「知ってるか?俊輔、あの一行の中には我が藩の杉さん(すぎとくすけ)もざっていることを」

「無論、知っている。まったくうらやましいことだ」

「おい俊輔、まさかお前も洋行ようこうがしたいと考えていたのか?」

「当たり前ではないか。松陰先生、桂さん、高杉さん、それに宮田みやたと長崎の海岸でワシをきたえてくれた来原さんも含めて、ワシの師は全員洋行(ようこう)希望者だ」

「そうか。松門(松下村塾)の連中はみな久坂さんのように外国嫌いな連中ばかりかと思ってたよ」

「まあ確かに塾では珍しいほうだろうな。もっともワシの身分では洋行など夢のまた夢だ」

「……それでな俊輔。久坂さんから言われた国学者(はなわ)次郎の暗殺の件、お前はどう思う?」

「ワシ一人で殺せるような腕がワシにあると思うか?剣術のできるおぬしが参加せぬのならワシも当然あきらめる」

「……まるで俺にやるかやらぬか決めろと言ってるような口ぶりだな」

「事実を言ってるだけだ。こんなときに空念仏からねんぶつを唱えてもどうなるものでもあるまい」

「俊輔、お前はこんな仕事がやりたいのか?」

「剣術使いでもないワシが暗殺の仕事などやりたい訳がないだろう?だけどお主は剣術ができるし、この前の金沢襲撃の時は喜んで参加したのだろう?」

「あれは暗殺ではなくて皆でやろうとした外国人相手のち入りではないか。あれなら名誉にもなる。だが今回は年寄り相手の暗殺だからな……。その塙次郎とかいう男はそれほど悪い奴なのか?」

「そうらしい。あの安藤閣老から命じられてみかど(孝明天皇)をはいたてまつるために過去のはいていの記録を調べていた男だ。ワシはあの大橋順蔵(じゅんぞう)とつあん)殿の向島むこうじまの塾に少し出入りしたことがあるので、その話を聞いたことがある」


 この大橋順蔵は、ちょうどこの年投獄されて既に死亡しているのだが、この人物については少し解説が必要だろう。

 彼はこの年一月に起きた「坂下さかした門外もんがいの変」(老中安藤信正(のぶまさ)を襲撃した事件)の首謀者の一人で、この事件に桂と俊輔が関わって幕府から嫌疑をうけたことは以前少しだけ触れた。

 この大橋という男はかなり観念論にかたまった尊王攘夷主義者で、当時何度か人々を扇動せんどうする活動をおこなっている。この坂下門外の変以外に、彼は一橋慶喜を擁立ようりつして日光山にっこうさんで挙兵する計画を立てたりした。他に有名な話としては横浜の岩亀楼がんきろうの遊女喜遊(きゆう)がアメリカ人の相手をこばんで

つゆをだに いとふやまと女郎花おみなえし ふるあめりかに袖はぬらさじ」

 と辞世じせいを残して自殺した話なども、この大橋が捏造ねつぞうした話だと言われている(この話は有吉ありよし佐和子さわこが小説化してのち戯曲化ぎきょくかされている)。余談だが喜遊(きゆう)の墓は神奈川の本覚寺ほんかくじにあり岩亀楼の過去帳に「俗名ぞくみょう喜遊、文久二年八月」とあるので彼女は実在した人物のようである。


 そして塙次郎が廃帝の先例を調べて孝明天皇を廃位はいいさせようとしているという噂も、大橋が捏造ねつぞうしたデマであった。

 塙次郎は有名な盲目もうもくの学者(はなわ)保己一ほきいちの四男で、この時五十六歳。彼は幕府が過去に外国人をどのように応接していたかを調べていただけで、廃帝に関することなどは調べていなかった。完全なぎぬである。

 しかし、この当時の俊輔にとっては、付き合いのあった大橋の尊王攘夷思想を尊敬してもいただろうし、これが濡れ衣であったなどと知りるはずもない。

 さらに一番重要なのは、俊輔の師松陰が尊王攘夷を唱えたことで幕府に処刑され、その松陰の無残な遺骸いがいに俊輔は触っており、みずか埋葬まいそうもしているということである。

 それゆえ尊王攘夷の敵である(と勘違いされている)幕府の塙次郎を殺すことに、俊輔が異議いぎを差し挟むはずがなかった。


 山尾は話を続けた。

「……そうか、そういう男か。まあ、どのみち我らのような身分の人間が断れる話でもないしな……」

「仮にワシらがこの話を断ったとしても、どうせ他の誰かが塙次郎を殺すのだ。だったらワシらの手柄としたほうが、お互い士分しぶんを得るための近道だとは思わんか?」

「地獄行きの道かも知れんぞ?つかまれば死罪はまぬがれん」

「地獄へ行く覚悟がなければ、極楽へだって行けまいよ」


 こうして二人は暗殺の仕事を引き受ける決心をした。

 ついでに俊輔は土蔵相模へ戻る前に近くの店でしゅ払ってノコギリを買い、それを土蔵相模の前にあった天水てんすいおけかげに隠しておいた。


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