2.「なぁ、九龍」
九龍の住む002号室に僕は今日も足を踏みいれた。部屋に九龍は存在していたけれど、九龍は僕に見向きもしなかった。九龍は、部屋の隅のデスクトップタイプのパソコンから、入力端子を挿入されたモニタに魅入られるようにしていた。
僕は声を掛ける気分にはならなくて、部屋の真ん中のソファベッドに仕方なく腰かける。
九龍はピンクのヘッドホンを装備していた。けれども、そのヘッドホンはどこにも繋がっていなくて、ワイヤレスなんだろうかと、僕はどうでもいいことを疑問に思う。
ふと九龍は振り向いて、ようやく僕の姿に気づいたようだった。びくりと肩を跳ね上げた後、嬉しそうに頬を緩めて、ヘッドホンを外し、跳ねるように動いて、僕の隣に座った。そうして九龍は上目遣いに僕を眺めている。
「なぁ、九龍」
「何?」
「何してたんだ?」
「証券取引」
「…へぇ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「なんでいやそうな顔するの」
「してないよ」
「お金増えたよ?」
「そっか」
「なぁ、九龍」
「何?」
「あのヘッドホン」
「うん」
「ケーブルとかついてないけど」
「ああ、ただの防音装備だから」
「へぇ」
「集中できる」
「へぇ」
「ような気がする」
「気分だけ?」
「気分がのるなら、それで十分なの」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「わたし悪魔みたいなことしちゃった」
「何したの」
「このアパート買い上げました」
「へぇ」
「もともとの住民ぜんぶ追い出しました」
「そりゃあひどい」
「なぁ、九龍」
「何?」
「何でそんなことしたんだ?」
「だって」
「うん」
「別の所に住みたいのに」
「うん」
「イズミが乗り気じゃないから」
「うん」
「お金とかエネルギーとか持て余しちゃって」
「うん」
「住む場所変えずに、住んでる場所の価値を上げる方法が思いつかなかったから」
「ん?」
「ここ、現在、一月100万の家賃となっております」
「そりゃ、誰も住まないや」
「なぁ、九龍」
「何?」
「僕のせい?」
「間接的にはね」
「なぁ、九龍」
「何?」
「それで何かいいことあった?」
「まぁ、例えば」
「うん」
「騒いでも壁ドンされないだろうし」
「うん」
「…それぐらいかな」
「なぁ、九龍」
「何?」
「無駄遣いはほどほどにな」
「そうはいってもさ」
「うん」
「貯金残高のせんぶんのいちにも満たない買い物だし」
「…うん」
「むしろそれぐらいは無理にでも使わないと、駄目じゃない?」
「そうかな」
「無理遣い!」
「得意顔で言われてもなぁ」
「なぁ、九龍」
「何?」
「僕にはいまだに現実感がないんだけど」
「うん」
「もしかして君ってすごい?」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「イズミはどう思うの?」
「だから僕にはよく分からないよ」
「つまんない」
「褒めてよ」
「えらい」
「大金持ちだよ?」
「…うん」
「わたしのおかげだよ」
「そうだね」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「お金があったって幸せになれるわけじゃないけど」
「うん」
「お金があったら、わたしたちは幸せになれると思うよ?」
「そうかな?」
「そうだよ」
「なぁ、九龍」
「何?」
「でも僕は何にも努力も苦労もしてなくてさ」
「うん」
「なんだかやっぱり、良く分からないんだ」
「ふぅん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「わたしは多分めちゃくちゃ凄いよ?」
「僕もそんな気がしてる」
「いま貯金残高7億円」
「増えてない?」
「だって、100万円ぐらいから5億にしたんだよ?」
「うん」
「手加減しなかったらもっと増やせるよ?」
「ふぅん」
「きっとわたし以上にお金をふやす才能がある人、人類に一人もいなかったんじゃないかな」
「へぇ」
「もはや神の領域だね」
「そりゃ凄い」
「現代のリアル錬金術師と呼んでくれてもいいよ」
「その呼ばれ方、よく分からない上に格好よくないよ」
「なんと」
「なぁ、九龍」
「何?」
「僕にはやっぱりよく分からないや」
「ふぅん」
「まぁ、いいけどさ」
「ごめん」
「別に良いって」
「こほり」
「ん?」
「こほこほ」
「風邪?」
「そうかも」
「なぁ、九龍」
「何?」
「僕が言いたいのはな」
「ごめん、イズミ」
「ん?」
「ちょっと眠いかも」
「え?」
「頭ふわふわする」
「大丈夫?」
「眠いだけ」
「なぁ、九龍」
「…ん」
「体調悪い?」
「どうだろ、まぁでも」
「うん」
「寝たら治るよ」
「ふぅん」
「なぁ、九龍」
「…」
「とりあえず今日は帰るよ」
「…やだ」
「やだって」
「帰らないで」
「眠いんだろ?」
「だから、泊っていけばいいじゃん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「この部屋が嫌ならさ」
「うん」
「このアパートいま全部空き部屋だから」
「うん」
「好きな所に住んでよ」
「…」
「隣の部屋でも、上の部屋でも、向かい側でも、はす向かいでも、なんでも構わないから」
「なぁ、九龍」
「何?」
「取り敢えず、今日は帰るよ」
「なんで?」
「君が買ってくれた本で、英語の勉強しなきゃだし」
「そんなの」
「何?」
「そんなの、いくらでも買ってあげるし、明日でもいいじゃん!」
「…」
「ねぇ、イズミ!」
「…」
「ごほっ。ごほこほ。ごほ」
「大丈夫?」
「うん、ごめん」
「謝らなくても」
「取り乱しちゃった」
「なぁ、九龍」
「何?」
「とうぜん、明日も来るしさ」
「うん」
「だから今日は寝ときなって」
「うん。今わたし、すごく眠い」
「なぁ、九龍」
「…」
「おやすみ、また明日」