5.「ねぇ、イズミ」
僕の住むアパート、レドリアン。
老朽化が行き過ぎたレドリアンは、少し大きめの地震でも起きようものなら、きっと音さえ立てず、それこそ、砂で出来たお城が形を崩すように消え去ってしまうに違いないと、僕は正直に思っている。
ぼろぼろの外装と内装と内部構造。それに見合った一カ月の賃貸価格だけが、レドリアンの唯一にして最大の魅力だった。
そういう訳で、このアパートの住民は須らく貧乏人だ。僕にしたって、もちろんそれは変わりなく。貧乏学生の僕の部屋には、価値のあるものなど一つもなかった。
小さな冷蔵庫。ぎりぎり稼働しているエアコン。前の居住者が置いて行った洋服棚と本棚。中古のCDプレイヤー。僕の部屋にあるのはそれだけだった。
それでも今日も九龍はやってきた。そうして、変わらない台詞を口にするのだ。
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「昔話しよ」
「昔話?」
「うん」
「孤児院にいたころの話」
「ああ」
「イズミは好きじゃないよね?」
「別にふつうだよ」
「ふぅん」
「わたしはさ」
「うん」
「結構好きだったよ」
「へぇ」
「ご飯は出てくるし」
「うん」
「階段上ればイズミの部屋あったし」
「うん」
「悪いところは」
「うん」
「夜更かしすると怒られるのと」
「うん」
「イズミの部屋には、入れないのと」
「あれ、けっこう来てなかったっけ?」
「だいたいばれて、怒られてたよ」
「へぇ」
「不純異性交遊防止だって」
「育てられないのに子どもを作る罪の深さは」
「うん」
「あなたたちが一番知ってるでしょって」
「そりゃ、反応に困る叱られ方だな」
「けどまぁ、基本的に私は」
「うん」
「毎日、会いに行こうとしてたし」
「じゃあ、たまに来ない日があったのは」
「行った後にばれたか、行く前にばれたかの違いだね」
「へぇ」
「僕は、九龍については何も言われなかったな」
「そうなの?」
「うん」
「あばずれ扱いはわたしだけ」
「そういう訳じゃないと思うけど」
「というか、イズミ」
「何?」
「あの頃イズミはさ」
「うん」
「ほとんど何も喋らなかったじゃん」
「うん」
「施設の人たちさ」
「うん」
「すごい心配してたよ」
「よけいなお世話だよ」
「腫れ物扱いだったよ」
「よけいなお世話だよ」
「イズミにだけ、敬語だったよ」
「知ってるって」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「怒った?」
「怒った」
「まだ大丈夫だね」
「何が?」
「イズミ、ほんとに怒ったら喋らないじゃん」
「まぁ」
「あの頃みたいに」
「…」
「わぁ、ごめんごめん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「尖ってたの?」
「僕はべつに変わってないよ」
「へぇ」
「今もあそこに戻ったら喋らないよ」
「へぇ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「何がそんなに嫌だったの?」
「なんかさ」
「うん」
「施設の人たちの、助けてあげてる感が鼻についてたんだよ」
「ひねくれてる。そんなこと、なかったと思うよ」
「じゃあさ?」
「うん」
「孤児仲間とも喋らなかったのは?」
「とくに理由はないけど」
「うん」
「喋る理由もなかったから」
「へぇ」
「ていうか今もさ」
「うん」
「僕そんなにお喋りじゃないし」
「そう?」
「そうだよ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「わたしとは喋ってくれてたのは?」
「むじゃきだった子供の頃からの習慣」
「幼馴染特権」
「まぁ、そう」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「もうすぐお盆じゃん?」
「うん」
「施設に里帰り?」
「しない」
「イズミ、やっぱりあそこ好きじゃないよね」
「まぁわたしも、別にどうでもいいけど」
「そうなんだ」
「過ぎ去った過去だし」
「へぇ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「そんな私達も」
「うん」
「今年の冬には20です」
「うん」
「立派になったね」
「どうかな」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「イズミの誕生日いつだっけ?」
「覚えてない?」
「私の誕生日の一日後ってことしか」
「覚えてるよね」
「ばれた」
「わたしのほうが早く20になるから」
「うん」
「一日早くお酒飲めるね」
「うん」
「わたしが20になった日にはね」
「うん」
「イズミに言ってあげる」
「何?」
「え、まだお酒飲めないの?って」
「飲めないよ」
「コップ二つにお酒注いでさ」
「うん」
「言ってあげる」
「なんて?」
「わたしのお酒が飲めないの?って」
「飲めないよ」
「嘘だよ。イズミ」
「何が?」
「待っててあげるから」
「どうも」
「一緒に乾杯しようね?」
「悪くないね」
悪くないね、僕がそう言った後、九龍は立ち上がった。そろそろそういう時間だな。と僕は思う。九龍は後ろ手に手を組んで、どこか寂しそうに僕を見る。僕は座ったまま、九龍が別れの言葉を言うのを待っていた。
「ねぇ、イズミ」
九龍は目を伏せて、首を少し傾けた。また来るね、きっと彼女はそう言うのだろう。僕はそう予測しながらも、お決まりの言葉を返した。
「何?」
九龍は、しばらくの間喋らなかった。口をもじもじさせて、あごをさわって、所在なさげに裸足の足先を弄ばせていた。
こくりと唾をのみ込んだ九龍は漸く言った。
「明日は来ないかも」
「え?」
僕の心拍数は、一瞬跳ね上がったけれど、九龍が照れくさそうに僕の顔を見ていて、すぐに安心する。なんて返事をするべきか、どんな台詞を求められているのかは、分かっていて、そうして僕も、心からそうしたいと思っていた。
「分かったよ」
僕は言う。
「僕が行くから」
「うん」
九龍は頷く。それから、一歩だけ僕に近づいて、はにかんだ。
「絶対だよ」
「うん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「なんでもない、また明日」