4.「ねぇ、イズミ」
僕の居室、202号室は少しだけ騒がしかった。部屋の片隅に置かれた中古のCDプレイヤーから、英語が流れているのだ。ときおり耳に触れる気にならない程度のノイズが、ひどく機械的に思えて、英会話教材の無機質な会話を、より無機質に感じさせた。
だんだんと、棒読みの男声優と、棒読みの女声優の言わんとしていることが理解できるようになってきた気がするけれど、これは繰り返し聞きすぎたせいで、ただ会話文を暗記してしまっただけではないのかという気分が、正直に拭い去れなかった。
ふと玄関に九龍のすがたが見えた。小柄なシルエットが玄関口に佇んでいる。
僕は、階段が軋む音も、鍵が開く音も、扉が閉まる音にさえ気づかなかったようだ。
玄関口、僕と目が合って、あ、の形で、小さく口を開けた九龍は今日もどこか嬉しそうで、ぺたぺたと可愛らしい足音を立てて僕のほうに近づいてくる。
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「イズミはさ」
「うん」
「大学卒業したらどうするの?」
「さぁ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「どうするの?」
「さぁ」
「ちゃんと答えてよ」
「まだ何も考えてないかな」
「とりあえずイズミはさ」
「うん」
「英語しゃべれるようになるじゃん」
「どうかな」
「なるよ」
「だって、イズミ」
「うん」
「ばかみたいに勉強してるじゃん」
「まぁ、せっかく」
「うん」
「九龍が参考書買ってくれたわけだし」
「誰も、ここまでやれとはいってないよ」
「そうでもないよ」
「いつ見ても勉強してるじゃん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「昔、学習塾のコマーシャルでさ」
「うん」
「英語なんて言葉なんだ」
「うん」
「こんなものやれば誰だってできる!って誰かが言ってたよね」
「うん」
「だからイズミも、出来るようになるんじゃない」
「どうだろ」
「逆にさ」
「うん」
「やっても出来ませんって」
「うん」
「塾講師が言ったらだめだろ?」
「たしかに」
「うるさいなぁ」
「急におこったね」
「イズミは、英語が喋れるようになります」
「善処するよ」
「なるの」
「はい」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「でもイズミもかわいいところあるよね」
「何が?」
「ちょっと本買ってあげただけで、そんなに頑張っちゃって」
「うるさいなぁ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「英語しゃべれるようになってさ」
「うん」
「大学もちゃんと卒業してさ」
「うん」
「それからどうするの」
「どうって言われても」
「まぁたぶん」
「うん」
「ふつうに就職するんじゃないかな」
「ふぅん」
「英語しゃべれたってさ」
「うん」
「それだけじゃ、通訳ぐらいにしかなれないだろうし」
「うん」
「ふつうに就職だよ」
「ふぅん」
「あのね、イズミ」
「何?」
「わたしには通訳でも十分だよ」
「どうも」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「イズミはさ」
「うん」
「たぶん上手くやれるよ」
「そうかな」
「そうだと思う」
「イズミはこれからさ」
「うん」
「ふつうに就職してさ」
「うん」
「それなりに働いてさ」
「うん」
「いいこともわるいことも、それなりにあってさ」
「うん」
「それで、いろんな人から、それなりに必要される人生が待ってるよ、きっと」
「なぁ、九龍」
「何?」
「それって僕さ」
「うん」
「喜んでいいの?」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「わたしからしたらね」
「うん」
「羨ましいよ」
「九龍だってさ」
「うん」
「ふつうに上手くやれるよ」
「うーん」
「やれるって」
「どうかな」
「やれるから」
「はーい」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「なんかしんみりしたね」
「うん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「九龍ゆず、しんみりソング歌います」
「しんみりソング?」
「しんみりしたときに」
「うん」
「歌うことを推奨される歌だよ」
「一応聞くけど、誰が推奨してるの?」
「わたしがわたしに推奨してるよ」
「君もたいへんだね」
「何も聞こえない」
「…」
「何も聞かせてくれない」
「…」
「僕の身体が昔より」
「…」
「大人になったからなのか」
「思春期にー」
「少年からー」
「大人に変わるー」
「道を探していたー」
「汚れもないままにー」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「壁ドンってさ」
「うん」
「二種類あるよね」
「うん」
「オリジナルってさ、どっち」
「さっき僕たちがされたほうだよ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「びっくりしたね」
「うん」
「まだ17:00なのにね」
「急に歌うから」
「イズミだって、途中から」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「なんか、しょんぼりしちゃった」
「念のため言うけど」
「うん」
「歌わなくていいからね?」
「なんと」
「ちなみにしょんぼりソングは?」
「ダンデライオン」
「ポップだね」
「さみしがりライオンー」
「やめろって」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「そろそろ帰ろうかな」
「うん」
「ひきとめてよ」
「九龍、帰らないで」
「しょうがないなぁ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「帰るね?」
「うん」
「ほんとに帰るね?」
「うん」
「ほんとのほんとに帰るね?」
「帰らないで」
「しょうがないなぁ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「また明日も来るから」
「うん、待ってるよ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「なんでもない、また明日」