3.「ねぇ、イズミ」
ぼろぼろのアパートの一室とはいえ、備え付けの空調ぐらいは存在しているもので、それは僕の住むレドリアンの一室でも例外ではなく、控えめに夏の暑さを紛らわすことぐらいはできるのだった。
うだって纏わりつくような夏の外気とのコントラストが、6畳程度の慎ましやかな空間を、何物にも代えがたいものに感じさせる。
その快適な空間で僕は眠っていたらしい。
ふと、目を開けた時には、僕が意識を手放していた間に、室内に入り込んでいた九龍の姿があった。
九龍は、珍しくノートパソコンを持ち込んでいた。うつ伏せになった九龍は、ノートパソコンのキーボードを操りながら、ときおり、足の甲で畳をぺしぺしと力が抜けるような音で叩いていた。
「あ、起きた」
九龍はちらりと僕の顔をみたばかりで、また顔をモニタに向ける。
それから、ふと九龍は言うのだった。
「ねぇ、イズミ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「どこかに行きたい」
「どこかって?」
「こくがいとか」
「へぇ」
「例えばどの国?」
「うーんとね」
「うん」
「南の島」
「ハワイとか、グアムとか」
「ふぅん」
「行きたい」
「行けるといいな」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「ひとごとじゃないんだよ?」
「そうなの?」
「あたりまえ」
「ねぇ、イズミ」
「今年はだめだろ」
「なんで?」
「流行り病」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「流行り病って?」
「正式名称、重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2型」
「長い名前」
「2019年11月に中華人民共和国湖北省武漢市付近で発生が初めて確認され」
「うん」
「その後、COVID-19の世界的流行を引き起こしている」
「うん」
「それが流行ってるから、だめ」
「wikipedia朗読ごくろうさま」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「こんなご時世だからね」
「うん」
「go to っていうね」
「うん」
「旅行代金を補助してくれるキャンペーンがあってね」
「やめとけって」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「別に良くない?」
「やめとけって」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「わたしたち、友達いないじゃん?」
「うん」
「だからさ」
「うん」
「たとえわたしたちが感染してもね」
「うん」
「誰にもうつさないんじゃないかなぁ」
「あのさ、九龍」
「うん」
「うつす、うつさないの前に僕はな」
「うん」
「常日頃からな」
「うん」
「君は、ただの夏風邪でも死にかねないって」
「うん」
「そう思ってるんだよ」
「しつれいな」
「そうかな」
「げに、しつれい」
「そうでもないよ」
「じゃあさ、九龍」
「何?」
「腕立て伏せ、何回できる?」
「…」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「見ててね?」
「ん?」
「えいっ」
「やめとけって」
「…」
「怪我するぞ」
「…」
「おい」
「…」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「うでいたい」
「だから言ったのに」
「あごもいたい」
「したたかに、うちつけてたね」
「自重をささえることすら叶わぬとは」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「わたし太ったかな?」
「君が重いとかじゃなくて」
「うん」
「シンプルに筋肉が足りてないんだよ」
「なんと」
「ふっきんなら」
「やめとけって」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「足抑えてて」
「はぁ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「見ててね?」
「九龍、いまさら言うのも何だけどさ」
「うん」
「やめとけって」
「ふんっ」
「…」
「ふんっ」
「…」
「…ふんっ」
「…」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「おなかいたい」
「君はほんとうに可愛いやつだよ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「もしかして、わたし体力ない?」
「ないよ」
「そんな」
「ミジンコほどもないよ」
「そんな」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「旅行はやめとく」
「それがいいよ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「ノートパソコン」
「ん?」
「グーグルマップ」
「なぁ、九龍」
「何?」
「そういや、いつの間にパソコンなんて買ったんだ」
「えーとね」
「うん」
「昨日」
「新品だ」
「いえすたでぇー」
「…うん」
「なぁ、九龍」
「何?」
「僕の部屋、インターネット回線ないはずだけど」
「ぽけっとwifi」
「へぇ」
「うぃーふぃー」
「…へぇ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「ここがハワイ」
「うん」
「ここがグアム」
「うん」
「日本に近い方がグアムだよ」
「へぇ」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「来年は行こうね?」
「お金ないよ」
「お金はね?」
「うん」
「わたしがなんとかする」
「なんとかって」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「イズミはさ」
「うん」
「来年まで、英語でも勉強してて」
「英語?」
「そう、英語」
「それでね」
「うん」
「イズミはわたしをエスコートしてくれればいいよ」
「ふむ」
「まぁ、勉強するぶんには構わないけど」
「ほんと?」
「暇だし」
「教材あるの?」
「大学受験のときにつかったやつがいくつか」
「ふぅん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「アマゾンショッピング」
「え?」
「ねぇ、イズミ」
「…何?」
「技術ってすごいね」
「え」
「この本とこの本が」
「うん」
「一週間以内にここに届きます」
「…」
「なぁ、九龍」
「何?」
「いくらだった?」
「さぁ」
「さぁじゃなくてさ」
「だってさ、イズミ」
「何?」
「こうしたら、イズミ勉強するでしょ?」
「まぁ、そうだけど」
「わたしはね」
「うん」
「通訳をね」
「うん」
「はした金で、手に入れたわけ」
「…がんばるよ」
「よろしい」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「明日も来るよ」
「うん」
「明日も来るからね」
「うん」
「来てもいい?」
「来なかったら僕が行くよ」
「うん」
「ねぇ、イズミ」
「何?」
「なんでもないよ、ばいばい」