蛇の女
「あの犬は、いまごろ金棒の娘を助けられているかな?」
異様な光景の中、艶やかで冷たい女の声が、澪丸の耳にまで届いた。
ここは、楼閣の三階にあたる場所である。一階部分とは違い、二階より上は数十もの小さな部屋によって区切られていた。いま澪丸が立つこの部屋も、そのうちの一室である。墨をぶちまけたような模様が描かれた襖は破れ、隅に置かれた壺などの装飾品はひとつ残らず壊されていた。
だが――異様なのは、戦いの余波によって荒れた部屋ではない。どうしようもなく澪丸の神経を刺激するのは……いま、澪丸と、その目の前に立つ女を取り囲むようにして動きを止める、無数の魔族たちである。
つい数分前まで澪丸に向かって牙を向いていた魔族たちは、まるで剥製になってしまったかのように、ぴくりとも動かない。止まった眼差しが、ただ虚ろに澪丸のほうを見つめていた。
「…………」
それらの体には、一体につき一本、翡翠のような石で作られた短刀が突き刺さっている。機能だけを追及したような、あまりにも簡素な見た目をしたその短刀は、鈍い翠色の光を放っていた。
「まあ、彼女が死んだところで、私にはなんの関係もないし……私の目的にも、影響が及ぶことはない。ただ、どうせならきみと一対一で話がしたかったのでね。適当な『常磐たる勾玉』を与えて、あの犬を追い払ったのだよ」
澪丸の前に立つ女は、こともなげにそう語る。
――板張りの床まで伸びる、真っ白な髪。身に纏うのは、奇怪な文様が刺繍された、古風な衣であった。
翡翠に輝く丸い石が連ねられた首飾りを鳴らし、彼女は一歩だけ前に進む。
それにつられて後ずさりをしそうになって、澪丸は踏みとどまった。そうして、彼女の底知れぬ蛇のような目をまっすぐに睨んで、喉の奥から声を絞る。
「……今度こそ、教えてもらえるのだろうな。おまえが何者かということを。――そして、なぜこの瞬間に、ここに姿を現したのかということを」
そう。
楼閣の上を目指し、襲い来る巨大な魔族たちを斬り伏せながら進む澪丸の前に現れたのは――かつて「明神の洞窟」の中で出会った、あの女であった。その顔や姿を見るのはこれが初めてだったが、低く冷たい声、そして蛇のように虹彩が縦に伸びた瞳を見るに、この女が「彼女」であることは間違いないだろう。
魔族と戦う澪丸と碗太郎の間に突如として割って入ってきたこの女は、腰から下げた翡翠の短刀を周囲の魔族たちに投げつけた。すると、あれほど暴れ狂っていた魔族たちが、まるで氷漬けにされてしまったかのように動きを止めたのだ。
茫然とする澪丸をよそに、女は首飾りを構成していたひとつの石を紐から抜き出すと、碗太郎に渡した。そうして、「金棒の女を助けろ」と彼に言い放ったのだ。不思議と碗太郎はそれだけでなにかを悟ったらしく、雅々奈が戦っている一階に向けて、逆戻りをはじめた。またしても呆気にとられた澪丸は、ただそこに残されて――いまに至る、というわけである。
「なんだ。まるで、私と会ったことがあるかのような口ぶりだね。そんな未来、私は知らないが……まあ、いい。きみの勘違いだろう」
彼女は、澪丸の問いには答えなかった。はぐらかしているようにも見えるし、本当に知らないようにも見える。深追いは無意味に思えた。
「うん……面倒くさいのは苦手だから、短刀直入に言おう」
蛇の女は、少しだけ考えるようなそぶりを見せたあと、なにひとつとしてもったいぶらずに、その言葉を語った。
「私は、きみの『魔神殺し』を手助けするために、ここに来た」
またしても突然に語られたその言葉に、澪丸は固まる。
「魔神殺し」。
それはかつて、あの洞窟の中でも耳にした言葉であった。だが、あのときと今では、その重みがまったく違う。
そう――あのときならば、ともかく。「三〇〇年前」のこの時代に、「魔神」という言葉を知っている人間がいるはずがないのだ。
……いや、そもそも、この女が以前に澪丸の前に姿を現したのは、ずっと「未来」の出来事のはずで――ここに彼女がいること自体が、考えてみればおかしかった。
混乱する澪丸を見て、蛇の女はひとつため息をつく。そうして、軽く頭を掻いてから、艶のある声で漏らした。
「ああ……私の悪い癖だ。面倒くさがるあまりに、なにごとも結論からしか入れない。過程をすっ飛ばすものだから、相手を置き去りにしてしまう」
そして、女は魔族の血が飛び散った床に、なんのためらいもなく腰を下ろした。彼女の長く白い髪が、青い粘液で汚れる。そのまま、澪丸に促すように手を振った。
「まあ、きみも座りなよ。たぶん、長い話になる」
「……悠長に話している時間は、ない」
放心から立ち直った澪丸は、硬い表情で返す。この女の正体、そして「目的」とやらは気になるが、いまは時間がないのだ。一刻もはやく魔神を殺し、茜をその手から救い出さなくてはならない。
蛇の女は、少年の焦りを感じ取ったかのように目を細める。そうして、またしても首飾りからひとつの宝石を抜き取って――空中へと放り投げた。
硝子が割れるような音が響いて、翠の石が宙で砕けた。それと同時に、世界が灰色に染まる。破れた襖も、割れた壺も、そして、周囲をかこむ魔族たちも――視界に映るすべてのものが、色褪せたような白と黒に変わった。
「これは……?」
戸惑うように辺りを見回す澪丸をおもしろそうに眺めて、女は薄く笑う。
「時を、止めたんだよ。……これで、時間ができた」
彼女が澪丸の反応を待つことはなかった。片膝を立てて座りながら、蛇のように鋭い眼光をこちらに向ける。
「なにから話そうか。結論から話すのが、よくないのだとしたら……いっそのこと、最初から話そうか。うん、それがいい」
ゆっくりと、息を吸って。
遠い遠い「昔話」を――蛇の女は、語りはじめた。
「明神……という神のことを、きみはどれほど知っているかな?」
*
「明神とは、およそ数千年にわたってこの世界を治めていた神だ。明神から、すべての神が生まれ……その神の持つ力によって、人間は豊かな生活を送っていた」
すべてが灰色に染まった世界で、蛇の女の声だけが響く。
「日照りがつづけば、雨の神を生み出し。大雨がつづけば、太陽の神を生み出す。明神から生まれた神の力で、人間は繁栄と発展をしてきたんだ。そう――きみが戦った『おんじき様』と呼ばれる神は、豊漁を司っていた。この時代にはもう、見る影もなく堕ちてしまっていたがね」
「……なぜ、俺がそいつと戦ったかことを知っているのか……と問うことは、無駄なのだろうな」
「べつに無駄ではないさ。そんな問題が、いまこの場にあっては、とるに足りないものであるというだけで」
肩をすくめて、女は語る。
「とにかく……明神という存在が世界の頂点に君臨する時代が、過去にはあったのだよ。いや、正確に言うと、逆か。いまのこのときが、明神のいない稀有なる時代なんだ。神のいない時代で生まれ育ったきみからしてみれば、実感のわかない話かもしれないがね」
「いや。言い伝えというかたちで、俺も『明神』についてはいくらか知っている。……はるか長い時間を生きていたが、あるときに『死んで』、そこから『明神暦』が始まったのだということを」
幼いころに聞いた「神話」を思い出しながら、澪丸はその言葉に返す。
蛇の女は目を細めると、「話がはやい」とでも言いたげに嬉しそうな笑みをつくった。
「そう。早速だが、そこが話の肝だ。明神は、あるとき……のちに『明神暦・零年』と呼ばれることになる年に、この世界から姿を消した。だが、それは決して、死したからではない。それより先の時代に存在できなくなっただけだ」
語られた言葉の意味が分からず、澪丸は顔をしかめる。
その反応は想定内だったようで、蛇の女はつづけて語った。
「きみが、この言葉の意味を理解できないのは仕方がない。なんせ、私ですらもその現象の全貌を把握できていないのだから」
「……」
「ほかの神がなにかを司っていたように、明神もまた、あるものを操る力を持っていた。それが――『時間』だ」
ぴり、という、なにかが弾けるような感覚が、澪丸の背筋に走った。
「明神は、時間を操る力を持っていたからこそ、世界を統べる神たりえたんだ。数千年の時を行き来して、この世の秩序を守っていた。じっさいに、明神によって『世界が崩壊するほどの天災を免れた』なんてことは、一度や二度ではなかったんだよ。――だが、万能を通り越して、全能とすら呼べるほどの『明神』にも、ひとつの限界があった」
いちど言葉を区切ってから、蛇の女はゆっくりと告げた。
「それが、『明神暦・零年』……すなわち『特異点』と呼ばれる時間だ」
止まったはずの世界に、一迅の風が吹いたような気がした。
知らず知らずのうちに、澪丸の額に汗が流れる。
「時を司るはずの明神が、どうしても、その先の時間に進むことができないんだ。過去に向かっては、いくらでも跳躍できるのに……『特異点』を境にして、『未来』には行けない。その理由は、明神には分からなかった。ほかの神にも、人間にも、理解できない。そう……これは、『特異点』を通り越してはじめて判明したことだったが――その時間をこえたとき、明神は、この世界から消滅するんだ。跡形もなく。わずかな力の残滓だけを残して」
女のふたつの瞳が、冷たく光った。
そうして、ひとつ咳ばらいをしてから、彼女は告げる。
「だが、明神は……たとえ自身がその先に行けなかったとしても、『特異点』より後の時代の秩序までも守ろうとした。これまでのように、この世を崩壊させるほどの因子を見つけ、その芽を摘み取ろうとしたんだ。そして――時を操る力を応用して、未来を『視る』ことにより……ある存在を、知覚することになる」
瞬間、澪丸の脳裏に電流のようなものが走った。この女の言わんとしていることが、理解できてしまったのだ。
無意識のうちに、手が震えだす。消せない、拭えない記憶が、心の内から這い出てくる。
発した声が、自然と、目の前の女のそれと重なった。
「「魔神……厭天王」」
世界は止まっているはずなのに――ごうごうと、風が吹いているような気がした。
「そう。――そもそも、魔族とは、天地開闢のころに人間と共に生まれたものたちだ。『陽』の存在である人間と、『陰』の存在である魔族との諍いは、『特異点』以前からもずっとつづいていた。……ただ、それに関して、明神はたいした干渉をしなかった。それが『世界を終わらせるほどの出来事』たりえなかったからだ。……だが、『厭天王』は違った。魔族の中から生まれ落ちたその存在は、魔族の神――『魔神』を名乗って、人間を滅ぼす運命にあった」
「……」
「だから、明神は『魔神』に蹂躙される未来を食い止めるために、私を遣わした。――私は、明神の胎から生まれた、明神の『化身』と呼ばれるべき存在だ。あるいは、分身と言ってもいい。明神から独立した個体であると同時に――時を操り、『特異点』をこえることができる」
あまりに突拍子もない、眉唾な話。
だが、澪丸は信じざるをえなかった。人間でも魔族でもない、得体の知れない雰囲気を持つこの女が――ただのヒトであるはずがなかったからだ。げんに、彼女は「時」を操る術を持っている。どこまで本当のことを言っているかは怪しいが、少なくとも、彼女が「魔神」を敵視していることは確かなようであった。
「……かくして、私は『特異点』の後の世界に降り立った。だが、私はしょせん、神の空蝉。数百年もの時間を生きられるほどの寿命はない。魔神が生まれる時代まで『飛ぶ』ために、明神の力を使って、ある宝具を創ることにした」
「――それは」
女の言葉をさえぎるように、澪丸は口を開く。その脳裏に浮かぶのは、まばゆいばかりの翡翠の輝きであった。
――常磐たる勾玉。
それは澪丸の家に伝わる家宝であると同時に、魔神の軍勢によって殺された両親の形見であった。「鬼界天鞘流」の修行に励んでいたときも、魔族と戦っていたときも、その勾玉はいつも、澪丸の懐に眠っていた。最後の最後、崩壊する都で、ようやくその力が目覚め――澪丸を「時渡り」へと誘ったのである。
この女は、一度ならず二度、三度も、その勾玉と同じ輝きを放つ石によって、時を操ってみせた。いま、こうして世界が灰色に染まっているのも、「時を止めているからだ」という。もはや、この女が「常磐たる勾玉」と無関係ではないことは、火を見るよりも明らかだった。
……否。無関係、どころか、その勾玉はおそらく――
「そう。きみをこの時代へと飛ばしたあの宝具は、私がつくったものだ。いや……正確には、未来の私がつくるもの、といったほうがいいか」
低く地を這うような声で、女は告げる。
眉をひそめる澪丸に対し、彼女は冷笑するように唇をゆがめた。
「面倒くさいが、これも最初から丁寧に説明することにしよう。……『常磐たる勾玉』とは、明神の化身たる私が、羅琉土と呼ばれる翠色の宝石に『力』をこめることによって生まれるものだ。だが、その効力は明神が本来持っていた『時渡り』の力には遠く及ばない。それはひとえに、絶対神である明神と、ただの化身に過ぎない私の力量の差によって説明できることだが……とにかく。『特異点』をこえたばかりの私がつくれる『常磐たる勾玉』は、おおざっぱに数十年後の未来へと飛ぶことしかできなかった」
「……」
「ゆえに、私は魔神が生まれたこの時代に来るまでに、何度かの『時渡り』を行った。その途中に、災害や魔族から人間を守るために、『未来視』で得た情報を各地の人間に宣告して回ったりもしたが……まあ、それはまた別の話だ。いまは詳しくは語るまい」
澪丸の脳裏に、青と赤の体毛を持った、恐ろしい巨鳥の姿がうつる。あの「災厄」は、「蛇のような目をした占い師」によって予言された――と、村長の老婆は言っていた。
「……そして、私はようやく、明神暦・二八〇年という、この時代にまで辿り着いた。『未来視』によって得た断片的な情報をたよりに魔神の居場所を突き止め、いよいよ『魔神殺し』を実行しようとして――しかし、そこでひとつの大きな誤算に気づくことになる」
「誤算?」
「そう。すなわち、『魔神に「神」の力は通用しない』という、不条理な事実だ」
艶やかなため息をついて、蛇の女は語る。
「その理由こそ謎だが……厄介なことに、あの鬼は神にとっての天敵であるらしい。その体は神の力を寄せつけず、その爪は神の体を引き裂く。……きみも見ただろう。『おんじき様』と呼ばれる神が、一撃で魔神に殺されるところを。私の『時を操る力』も、奴には効かず――奴と戦いはじめてからわずかな時間で、私は撤退を余儀なくされた。それがおよそ、三月ほど前のことだ」
憂うように目を細めて、女は白く長い髪をかき上げた。絹糸のような滑らかな髪が、流れるように宙をすべる。
「私は考えた。あの鬼は、やはり規格外だと。神の力も及ばなければ、並みの人間が太刀打ちできるような存在でもない。……この時代に生きる兵や達人のすべてをかき集めれば、あるいは殺すこともできるかもしれないが――そんなことは事実上、不可能だろう。なんせ、彼らにはあの鬼を殺さねばならない理由がない」
「……皮肉な、ものだな。俺の知っている『未来』では、誰もが魔神を殺したいと願っていた。だが、事がそこに至ったときにはもう、すべてが手遅れになっているというのだから」
「ああ、そうだ。『魔神殺し』の最大の難点はそこにある。きみが言うように、未来において魔神を殺そうとしても、それは不可能だし……この時代に魔神を殺す理由を持った強者はいない。撤退と称してあの鬼の前から逃げ出したはいいものの、私はたいへんに困ってしまったんだ。さて、どうしよう――」
わざとらしく言ったあと、蛇の女は澪丸を見て薄く笑った。
その真意を悟って、少年は息をのむ。
「――まさか」
「うん、そのまさかだよ。この時代に、魔神を殺す人間がいないとすれば……残る方法は、ひとつしかあるまい」
澪丸の鼓動が、早鐘をうつ。額から、冷たい汗がにじみ出した。
そして――その「真実」が、語られる。
「そうだ。私は、未来から兵を呼ぶことにしたんだ。魔神を殺す力と動機を兼ね備えた、『魔神殺し』にふさわしい人間を、ね」
――仕組まれていた。
澪丸が思うことができたのは、ただそれだけであった。
「私はそのために、数百年もの過去に跳躍する力を持った勾玉をつくることにした。それはある意味では賭けだったが、きみがいまこうしてここにいることを考えると、どうやら未来の私はそれをつくることに成功したらしい。いやぁ、よかった。ほんとうによかった」
「…………」
「時間をさかのぼってでも『魔神殺し』を成し遂げたいと願う人間は、きっといるはず――という私の考えは、間違っていなかったわけだ。……それにしても、結果的にこの時代まで辿り着いたのがきみでよかった。『未来』において天下最強とうたわれる剣術を身につけたきみならば、きっと『魔神殺し』を成し遂げられる」
そして、女は澪丸へと歩み寄る。不思議と、彼女に足音はなかった。それはまるで、蛇が地を這うような動きであった。
少年の目の前まで来て、女は懐から翠色の石を取り出す。それは、ひときわ強く鮮やかに輝く、「常磐たる勾玉」であった。湖のように深く澄んだその石に、澪丸の瞳が吸い寄せられる。
「私は今日、きみにこれを渡すためにここに来た」
「――これは」
「とっておきさ。いまの私がつくることのできる、最高傑作だ。きみが、死んでも魔神を殺したいと願っているならば――これはきっと、きみにとっての希望になる。だが、きみが途中で諦めるような人間であれば、これはきみを地獄に縛りつける鎖となるだろう」
澪丸にその勾玉を手渡しながら、あくまでも意味ありげに、蛇の女は語る。彼女の縦に長く伸びた虹彩が、不気味な光を放った。
その真意を、澪丸が問おうとしたとき――ふと、なにかが軋むような音が聞こえてきた。辺りを見回すと、灰色にくすんだ景色がひび割れ、ところどころが本来の色を取り戻しつつある。
「……おや、もう時間切れかな? 思っていたより、ずいぶんとはやい」
ぴしり、ぴしりと、池に張った氷が割れるように、空間に亀裂が入る。やがて、大きな音をたてて、そのすべてが崩れ落ちた。
そして、世界に時が戻る。打ちつける雨の音が澪丸の耳を打ち鳴らし、吹きつける風がその頬をなでた。
色を取り戻した世界を見回したあと、女は少しだけ名残惜しそうな顔を浮かべ、くるりと踵を返してどこかへと歩きだす。その肩越しに、低い声が澪丸へと届いた。
「まあ、とにかく。うまくやれよ、『魔神殺し』。きみなら、きっとできるさ」
「おい! 待て、まだ話が――――」
少年がその背中を追いかけようとしたとき、周囲がふいにざわめきだした。女の放った翠色の短刀によって時を止められていた魔族たちが動きはじめたのだ。
ひとつ舌打ちをして、澪丸は自身の懐へと手にした勾玉を仕舞う。そうして、こちらへと襲いかかってくる巨大な魔族たちへと、「鬼界天鞘流」の技をあびせつけた。後方へと吹き飛んだ虎のような魔族と入れ替わるように、三本の手を持った奇怪な魔族が澪丸へと飛び掛かる。唸りをあげる化け物の波が、少年へと押し寄せた。
*
数分後、澪丸がその魔族たちをすべて斬り伏せたあとには、女の姿は跡形もなかった。ただ、丸い窓から吹いてくる風が、虚しく澪丸の旅装束を揺らす。
「――――、」
深く息をついて、懐から勾玉を取り出す。魔族の血が飛び散り、青に染まった部屋の中で、それは異彩を放つように翠に輝いていた。
(……数千年もの「過去」を支配した、明神。それが、「未来」を救うため、魔神を殺そうとしているなど――)
先ほどまでの話は、にわかには到底信じられぬものであった。そのすべてが、あの女の妄言であったとしてもおかしくはない。
だが、たとえ何が真実であったとしても、澪丸がすべきことは変わらなかった。
はるか天を見据えるように、少年は上を向く。そこからは、禍々しく、あまりにも歪なひとつの気配が漂っている。
(魔神……厭天王)
屈辱を噛みしめるようにして呼びつづけた、その名を――いまはただ、静かに、心の中で唱える。その音が、少年の心の内で何度も反響し、やがて尾をひくように消えていった。
『オオオオオッ!』『ガアアアアアッ!!』『キェアアアアアッ!!』
そのとき、壁を破って、またしても魔族の波が押し寄せた。雪崩のごとく、それらの異形は澪丸の体を押し潰そうと迫る。彼らが生んだ振動が、楼閣全体を揺らした。
少年の体が震える。だが、それは、足場が揺れているからでも、彼が魔族に臆しているからでもなかった。
ただ、心の底から湧き上がるような静かな闘志をもって、澪丸は瑠璃色の刀を引き抜く。
「……そこを、どけ」
一閃。
嵐が運んだ雷鳴が、楼閣の上で轟いた。




