編み笠の娘
うららかな春の日差しが、倒れた澪丸の体を包む。
頬になにかが触れる感覚がして、少年はゆっくりと目を開けた。舞い散る桜の花びらが、ぼやけた視界に映る。澪丸は、そのまましばらく、雪のように舞い散るそれを、ただ茫然と眺めていた。
久しく感じたことのなかった、暖かく、穏やかな気持ちが、少年の体をゆるやかに巡る。ずっとそうしていたいほどに、この陽だまりは心地よかった。
……だが。
(――――ッ、そうだ、ここは!?)
澪丸は、そこでようやく自身が置かれている状況を思い出した。勢いよく体を跳ね上げ、辺りを見回す。
桜並木が続く、人気のない山中。空は澄み渡るほど青く、雀の親子が小さく鳴き声をあげながら飛び回っている。そこには、炎上する都も、山のように大きな魔神の姿もない。
ふと、自身の体を見ると、魔族につけられた傷跡は、ほぼ完全といっていいほどに塞がっていた。そして――強く握りしめていたはずの、「常磐たる勾玉」は、どこを探しても見つからない。
いまだ回りきらない頭で、澪丸は考える。
(……たしかに、ここは都ではない。だが、この状況だけで「過去に飛んだ」と考えるのは、いささか早計だろう。どこか人里へ下りれば、答えがわかりそうなものだが――)
と、そのとき。
道の向こうから、なにやら数人の人間が歩いてくるような足音がして、澪丸はとっさに近くにあった桜の木の陰に隠れた。
人間が向こうから来てくれるのは、本来、いまの澪丸にとっては歓迎すべきことのはずだった。しかし、それでも少年が身をひそめたのは、ひとえにその人間たちが放つ、ただならぬ雰囲気が理由だった。剣術の修行で培った、周囲の人間の気配や様子を探る力が、物陰に隠れるよう、澪丸の体を自然と動かしたのである。
異様な気配がするとはいえ、こちらに向かってくる三つの人影、その足運びや呼吸は、手練れのものではなかった。少しくらいならば顔を出しても気づかれることはないだろう、と考えて、澪丸は木の端からちらりとその人間たちを見やる。
まずは、両隣を歩くふたりの男が目に入った。男たちは粗野な風貌に、眉間にしわが寄った面構えをしている。いかにも堅気の人間ではない、その男たちの腰からは、黒い鞘に入った刀が下げられていた。
そして、その男たちに挟まれるようにして歩いている人物は、齢十四、五くらいの娘だった。編み笠をかぶっているために、その表情は影に隠れてよく見えない。
(――あれは)
そこで、澪丸はその娘の腕が、太い縄で縛られていることに気がついた。縄の先は、両隣に立つ男の手につながっている。ふたりの男が、縄で縛られたひとりの娘を連れ歩いている、というその光景は、異様というほかなかった。
手を縛られている娘は、ただ黙ったまま、口を強く引き結んでいる。それはまるで、なにかに耐えるような表情であった。
(罪人を、運んでいるのか? ……いや、違う。これは――)
そのとき、彼らのうち、ひとりの男が口を開いた。
「なあ、町までは、あとどれくらいだ」
その男は、苛立ちを隠そうともせずに、乱暴に足元の小石を蹴る。それが草むらにまで飛んでいったあとに、もう一人の男が返事をした。
「あと二日もすれば着くと思うが……そう焦るな。焦ったところで、この娘につく値段が変わるわけではない」
「くそ……確かに、そりゃあそうだけどよ。俺は一刻も早く、こいつから離れてえんだよ。こいつ、さっきから一言も喋りやがらん。もう少しびびってくれたほうが、まだ可愛げがあるってもんだが――俺たちに反抗したいのか、だんまりを決め込んだままだ」
そう語り、男は隣を歩く娘の足元を蹴りつけた。汚い泥のあとが、娘の薄桃色の着物にこびりつく。それでもなお、娘は反抗を続けるかのように、黙ったまま歩き続ける。
「……ちっ。おもしろくねえ。――なあ、本当にこいつに買い手がつくのかよ? 俺は心配になってきたぜ」
「そう案じるな。世の中には、理解できない物好きが、たくさんいるものだ。そういう輩に流せば、この娘もきっと売れるさ」
――人売り。
桜の木の陰に隠れた澪丸の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。
人売りとは、人間を誘拐して売り飛ばすことを生業とする、外道の輩だ。ただ、澪丸が知っている中では、人売りは度重なる取締りによって、ほとんど姿を消したはず。それが、山道とはいえ、白昼堂々と歩いているということは――ここはやはり、過去の世界なのであろうか。
(……どうする)
刀の柄に手をあてながら、澪丸は考える。
もちろん、澪丸が知る限り、人売りが合法であった時代はない。ゆえに、この男たちは、斬って捨てられても文句は言えない人間なのだ。だが――殺しはしないまでも、この男たちに手を出せば、面倒事をかかえることになるのは間違いない。魔神を探すことに専念したい澪丸にとっては、ここで黙ってやり過ごすのが得策であった。
(――すまない)
名前も知らない娘に向けて、澪丸は思う。どうか、できるだけ不幸でない人生を送ってくれ、と。少年にできるのは、ただそれを願うことのみであった。
やがて、三人の人影が、澪丸の隠れる木のすぐそばまで近づく。
このまま顔を出していれば姿が見つかってしまうだろうと考えて、少年が彼らから視線を外そうとした――そのときであった。
目が、合ったのだ。
手を縛られたまま歩いていた娘が、顔を上げていた。彼女の紅玉のように赤い瞳が、澪丸を見つめている。
彼女がもとから少年の存在に気づいていたのか、それとも偶然目が合っただけなのかは、澪丸には分からなかった。けれど、その、気丈に耐えるかのような瞳の奥に、ほんの少しだけ助けを求めるような瞬きが見えた気がして、澪丸は息をのんだ。
彼女の両隣を歩く男たちは、彼女の視線にも、澪丸の存在にも気づいていない。彼らはただ、娘の手を縛る縄をひっぱりながら、しかめっ面で歩き続けている。
すれ違う一瞬が、永遠のように思えた。娘はなおも、澪丸から目を逸らさない。声に出して助けを求めるわけでもなく、無視をするわけでもなかった。ただ、じっと、何も言わずに澪丸を見つめつづけている。
(すまない。すまない……!)
澪丸は、娘から視線を外さないままに、心の中で何度も繰り返す。
(俺は、人間の存続をかけて、魔神を殺さなければならないんだ。そのために、一刻もはやく、やつを見つけ出さなければいけない。だから――おまえを助けて、面倒事を抱えている暇はないんだ。すまない……どうか、わかってくれ)
心に渦巻く感情を、必死で押し殺す。冷たい汗が、澪丸の体から噴き出していた。
やがて、澪丸が隠れる木を、一行が通り越す。娘の視線も、しぜんと澪丸から剥がれて……ふたたび、彼女は行く先へと顔を戻した。澪丸の目に、彼らの後ろ姿が映る。
大きくため息をつき、澪丸はその場にへたりこんだ。少年の手が、力なくぶらりと下がる。
(……これで、よかったんだ)
澪丸は、思う。
ここがもし、過去の世界であるとしたら――じぶんが生まれたときにはもう、あの娘はとっくに売り飛ばされていたのだ。彼女がその後どうなったのかまでは分からないが、とっくの昔に死んで、土にかえっているのだろう。じぶんは魔神を殺すためにこの時代に飛んできたのであって、この時代に起こるすべての悲劇を変えるために来たのではない。――だから、ここであの娘に干渉することは、得策ではないのだ。
そう。
得策では、ない。
(……そうだ。あの娘に干渉するのは、得策じゃない)
(――得策じゃないんだ)
(…………)
(……………………)
(……………………………………)
(…………でも)
(たとえ「得策ではない」ことが、事実だったとしても)
(俺が、あの娘を助けることは――)
(――決して、間違いでもないだろうよ)
次の瞬間。
自身でも意識しないままに、澪丸は刀の柄を握っていた。何故だかは分からないが、心の底から炎のような揺らめきが立ち昇ってくる。それは瞬く間に少年の体の隅々にまで渡り、その研ぎ澄まされた刃のような肉体を動かした。
激情のままに立ち上がり、澪丸は木の陰から勢いよく飛び出した。そうして、遠ざかっていく三人の人影の背中に向けて、叫ぶ。
「おい、そこの一行! 少し待て!」
呼ばれた男たちが、眉に皺を寄せた顔で振り向く。そして、少し遅れて、編み笠の娘もゆっくりと振り向いた。
笠の陰からのぞく、娘の赤く透き通った目が、澪丸をとらえた。その赤い瞳に、驚きの色が浮かぶ。
「……なんだあ? てめえ」
「おまえたちは、人売りだな。――その娘を放せ。さもなくば、斬る」
苛立ちを抑えようともせずに顔をしかめ、唾を飛ばす男に向かって、澪丸は厳然として告げた。
鞘から刀を引き抜いて、中段に構える。波打つ刃紋が、陽光をうけてぎらりと光った。
それを見たふたりの男が、娘を縛りつけている縄を手放し、それぞれの刀を引き抜く。
「……どこのどいつだかは知らねえが、おれたち『抜多組』にたてつこうとは、おもしれえ奴じゃねえか。――やるってえなら、容赦はしねえぜ」
男は、これまでに募らせた怒りを発散するやり場を見つけたかのように、ニタリと笑う。そのまま、隣の男ともども、ふたりで澪丸へと斬りかかってきた。
突進してくる男たちを見て、澪丸は瞬時に考える。
――予想通り、このふたりは、特に剣術を使えるわけでもない、ただの素人だ。かろうじて刀の振り方くらいは分かるようだったが……魔族という、文字通り人間離れをした存在と戦ってきた澪丸にとっては、その動きなど止まって見えた。
構えたまま、ゆっくりと体の力を抜く。より早く、より鋭く動けるように。
「鬼界天鞘流、三の型――」
そして、少年の凛とした声が響いた。
「群青堕!!」
だん! という踏み込みと共に、斬りかかってくるふたりの男の横をすり抜ける。そのまま立て続けに、彼らの首元へと、澪丸の刀が振り下ろされた。
ふたつの衝撃音が、山中に響く。攻撃を受けたふたりの男は、そのまま意識を失うようにして地面へと倒れこんだ。
刀を振りぬいた姿勢から自然体に戻り、澪丸はもはや意識のない彼らに向かって告げる。
「今のは、本来は『人に近い形をした魔族』の首を斬り落とす技だ。峰打ちでなければ、いまごろ首が飛んでいたぞ」
その声に、答えるものはなく。ただ、人気のない山中に、穏やかな春の気配が戻った。
そうして、少年はひとり残された、例の娘のほうを見やる。
彼女は、どこか呆けたような表情を浮かべながら、澪丸をじっと見つめていた。まさに「なにが起こったかわからない」とでも言いたげな顔である。
澪丸は、結局は首を突っ込んでしまったことに対する後悔と、娘が助かったことに対する安堵を含んだ気持ちで、その娘のほうへと歩み寄る。そうして、彼女の腕を縛る縄を、刀によって断ち切ろうとして――――
「……ッ!?」
そこで思わず、後ずさりをする。
その理由は、目の前の娘からかすかに「臭う」、言いようもない違和感だった。言葉にできない、粘ついた感覚。多くの魔族と戦ってきた澪丸だからこそ分かる。これは、この娘は……
「……おい、おまえ。その編み笠を、とってみろ」
乾いた声で、澪丸は娘へと命令する。その声色には、さきほど刀を持った大の男ふたりを相手にした時の、数倍もの緊張感が含まれていた。
澪丸に命令された娘は、戸惑いの表情を見せる。自分を助けてくれた人物にとつぜん敵意を向けられたとなれば、それも無理からぬことだったが――再び刀を抜き放ち、その切っ先をじぶんに向ける澪丸の覇気に圧されたか、ゆっくりと頭に手をやり、かぶっていた編み笠の紐を緩める。
やがて、娘の小さく華奢な手が、編み笠の端をつかみ――彼女は静かに、その顔の全貌をあらわにした。
「――やはり、な」
低く、澪丸は呟く。
まだ顔立ちに幼さが残る、その物静かな娘の額にあったものは――
人間の小指ほどの大きさがある、赤く鋭い「角」であった。