おんじき様
「それ」はしばらくの間、飲み込んだ人間を咀嚼するように蠢いたあと、やがて止まる。
泥の塊の表面に浮かぶ無数の仮面が、その虚ろな目で澪丸を見つめていた。
「あんたら……運が、良かったなぁ。『おんじき様』がお見えになった」
横から飛んできた声は、新八のものであった。彼はこれまでの調子の良い口調を崩さないままに、恐ろしい言葉を語る。
「『まれびと』は毎年呼んでいるし、巫女の踊りもその都度やってるが……『おんじき様』が現れたのは、七年ぶりだぜ。これできっと、しばらくは大漁続きになる」
いかめしい顔に恍惚の笑みを浮かべて、彼は語る。
澪丸は目の前の「おんじき様」への警戒を続けたまま、新八へと鋭い言葉を投げかけた。
「これはいったい、どういうことだ。なぜ、女たちは食われた? なぜ、この神は俺たちを狙うようなそぶりを見せる?」
「決まっているだろぉが。巫女やあんたら『まれびと』は、『おんじき様』への供物なんだよ」
泥の化け物が食いそびれた、焚き火の炎の一端がなおも燃えつづけて――その男の顔に影を生む。
「神の力の恩恵は、ただでいただけるわけじゃねぇ。それ相応の、対価が必要なんだ。……『おんじき様』の場合は、生きた人間や魔族の肉。それらを『おんじき様』に差し出すことによって、おらたちの村は飢えなくてすむんだ」
「――なるほど、な」
彼ら村人が澪丸たちを歓迎したのは、最初からこの神に少年たちを食わせるためであって――「まれびと」の風習うんぬんも、そのための隠れ蓑に過ぎなかったというのだ。
窮地に立たされ、澪丸は周囲へと視線を巡らせる。
目の前には、得体の知れない「神」なる存在。周囲には、澪丸たちを逃がすまいとして立ちはだかる村人の輪。
だが、それでも澪丸は、気丈に笑ってみせる。
「……神などと大層なことを言っておいて、することは下卑た魔族とたいして変わらんのだな」
「なんだと?」
「俺の目には、こいつがありがたい存在には見えないと言っている」
そうして、少年はしばらく離れた場所に立つ、長い黒髪の女へと目くばせをする。
「おい、雅々奈。酔いは醒めたか?」
「あったりまえだ。こんなきもちわりーヤツが出てきてほろ酔い続けられるほど、雅々奈ちゃんはデキた子じゃねーんだよ」
彼女は背負っていた巨大な金棒を手にすると、ぶん! と勢いよくそれを振ってみせた。
ふたりは、泥の化け物との間合いをはかるように、しばらく構えたあと――
だん! と地面を蹴って、疾風の如き素早さで駆けだした。
「おおおおッ!」
「うをりゃあああああっ!」
咆哮をあげて、それぞれの武器を「おんじき様」へと振り下ろす。
澪丸は、「鬼界天鞘流・三の型 群青堕」を。
雅々奈は、岩をも砕く必殺の一撃を。
泥の表面に浮かんだ仮面へとめがけて、放った。
竹が割れるような小気味よい音と、ものが潰れるような鈍い音が響いて、ふたつの仮面が「おんじき様」の表面から剥がれた。放たれた一撃はなおも止まらず、泥の化け物の本体、その不定形な塊へと激突する。
――だが。
「……ッ!?」
澪丸の刀も、雅々奈の金棒も、ただ鈍く泥の中に沈んでいくだけで、たいした傷をつけられた感触はなかった。いや、むしろ、まるで彼らの武器を奪うように、「おんじき様」はその体を蠢かせ、かたちを変える。
(まずい……!)
宝刀を持っていかれないよう、澪丸は思いきり力を込めて泥の中から刀を引き離そうとするが――もがけばもがくほど、その手が内部に沈んでいく。そして、数秒もしないうちに、刀はおろか、少年の腕までもが泥の中に飲み込まれていった。
「くっそ……離しやがれぇっ!!」
どうやら、雅々奈のほうも同じような状況になっているらしい。彼女の怪力をもってしても、この神の「引力」には逆らえないのだ。
やがて、澪丸の腕が、肩のあたりまで泥の中に沈んだ。すでに飲み込まれた部分には力が入らず、抗うことも、もがくことさえもできない。全身が飲み込まれてしまったときになにが起こるかは、想像もつかなかったが――先に「喰われた」女たちのことを考えると、とうてい無事では済まないのだろう。
『――――ヲ、カル……ヲ――』『リリ、ガガ我……』『ヲヲヲオオ――――』
「おんじき様」が、声とも歌とも判別のつかない、奇妙な音を発する。それは得体の知れない恐怖感をともなって、澪丸の脳にまで届いた。
絶対、絶命。
なすすべもなく、澪丸の体が泥の中に飲まれようとした、そのとき――
「お師匠!」
澪丸の腰に、なにか暖かい感触が触れた。
少年はかろうじて動く首を回して、後ろを向く。
「――茜!?」
そこにいたのは、澪丸の腰に手を回して、引きずり込まれそうになる少年の体を必死で支えようとする、鬼の娘であった。
澪丸はその姿を見て、あらんかぎりの力で叫ぶ。
「……逃げろ! こいつは、おまえの力でどうこうできる相手ではない!」
「いや……! わたしは、お師匠を、たすける!」
しかし、娘はなおも手に力を込めて、泥の塊から少年の体を引きはがそうとする。
「お師匠は、いつも、わたしをたすけようとしてくれた……! だから、こんどは、わたしがお師匠を、たすけるばん……!」
彼女の紅い瞳に、燃えるような意志の炎が煌めく。
澪丸がふと横を見ると、雅々奈のほうでも、彼女を泥から引きはがそうとして碗太郎が懸命にその体をくわえているのが目に入った。
「おまえたち……」
「わたしたちの旅が、いつか終わるとしても。それはきっと、いまこのときじゃない」
澪丸の体を必死で支える茜の頭から、編み笠が落ちた。だが、そんなことは微塵も気にせずに、彼女は続く言葉を語る。
「まだ、お師匠に言えていないことばが、たくさんある。まだ、わたしはお師匠のことを、ぜんぶは知らない。まだ、まだ……わたしは、お師匠といっしょにいたい」
「茜……」
「ここから、抜けだして。あと、もうすこしだけ、旅を――――」
だが。
茜の言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
どすり、と。なにかの衝撃が、彼女を貫き――澪丸の体を支えていた手が、力なく離された。倒れ込んだ茜の体、その脇腹には、鉄の矢が刺さり……そこから、魔族特有の、青い血が流れる。
「……あか、ね?」
泥に引きずり込まれるのも忘れ、澪丸が後方を見ると――そこには矢を打った姿勢で固まる、新八の姿があった。彼は荒い息遣いで、語る。
「供物に傷をつけちゃいけねえから、いままで見過ごしていたが……その娘が鬼となれば、話は別だ。なにかされる前に、半殺しにでもしとかねぇと……」
そう言って、彼は矢筒からもう一本の矢を取り出すと、弓につがえて、ふたたび茜を狙う。
ぎり、ぎり、と。弦がしなる音が、澪丸の耳に届いた。
「……やめろ」
震える、声で。
懇願とも、悲鳴ともつかない叫びを、少年は発する。
「やめろおおおおおおおッ!」
新八の持つ弓から、矢が放たれた。
それを認識した瞬間、澪丸の体は、そのすべてが「おんじき様」の泥のような塊の中にうずもれて――少年の視界が、黒一色に塗りつぶされた。




