新たなる旅の道連れ
しばらく後。
巨犬が心配そうに頬を舐める中で、雅々奈は目を覚ました。
倒れたまま「相棒」の頭を撫でたあと、彼女は少し離れた岩場に座る澪丸の存在に気づいたように顔を上げた。そうして、少しばかり勢いを失った声で、漏らす。
「……殺せよ。負けちゃった雅々奈ちゃんに、生きる意味はねえ」
彼女は力なく手足を投げ出し、空を見上げる。吹きすさぶ風の中で、その前髪がはらりと揺れた。
澪丸はそのさまをじっと見つめながら、彼女に向かって問いかける。
「なぜ、そこまでして喧嘩の勝敗にこだわる?」
しばらく、雅々奈はなにも言わなかった。ただ、低く垂れこめるような曇天を見上げて、静かに息をする。
そうして、ぽつりと、独り言のように語りはじめた。
「雅々奈ちゃんは、五つのときにこの山に捨てられた。――今となっては雅々奈ちゃんを恐れて近寄ってはこねーが、昔はこの山にはいっぱい魔族が住んでいて……そいつらから身を守るために、雅々奈ちゃんは戦いつづけた。生まれつき体は強かったから、なんとか死なずにすんだけど……だいたい三年くらいは、魔族のせいで、山を下りることすらかなわなかった。腕太郎と出会ったのも、そのころで……雅々奈ちゃんは飛んでる鳥を石で撃ち落としたり、雨水をすすったりして、腕太郎といっしょに、ひーひー言いながらなんとか生きのびた」
「…………」
「でも、だいたい八つくらいになったときには、雅々奈ちゃんはこの山でいちばん強くなってたんだ。そのころにはもう、山を下りて人間の村で生活しようなんて考えは、なくなってて……むしろ、この山に住む魔族だとか、道行く人間に喧嘩をふっかけることが、いちばん楽しくなってた。『いらない子だ』って捨てられた雅々奈ちゃんだけど、戦ってるときとか、喧嘩に勝ったときだけは、誰からも必要とされなくても、『生きていていい』って、思えたんだ」
乾いた声が、大酷山の頂上に響く。
澪丸は、ただ黙ったまま、彼女の言葉を聞きつづけた。隣に座る茜も、少し伏し目がちに、倒れた雅々奈を見つめている。
「だから、雅々奈ちゃんは最強を目指した。どんな魔族にも、どんな人間にも負けないように修行した。喧嘩に勝つことだけが、雅々奈ちゃんの生きる意味だったんだ。でも――今日、ここで、負けちまった」
そうして、彼女はもう一度澪丸を見て、言った。
「だから、殺せよ。雅々奈ちゃんには、もう、生きる意味はねえ。ここでばっさり、首をはねちゃってくれ」
それは、命令にも近い、強い口調だった。伊達や酔狂で言っているのではない。戦いを生業とする者だけが持つ、確たる矜持をもって、彼女は澪丸に「勝者としての責任をとれ」と告げているのだ。
澪丸はその意思を汲み取ったかのように立ち上がり、刀を抜いた。隣から茜が制止する声が飛んでくるが、少年はそれを聞き入れないままに、ゆっくりと雅々奈へと歩み寄る。それを見て、雅々奈は安心したように目を細めた。
――だが、そのとき。
少年の行く手をさえぎるように、大きな影が立ちはだかった。四本足の、白い毛並みを持つその犬は、明らかに慣れていない、ぎこちない動きで「威嚇」をしながら、澪丸を睨む。
「腕太郎……?」
自身を守るようにして唸る「相棒」を目にして、雅々奈はぽつりとその名前を呼ぶ。そうして、ハッとしたように起き上がったあと、その後ろ姿に向けて叫んだ。
「ばか、おめえ、弱いんだから……そいつに勝てるわけ、ないだろ! 死ぬのは雅々奈ちゃんだけでいいんだ! おめえまで、斬られることは――――」
「なるほど、な」
女の叫びを遮るようにして、澪丸は呟く。そうして、構えていた刀を、ふたたび瑠璃色の鞘へとおさめた。少年がまとっていた殺気が、あまりにも突然に消えうせる。
少年のその行動に目を見開いたのは、雅々奈であった。
「……なん、で」
「期待に応えられなくて申し訳ないが――俺はもとから、おまえを斬り伏せる気なんてなかったさ」
わざとらしく肩をすくめて、少年は告げる。
「俺は、おまえとこの犬の『つながり』が、本物かどうかを確かめたかったんだ」
「……つながり?」
「ああ。……人間と、魔族。そのふたつは、決して相容れないものだと、俺は思っていた。けれど――おまえたちはどうにも、そんな枠組みには当てはまらないようだ。人間と魔族の垣根をこえる、というよりは、もとからそんな分類などなかったかのように……おまえたちは、互いのことを慕っている」
そう言って、澪丸は後ろにいる茜のほうを振り返った。少年の藍色の瞳が、編み笠の下の紅玉のような瞳と交差する。
茜は、澪丸の言わんとしていることを理解していないらしく、小さく首をかしげた。澪丸は薄く笑ったあと、ふたたび首を戻して、告げる。
「種族ではなく、個による『つながり』。そんなものが本当にあるかどうかを、俺は
知りたかった。そして、おまえたちは、それを俺に教えてくれた。……だから、俺はもう、おまえたちにはなにも干渉しないさ」
そして、澪丸は踵を返し、一人と一匹に背を向けて歩きはじめる。
「……邪魔をして、悪かったな。おまえが俺の探している鬼ではない以上、長居は無用。俺たちは、ここらでおいとまさせてもらおう」
旅装束をひるがえし、澪丸は来たほうとは反対側の下り道に向けて進む。そのあとを、茜が小走りで追いかけた。
――その、背中に。
「待て!!」
空気を震わせるほどの、大きな声。
澪丸はぴたりと立ち止まると、静かに振り向く。
そこには、いつの間にか落ちた金棒を拾い上げ、黒光りするそれを軽々とかつぎあげる、野性味に満ちた女の姿があった。彼女は端正な顔立ちに野蛮な笑みを取り戻し、澪丸をじっと見つめながら、告げる。
「雅々奈ちゃんを、殺さねえっていうんなら。雅々奈ちゃんをキズモノにした責任、とってもらおうじゃねーの」
澪丸がその発言になにかを言い返す前に、彼女はずんずんと大股で歩き、少年との距離を詰めた。その後ろから、尻尾を小刻みに振って、犬の魔族がついてくる。
ずい、と。金棒の先を少年の鼻先に向けて、雅々奈は尋ねた。
「てめーの名を、教えろ」
「……澪丸だ」
「なに? おまる? ずいぶんと変わった名前じゃねーか、おい」
「み・お・ま・る・だ」
少しばかり強い語気で、少年は答える。しかし、雅々奈はそれを意に介さない快活な笑みで、続けてこう語った。
「――おまる。おめえがどこに行くかは知らねえが、雅々奈ちゃんを連れてけ」
「……なに?」
「おめえに着いていけば、おめえだけじゃなくて、まだ見ぬ強いやつとも闘れそーだ。どうせ拾った命……満足するまで、雅々奈ちゃんは戦いつづけることを決めたぜ」
ニヤリと笑って、金棒の女は告げる。彼女の表情には、どこか澪丸に期待するような輝きが見てとれた。
「……なぜ俺が、おまえを連れていかねばならんのだ。俺に着いてくれば強い奴と戦える、というのも、なにか根拠があってのことなのか?」
「あーあーうるせえ! とにかく連れてけ!」
まるで言うことをきかない赤子のように、雅々奈は地団駄をふむ。
澪丸は困ったように茜を見たが――彼女はむしろ、それに賛成するように首を縦に振っていた。ただし、その目線は金棒の女ではなく、その後ろにひかえる巨犬に向けられている。
(こいつ……犬が目当てか!)
一対三。この問答は、澪丸が圧倒的に不利なのであった。
ため息をついて、少年は渋々といった声で、漏らす。
「……仕方がない。好きに、しろ」
そう告げた瞬間、雅々奈は「ふふん」と鼻息を漏らして、白い巨犬のほうを見た。そして、尻尾を振って事の成り行きを見守っていた「相棒」に向けて、嬉しそうに語る。
「よっしゃ、行くぞ、碗太郎! 強えーやつをぶちのめす、旅の始まりだ!」
彼女のご機嫌な様子を見て、碗太郎は「わん!」と一声吠える。彼は人間の言葉は分からずとも、その雰囲気は理解できるようであった。
(……強い奴をぶちのめす旅、か)
偶然か、はたまた彼女の野性的な勘によるものかは分からないが、その言葉はたしかに、「魔神探し」という旅の目的と一致していた。もちろん、未来で人間を滅ぼすほどの存在を、彼女が予見していたわけではないだろうが。
(まぁ……いざ「厭天王」と戦うことになったときに、こいつがいれば頼りにはなるか)
「それ以上に、道中で余計な問題を抱えることになりそうだが……」という言葉は心の内にしまっておいて、澪丸は巨犬と触れ合う雅々奈を見据える。
これからの旅は、少しばかり賑やかになりそうだった。