Saga03:ノア=トリエンナーレ
――なぜ知っている。『全て消した』はずなのに。
そう思ってから、ミカはごくりと喉を慣らした。あの男、見たことがある。吊り上がった大きな目。尖った顎。やせこけた頬。一つ結びで纏められた金の髪。
「よぉ、三週間ぶりだな」
三週間前、トルエン=リザーラが縛り上げた男だ。
「なんでこんなところにいるの? いくらなんでも釈放には早過ぎない?」
「質問したいのはこっちの方だぜ。お前、トルエンに何をした?」
「……トルエン=リザーラを知ってるの?」
ミカの問いに男は笑った。嘲るような笑みだ。
「仲間だ」
ミカの問いに答えたのは少年だった。彼は無表情のまま、金髪の男を見返した。男が少年の言葉に瞠目する。
「組んでるんだ、悪党役と退治役に分かれて。わざと事件を起こし、町民に依頼を出させ、報酬を稼ぐ。とんだ茶番だな」
少年の言葉に、今度はミカが瞠目した。
言われてみればおかしな要素はたくさんあった。疑うべきだったのだ。同じ場所。同じペア。なんて偶然だと笑っていないで。
ミカは精いっぱいの苛立ちをこめて舌打ちをした。苛立っているのは、浅はかな自分に対してだ。仕事はすべて相手に任せっきりだったこと、本当に相手を始末できているかどうか、確認を怠ったこと――介入せず、仕事解決証明だけをする自分はどれだけ都合のいい女だっただろう。利用しているといい気になって、その実、利用されていたのはミカの方だった。
「あんたは二回、トルエンと一緒にここへ来たはずだ。けれどおかしなことに、二回ともトルエンは依頼の相方を覚えてねぇ。トルエンだけじゃねぇ、ギルドの窓口もだ」
男は言う。その通りだ。ギルドの窓口係の分はもちろん、念のためごろつき――その時はごろつき退治の依頼だった――の分もミカは消した。
「一回目は、まぁ報酬も少額だったしな。記憶がそこだけなくなるなんてありえねぇし、トルエンが酔った勢いで、どっかに忘れてきたってことで、曖昧なまま追求すんのをやめた。けど二回も起これば、さすがに見過ごせねぇ」
何より、好き勝手やってきたツケが今、回ってきている。
あの男はミカを覚えている。二回目は、数が多かったために窃盗団役の男達の記憶は消さなかったのだ。失敗した、とミカは思う。記憶を消しておかなかったことも、今こうして三回目の機会を作ってしまったことも。
「もう一度問う。てめぇ、何をした?」
男の笑みが消えた。吊り上がった目が大きく見開く。
この男の真顔には迫力がある。ミカの背筋を悪寒が走った。男が手にした片手剣の刃が光る。この男は危険だ。人を殺すことに何のためらいのない目をしている。反射的にミカは後ずさりをした。けれど退路はない。正真正銘、絶体絶命だ。
「ふーん、そういうことか」
そこへ、今まで黙っていた少年が口を開いた。少年の存在を思い出し、ミカは拳を握った。この少年も無事では済まないだろう。
「ガキ、お前も運がねぇな。その女のおかげでおめぇの命もねぇんだ」
男が笑った。周りを囲う仲間も笑った。笑い声の中、少年は冷ややかな目で男達を見返す。
「トルエン=リザーラはどこだ?」
「アサボアに行ったぜ。仕事票と経歴表が改ざんされてたからよ。小出、おめぇの仲間がいるんじゃないかってな」
――――スズ。
ミカは反射的に剣を抜いた。両手で剣を握りしめる。そして精いっぱいの力を込めて、男を睨み付けた。
「いいねぇ、最後の悪あがきか。空しい抵抗、そういうのは大好物だ」
「悪あがき? 冗談じゃない。あたしは大富豪夫人になって、天蓋付きベッドでぽっくり死って決めてんのよ。こんなところで死ぬなんてまっぴらごめんだわ」
正直、足が震えた。それでもミカは武者震いだと言い聞かせ、剣を持つ。
「こい、四十万ルッツ!」
先手必勝。ミカは一歩を踏み出した。せめてあのリーダーだけでも倒してやる。――あのリーダーだけだと、五万ルッツぐらいかしら。
そこへ、ミカの眼前に小さな手。少年はミカを止めるように腕を伸ばした。フードを被ったままの少年の表情は、ミカの位置からでは伺えない。しかし、彼の背中から漂う凛とした空気に、ミカはぴたりと動きを止めた。威圧感。少年の外套が大きく揺れた。
「オレも、こんなところで死ぬのはまっぴらごめんだ」
ミカの眼前の手のひらに、うっすらと文様が浮かびあがる。墨を走らせた、渦巻く風のような文様。そして彼の手を包む空気が揺らいだ。
まさか。ミカは呟く。揺らいだ空気は徐々に広がり、彼の全てを包んでいく。木々が騒ぐ。鳥が飛び去る。少年の空気に気圧されて、男達は微動だにできない。ただ真ん丸に目を見開き、票年を見つめている。ミカも同じだ。彼の手のひらから目が離せない。この文様、これは術師の文様だ。
『特殊職』の魔術師――音にならない声で、ミカは呟く。
魔術師、それは職業ピラミッドの最上位。
「風の精霊、風神。我が右手に宿り、切り裂く刃となれ」
少年が唱える。巻き上がる風。渦巻く。竜巻きのように広がる風の筋。風圧。ミカは両腕で顔を覆う。姿勢を下げる。そうでなければ飛ばされそうだ。
「悪しき者を滅せよ!」
風の刃が飛んだ。男達が恐怖に目をむく。風音で声は聞こえない。無音で叫ぶ男の姿が目に入った。容赦なく切り裂く風。腕。頬。足。腹。血が散った。木の筋が割れる音。男達が地に伏せる。ミカは目を瞑った。砂埃で目をあけていられないのだ。
次に目を開いた時には、立っているのはミカと少年だけだった。唐突に風が止む。不意に力が抜けて、ミカは地面に座り込んだ。そしてミカは呆然と周りを見回す。地面に横たわった男達は、ぴくりとも動かない。
「全員、死んだの?」
「まさか。気絶しているだけだ。催眠効果も加えたから、しばらくは目を覚まさない」
少年は淡々と言う。ミカは少年を見上げた。彼の端正な顔立ちには、何の感情もなかった。
「あんたがノア=トリエンナーレだったの」
ミカの言葉に少年は頷かなかった。けれど否定もしなかった。
どうりで一人でも依頼を受ける覚悟があるはずだ。これだけの魔力があれば、何だってできるだろう。同時に彼の経歴がまっさらなのにも合点がいった。
魔術師を筆頭とする特殊職――証明できない不思議な能力を持つ人々の総称である――は最高階級であり、それだけの能力を持つ。それゆえ人から離れた生活を好み、極端に他者との関わりを避けるのだ。名前だけは広がっても、実際は姿を見たこともない、不詳の特殊職は数多い。
ミカはごくりと喉を鳴らした。しかも彼は風の精霊を呼んだ。魔術よりも更に高度な精霊使いなら尚更だろう。
「お前、仲間はいいのか?」
「あ、スズ!」
ノアに問われ、ミカは慌てて立ち上がった。今から戻ってもアサボアまでは五時間。間に合うだろうか。そう考えて、ミカはかぶりを振った。わからないが、行くしかない。スズがいなくなったら、誰が割のいい仕事を紹介してくれるのだ。
「アサボアだったか」
走り出そうとしたミカの腕を掴み、ノアが言う。だからどうした。心の中で反発しながら、ミカは無言で頷いた。すると同時に、ミカの腕を掴んだノアの手が光る。ノアはゆっくりと目を閉じると、静かな声で呟いた。
「飛べ」
瞬間、景色が消えた。
ここから続き投稿は週1回にしようと思ってます。今後ともお付き合い宜しくお願いします。