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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー短編

憑き蟲

作者: まあぷる

当作品はサイトの作品を改稿したものです。

「や~い、泣きむし!」

 十月のはじめ、夕日に赤く染まった景色の中、柿の木が暗い陰を舌の様に伸ばす坂道を転がるようにして逃げて行く、ひときわ赤いランドセルがあった。

 たったひとつのシルエットを二つのシルエットが踊るように追いかけていく。

「泣きむし、薫。お化けに食われて死んじまえ!」

 シルエットのひとつが叫びながら石つぶてを投げる。石は赤いランドセルの子の頭に命中した。

 転びそうになりながら、薫は神社の中へと逃げ込んだ。別の石が顔を掠める。薫は泣きながら神社の裏へと走っていく。

 真新しい神社の裏は崖になっていた。一年前の台風で大破した神社の取り壊した木材が尖った切っ先を天に向け、崖の下に放置されていた。

 薫は崖の端まで追い詰められ、震えながら追ってきた子供達のほうへ振り向いた。

「おい、崖から落とされたくなかったらお前の筆箱、よこせ」

 薫は泣きながらいやいやをする。少し後ずさりした薫の足元は崖の端ぎりぎりのところまで来ていた。

「よこせって言ってんだよ! 聞こえねえのか!」

 信悟の大きな声に、薫はびくっと身体を振るわせた。

「もういいよ、信悟。こいつをこれ以上脅すのはよそうぜ」

 薫につかつかと近づいて行きながらそういったのは亜矢子。小学四年生とは思えないほど背が高く勝気な彼女はいつも子分の男の子を侍らせていた。

「さあ、大人しく筆箱をよこしな。さもないと……」

 そう言って、薫の腕を掴もうとしたとたん、薫が後ろに身体を捻った。

 亜矢子の目の前から薫の姿が消えた。あっという間の出来事だった。


 二人はしばらく呆然としていたが、亜矢子は意を決して崖の下を覗き込んだ。

 卒塔婆のように突き立った木材に薫の胸が刺し貫かれているのが見えた。血まみれの杭の周囲に赤い死の花がゆっくりと花弁を広げて、薫の白いシャツをじわじわと染め上げていく。薫の目は大きく見開いたまま凍りついていた。亜矢子は頭の中がまっ白になり、何も考えることが出来ない。

「ひ……ひぃぃぃぃ!」

 はっとして振り向くと、信悟が恐怖に歪んだ顔で亜矢子の横に立っていた。

「ひ……ひとごろし!」

 そう、叫んだかと思うと、踵を返し、足をもつれさせながら走り出した。

 しまった。このままじゃ大変なことになる。

 亜矢子は全速力で信悟を追いかけ、神社の鳥居をくぐる寸前の信悟の肩を捕まえた。

 悲鳴を上げる信悟を殴り倒すと、うつぶせになった身体の上に跨った。左手で信悟の肩を押さえ、右手で大きな石を拾うと頭を目掛けて思い切り振り下ろす。何度も何度も振り下ろされた石のせいで、信悟の頭が割れて血が噴出した。

 動かなくなった信悟の足を掴むと、亜矢子はずるずると少しずつ裏の崖のほうに引き摺っていった。

 信悟を崖から落とそうと下を覗き込んだ時、薫の足元に黒く光る影のようなものが見えるのに気が付いた。ばりばりという奇妙な音とともに、薫の身体が左右に激しく揺さぶられている。

「あ……あ!」

 あれはなんだろう? このままじゃ、自分のほうに這い上がってくるかもしれない。亜矢子は信悟の身体を崖下に蹴り落とすと急いで神社の外に向かって走り出した。

 鳥居を駆け抜ける瞬間、亜矢子の頭の中に聞き覚えのある笑い声が響いてきたような気がした。


 

「それじゃあ、あやちゃんは薫ちゃんも信悟君も見とらんのだね?」

 駐在の田代は玄関の土間で立ったまま、困りきった顔で亜矢子を眺めていた。午後七時。亜矢子が神社から逃げ帰ってから三時間余りが経過していた。

「うん。薫ちゃんは学校で別れたきりだし、信悟はあの駄菓子屋さんの角でさようならって別れてから見てないよ」

「何処かへ行くとか、そんなこと言っとらんかったか?」

「ううん。何にも」

「そうかあ。二人で何処かに行くなんてことは考えられないって薫ちゃんのお母さんも言ってたけんど……」

「ああ、駐在さん。さっき自治会から連絡があったんで、私も今から捜索に参加します」

 亜矢子の母が台所からエプロンを外しながら出てきた。

「すまないねえ。じゃあ、よろしくお願いします」

 駐在が出て行き、母親が出掛けてから、亜矢子は玄関の引き戸の鍵をしっかりと閉めた。

 さっきのあの化け物はなんだったのだろう。ひょっとしたら影か何かを見間違えたのかも。亜矢子は信じられなかった。いや、信じたくなかった。

『月蟲神社』で見た化け物のことなんて。

 居間に戻って、テレビをいつもより大きな音で見始めた。母親は何時に帰ってくるのか分からないし、父親はいつも十時過ぎにならないと帰ってこない。

 じっとしていると、薫と信悟にしたことが脳裏に蘇ってくる。でも、薫は身体を捻って自分で落ちたのだし、信悟は逃げ出したのが悪いのだ。自分は悪くない。そうは思っても、思い出すと身体が震えてきた。母さんに知られたらどうしよう。警察に捕まるのなんて絶対に嫌。

 でも、私みたいな子供がふたりも人を殺したなんて誰も思わないだろう。大人を騙すのなんて簡単。

 信悟を殺した時の血の跡も、二時間ほど前から降り出した大雨で流されてしまっているはずだ。そう、何も知らないふりをしてればいいだけ。


 いつも見ているアニメが終わった時、玄関の戸が開くがらがらという音が聞えてきた。

 だが、いつまでたっても誰も入ってこない。亜矢子はそっと居間を出ると廊下から玄関のほうを覗き込んだ。


 薫が立っていた。

 少し首を横に傾けた薫は歯を見せて笑っていた。白いシャツも臙脂色のズボンも傷ひとつないが、髪は乱れ、目は骸骨のように穴が空いているだけだ。

『一緒に遊ぼうよ、あやちゃん』

 ぎくしゃくと手足を動かしながら薫が靴のまま家の中に上がってきたと思ったとたん、亜矢子の目の前に薫の顔があった。空ろな右目の奥から何かが這い出そうとしている。よく見るとそれは笑った信悟の顔をした黒っぽい蟲だった。身体をぐにぐにと伸びちぢみさせながら信悟の顔をした蟲は眼窩から跳ねでて亜矢子のブラウスに飛びついた。そしてじりじりと亜矢子の顔のほうへ這い上がってくる。亜矢子は悲鳴を上げた。蟲を払い落とそうと胸に手をやった瞬間、蟲が真っ赤な口を開けた。そこに見えたのはぎざぎざの鋭い歯。亜矢子は意識が遠くなり、何も分からなくなった。


「亜矢子、亜矢子!」

 母親に身体を揺さぶられて亜矢子は目を覚ました。

「どうしたの。廊下で寝てるからびっくりしたじゃない」

「何でもないよ。急に眠くなっただけ。お母さん、薫ちゃんと信悟くんは?」

「ああ、それがね、月蟲神社の裏の崖下で信悟くんのランドセルが見つかったの。でも、信悟くんはまだ見つかってないわ」

「……薫ちゃんは?」

「薫ちゃんはさっき家に帰ってきたらしいわ。何処へ行ってたのかは言わないらしいんだけど、とにかく無事でよかったわよね」

 帰ってきた? そんな馬鹿な。亜矢子の背中が冷水を浴びたようにぞっとざわめいた。

「本当に? 本当に薫ちゃんだったの?」

「変なこと聞くのね? 他に誰が帰ってくるのよ」

「あ、そ、そうだよね」

 不審そうな母親の顔に、亜矢子は慌てて微笑みかけた。


 翌日、薫は学校に来ていた。その様子は普段どおりでまったく前と違ったところはなかった。

 亜矢子は薫を苛めなくなった。薫を避けて、けっして近づこうとはしなかった。薫は以前のように気弱なところがなくなっていたし、男の子に対しても臆することなく接するようになっていた。信悟はその後ずっと捜索が続けられていたが、見つかってはいなかった。

 やがて、薫の家は仕事の関係で九州に引っ越してしまい、亜矢子も事件自体が実際に起こったことではなく、夢の中の出来事なのだと考えるようになっていった。



「で、相談っていうのはなに?」

 十数年の時が流れ、亜矢子は大学二年生になっていた。

 大学の一階にあるティルームで、恭一はアイスコーヒーにそっとミルクを注ぎながら呟いた。

 土曜日は自主休校の学生も多く、ティールームは閑散としている。

 ノースリーブの菫色のカットソーに同色のミニスカート、白いニットのカーディガンの亜矢子と、ジーンズにモカ茶のスエードのジャケットをさらりと着こなした恭一は、傍から見てもお似合いのカップルだった。

「うん、それはこれから話すけど、なんでそんなに慎重にミルクを入れるのよ」

「ほら、こうすると濃い焦茶色の珈琲の空の上に白いミルクが雲みたいに浮いて、すごく綺麗だろ。混ざるようで混ざらない。その絶妙なバランスがさ」

 この人にはちょっと変わったところがある。でも、そこが好きなのよね。

 亜矢子が恭一と出会ったのは経済史の講義の時だった。退屈な講義にうんざりしてこっそり漫画本を広げた時、隣から話し掛けてきたのが彼だった。

 女の子みたいな優しい顔と人懐っこい笑顔、それに185センチという背の高さに亜矢子はたちまち心を奪われた。以来、三ヶ月。土曜日には必ずデートをしたし、もうそろそろ「特別な関係」になってもいいんじゃないかと思っていた頃だ。ところが亜矢子には別の深刻な悩みが出来てしまった。

「あたし、ストーカーに悩まされてるの。といっても一年生の女の子なんだけど」

「え? 女の子のストーカー?」

  

 二週間ほど前のこと。冷たい風の吹きぬける構内を歩いていた亜矢子の傍に髪の長い女の子が近づいてきた。潤んだ大きな瞳の少女は男の子の誰もが夢見る理想のタイプという感じだ。亜矢子はいやな予感がした。身長170センチ。体格がよくてきりっとした男っぽい顔立ちの亜矢子は宝塚の男役のようなタイプで、女の子に迫られたのも一度や二度ではなかったからだ。

「あの、すみません。新城亜矢子さんですよね?」

「そうだけど」

「あ、あの、私、コンドウカオルって言います。いきなり声掛けちゃってごめんなさい」

「あ、そう。それで?」

「あの、私、あなたが好きなんです。よかったらお付き合いしていただけ……」

「あのねえ。悪いけど女の子に興味はないのよ。それじゃ」

 突き放すように、そう言い放つと亜矢子は立ち尽くすカオルを置き去りにして歩きだした。だが、その名前が何故か気になった。コンドウカオル。あの、神社で崖から落ちた薫と同姓同名だ。まさか。

 亜矢子は引き返し、カオルに問いかけた。

「あんた、出身地はどこ?」

「え、あ、北海道です」

 それじゃあ、別人だろうか? でも、嘘かもしれない。

「そう。コンドウカオルってどんな字を書くの?」

「ええっと、近藤勇の近藤に北村薫の薫です」

 同じだ。

「ねえ、前に会ったことはあるかしら? 子供の頃だけど」

「え? いいえ」

 本当だろうか。顔はどうだろう。似ていると言えば似ている気もする。長いまつげも、透き通るような白い肌も。亜矢子が憎悪した全てが。 

 三人兄弟の末っ子で、着るものといえばお下がりばかりだった亜矢子。一人っ子でいつも新しい可愛い服を着ていた薫。可愛い顔はいつも男の子の注目の的だったし、ちょっと気の弱そうな甘えた声を聞く度に背筋がぞっとしたものだ。

 だから、亜矢子は何かというと薫を苛めていた。薫が新しいものを持ってくると、教室ではなく人の見ていない外で待ち伏せて取り上げる。親に言ったら殴るよ、という脅しも忘れなかった。それを持っていると今度は亜矢子の親が不審に思うので、取り上げたものはゴミ箱に捨ててしまった。新しい服を着てきた時、ワザと墨汁を零してやった時もあった。戸惑った泣き顔を見るのが溜まらなく楽しかったのだ。

「ああ、そう。それじゃ人違いね」

「あの……」

「え?」

「私、絶対諦めませんから」

 亜矢子は何か言おうと思ったが、これ以上絡まれても嫌なので黙ってその場を離れた。歩きながら後ろを振り返ってみると、薫はいつまでも桜の木の下でじっと亜矢子を見つめて立っていた。

 

 三日後、午後十時頃、恭一とのデートを終えてアパートの二階に戻る時、後ろから誰かがつけてくるのに気が付いた。走って部屋に戻り、窓からそっと見下ろしてみると街灯の下に女性が立っているのが見えた。髪の長いそのシルエットは、薫という女の子とよく似ていた。

 その翌日から、亜矢子のスマホに大量のメールが送られてくるようになった。何処でメアドを知ったのか分からないが、そのメールには亜矢子への思いが連綿と綴られていたのだ。気味が悪くなった亜矢子は受信拒否をした。すると、今度は郵便受けに手紙が入るようになった。一日に五、六通の手紙、それも手書きで隙間もないほどびっしりと文字の書かれた手紙が水色の封筒に入れられている。消印はないから直接来て入れているのだ。


 そして昨晩、外を覗くと薫が降りしきる雨の中、傘も差さずにじっと佇んでいた。亜矢子は意を決して下に降りていった。

「ちょっとあなた、どういうつもり? 気味が悪いからもうやめてよ! やめないと警察に訴えるわよ」

 薫はずぶぬれのまま、亜矢子をじっと見返すとにっこりと笑い返した。

「私、あなたが付き合ってくださるまで諦めませんから」

「とにかく、今日は帰ってよ。目障りだから」

「分かりました。もう少ししたら帰ります」

 亜矢子がアパートの階段に戻ると、後ろから、か細い薫の声が追いかけてきた。

「また置き去りにするんですね? あやちゃん」

 その言葉にぎくりとして振り返ると、既に薫の姿はなかった。




「何しろ、気味が悪いのよ。手紙には付き合ってくれなきゃ死ぬとか書いてあるし」

「ふ~ん。そりゃ困ったねえ」

「他人事みたいに言わないでどうしたらいいか考えてよ」

 恭一はしばらくの間、じっと考え込んでいた。

「ねえ、亜矢子。君の出身地はK県の月蟲村だよね」

「ええ、そうよ」

「その薫って子は、一度行方不明になったことがある子だよね」

「そう。よく覚えてるわね。その子とよく似てるのよ」

 亜矢子は恭一に小学校の頃の話をしたことがある。二人の友人が行方不明になり、一人は帰ってきて、もう一人は月蟲神社でランドセルだけが見つかり未だに行方不明だということを怪談話として。だが、もちろん本当のことを話してはいなかった。

「じゃあ、なに? 薫さんは亜矢子のことを好きだったの?」

「そうかもしれない。でも全然気が付かなかった。だって薫はあたしのことを凄く憎んでるようだったし、あたしも彼女のこと好きじゃなかった」

「なんで憎まれてたと思ってたの?」

「だって、口もきいてくれなくていつも無視されてたもの」

「で、今になって偶然、本当は好きだった亜矢子を見つけたので告白してきたってこと?」

「まあ、そういうことになるわね」

 恭一は亜矢子の目を真剣な顔で覗き込んでいる。

「う~ん、行動が不自然だよね。でも、その子、出身地も違うし別人だと思うよ。ただ……」

「ただ?」

「俺さ、月蟲神社の由来っていうの調べてみたんだ。変わった名前の神社なんで気になってさ。亜矢子は知ってる?」

「さあ、あたしは小さい頃に両親が月蟲村に引っ越してきたから、そういうことは全然」

「つきむしってさあ。ほら霊が憑くとかいうだろ。本当はあの憑くを書いて憑き蟲なんだ。あの神社は、その憑き蟲が祀られているそうだ」

「憑き蟲?」

「そう。ご神体にはなってるけれど、憑き蟲と言うのは人間を食ってその人間になりすます妖怪だ。神社に封印されているからこそ大人しい存在なんだよ。もし、そいつが本当に存在するとすれば、その女は憑き蟲かもしれない」

「あ! そういえば、その年の一年前の台風で神社はめちゃめちゃに壊れたのよね。あの時、封印が解けたのかも」

「そうか。だったらますます怪しい。でもこの推測はちょっと荒唐無稽すぎるよね」

 憑き蟲。そうかもしれない。だって、あの時、薫は間違いなく死んでいたし、それにあの足元の黒い影……。

 亜矢子はコーヒーカップを持ち上げて、ようやくそれが空であることに気がついた。

「亜矢子。怖いの?」

「……怖いわ」

「それじゃあ、今日は俺が亜矢子のアパートに行って、一晩、一緒に過ごすっていうのはどう?」

「え? それじゃあ……」

「もう、そろそろいいよね? 亜矢子が嫌じゃなかったらだけど」

「嫌だなんて。嬉しい! すっごく」

「よかった。じゃあ、その前に映画でも観に行こうか」


 その日の夜十一時頃、ふたりは亜矢子のアパートへ帰ってきた。

 ドアを開け、フローティングの八畳一間の部屋に足を踏み入れると、亜矢子はほっとして恭一に抱きついた。

 恭一が亜矢子を抱きしめ、乱暴にキスをしてきた。恭一の舌が亜矢子の唇をこじ開け、口の中に進入して舌に絡みつく。

 亜矢子は恭一の身体を軽く押しのけた。

「ちょっと待って。そんなに急がないで、シャワーを浴びて一休みしましょうよ」

「ああ、そうだね。ごめん。ちょっと我慢できなくて」

 

 亜矢子はバスタオルを持ってバスルームのドアを開けた。灯りをつけ、そっと中を見回してみる。

 誰もいない。ほっとしてバスルームに入り、洗面所で服を脱いで浴室に入った。

 蛇口を捻ると、熱い湯が勢いよく迸った。シャワーを浴びながら、そっと目を瞑る。そうよ。気にする必要なんてない。だって私には恭一がいるもの。

 あれ? 何だろうこのお湯。

 身体中が粘つくような感覚。

 これ……お湯じゃない!


 目を明けた亜矢子は悲鳴を上げた。ノズルからはドロドロした黒いお湯が勢いよく噴出している。亜矢子の全身が黒いゼリー状のもので覆われていた。しかも、それはうねる様にざわざわと動いている。金切り声を上げながらそれをこそぎ落としたが、掌についたゼリーをよく見るとそれはゆっくりと形と色を変え、平面的な人の顔になった。信悟の顔だった。顔はかっと目を見開くと亜矢子を睨んで口を開けた。口の中は血のように赤かった。あらんかぎりの悲鳴を上げながら、信悟の顔を削ぎ落とし、浴室を飛び出した。

 バスタオルで身体をむちゃくちゃに拭きながら気が付くと、黒いゼリーなど何処にもついてはいなかった。浴室の床にも何も落ちていない。

 疲れていたから、幻覚を見たんだわ。亜矢子はほっと胸を撫で下ろした。

 その時、バスルームのドアが開いて、誰かが入ってきた。

「ああ、ごめんなさい。何でもないよ。恭……」

 

 そこに立っていたのは薫だった。その手には血まみれの包丁が握られている。まっ白なワンピースは返り血で真っ赤に染まっている。

「亜矢子さん。私に黙って男なんか連れ込まないで」

 薫は包丁を振りかざし、ゆっくりと近づいてくる。亜矢子は重いドライヤーを掴むと思い切り薫の頭を殴りつけた。何度も何度も殴りつけ薫が動かなくなると、荒い息を整えながら、しばらく佇んでいた。

 薫の耳から、黒い五センチくらいの芋虫が這い出して床に転がった。ドライヤーで虫を叩き潰した。

 やっぱり。この女は憑き蟲だったんだ。

 そうだ。恭一はどうなったんだろう? この血はまさか……!


 亜矢子はバスタオルを巻いて急いでバスルームを出た。部屋の床は血の海だった。

「恭一? 恭一!」

 心臓が爆発しそうだ。恭一は殺されてしまったのだろうか。亜矢子はベッドが膨らんでいるのに気が付き、急いで駆け寄った。

 恭一はそこに寝ていた。目を瞑り、穏やかな顔で枕に頭を預けている。

「恭一! 大丈夫?」

 彼の身体に掛かっていた毛布を捲った。身体に傷はなさそうだ。じゃあ、あの血は薫自身のものなのか。

 ほっとして思わず、彼に抱きつき、キスをしようと顔を近づけた時、彼の首がごろん、と横に転がった。目の前にあるのは、すっぱりと斬られた首の断面。

 悲鳴が口に届く前に、亜矢子は気を失った。



「亜矢子、どうしたの? 目を覚まして」

 その声は恭一だった。亜矢子は泣きながら彼に抱きついた。

「恭一! よかった。生きてたのね? さっきのは夢だったのね」

「そう。俺は大丈夫だよ」

「あの……あたし、夢の中で薫を殺したのよ。怖かった」

「ああ、それは夢じゃない。薫さんはバスルームで死んでる。でも正等防衛だよ。気にすることない」

 恭一は亜矢子のバスタオルを外し、裸になった身体をそっと抱きしめる。

「だって三回目だろう? 人を殺したのは」

 

 亜矢子は全身の血の気が引いていくような気がした。

「どうして知ってるの?」

 恭一はにっこりと微笑みかけたが、その目は笑ってはいない。

「なあ、首が取れたところ、なかなか面白い演出だったろう? こうやるんだよ」

 そう言ったとたん、恭一の首に赤い線がすうっと走り、ぱっくりと赤い口を開けた。溢れ出した血が胸の方に滴り落ちていく。

「い、いやあああ!」

 亜矢子が逃げ出そうとすると、恭一は彼女に圧し掛かって身体を押さえ込んだ。


「ねえ。俺の子供の頃の話、聞かせてあげようか。俺は生まれた時から引越しをするまで女の子として育てられたんだ。母親がどうしても女の子が欲しいと言い張り、そのようにしてしまったんだ。おかげで俺はスカートを穿き、赤いランドセルを背負って学校に行かなきゃならなかった。どんな気持ちだったか分かる?」

 恭一は亜矢子の唇をそっと舐めた。

「そうそう、あの時は痛かったよ。信じられないような痛さだった。木の杭に身体を刺し貫かれながらも俺には意識があったんだ。気が付くと足の方が黒いものに覆われていた。足は痺れたように感覚がなくなっていく。食われてるなと思ったよ。でも、俺はそいつに精神だけは食われなかった。食われてしまってからも自意識を持ち続けたんだ。憑き蟲の身体と俺の意識。アイスコーヒーとミルクのように混じるようで混じらない。ああ、お前が投げ込んだ信悟は美味かったよ。食ってる途中で暴れだしてちょっと困ったけれどね。俺は元の身体に戻って何事もなかったように家に帰った。あの時から俺は臆病者じゃなくなった。そのことについては感謝してるよ、亜矢子」

「ねえ、恭一。いったい何を言っているの……」

「とぼけるなよ。全部分かってるくせに。俺の名前は薫。近藤薫。恭一じゃあない。あのバスルームの子はただのストーカー。名前は優佳っていったかな。お前のことをいつも陰から見ているのに気が付いたから、分身を送り込んでちょっと利用させてもらったのさ」

「あ、あんたが薫だなんて。信じられない」

「別に信じなくてもいいよ。もうすぐ、君の意識はなくなるから」

「あたしが好きなんでしょう? だったらもう許して」

 震えながら懇願する亜矢子を薫は満足そうに見下ろした。

「お前のことは好きだよ。食べちゃいたいくらいにね」

 亜矢子は足の下が熱い湿ったものに覆われてきたのに気が付いた。薫の下半身が黒い蟲に変貌して、ゆっくりと亜矢子を飲み込んでいく。

「俺とひとつになりたかったんだろう? なれるよ。文字通りひとつにね」

 そう言って、薫は亜矢子の唇に自分の唇を押し当てた。

 

 身体に今まで感じたことのないほどの激痛が走った。

 悲鳴は口の中に押し戻され、次第に強烈になっていく痛みと絶望の中で、亜矢子は自分の骨が噛み砕かれる鈍い音を聞いた。


<END>

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― 新着の感想 ―
[良い点] 因果応報です!(#`皿´) 亜矢子だけ彼ピとハッピーなんてあり得ません。 [一言] まー、でも皆憑き蟲の犠牲者ですな(´д`|||) なんとなく昔の白黒映画「ハエ男の恐怖」を思い出しまし…
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