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まずは契約を交わしますか?

半年前の話だ。

ふと目を覚ますと、僕は薄暗く狭い部屋にいた。


鼻と口元を手拭い(ハンカチ)で覆いながら、周囲を見回した。


非常に不衛生な環境だ。

床にはうっすらと灰色の綿が積もり、干からびた大鼠らしき屍骸やら天井の一部らしき瓦礫が転がっている。


「ここは……どこだい?」


「地下迷宮ですよ」


目の前には一匹の小動物がいた。


黒猫だ。

奇妙なことに豪華な羽根飾りのシルクハットを被っていた。そして古びた分厚い書物にちょこんと座り込んでいる。

今、返事をしたのはこの猫だろうか。


「地下迷宮?」


「はい。恐ろしい魔物が跋扈し、命を一瞬で奪う罠が数多く仕掛けられたとても危険な場所です」


やはり喋ったのは猫のようだ。

こちらの問いに律儀に返答してくれた。

ただその程度は説明されるまでもなく、問題は何故、自分がそのような場所にいるかだ。


「一体――」


「少々、お待ち下さい」


黒猫は尻尾を手前に出して、生意気にもこちらを制止してくる。

その鼻先が向いた先には半開きの扉があった。外は暗がりになっており、すぐ近くで獣の遠吠えがした。


灰狼ワーグですね」


「灰狼?」


「腹ペコで獰猛な狼の群れですよ。どうやら貴方の匂いを嗅ぎつけてきたようです」


「やれやれ、そいつは困ったな」


自慢ではないが魔物どころか動物相手に狩りをした経験がない。

唯一の得物になりそうなのは愛用のペーパーナイフだけ。事務仕事には最適なのだが、戦闘ではどうだろう。

刃付きなので使える事は確かだが、こんなもので群れの一匹と相打ちになるくらいなら、今すぐ自決を試みる方が効率は良さそうだ。


「そんなお困りの貴方に、ひとつ御提案があります」


「提案?」


「言う通りにして頂ければ生存率は上がるかもしれません。いや何、大してお手間は取らせませんとも」


「……」


僕は今いる部屋をもう一度見回してみた。

三方は石壁に囲まれていて、逃げ場がない。

扉は木製で、朽ち始めており、このまま立て籠もるのもどうも都合が悪そうだ。


思わず「はあ」と嘆息する。

丁寧語を操る黒い毛玉が持ちかけてきた「御提案」とやらは明らかに胡散臭かった。裏があるのは確かだろう。


ただハッハッハッと荒く短い息遣いが複数聞こえてきてしまったこの状況で他の選択肢を探すのは困難を極める。刻一刻と死が迫っていた。


「ええっと猫の君」


「使い魔のケットシーです。どうぞお見知り置きを」


黒猫は恭しく頭を垂れ「宜しければシーとお呼び下さい」と宣う。


「それでこの窮地を抜け出すにはどうすればいいんだい?」


「四行程あります。まず契約を交わしましょう」


黒猫はそう言うとすたと跳び下りた。

それから足場にしていた古い書物を尻尾で指した。


「この契約書にそれなりの血を与えるのです」


「ふむ。地下迷宮と喋る猫と契約書。怪しげな場所と怪しげな生き物と胡散臭い代物の組み合わせだね」


いかにもロクデモナイ結末が予想されそうだ。

何よりこんな不衛生な場所にいて、傷口など作ろうものなら、汚らわしい黴菌が入って病気になるかもしれない。


「でも狼たちの餌食になるよりはマシかな。こんな場所で、犬畜生に噛まれるなど大怪我を追えばそれこそ不衛生極まりない。連中は食事の後、歯磨きをしない。狂犬病すらうつりかねないもの……仕方ないか」


袖を捲ると、ペーパーナイフで左手の親指を裂いた。

そして言われるままに赤い雫を題名のない黒っぽい皮表紙の上にぼとぼとと零した。


「血はこれくらいでいい?」


「結構です。これで書は貴方の所有物になりましたアンデルセン様」


黒猫がそう宣言するなり、異変が起きた。


まずは書物の皮表紙に滴った血がすっと飲み込まれるように消えた。

次にぼんやりと輝きながら浮遊し、風もないのにばさばさと頁が乱暴に捲れる。


開かれたのは何もない真っさらな頁だ。

そこにじわと血のように鮮やかな赤のインクが滲み出してくると、文字になった。


《この地下迷宮における権利の一部をーー》

《次の者に委託するーー》

《H.C.アンデルセン》


最後に綴られたのは、


「僕の氏名だ」


「それは契約書であり魔導書グリモアール)でもあります」


「魔導書?」


「時間がないので説明は省きましょう。次は領地化(ドミナント)。この部屋の床に触れ、血を付着させて下さい」


すぐ近くで咆哮が聞こえた。

灰狼だ。扉の隙間から煌々とした双眸が近づいてくるのが見えたので、慌てて閉める。

そして近くに転がった瓦礫を背中で押して塞いでみる。

どん、と扉が激しく揺れた。安普請な事この上なく、すぐに突破されそうではあるが時間稼ぎにはなるはずさ。


「何という事だ。ワイシャツが汚れてしまったじゃないか」


「埃だらけですからねえ」


灰狼たちが体当たりを繰り返している。

どの程度持つのかは分からないが、このままでは時間の問題だ。早く何かしらの処置をしなくてはいけない。必要悪とは言え、部屋を汚すという行為には抵抗があるが止むを得なかった。


「床に血を着けて回ればいいんだね?」


「はい」


大体、ここは土埃が酷過ぎる。

時間的猶予があるならばたっぷりと掃き掃除をした上で雑巾がけをしたかったが、残念ながらその時ではないので諦める。


「できたよ?」


「領地化できてません。指ちゃんと着けました?」


「汚れるから死ぬほど嫌なんだけど?」


「死ぬのとどっちがいいですか?」


「嫌な猫だ」


仕方なく床に触れた。

すると血痕部分が淡く青く輝き始めた。それが波紋のように床全体へと広がっていくとーー僅かに部屋がずずずと揺れる。


「不本意ながら言う通りにしたよ。次はどうするんだい?」


「設営です。最低限の設備と、商品が必要になります。取引台(カウンター)陳列台(ディスプレイ)、それからなんでも良いので『売り物』を発注しましょう」


説明の意味は分からなかった。

ただ手元の書物がまた勝手に動き出すと、白紙の頁を開いてくる。

最上段にまたじんわりと赤色が滲み出し次々と文字を形成する。


《注文の章ーー》

《汝、資金の許す限り所望されたしーー》

《残金10,000G》

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