部隊長と少女
少女は今、走っていた。
あぁ、なんて、なんて…身体が乾いて仕方がない。
熱いようで、燃えているようで、まるで、内側の仕組みが全て書き換えられているような感覚。それからどうにか逃げるように、一心不乱に少女は駆けていた。
焦って見落としてしまったのか、一際太い木の根に足を引っ掛けて、少女は頭から地面に転がった。
地面をゴロゴロと転がって、うつ伏せになるようにして失速する。
倒れてしまった身体。少女はすぐに両腕で身体を支えて、歯を食いしばって何かを耐えた。しかし、その抵抗も最早一瞬で、耐えきれなくなったかのように何かを吐きだす。
それは真っ赤な色をした、少し鉄の匂いのする液体。
目を見開いて、腹を押し込む。
脳に電気が走った。これは、身体の中の何かがちぎれた音。溢れてくるナニカを手で押さえて、頭を振って身体を痙攣させる。
そして襲い来る強烈な衝撃。
周りには何もいないが、まさにその衝撃は少女の意識を決壊させて、身体の意志に従って前屈みになり口を開いた。
その瞬間、内側の全てが流れ出るような感覚が少女を襲い、それを余すことなく吐き出す。
流れ出た物は先ほど出したような液体ではなく、確りと形を持った物。
幾つか血管が浮き出ていて、その中でも特に大きい二本の血管を持っている。宿主から離れたというのに、それはまだ脈動を繰り返し、中の液体をポンプのようにして吐き出す。
__心臓。
少女は驚いた顔をして、自分の胸を摩る。何かが欠損しているような感覚はないし、脈も確かに動いている。
この光景に、少女は言いようのない恐怖を感じた。
まるで、自分がもう後戻りできないところにいるような感覚…。
呆然として座り込む少女の背後から物音が聞こえた。
酷く重たい、生命の踏み込む音。
少女は変わらぬ表情のまま、後ろを振り向く。
そこには少女よりも一回りも二回りも大きい、鹿のような巨大な角を携えた、四足歩行の化け物がいた。
表面を覆う皮もなく、剥き出しになった白い頭蓋骨。
二つある丸い空洞からは、赤い眼球がギョロリと蠢く。それとは対照的に首から下を覆う厚い毛皮は、少女の前に広がる先の見えない道の様に真っ暗で、しかしその道を照らす消えない蝋燭でも表現しているのだろうか、所々にある赤い毛が黒い毛皮によく映える。
牙を杖に、少女はなんとか立ち上がる。
今までなんとか生き残ってきた少女も、この化け物からは、なにか恐ろしい不安が頭を過る。
これぞ今少女のいる世界の、この階の主だった。
◆
サインが光の塔から出ると、空は既に黒に染まり、各部隊の兵士に囲まれた遺体を燃やす炎が、その暗闇を明るく彩っていた。
それによってサインは、光の塔攻略作戦が終わったことを、今やっと気づかされる。
次々と炎へ放り投げられる、人だった者達の亡骸。
悲壮な空気が漂う中、そんな彼等を労わるように、その亡骸を炎へ投げる作業をしている、トワの顔も見ることができた。
「ねぇ、あの時の女の子」
「あ?」
サインが振り向いた先にいたのは、金髪碧眼の若い女。
肩に大きな鉄の筒を抱えて、ニコリと笑ってサインの頭を撫でた。
「勇者様を助けてくれてありがとうね。多分、強い魔物と戦って疲れていたと思うの」
倒れたティーガーを担いできたのは、この金髪の女性、ミリアム。
この可憐な少女の明るい笑みは、今日もまたサインの心を照らした。その笑顔を受けて、サインは何故かバツが悪そうにそっぽを向く。
別にサインは、ティーガーを助けてなどはいないのだ。唯化け物を殺しただけで、昔の自分と何も変わっていない。
それが如何してか、とても恥ずかしいもののように彼女は感じた。
「あ、あー…まぁ、私は何もしてないわよ。勇者を助けたのは彼奴。トワって奴よ」
「え?彼奴って…」
一つ結びにした長い青髪。先日着ていたローブは脱いでしまったのか、今はしなやかな長足にジーンズを纏い、乱雑に白いシャツを着ている。
男とは思えない綺麗な細い体。ミリアムは何かを思い出したのか、その後ろ姿を見て顔を林檎のように紅潮させた。
「あ、ああああの男…」
何か身に覚えがあるのか、手をワナワナと震わせるミリアム。そんな彼女に完全に見覚えがあったサインは、すぐに話をすり替える。
今突っ込まれにでも行ったら、自分の犯行がバレる可能性があったからだ。まぁ、こんな子供に手を出すような短気な女は、そうそうにはいないだろうが。
「ん、そういえばこれ、あの羽根の生えた変な女の討伐祝い。渡しとくわね」
「え、あ、うん。ありがと」
受け取ったのは皮の小包。
ミリアムがそれを振ってみると、チャリンチャリンと、小銭の跳ねるような音がした。
「何よ。少ないわね。あんな死にそうな思いしたってのに、見た感じ銀貨二、三枚ってとこかしら」
小包の開け口を開き、逆さにして内容物を取り出す。
すると出てきたのは、銀色の光を放つ貨幣と、金色の光を放つ貨幣が入っていた。
「え…これって、銀貨と…金貨!?」
「凄いの?」
「とっても凄いわよ!銀貨一枚でも私からしてみれば大金なのに…金貨一枚あれば三ヶ月は生きていけるわ!」
今回の光の塔攻略作戦は、勇者の活躍によって、所謂大成功という状態にあった。
今まで第四部隊の通信技術と、第三部隊…通称回収部隊の諜報力を結集させた特別調査作戦によって、明らかになった光の塔の推定階数、約百階層。
その内人間が肉眼でその内部を測定できた最高階数は二十一階。
そして、その中で完全に階を攻略できたのは未だ一つもなく、一階層でさえ、その謎に満ちた素性は全て明かされていないなかった。
しかし今日遂に、今までの悲願は達成された。
一階層を完全に攻略したのだ。
「なんでも、階主が倒されたから、魔物が出なくなったんだってね。光の塔調べ放題らしいわ」
「え、それは凄いわね…」
そしてこの事実はまた、光塔教の教が本当であることを立証した事でもある。
光塔教の教に、『神域を蹂躙する魔の者共、これを支配する者滅せしとき、天界への道は開かれる』という言葉がある。
つまりこれは、神域を光の塔の階層、魔の者共を魔物、支配する者を階主と考えることができ、階主と思われる怪物を倒した今、その階からは魔物が現れなくなったのだ。
「そうかぁ、だからさっきから第四部隊があんなに張り切ってるのね。全く、中腹なんて真っ赤な嘘じゃないの」
無論、ミリアムの言っている通り、調査は既に中腹まで達しているというリード…第二部隊隊長の言葉は、兵士達を安心させる真っ赤な嘘であった。
確かに、未だ一階の攻略すら満足にできていないと聞けば、兵士達のやる気は一気に急降下するだろう。
なにせ、もう何万年も昔から存在している光の塔に、その計算で行くと全て負け越していることになる。
これだけチャンスがありながら、結果は全て完敗。その成果といえば、精々二十一階まで登ることができたことと、その推定階数が分かったことくらい。
寧ろ、此処の人間は何故そこまで光の塔に拘るのか。
その光に魅せられた者たちの末路は、あまりに無駄死にに近いものだった。
「とはいえ、何にしろ良かったわ。この国は光の塔から取れる貴金属で支えられてるような国だから、これで採取もし易くなっただろうし」
「貴金属…宝石が取れるの?」
「そうよ」
顎に指を添えて貴金属の意味を解読するサイン。それをミリアムは肯定し、光の塔、延いてはこの国の近況を語った。
今回の一件で開城ならぬ開塔となった光の塔は、その以前までは攻略の度に取れる大量の宝石類で攻略の資金を補っていた。
金や銀は勿論の事、ダイヤモンド、ルビー、サファイア、アレクサンドライトなど、あらゆる宝石がとれるこの塔に、調査部隊のみならずこの国までもが支えられてきたのだという。
「これで明日には光の塔の入り口は全く変わっているでしょうね。多分、第四部隊の研究所ができるか、第五部隊の錬金釜が置かれるか。まったく、ミヤコは発展が大好きだから…」
「…あのさぁ」
「え、何?」
特に抑揚の無い声で、サインは頭に浮かんだ疑問を口に出す。
「第四部隊だとか第五部隊だとか名前が出てるけど、第一部隊と第四部隊は何が違うの?」
「うーん…そりゃ、全部違うわよ」
「全部?」
「そう、全部」
トワとは違い、特に楽しむ様子も無く、ミリアムは話を続ける。
「例えば第一部隊の仕事は、光の塔に道を作ることよね?」
「あぁ…確かに」
「その間、第四部隊は何をしてたと思う?」
「さぁ?」
小首を傾げ、一切考えること無くサインは淡白に返事を返す。
第四部隊どころか、第一部隊以外のどの部隊の顔も見ていないサインには、答えることは不可能だった。
パチパチと燃える火葬の炎。それを眺めながら、ミリアムは質問の答えを言う。
「その時、第四部隊は主に光の塔の光量を観測していたわ」
「…ふーん、成る程ね。スピーカーとかの開発からして、第四部隊は技術担当ってことかしら」
「その通り。光の塔にも微妙な光量の変化がある。それを観測して、光の塔を研究していたのよ。なんでも、人が入ってくると光量が増すらしいわ。今回は特に明るかったって」
「第五部隊は?」
「魔術師の集いよ。どんなに深夜でも明るいのが特徴」
サインの瞳が傾き、夜空の向こうを見つめる。
其処には確かに、淡く光り続ける煉瓦造りの建物があった。身体全体を蔦で絡まれ、幻想的な印象を受ける建物。
しかし、それは今のような夜になって見てみると、魔女の家と言われても可笑しくない程、不気味な雰囲気を持っていた。
「そうそう、あれよ。気持ち悪いでしょう?偶に此処の死体を持って帰って、魔術の媒体にしているらしいわ」
「それは嫌ね」
顔を顰めて、一歩下がるサイン。
生き物の死体は時間が経つと腐敗する。サインはそれの放つ激臭を知っていて、反射的に後ずさったのだ。
それを見て、ミリアムはクク、と笑う。多少大人びた言葉遣いをする少女でも、やはりこういうものは怖いのか、と、サインを勘違いしていた。
「まぁ他にも色々あるけど、やっぱり一番有名なのは第二部隊よね。通称護衛部隊。リード様の統率するキュエラ王国の軍隊で、国防と同時に光の塔の調査部隊でもあるのよ」
「あぁあの、うちの部隊長の兄貴のアレ」
「うん?あぁそう言えば、リード様には弟がいたわね。確かロイドって名前で…第一部隊の部隊長」
「そう。見るからに軽そうな奴で、私達新兵の扱いも雑なんだから」
「…あなた、本当に兵士だったのね」
「あら、いってなかったかしら」
「…そう」
そう言って、ミリアムは少し悲しそうな表情を浮かべ、サインの頭に手を置いた。
「…!?」
その突然の行動に驚いたサインは、直様その手を払おうとしたが、その前に背中をゆっくりと引き寄せられ、サインの身体はミリアムの腕の中に収まった。
「…貴方にどんな事情があるかは知らないけど、辛かったらいつでも頼って良いのよ。たとえ何が貴方を押さえつけていても、こんな小さな子が戦う道理なんてないんだから…」
「…」
サインは無表情に、ミリアムの抱擁を受ける。
何時もなら、何か憎まれ口を言って相手を跳ね除けるところだが、しかし、如何してしまったのか、サインはミリアムの身体を跳ね除けることなく、それを受け入れ背に手を回した。
別に、感動しているわけではない。この気遣いが嬉しいわけでもない。そもそも自分は幼くなんてないのだから、余計な気遣いを受ける必要もない。
唯、何故か、サインの手は勝手に動き、無意識にミリアムの身体を求めた。一つ白い息を吐いて、顔をミリアムの胸に埋める。
年頃の女性の、優しい花の匂いがする。サインは更に距離を詰めて、ふと緩やかに目を瞑る。
何処かで受けたことのある感触だ。
この身体が包み込まれる様な暖かみ。相手の体温が少し低めの体温を持つサインの身体を暖かめ、それを彼女は心地良いと感じる。
何時までもこうしていたい…とサインが思った時、ふと、その暖かみは何処かへ消える。
「むっ…」
少し物足りない様子で、サインが目を開くと、目の前にはミリアムの顔があった。
サインの頭を優しく撫で、満面の笑みを浮かべるミリアム。
それに何か不思議な感情を覚えて、サインは慌ててミリアムを突き飛ばした。何故か、頭によく血が回っている。いや、回りくどい表現でなければ、サインの顔は真っ赤になっていた。
「いっ…ご、ごめんね。いきなり抱きついたり…えっと…」
「さ、サイン…」
「え?」
「…サインよ。サイン。私の名前。あんたは?」
「え、わ、私は…」
困惑した表情で、ミリアムは立ち上がる。
しかしサインはその手をとって、少し強めに引いて背丈を合わせた。
「わ、私はミリアム。ミリアム・ハーレット。宜しくね、サインちゃん」
またも、あの輝かしい笑顔で言うミリアム。
それに対してサインは__
「…ふん」
__そっぽを向くことしかできなかった。
◇
ミリアムが去り、トワの所へ行ったサイン。
兵士達の火葬の作業はとうに終わり、死体の処理の専門である第四部隊が仕事をする以外は、皆自分の事に戻っていた。遠くにはミヤコの光が見える。
ミヤコはたとえ深夜であっても、光を失うことはない。それぞ『不夜城』と他国で呼ばれる由来であった。
「あんたこんな寒いのに、なんでそんな薄着で居られるのよ」
「そりゃ、この火が暖かいからね」
即席の火葬場の前に腰掛け、その炎をぼんやりと眺めるトワ。
それを見て、サインは何も言わずトワの隣に腰掛ける。
パチパチ、パチパチと燃える炎。
焼ける木材の匂いが、まるで人間の焼ける匂いの様に感じてトワはふぅと溜息を吐く。
こんなに乱雑に、誰にも祈られることなく消えて行く人間だった物達。
それがトワは信じられなくて、涙の一つも流すことができず、トワは唯炎を眺めていた。
「…なぁ、サイン。君の指で指したあの三人、死んでいたよ」
「そう」
「…何故、死ぬって分かったんだ?私には、検討もつかない」
顔を伏せて、呟くトワ。消え入るような小さな声で、トワは声を出していた。
サインは返答する。
「そんなの、適当よ。分かるわけないじゃない。そんなこと」
「じゃあ何故。君はそんなことが言えた」
「勘よ」
「…人が、死んだんだぞ」
「私が殺したわけじゃないわ」
「…なぜ、助けてやれなかったんだろう」
トワは、握っていた拳を、更に強く握りなおした。
その中からサラサラと流れ落ちる粉。
白っぽいその粉は、燃えて行った死者達の最後の面影であった。
「死んだんだ…死んだんだよ…!朝はあんなに元気だった人達が、動かないんだ!喋らないんだ!笑わないんだ…!それを…君は何とも思わないのか!?」
トワは立ち上がって、仏頂面のサインに叫びをあげた。とても何時も冷静な彼女とは思えない、感情が丸出しになった必死な形相。
しかしこれだけ騒いでも、炎の前で作業を続ける兵士達は何も言わない。
それはこれが何時もの光景で、彼等はそれを見慣れているからであった。トワの他にも、涙を流す者や、大声を出して叫ぶ者、未だ何かの幻想を見ている者がいる。
トワのその行動は、決して一人だけのものではなかった。
「思わないわ。誰が死んだって、何が燃えたって、何も残らないもの。みんな土に戻るだけ」
「なんで君はそうやって割り切ることができるんだ…!?」
トワの質問に、サインは炎から目を離すことなく答える。
「生き物が死ぬのは、もう何度も見てきたから。いや、それよりも、自分が何度も死にそうな目にあったから、もう何も思わなくなった」
「ッ…」
絶句して、言葉を失うトワ。
何か恐ろしいものを見たような顔になって、トワはゆっくりと口を開く。
「一体、君は何者なんだ…」
「…さぁ。私にも分からない」
トワの目が赤く光ったような気がして、サインはトワの方向を向く。
しかしトワはすぐに顔を伏せて、サインと目を合わせようとしない。
「君の、あの有り得ない身体能力はなんだ。どうやってあの女を倒した」
「普通に斬っただけよ」
「そんなことが、君にできるものか」
「できるのよ」
「…」
ガシガシと頭を掻いて、トワはサインに背を向けた。
肩にかけるポーチを開いて、回復薬を取り出す。
「…回復薬だ。一応、飲んでおくと良い」
そう言って、トワはミヤコの街に歩いて行った。
その後ろ姿を眺めながら、サインは回復薬を飲み干す。
回復薬はとても苦かったが、サインは、それを特に気にすることはなかった。もう既に、口の中は苦味で一杯だったからだ。
「…作戦、意外と早く終わったなぁ」
夜空を眺めて、静かに呟く。
◇
小鳥の囀りで目が醒めると、なんとも、サインは清々しい気分になった。
彼女が横になっていたのは、火葬場にあった平たい木材。昨夜長いこと夜空を眺めていたサインは、流れ星が出た時点でぐっすりと寝てしまっていたのだ。
「…はぁ、今日は空が青いわねぇ」
雲ひとつない快晴の青空。サインはそれを少し眺めて、感傷深そうにそう呟いた。
少し、野宿は久しぶりかとサインは思う。今まで兵舎に止まっていたものだから、なんだか懐かしくなってクスリと笑った。とは言っても、二日か三日していなかっただけだから、別段そこまで昔ではないのだが。
「…アリス、か」
あの翼の生えた化け物の言っていた名前。
おそらくその人物を探していたのだろう、しかし彼女は何故サインを見つけて、襲いかかったのだろうか。
サインは腕を組んで、考える。
サイン自身、アリスと言う名前には聞き覚えがあった。しかし、どこで聞いたかはよく覚えていない。それ程昔の記憶で、今はその人物の顔さえも思い出せない。
しかし、サインは、その人物…彼女が自分にとって少し大きな存在であったことは覚えていた。
何時も一緒にいて、一緒に笑って、一緒に遊んで…
サインは、しかしそこまで思い出して、何故かその人物の顔が思い出せないことを不思議に思った。
彼女は、自分にとって家族のような存在であったことは確かだ。彼女の方が自分より少し賢くて、姉のような存在だったことを覚えている。
だが、如何してか、漠然とした思い出しか思い出せないサイン。
まるで記憶に靄が掛かっているようだ。結局、アリスとは誰のことだったのか、サインには思い出せなかった。
「お、新兵の嬢ちゃんじゃねぇか。どうした?」
と、そこで、サインの視界に一人の男が割り込んできた。
ボサボサとした黒い髪に、ほんの少し蓄えられた顎髭。今はタバコを咥えていて、ワイルドな容姿にとても似合っていた。
「…あぁ、あんた、第一部隊の部隊長でしょ」
「そう、嬢ちゃんの所属する部隊の一番偉い人。俺のことはまぁ、隊長と呼んでくれ」
「ん、隊長」
額に掌を当て、ニコリと笑うサイン。しかしその目は笑っておらず、もしトワがここにいるのなら、その様子のおかしさに気づくことができたものだが、残念ながら彼女は此処にはいなかった。
それどころか、もうサインの前に顔を出すこともないかもしれない。だからサインはこんな状態になっているのだ。
「…で、今どうなのよ」
「どう、とは?」
「あれよ。あれ。光の塔攻略したでしょ?一階の雰囲気、だいぶ変わってるんだけど」
光の塔の門は大幅に改造され、今までこれ以上ないほど無骨な作りだった門は、金箔を貼られ黄金に輝き、その前に並木道のように伸びた石柱の道がサインの横まで広がっている。
昨日の夜作業を始めて、今日の朝でこれ程までに作業が進んでいる。この事こそミヤコの力の象徴で、世界一の大都市の技術であった。
「念願の本部の完成だ。光の塔調査部隊総本部…これから出来たばかりのそこで会議が行われる。俺はそれに参加しに来たのさ」
「へぇ。どんなことを話すの?」
「さぁな」
なんとなくそう返されることを予想していたサインは、もう話は終わったとばかりに目を閉じる。
しかし、その目はそれから数秒も経たない内に開かれた。
「うぅん…嬢ちゃん。興味があるならついてくるか?」
「…いいの?」
「まぁ、俺の付き人ってことでなら大丈夫だろう。他の連中も気に入っている仲間を連れてくるだろうし、俺も連れて行かなくちゃならん」
「そんなもんかしら。あの眼鏡の奴は違うの?」
「彼奴は今頃第一部隊本部で事務だよ。全部任せてるからな」
「そんなんで良いのかしら…」
すっ、と立ち上がって、サインは整備されたばかりの道を歩き出す。
研磨の施された大理石が陽の光を反射し、サインの目を微かに焼く。しかしサインは特に気にせず、後ろを振り向いてロイドを呼んだ。
「おや、行くのか嬢ちゃん」
「まぁね。行かなきゃ損でしょ」
「違いない」
黄金の門を開き、中へ入るサイン。
それを見てロイドは、随分力持ちなんだなぁ、と呑気に笑う。
それに対して、側にいた第二部隊の憲兵は仰天する。この巨大な石門は、本来専用の機械を作動させて開く自動開閉式。それをサインは、無理やりこじ開けたのだ。
勿論、サインはそのことに気づいていない。
「おい、憲兵。第一部隊隊長、ロイド・レイドリックだ。本部への入室許可を願う」
「は、は!あの、彼方の方は誰方でしょうか」
「あれは俺の付き人だ」
「…そうですか。分かりました。では」
塔に入った瞬間、ロイドの右肩に魔法陣が浮かび上がり、同じ物がサインにも現れる。
何事かとサインは魔方陣に手を翳すが、魔方陣は消えず、サインが動いても肩の上から離れない。
「それがある間はこの塔から出られないぞ。もし出たら、町中に警報が鳴り響いて、憲兵が追ってくる」
「何でそんなことするのよ」
「防諜のためさ」
ふーん、とサインは頷いて、魔方陣に再度手を振った。魔方陣はサインの手をすり抜けながら、なおも離れずついてくる。それが何だか可愛くて、彼女はほんの少しうっすらと笑った。
と、そんなことをしていると、ロイドはもうサインの前を歩いていて、サインは慌ててそれを追いかける。
扉を開けると、光の塔の一階の雰囲気は、その内装をガラリと変え、明るい煌びやかな物に変化していた。
長い廊下に敷かれた赤色の絨毯。壁に掛けられた高そうな絵画。その他広いエントランスに置かれた数他の骨董品。
ここで昨日本当に戦闘があったのかと、疑ってしまうほどの豪華な内装に、サインは思わず溜息を吐く。
しかし、それでもなお、隠しきれないように僅かに感じる血液の香り。サインは思いっきり顔を顰めて、この豪華な作りとは裏腹の、気持ちの悪い血生臭さに、吐きそうだ、と呟いた。感覚にして、最高級の料理の中に、人の臓器が混じっているのを目の当たりにしたような感覚。
しかしそれに気付けているのは、ごく僅かの者だけだった。
「よう、兄貴。来てやったぜ」
「兄貴ではない。早く円卓に座れ」
短い兄弟の会話を済ませ、第一部隊と書かれた椅子に腰掛けるロイド。その隣には既にサインが座っており、その行動力の高さにロイドは思わず苦笑いをした。
「久しぶりではないか、ロイド」
「ん…おぉ、ベールちゃん。久しぶりだな、五年ぶりか?」
「それくらいだな、あと儂は貴様より年上じゃ。礼儀をわきまえい」
横目にロイドを見やるサイン。
ロイドは椅子ごと身体を後ろに向けている。その前に立っていたのは、サインと同じくらいか、それより低いか程度の身長をした、長い金髪の少女。
名をベール・アルセーヌ。
第五部隊、通称魔法部隊を率いる最強の魔術師として名を馳せている、年齢不詳の怪物だった。
不思議な喋り方をするなぁ、と思っていると、サインの視線に感づいたのか、ベールはサインに目を移す。
「なんだ御主は。ロイドの隠し子か?」
「違うさ。此奴は俺の付き人。見た目に反して結構強い」
「ふぅん。まぁ、儂のカタリナには敵わんじゃろ」
まるで自分のことのように、誇らしく従者を語るベール。
おそらく、彼女のことを指しているのだろう。ベールの横には、今まで一度も声を発していない、漆黒の鎧を身に纏った少女が立っていた。
深い緑の色をした、少し目にかかっている程度に切り揃えられたおかっぱの髪。背中に背負う無骨な大剣。そして、鎧があっても隠しきれない、女性の華奢な骨格に反する引き締まった筋肉が、彼女の優秀さを物語っていた。
「ほら、挨拶せいカタリナ」
「…カタリナ・メイビーです。宜しく」
「おう。宜しく。カタリナちゃん」
人懐っこい笑みを浮かべて、右手をあげて返事をするロイド。そして空いた方の腕でサインを突いて、彼女を此方に振り向かせた。
「ほら、お前も挨拶しな」
「サインよ。仲良くしましょう」
椅子から立ち上がって、カタリナの手を掴んで強引に握手するサイン。
振りほどこうとカタリナは手に力を入れるが、サインの更に強力な腕力に、ねじ伏せられ、カタリナは驚愕する。
この小さな体の何処にそんな力が詰まっているのか。
カタリナは思わず力を抜く。するとサインも力を抜いて、その両手を優しく包み込んだ。
「あんた、ちゃんと私見えてんの?」
包み込んだ両手を強く引いて、低くなったカタリナの頭を両手で掴む。
そしてカタリナの前髪をあげて顔を全力で近づけた。
「っ!?」
何かの癖かどうなのか、カタリナは無意識にサインに足払いをかけ、戦闘体制に入る。
サインは足払いを難なく避け、今度はカタリナの右手を掴んで、同様に強く引っ張った。
それに対抗することなく、カタリナはサインの身体に近づく。そして距離が十分に近づいた時、カタリナの強烈な膝が、サインの腹を襲った。
サインはそれを手で受け止め、受け流して背後に回る。そして更に左手を引っ張って、サインの力に身体が回転し、カタリナの身体はサインの正面に戻った。
「暴れないでよ。ちょっと、顔をよく見ようと思っただけなのに」
サインの見たカタリナの容姿は、筋肉質な身体に比べて、少女らしさの残った可愛らしい顔をしていた。小さな唇に少し鋭いが睫毛の長い大きな瞳。誰がどう見たって、美少女そのものであった。
「…このような場で暴れてしまい、申し訳ございませんベール様」
カタリナな体制を立て直して、ベールに向かって頭を下げる。
しかしベールは首を傾げて、カタリナの顔を上げさせた。
「…何をしていたのじゃ?すまん見ていなかった」
「いえ、なんでもありません」
少し唖然とした表情で、尚且つ呆れるように自分の主人を見るカタリナ。ベールはその表情にまた首を傾げ、まぁ良いか、と言ってカタリナから目を離した。
「それより、ヘルの奴はもう来たのか?」
「んにゃ、まだ来てないだろう。彼奴はいい加減な奴だから…」
そう言って、ロイドは二、三度辺りを見渡す。
すると右後ろを見た時点で少し止まって、口角を上げてベールに向き直った。
「来てるぞ、ヘル。何のつもりかは知らないが、時間通りに来るなんて彼奴らしくもない」
「ほお、そうか。何処にいる?」
「ほら、もう席についてるぜ」
ロイドが指を指した方向にいたのは、円卓にうつ伏せになって寝ている酷い癖毛の青年。
身長はやや低めだろうか、線の細い身体に、見窄らしいシャツと長ズボン。その寝顔は何処か猫を彷彿とさせて、可愛らしい印象を持っていた。
「ほら、起きんか、ヘル」
「うっ…」
トテトテと近づいたベールが、青年…ヘルの頭をパシリと叩いて、強引に夢の世界から引き摺り出す。
その攻撃にヘルは無意識に小さく呻いて、未だ夢に未練があるように眉をひそめる。
しかしそれから何度か叩かれて、やっと彼は目を開いた。
「あぁぁぁあ…ベールちゃん。頭を叩くのはやめてくれぃ」
「ベールさんと呼ばんか」
やっと上げた顔を引っ叩いて、ベールは彼にトドメを刺す。
パァンという軽快な音と共に、ヘルの身体は椅子からずり落ちる。そして地面に当たる手前でやっと完全に覚醒し、頭を掻いて立ち上がった。
「…ふわぁ、久しぶり、ベールさん。もう会議は始まってるかな?」
「まだだ。というか、貴様を待っておった」
「ふぅん、そうかい。…あれ、ライオニックはどうしたの」
「奴はまだ光の塔の研究中じゃ」
「なるほど」
納得した様子で、ヘルはうんと頷く。
第三部隊隊長、ヘル・メリクリウス。
飄々とした態度と、少年のような可愛らしい顔立ち。それに似つかわぬ強力な体術を持った、第三部隊でも指折りの切れ者である。
「でも、他の面々はもう揃ってるみたいだね」
「あぁ。どうせ、ライオニックは来ないだろうから、もう始めちまおうぜ」
円卓を囲む、十二の椅子。
第一部隊から時計回りに、第二部隊、第三部隊と椅子は続く。
サインは目を細め、椅子に座る者達を眺める。皆、それぞれの分野を極めた、底知れない強者達。
「それでは、これより、第一回光の塔調査部隊本会議をはじめる」
第二部隊隊長の礼。
ここに、調査部隊の会議は始まった。