勇者と少女
一ヶ月が経った。いや、厳密には少し違うのかもしれないが、あまり大差ないであろう時間が、少女は経っているだろうと感じた。
化け物の肉を食った時以来、少女は水以外の何物も口にしていない。が、別に何もしないで食を諦めていたわけでは無い。来る日も来る日も食べられる物を探し続け、必死に日々を生き抜いてきた。だが、それでも、決して食べ物と呼べるような物は見つからない。そして、少女の口にできる物は、この建物には結果として『無い』と言う結論に落ち着いた。
口に入る物ならなんだって試した。虫も食ったし、木片も口にした。挙げ句の果てには石ころを食べると言う暴挙までやった。
しかし、やはり少女の食べられる物は存在しない。もともとあった体力はどんどん窶れて行って、体もまるで骨のように痩せ細ってしまった。
そして今、建物の中をどこまでも続く道の真ん中に、少女は一人倒れこんでいる。空腹によって、少女の肉体は遂に活動限界に達し、もう歩くこともままならない状態だ。頭は働かないし、手足の感覚も無い。ただ機能しているのは異常に敏感になった五感のみ。目は血走り、周りの音がどこまでも聞こえる。まさに極限の境地。すぐ隣に死が待っている少女には、世界が全く違う物に見えた。空気の流れすら読み取れてしまう、凄まじいまでの集中力。
ふと、暗闇が支配する道の先に、小さな物音が聞こえた。その物音はどんどん大きくなって行き、しだいに少女は、その物音が化け物が歩く音だと言うことに気づいた。
少女は上体を起こすこと無く、その音がやってくるのを待ち続ける。やがて、少女のすぐ目の前で、その音は途絶えた。目を傾け、そこにいる物を見上げる少女。そこにいたのは、少女が最初に食べようとした兎の様な化け物だった。
赤い瞳で、少女を見下ろす化け物。満身創痍の少女を殺そうと、足を踏み出した瞬間、その化け物の足は、横一線に薙ぎ払われた。低い呻き声を上げ、その場に倒れこむ化け物。そこに追い打ちをかけるように、化け物の脳天に鋭い牙が突き刺さった。そこから何度も化け物は突き刺され、やがて化け物は絶命した。おびただしい量の血が少女に噴き出し、その日の当たっていない白い肌を血で染める。ふらりと少女は死骸に近づき、穴だらけになった化け物を見つめる。そして少女は牙を突然投げ出して、化け物の腹にかぶりついた。
不気味な咀嚼音と共に、その肉を貪る様に齧る少女。そこに味と言う概念は無く、ただ空腹を満たすための捕食でしかない。
少女は何も言わず、その肉を喰い続ける。腕を齧り、足を潰して、頭を砕く。血を飲んで、内臓を食らい尽くした。
やがて少女は立ち上がり、牙を掴んで歩いて行く。ゆっくりと、ゆっくりと道を進み、やがてその姿は見えなくなった。
◆
人間共の阿鼻叫喚と、魑魅魍魎の雄叫び。
ミリアムの目に映るその世界は、まさに『地獄』と呼ぶに相応しいものだった。
「ぐ…なんだってこんな…!」
今やミリアム以外の調査隊員は全員死に、第一部隊の調査隊は、彼女を残して壊滅状態にあった。
それどころか肝心の第一部隊さえも一部のベテランを残してほぼ全滅し、現状は魔物の優勢。これ迄で確認された、二十階から上を確認するのは困難にあった。
「最初のあれが拙かったわね…」
第一部隊の新兵が突入したあの瞬間、突入の際、敵が何か罠を仕掛けてくるのはいつも通りのことだ。しかし、今回はその規模が違った。
第一部隊の特攻は、実はあまり愚策ではない。寧ろよく考えられていて、被害を最小限に止める作戦だった。光の塔の入り口付近には、小さな魔物が大勢集まっていることが多々ある。それは足りない脳で考えた魔物なりの奇襲で、それなりに作戦を考えられる知能を持った魔物がいることの証明だった。そしてそれを一掃するのが、第一部隊の役目。消耗しても一番被害が少ないのが、まさに第一部隊だった。
しかし、今回はいつもとは違っていた。第一部隊が光の塔に妙な薄ら寒さを感じ、様子を見るため立ち止まったところ、入り口付近で謎の大爆発が起こったのだ。
明らかにこれまでの魔物の攻撃とは一線を画する攻撃力に、すぐに戦況は大混乱。
新兵が逃げ出すという大事に至り、急な撤退を余儀無くされることとなった。
しかし、本来撤退で終わる筈だったこの作戦がここまで被害を拡大させたのには、これが理由ではない。問題はこの大爆発を起こした張本人。彼等の頭上に浮かんでいる白い翼を生やした、白い甲冑姿の金色の女。今までの攻略作戦では登場しなかったあの謎の女性が、光の塔調査隊に猛威を奮っているからであった。
『奴は何処だ…奴は何処だ…』
意味不明だ台詞を呟きながら、彼女は右手に持つ光の剣で兵達を薙ぎ払っていく。
その姿はさながら伝承に残る勇者の守護霊、戦乙女ヴァルキリアによく似ていて、ミリアムはその美しく神々しい甲冑姿の女騎士に、底知れぬ恐怖と畏怖の念を抱いていた。
守護霊は勇者の使い魔だ。それぞれ勇者によって強さも賢さもまちまちだし、物語では活躍しない小さな守護霊も存在する。しかしヴァルキリアは違った。1100年前、大魔リリサスを滅ぼした聖音の勇者レプトンは、リリサスとの数年にも及ぶ激闘の末、最後の一撃を守護霊であるヴァルキリアに託したという伝説がある。リリサスとの激闘で消耗したレプトンは、その想いをヴァルキリアに託して生き絶え、ヴァルキリアはその想いに答えたのだ。その後のヴァルキリアがどうなったかは語られていないが、主人の後を追ったという説が現時点では濃厚であるとされている。
例えあの女性が本物のヴァルキリアではなかろうとも、この伝承は多くの者が知っている筈だ。無論、ならず者であっても、貧乏人であってもそれは変わらない。その影響力は計り知れないものがあるだろう。あの圧倒的な力の強大さと、底冷えするほどの美しさ。
第一部隊の侵攻を惑わしているのは、間違いなく彼女であった。
「ひぃい!!勇者様ぁ…助けてくれぇ!」
「いっ!?」
新兵の一人がミリアムの肩にぶつかり、ミリアムは少し吹き飛ばされる。
尻餅をつき、痛む下半身に目を向けるミリアム。そんな彼女を戒めるように、巨大な光の柱が彼女の横を通り過ぎた。
ミリアムが驚いてその着弾点見た頃には、先程の新兵は既に大半の臓器を持って行かれた後。
「うっぷ…!」
堪らず口を押さえ込み、流れてくる胃液を押し戻すミリアム。
輝く戦乙女の下、その下を這いずる亡者達。そんな混沌とした世界の中、ミリアムは唯ひたすら逃げ惑い、助けを求めて叫んでいた。
調査隊に配られる最新式の銃は、その力を発揮できぬままミリアムの手から落ち、頼れる調査隊の隊長ももういない。
おそらくこれまでのミリアムの人生の内、最大にして最悪のこの状況。
血の匂いと叫び声で五感は麻痺し、気付かぬうちにできていた生傷が身体を蝕む。
「…あ、あれは」
ミリアムはふと足を止め、血に滲む視界を拭った。
その光景はまさに、地獄に降りた一筋の蜘蛛の糸。
彼女の目の前にいるのは小柄な少年。
黄金の剣とは裏腹に、その髪は夜空のように黒く、中性的な容姿は、まるで気の強い猫を思わせるよう。
名をティーガー・ヘルキャットいう少年は、今代勇者と呼ばれる者だった。
ティーガーは襲い来る魔物の攻撃を避けながら、的確に首を裂いてゆく。
リザードもスライムも、身体の大きいベヒモスでさえ、彼の前には塵に等しい。
彼が手を振るうだけで、魔物は消え去ってしまうのだ。
「敵が多すぎるな…本元を叩かなければ意味はない…か」
黄金の剣に光を纏わせ、猫のように跳躍するティーガー。
戦乙女の上を取り、その剣を振りかざした。
『貴様か…?いや、違う…』
「うおおおおおお!!」
ティーガーの剣は戦乙女に難なく受け止められ、その身体は塔の隅へ吹き飛ばされる。
すると彼は身体を捻って壁に着地、剣を横薙ぎに払って、衝撃波のようなものを飛ばした。
その衝撃波は勢いを殺すことなく戦乙女に迫り、その甲冑に傷をつける。
『ぐっ…ふむ、良いだろう。前座として、貴様を殺してやる』
翼をはためかせ肉薄する戦乙女。
ここに、勇者と戦乙女の戦いが開始された。
◇
…ふん、弱い弱い。これじゃあ骸骨にも及ばないわね。こんな軍隊を呼ぶようなもんだからどんな敵かと思ったけれど、軽く騙された気分だわ。
無骨な剣を片手に握って、魔物を両断していく少女。
その太刀筋は最早彼等には捉えることができず、風の流れる音と共に、首は撥ね、胴は裂け、四肢は一瞬にして消え去った。
少女の前に立ち塞がる弓を持った小鬼達。総勢三十体にも及ぶ化け物の攻撃が、一斉に少女を襲った。
しかし彼女が地面を踏み込んだかと思うと、その地面には罅が広がり、一枚の板となって彼女を覆い、全ての弓矢をその身で受けた。
安直安直。数撃ちゃ当たるってか。それは無抵抗の者に対して使う言葉なのよ。
板を振り上げ、遠心力を加えて投げとばす少女。
それだけで小鬼の群れは見事に吹き飛び、その辺りを更地に変えた。
「だ、大丈夫かサイン!いま其処に魔物の群れが行ったぞ!!」
「大丈夫よ。こっちはあんたの方が心配だわ」
槍を抱え、慌てて走ってくるトワ。
その姿にサインは呆れ、溜息を吐いて剣をしまった。
「いま勇者様があの女の足止めをしてくださっている!作戦は中止だ!早く撤退するぞ!」
「はぁ?」
高い天井を眺めてみると、其処には並び立つ柱を器用に使い動き回っているティーガーと、それを追いかける翼の生えた女性を見ることができた。
見るに、ティーガーの体力はもう底をついているようで、息も絶え絶え、若いオーラは完全に弱まり、微弱な光を放っていた。
「…あのままじゃ彼奴負けるわね。加勢しなくちゃ」
「な、大丈夫だサイン!勇者は簡単に負けるような者達ではない!」
「無理よ。彼奴は『まだ』勇者じゃない。あんなんじゃ勝てるわけがない」
「君はまだ子供だから…」
トワがそう言いかけた瞬間、トワの手に握られていた槍は忽然と消えた。
混乱するトワの視界に映るのは、自分の背丈よりも長い槍を振り上げている少女の姿。
「お、おい!それをどうする気…」
「せぇい!!」
掛け声と共に、槍は投げられ、その矛先は一直線に女に飛んで行き、美しい白い翼を撃ち落とす。
口を大きく開け驚愕するトワ。
ここから女まではとても距離があったし、その心得がある者がやっても当たるかどうか、という瀬戸際で、この少女は見事に女に槍を突き刺したのだ。
それも、固い鎧ではなく、柔らかい翼をわざわざ狙って。
『ガッ!?』
翼を折られた女は当然撃ち落とされ、地面に危なげに着地する。咄嗟に剣を杖に身体を支えるが、すぐにサインを睨みつけて、そして目を丸くした。
『見つけたぞ…貴様かぁ!!』
口を釣り上げて、獲物を見つけた肉食獣のように笑う女。近くから見ると相当長い長剣を片手で翻し、サインに吠えて突貫した。
瞬息の突きがサインを襲う。ティーガーと戦っていた時より何倍も速いその剣先が、少女の喉元を容赦なく襲った。
しかし…
「…なにそれ」
その剣先は、届かない。
『なっ!?』
甲高い金属音と共に宙を舞う長剣。
その勢いで吹き飛ばされた女は、地面を何度か転がって、労わるように腕を押さえた。
女の手は震えていた。長剣を弾かれる際の威力は凄まじく、彼女は黙って振動の残る手を抑えることしかできない。
何が起こったのだ、と、頭を混乱させる女。翼を折られ、剣を取り上げられ、戦うことができなくなった戦乙女にとって、この状況は初めてのことだった。
『貴様ァ…アリスを知っているだろう……何処にいるんだ…何処に…』
瞬間、女の首は跳ね飛ぶ。
頭部はゴロゴロと転がって、身体は力無く倒れついた。
淡い光が発生し、女の亡骸を包み込む。繭のように全身を駆け巡って、やがて消えて無くなった。
「…サイン、君は…」
「おい、勇者」
耐えきれなくなったかのように紡ぎだしたトワの声を、サインは無惨に搔き消した。
彼女の目の前にいるのは黒髪の勇者。
今代勇者であるはずの彼は、本来『紋章』があるべきところを隠しながら、地面にへたりと座り込んだ。
「どういうことだ…勇者の胸に、紋章がない…?」
歴代勇者達の胸部のやや上に存在するとされる、勇者の紋章。勇者によって色や形は様々で、それでも毎度決まって胸の上に現れる勇者の証明。
それが彼には、いや、『彼女』には無かった。
「あんた、誰よ」
「…いつから」
「まぁ、切り詰めて言うなら、最初からね。確信したのはすぐ前だけど」
ティーガーの軽装は鎧諸共縦に割かれ、そこから小振りではあるが女性特有の膨らみがあることが確認できた。それを踏まえて見てみると、トワにはもうどう見たって目の前の勇者が唯の女の子にしか見えず、混乱して、息を吐いた。今まで頼りにしていた心の支えが、勇者ではない唯の女子だったのだ。今までの威勢が吹き飛んでしまって、トワは背筋に冷たいものを感じた。
サインは一歩詰め寄って、ティーガーの首に剣先を立てる。ティーガーはその目を鋭く光らせながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「不思議に思っていたの。あんた、勇者とか言われる奴にしては、少し弱すぎる。あの変な奴にも遅れをとるし、何よりまず力が弱い。女の子みたいにね」
何もかも見透かしたような瞳に見つめられ、ティーガーは観念したように溜息を吐く。
「…確かに、私は女だ。男性のように見られようと、服装を工夫していたのも故意だって認めるよ」
「なんでそんなことしたの?」
「兵士を安心させるためだよ。私はもう十五歳で、勇者の年齢としてはもう立派な大人だ……だけど、未だ紋章は現れない」
サインの槍がやったのか、それともあの女がやったのか、ティーガーは自分の破れた服をそこらへ脱ぎ捨て、上半身を露わにさせた。
人形のように白い肌と、それに反するように黒い髪と瞳。トワはその姿に僅かに興奮を覚えたが、やはりあるべきものがない胸には、どうしても視線が向いてしまう。
辛うじて分かるほどの小さな膨らみとその頂点にある桜色の蕾。その上はやはり真っ白で、紋章なんて物はない。
「そんな私が女だって知ったら、さらに士気を下げるだろう?だから私は男装して、厳格に振る舞ったんだ」
「…いや、男装させたのは第一部隊の男共に襲われないためだろう。そうに違いない」
「…そうかな」
ティーガーの白い肌を見つめながら、トワは静かにそう呟く。そのトワの瞳があまりに鋭かったから、ティーガーは何も言い返せなかった。
暫しの間静寂に包まれる塔。
他の兵士は全員逃げ出していて、今残っているのは魔物の残骸だけだ。そんな血肉の中心に、サイン達は座っている。彼女達の話し声が塔に響く。表面とは打って変わり薄暗い塔の中。壁の隙間から光が漏れているような、そんな内装をしていた。
気を取り直し、ティーガーは話を続ける。
「…勇者として覚醒しない私に対して、国王は私に命令を出した。もうすぐ光の塔の攻略の日であったから、焦っていたんだろう」
「第一部隊に加勢しろ、と?」
「そう」
少し悲しみの籠った表情で、ティーガーは苦笑いをした。勇者にまだ成れていなかった彼女にとって、第一部隊への加入はとても恐ろしいものだったのだろう。勇者は紋章がなければ、勇者としての神からの恩恵を受けることができない。それはつまり紋章が出るまで勇者は唯の人間ということで、無論、ティーガーも例外ではない。
「光の塔攻略のため、私は命を賭けたんだ。だけどこんな女の子に言われてしまったら、私も面目まるつぶれだね」
「…そーね」
ティーガーの女の子という言葉に青筋を立てるサイン。トワはそれには深く触れず、冷や汗を流して腕を組んだ。しかし、何か引っかかるものがある。ティーガーの言い方だと、その国王の考えは実に第一部隊の考えに近い。士気を上げるためだけにまだ不完全な勇者という存在を使い、そこに戦果は求めていないような奇妙な口振り。
そこまで考えて、やっとトワは違和感に気付く。そう、まるで使い捨てにするような人材の使い方。貴重な勇者を第一部隊という最も危険な場所へと放り込み、挙句肝心の勇者はまだ勇者として不完全という体たらく。
トワは完全に理解した。国王の考えとティーガーの正体。勇者という存在に呑まれた、幼き少女に向けたトワの推測は、あまりに悲惨で残酷なものだった。
「…勇者様、いやティーガーくん。君は、極星大祭というのを知っているね?光塔教主催の祭事で、十年に一度訪れるあれ…今年は丁度百年目だった」
突然の問いかけに、驚きながらも返答をするティーガー。それにトワはうんと頷き、そうか、と一言言った。
「あれは最後の催し物に、剣闘大会というのがあるんだ。百年に一度特に大きな武道会が行われ、それ以外の年はただの腕試し…今年は百年目だから、大会で今代の勇者を決めた筈だ。君は、それに優勝したよね」
「…はい」
「やはりか…」
もう既に何度目かの溜息を吐いて、トワは額に手を当てる。心底恨めしそうな細やかな態度。サインはそれをすぐに見抜いて、さらにその態度がミヤコで光塔教を見たときの彼女に似ていることも看破した。
ティーガーの目を見て、何かを探しているトワの瞳。鼻と口を手で覆って、表情を全てひた隠す。
「…実はね、あの大会の勇者選抜は完全じゃないんだ。神でもないものが勇者を選ぶなんて無理な話だから、当然といえば当然だけど」
目を伏せて、口を開くトワ。
目を開けてしまえばティーガーの顔が見えるからと、仕方なくやったことだった。
「君、ミラ・エイリークに勝っただろう。勇者候補だった、彼女に」
「…まさか」
「多分、そのまさかだろう。本当に勇者になるべきだったのは、君じゃなくて、彼女だったんだ」
苦々しく、トワは吐き捨てた。
ティーガーの顔は見えないが、見る気にもならなかった。
君は最初から勇者になんかなれなかった。つまり、トワはそう言っていっているのだ。
「そんな…じゃあ私は何のために…」
「勇者として覚醒していなかった当初は、まだ力が不安定だったんだろう。君は何故か常人の力で、勇者の卵に勝ってしまった。普通の人間が勇者の皮を被ったんだ」
今にも泣き出してしまいそうなティーガーの声。
それにトワは胸が締め付けられ、今すぐ逃げてしまいたいところだった。
しかし、そうもいかない。
「勇者は一度決定したら、後から変えることはできないんだ。例えそれが本当の勇者じゃなくても、神はそれを勇者として決定する。正確には、神が、じゃなくて、光塔教が、だが」
「…それが、どうしたんですか」
「勇者として決定されると、光魔法を操れるようになるだろう?光塔教からの恩恵で、紋章とはまた違う勇者の力だ。そしてそれは、複数は与えられない。つまり、君に与えたのが全て、というわけだ。しかし、君は勇者じゃなかった」
一つ間をおいて、話し辛そうにトワは俯向く。
「おそらく、国王は君が今代の勇者じゃないと知っていたんだろう。何時まで経っても現れない紋章。それが証拠。なら、国王は当然、本当の勇者が欲しくなる」
ティーガーの息を飲む音が聞こえる。
それはティーガーの人間としての価値を示すようで、酷く辛いものだった。
「勇者の恩恵はね、一つだけ、取り返す方法があるんだ。それは勇者が死んでしまうこと、ひいては殺してしまうこと…」
勇者達が受け継いできた、光の勇者の恩恵。今ティーガーのなかにあるものは、まさにそれらの全てだった。
勇者達のサイクルは続き、先代が死ぬと引き継がれ、次代が先代となってまたそれを引き継ぐ。
百年毎の魂の引き継ぎ。数多い勇者達を繋げているのが、光の魔法の力であった。
「…あわよくば、国王は君を第一部隊で戦死させようとしたんだろう。だから不完全な君を第一部隊に入れ、戦わせたんだ」
「……辻褄が合います」
「…すまない。勇者に入れ違いがあったから、君はこんな不幸に巻き込まれて」
「な、なんで貴方が謝るんですか。顔をあげてください。束の間でも、私は勇者になれたからお金ももらえたし、妹も養えていけた…」
今にも泣き出してしまいそうなティーガーの顔。
表面張力一杯に溜まった涙が落ちる時、地面に何かが突き刺さった。
彼女の目の前に立っているのは、白髪の少女。小汚い長いローブと、布のズボンが目に見えた。
「はぁ、おい、勇者。取ってきてやったぞ」
「…は?」
「戦利品だ。これ持って行って、あんたが倒したことにしろよ。あの女を」
そこにあったのは白銀の長剣。
その剣は紛れもなく消え去った戦乙女が持っていたもので、討ち取ったと言える証拠としては十分すぎるものだった。
「う、受け取れないよ。あの女を倒したのは君だし、私は勇者でもない…」
悲痛な趣で頭を下げるティーガー。
その姿にもう先程の勇者としての力強さはなく、一人の小柄な少女のよう。
だが、そんなティーガーを白髪の少女…サインは強引に押し退ける。
「あんたは勇者よ。当然じゃない」
「私が勇者になれたのはまぐれだよ。偶々、運良く勝てただけなんだ」
「でも勇者候補に勝てたんでしょ。まぐれでもなんでも、勝ちは勝ちよ」
「本当に勇者に成るべきだったのは、私じゃなくてミラちゃんなんだ…私には紋章も現れないし、あの女にも勝てなかった…」
「おいティーガー」
「…え」
ティーガーが目線を上にあげた先にいたのは、若干拗ねたような表情のサイン。目を細くして睨みつけて、小さな口を尖らせている。
「なんで自分が勇者じゃないって決めつけてんだよ。紋章が出るタイミングには個人差があるんでしょ?遅いのは判断材料にならないわよ」
「いや、でも…」
「あんた化け物殺しまくってたでしょ。あんなの第一部隊の兵士にはできないことよ。変な女とも良い勝負してたようだし、十分じゃない」
「あれは光魔法が使えたからで…」
ティーガーがサインの言葉に反論しようとした時、トワがそれを遮った。
「……ん?え、君はもう光魔法が使えるのかい?」
「は、はい…近接訓練ばかりだったので…影で練習を」
それを聞いた時のトワの笑顔ときたら、サインは目を丸くせざるおえなかった。
まるで太陽のような満面の笑み。
幼い子供でもできるかどうかと言った彼女の微笑みに、サインは思わず後ずさりをした。
「あ、あっ、ハハ…あははははは!!」
「ど、どうしたんですか!」
「はははははは!ひー…ふっ、あ、あっ、あははははははははははははは!」
狂ったように笑い出すトワ。
ティーガーはその突然の行動に驚き、彼女の頭を心配した。
だが、それもすぐに覆される。トワは今やっと、本当の真実に辿り着いたのだ。
「いいかい!?光魔法は未熟な勇者では使えないんだ!紋章が出始めてやっと魔力が通るようになって、数年練習して漸く実戦で操れるようになる!」
「え、えっと…」
「そうか!思い出したぞ!つまり、君はやっぱり勇者の素質があるんだよ!それも魔法特化の勇者だ!前例はあるぞ!風の勇者リーリー、爆雷の勇者ハルトマン、千枚刃の勇者シーラ…」
並べられていく伝説の勇者達に、ティーガーは目を回す。エイドス、ヤクモ、ネイチャー、シン…
そうしてティーガーの頭がとうとう処理に追いつかなくなった時、その頭は何かに掴まれた。両頬に柔らかい手の感触がして、ティーガーは反射的に目を開く。
ティーガーの目に入ってきたのは、視界いっぱいのトワの顔。一見男性に見間違えてしまいそうな容姿は、近くから見ることによって実は彼女は女性だと思い知らされる。
長い睫毛に瑞のある唇。青い髪が光を乱反射させて、彼女を鮮やかに彩った。
「そうか、やっぱり君は勇者か!いや、さっきは見間違えたみたいだ…すまなかったね」
「え、あ、はい…えっと…?」
「そういえば今年は勇者候補が二人いたことを忘れていたよ。一人は剣の使い手で、もう一人は魔法の使い手…君だ」
「別に…私はそんなこと言われて…」
「そりゃ君がわかるわけないさ。なんたって魔法は、あの大会じゃあまり注目されないからね。あの大会で優勝するのは、毎回剣の使い手か、見たこともない武器を持っている選手だから、魔法はあまり目につかないんだ」
「え、じゃあ誰がそんな」
そんな候補を挙げたんですか、と言おうとした瞬間、トワは満面の笑みで言った。
「私だよ!」
「は?」
突然立ち上がるトワ。
右拳を天井に上げて、大声で演説を始めた。
「もう一人の候補の話をしていたのは、私だったんだ!実は、私は勇者がして大好きでね。何時も勇者を調べては、自分の知識欲を満たしていた…そして今年は念願の剣闘大会の日!私の生涯でおそらくこの一回きりであろうこの大会を、私は心待ちにしていた。テンポよく楽しむために、一ヶ月前から体調を整え、お金を貯め、出場者のリストを読み漁った…そして、私は二人の優勝候補をあげたんだ!それがミラ・エイリーク、そして君だ!!」
「ど、どうも…」
「名前も顔も分からないからね、リストは自分で作ったんだ。実は数年前から優勝者の予想をしていてね、あれを作るのは大変だった……そして、遂にそれは完成した!今持っている!!」
「えっ!?」
「見ろ!この写真と名前が空白の欄だ。君は最後の最後で出場者に入るからね…全部出揃ったと思った私は、かなり焦ったものだよ。しかし終ぞ君の素性は分からなかった。だからこの欄は空白なんだ。そこで私は考えた、
分からなかったら、当日直接見てやろうと思ったんだ」
「でも、なんで私が出場することが分かったんですか?戦い方の説明も書いてます。剣と魔法を混ぜ合わせた戦い方…そう書いてますけど」
その質問に、トワの表情が変わる。
「い、いや、これは、その、独自ルートでね」
「はぁ、独自ルートですか」
珍しく狼狽するトワに、ティーガーはあまり考えることなくその言葉をあっさり信じた。
勇者についてはあまり関心が無いのだろう、ティーガーは独自ルートという言葉にあまり聞き覚えがなかった。
「でも、なんで私とミラちゃ…いや、ミラさんが勇者に成るって確信できるんですか?他の人の可能性だってあるでしょう」
「え、っと、それは、その、ほら、えっと…独自ルートだよ!」
「はぁ」
怪しさ前回のトワのその返事も、ティーガーはあっさり信じる。
サインは彼女の背中を見て、やはり彼女は勇者ではないかもしれない、と疑い始めた。サインの中の勇者のイメージが脆くも崩れ去ったのだ。
「とにかく!君はやはり勇者だったんだ!紋章も近いうちに出るだろう。お祈りしてあげよう」
手を二度鳴らして、合わせて額に当てるトワ。その動作をサインは、確かにどこかで見たことがあった。しかし、その動作もすぐに終わり、サインの疑問も四散する。
「神にお祈りをしたよ。近いうちにティーガーくんに紋章が現れますようにってね」
「は、はい。ありがとうございます?」
聖職者の方なのかな?と一言呟いて、ティーガーは自分の目の前に刺さっている長剣を見上げる。そして立ち上がったティーガーは、それを引き抜いて見つめた。
「綺麗な剣…」
見た瞬間、ティーガーはやっと一連の話を理解した。
自分は勇者の紛い物ではなく、本当の勇者の素質があるということ。
涙腺が決壊する。
両目から涙が溢れ、ティーガーは涙を止めることができなかった。長剣を抱いて、嗚咽を漏らし泣き続けた。
胸の奥がジンジンと痛い。
焼けるような熱と、その奥から溢れ出るような光。
「あ!勇者様!見つけましたよ!!」
何処かで聞いたことがあるような、高い女性特有の声。
それを聞いてティーガーは、倒れるように眠りについた。
とんでもない誤字を発見。
すぐに修正しました。