第一話 掃除屋クロセ
『人に痛みを与えたものは同じ痛みを持って償わなければならない。人に悲しみを与えたものは同じ悲しみを持って償わなければならない。そして人に死を与えたものは、それ相応の対価と負債を払わなければならない。』
もっとも、俺がこの三箇条をまともに取り扱っているのはほとんどがビジネスの側面であり、どれだけ凄惨な内容を持つ依頼書であってもできる限り私情を持ち込まないようにしているが、どいつこいつも人の情につけ込んでくるような奴らばかりで、考え方が浅はかというかちゃんと契約書の内容を上から下まできっちり読んでるのか?とつい疑ってしまうくらいには非常識な奴らが多かった。
たとえば、妻を殺されたので犯人を殺してほしいと泣きながら頼みに来た男が、よくよく調べてみれば保険金目当てに自分で妻を階段から突き落とした張本人で、警察の捜査が自分に向きかけていることを察した途端、存在もしない通り魔をでっち上げて俺たちの処刑記録に紛れ込ませようとしていたこともあるし、娘を辱められたと怒鳴り散らしていた父親が、実際には娘の交際相手を気に入らないという理由だけで相手の青年を社会的にも物理的にも消そうとしていたこともあるし、会社を潰された復讐だと机に札束を叩きつけた元社長が、自分の粉飾決算と横領と部下への責任転嫁を棚に上げて、内部告発した経理の女を“悪魔のような裏切り者”と呼んでいたこともある。もっとくだらない例を挙げれば、マンションの上階の住人の足音が気に入らないから処分してくれ、元恋人が新しい男と歩いていたから報いを受けさせたい、政治家の息子が自分の店で態度が悪かったから世間に見えない形で痛めつけてくれ、そういう依頼書の形式すら満たしていない生ゴミみたいな相談を、わざわざ身元を隠したつもりになって持ち込んでくる連中もいる。
俺たちは正義の味方ではない。相談所でもなければ、復讐に燃える善良な市民を慰める無料のカウンセリング窓口でもない。世の中に蔓延る悪を片っ端から裁く夜の裁判官でもない。少なくとも俺自身はそんな大仰な肩書きを自分に与えたことがなく、夜道で泣いている子供に傘を差し出すような温かい人間でも胸の内に燃え盛る義憤を抱えながら法の限界に挑む革命家でもない。ただ一定の条件を満たした依頼を受け取って審査に通った対象へしかるべき処理を行い、処理が完了したあとで報酬を受け取り、次の案件まで目立たない場所で息を潜めているだけのいわば都市の染み抜き屋である。
世間では俺のような人間を、掃除屋、と呼ぶらしい。気に入らない呼び名ではなかった。血の匂いや土埃や腐った利権を綺麗に洗い流してやるという意味でなら、たしかに掃除屋ほど分かりやすい名前もないし、表向きの職業としても“特殊清掃と遺品整理を扱う小さな会社”に俺は籍を置いている。だから警察にも区役所にも保健所にも税務署にも、“黒瀬怜”という男は孤独死した老人の部屋から布団や畳や家電を運び出して事故物件の床を剥がし、遺族が触れたがらない押し入れの奥から古いアルバムや通帳や骨壺を見つけてくる、世間の誰もが必要だと分かっていながらあまり長く目を合わせたがらない仕事をしている人間として登録されている。
その表向きの俺を知る人間は、俺が帰宅後に缶ビールを飲むより先に依頼書へ目を通し、故人の部屋から持ち帰った段ボールではなく、裁判記録、示談書、医療鑑定、監視カメラの映像、消された通話履歴、警察の内部資料、加害者の資産状況、海外送金記録、政治団体の名簿、児童相談所の相談記録、弁護士の守秘義務の奥で眠っていたはずの証言、そして本人すら忘れたがっているような小さな悪意の積み重ねを相手にしていることなど知らないだろう。
六月の終わり、東京は昼間の熱を夜になっても吐き出しきれず、ビルの隙間に溜まった湿気が人間の首筋へ貼りつくような蒸し暑さを保っていた。山手線の高架下からは酔った会社員の笑い声と安い焼き鳥の煙が混ざり合いながら、路地裏の排水溝にはコンビニ袋と誰かが落とした片方だけのイヤホンが雨水に浸かっていた。表通りの大型ビジョンでは、新作映画の宣伝と清潔な笑顔のタレントが何度も繰り返されている。
世界はいつも通りだった。
例え人が死んでも、被害者遺族が壊れて正義が手続きに負けようとも、SNSのトレンドは数時間ごとに塗り替わり、ニュース番組は被害者の写真を数秒だけ映してから次の政治家の失言へ移っていく。コメント欄では会ったこともない人間たちが安全な場所から石を投げ、翌朝には通勤電車が予定通りに混みながら誰もが昨日より少し疲れた顔で会社へ向かっている。
俺の事務所はそういう世界の片隅にあった。中央区の古い雑居ビルの五階、表札には「白楢特殊清掃合同会社」とだけ書かれており、昼間は実際に特殊清掃の依頼を受け、孤独死した部屋の消臭作業や遺品の仕分けを行っている。害虫駆除業者の手配、不動産管理会社とのやり取りまで真面目にこなしているため、営業実態を疑われたことは一度もない。受付には植物が二鉢、古い複合機、白い壁に貼られた資格証の額、応接室には安物のソファと低いテーブル、入口から見える範囲だけなら死に触れる仕事にしてはずいぶん小綺麗な会社に見えるはずだった。
もちろん、応接室の奥にある資料室の本棚が指紋と静脈認証を同時に通さなければ開かないことや、地下ではなく五階にあるにもかかわらず窓の外へ出るための避難経路が三つ用意されていることや、観葉植物の鉢底に小型の電波攪乱装置が仕込まれていること、受付に置かれた除菌スプレーのボトルが実際には来客の皮脂や汗に含まれる成分を読み取り、過去七十二時間以内の接触環境を大まかに割り出すための検査器具であることも含め、壁の資格証の一枚だけが偽造どころか世界に存在しない団体名で発行されていることに気づく客はほとんどいない。気づけるような人間なら、そもそもここへ来る前に別の窓口へ案内されているだろう。
その夜、俺は応接室で一人の老人を待っていた。壁の時計は二十三時四分を示し、外ではさきほどから細い雨が降り始めている。窓ガラスの向こうを流れる水滴が遠くのネオンを歪ませ、黒いビルと赤い看板とタクシーのヘッドライトを誰かが乱暴に指で擦った油絵みたいな色に変えている夜だった。テーブルの上には契約書が二部、録音機能のないペン、灰色の封筒、そして一杯だけ淹れた麦茶が置いてあり、麦茶の氷は老人が遅刻しているあいだに半分ほど溶け、グラスの表面を濡らした水滴がコースターからはみ出して黒い輪を作っていた。
依頼人の名前は野崎善次郎。六十八歳。元中学校教諭。妻とは八年前に死別。娘が一人。娘の名は野崎未央。二十九歳。職業は保育士。二か月前、世田谷区内の自宅マンションで死亡。警察発表では自殺。司法解剖の結果も表向きは事件性なし。遺書はなし。部屋には争った形跡がなく、防犯カメラには不審者の出入りも映っていない。職場でのトラブルも、借金も、恋人との大きな揉め事も確認されず、家族との関係も良好。新聞に載ったのは地域欄の小さな記事だけで、ネットでは“若い保育士が孤独に命を絶ったらしい”という断片的な噂が数日だけ漂い、やがて別の炎上や芸能人の不倫と海外の戦争の速報に押し流された。
ここまでなら、俺の仕事にはならない。自殺と判断された死をすべて疑い始めたら、この国は毎日が処刑待ちの列になるだろう。遺族の直感だけを根拠に人を裁くほど俺たちの商売は安くも優しくもない。問題は野崎未央の死の三日前、彼女が父親へ送った一通のメールだった。本文は短く、誤字も多く、普段の丁寧な文章とは明らかに違っていたらしい。
《お父さん、もし私になにかあったら、御影透真のことを調べて。あの人は普通じゃない。警察にも言えないし、きっと証拠も消される。ごめんなさい。…私怖い。》
御影透真。二十六歳。都内の会員制コンサルティング会社に出入りしているフリーランスの情報屋。表向きの職業はマーケティングアドバイザー。実態は政財界の二世三世、芸能関係者、投資詐欺グループ、半グレ崩れの起業家連中へ醜聞の揉み消し、被害者への圧力、炎上対策、偽アカウントによる世論操作を請け負う、現代的な汚れ仕事の仲介者。未央とは勤務先の保育園に通う園児の保護者を通じて知り合っており、その保護者が起こしたある事件の証言をめぐって未央へ接触していた可能性が高い。
老人は二十三時七分に来た。三分の遅刻を詫びるために頭を下げる手つきが、教師だった頃の癖をまだ失っていないように整っていた。濡れた折り畳み傘をビニール袋に入れる前に入口の床へ雨を落とさないよう慎重に振り、スーツの肩に残った水滴をハンカチで押さえながら俺に向かってもう一度「夜分に申し訳ありません」と言った。その声は弱っていたが、乾いた針金のように細く妙にまっすぐな印象を受けた。きっと眠れない夜を何十回も越え、怒鳴り散らす時期も泣き崩れる時期も、警察へ詰め寄る時期も、弁護士事務所を渡り歩く時期もあったのだろう。
「野崎さんですね」
「はい」
「黒瀬です。こちらへ」
俺が向かいのソファを指すと、老人は浅く腰を下ろしながら膝の上で両手を重ねた。手の甲には薄い染みがあり、爪は短く整えられている。雨に濡れた革靴は安物ではなかったものの、長く履かれた跡が踵に出ていた。老人の横に置かれた鞄は黒い古いダレスバッグで、金具の擦れ方から見て今日のために新しく買ったものではなく、教師時代から何か大事な書類を運ぶ時だけ使ってきた品に見えた。
「紹介者から、概要は聞いています」
「はい」
「こちらから先に確認します。当社は警察ではありません。法律事務所でもありません。あなたの娘さんに何があったのかを一緒に考え、悲しみに寄り添い、心の整理を手伝う場所でもありません」
「分かっています」
「分かっていない方が多いので、念のため最後まで聞いてください」
老人は小さく頷いた。腹を立てる様子はなかった。ここへ来るまでに相当な屈辱を飲み込んできた顔だった。
「あなたが持ち込む依頼は、受理されれば審査に回されます。審査では被害の事実、対象者の行為、法的手続きが機能しなかった理由、依頼人の虚偽申告の有無、依頼内容が第三者の利益操作に使われていないかを確認します。審査に落ちれば契約は不成立。前金から調査費用を差し引いた額を返金して終了。審査に通れば、本契約へ移行します。本契約後のキャンセルは原則不可。依頼人が虚偽の情報を出した場合、対象者を誤認させようとした場合、または当会を私怨、保身、営利目的の殺人に利用しようとした場合、依頼人自身が審判対象になることがあります」
老人の目が、ほんの少しだけ動いた。恐怖ではなく、理解の確認だった。
「そこまで、紹介された方から聞いています」
「紹介者の名前は」
「存じません」
「正解です」
俺は契約書の一枚目を老人の前へ滑らせた。紙の上部には、白楢特殊清掃合同会社の社名がある。業務内容は遺品整理に伴う調査補助。どこからどう見ても合法的な相談契約書にしか見えない。隅の透かしを特殊な光で照らさない限り、そこに刻まれたもう一つの名は浮かばない。
無国籍審判会。
その名を知る者は世界にそう多くないし、仮に知っていたとしても、ほとんどの人間は酒場の与太話か、陰謀論好きの掲示板住民が作り上げた都市伝説か、国家機密という言葉に憧れた三流作家の妄想くらいにしか受け取らないだろう。実際のところ無国籍審判会はどこの国家にも籍を置かず、いかなる国旗の下にも跪かず、国連の登録名簿にも各国の公安資料にも警察白書にも防衛省の機密区分にも、少なくとも表向きは一行たりとも記載されていない。世界各地の紛争地帯や税金と血の匂いが薄く混ざる租税回避地、国境線の意味が崩れかけた難民キャンプや巨大企業が倫理審査という言葉を壁紙代わりに貼りつけた生物研究施設、港湾都市の倉庫街、砂漠の底に隠された地下医療区画、北欧の凍りついた湖畔に建つ身元不明者専用の療養所、そして東京の古い雑居ビルの五階にある、見た目だけならただの特殊清掃会社にしか見えない小さな事務所にまで、湿った根を張り巡らせている。
俺たちにとってそこは母体であり、裁判所であり、役所であり、銀行であり、学校であり、墓場でもある。そして時には身寄りのない子供を戸籍の外側へ隠す母親のような顔をし、時には国家権力でも黙らせられなかった大人を何の感傷もなく処刑台へ座らせる冷たい機械のような顔をしながら、荘厳な名前だけを見れば世界の不正義を裁く高潔な機関に聞こえなくもない。が、その内側を一枚めくれば、血の染みた報告書、偽造された旅券、暗号化された出生記録、焼却処分されたはずの実験データ、存在しない裁判の議事録、誰にも祈られなかった死体の搬送記録、そして正義という言葉では到底包みきれないほどの取引と沈黙で積み上げられた、巨大で、慎重で、腹立たしいほど長生きしている非国家組織だった。
その起源を辿れば、話は今から五十年以上前、世界中が平和を口にしながら机の下では互いの喉元へ刃物を突きつけ合っていた冷戦末期にまで行き着くことになる。各国の諜報機関、軍事研究部門、民間製薬会社、宇宙開発を名目にした生体実験施設、災害医療の研究財団、そしていかにも人類の未来を真剣に憂いていそうな顔をした学術機関の一部は、それぞれ別々の予算名目と倫理審査書類を用意しながら、実際にはほとんど同じ方向を向いた生物適応研究に手を染めていた。対象となったのは人間の神経系、免疫機能、代謝速度、記憶保持、恐怖反応、痛覚遮断、睡眠制御、空間認識、他者の情動を読み取る知覚能力、群衆心理へ微細な影響を与える反応特性といった、普通なら自然の範囲内でしか変化しないはずの領域であり、研究者たちはそれらを薬剤、遺伝子操作、胎児期の環境制御、神経刺激、記憶負荷実験、隔離教育、人工的なストレス条件によって人為的に拡張し、変質させ、時には壊しながら新しい人間のかたちを作ろうとしていた。
公式文書の上では、それは感染症に耐える強靭な身体を作るための医療研究であり、宇宙空間や深海や極地のような過酷な環境で作業できる人材を育てるための適応訓練であり、大規模災害の現場で眠らず判断を下せる救助要員を生み出すための負荷試験であり、兵士の心的外傷を軽減するための神経治療であり、認知症や先天性疾患に対する革新的な遺伝子療法だったのだろう。けれど予算の裏側で本当に求められていたものはもう少し単純で、もう少し醜く、尋問に何日耐えても精神を折られない兵士、七十二時間眠らずに暗号を解き続ける解析官、扉の向こう側に潜む敵意を皮膚感覚で察知する護衛、銃弾を受けても痛みを切り離して任務を継続する工作員、目にした情報を外部記憶装置のように正確に保存する通信兵、命令と良心が衝突した時に命令の方だけを選べる従順な生体端末、そして既存の人類よりも効率よく、疑問を持たず、国家のために消耗される次世代の兵器だった。
その研究の果てに生まれた子供たちは、当初、関係者たちのあいだで“新人類”と呼ばれていた。その響きに含まれる未来めいた明るさや進化という言葉の甘い高揚は、実際には研究棟の無菌室で震えていた彼らの現実とはあまりにもかけ離れており、国家の予算を受け取って企業の技術を借り、軍の都合で命の形をいじくった大人たちが自分たちの行為をただの人体実験ではなく人類の進歩だったのだと信じ込むために貼りつけた、白く清潔で、あまりに都合のいいラベルにすぎなかった。彼らの多くは普通の子供と何も変わらないはずなのに、その身体には研究者たちが成果と呼びたがる異常な性質が刻み込まれていて、ある子は裂けた皮膚が数時間で薄い膜を張るほど傷の治りが早く、ある子は握手した相手の恐怖や嫌悪を温度や匂いのように読み取り、ある子は遮音された廊下の向こうで交わされる会話を水底の泡のように拾い上げ、ある子は一度目にした数字や文字列を何年経っても寸分違わず思い出すことができた。そうした子供たちは国家にとっては利用価値のある資源でありながら制御不能になれば国境を越えて災厄を運びかねない危険物で、研究機関にとっては論文にも軍事契約にも変えられる輝かしい成果であり、同時に処分方法まで考えなければならない失敗作でもあった。産んだ親にとっては名前も戸籍も抱きしめた記憶も奪われたまま、二度と取り戻せなくなった我が子だったのである。
やがてその計画は静かに、そして取り返しのつかない形で瓦解していった。崩壊の理由を一つにまとめられる者は今ではほとんど残っていないし、残っていたとしてもその口から出る証言がどこまで真実で、どこからが自分だけは責任の外側にいたと見せかけるための弁明なのかを見分けることは難しい。ある資料では実験施設の火災が発端だったとされ、別の報告書では主任研究員たちの同時失踪がすべての始まりだと書かれ、非公式の証言には被験者の一人が隔離病棟を破壊した夜のことが残り、諜報機関の古い通信記録には関係国同士が研究成果を奪い合った形跡があり、資金洗浄の発覚、薬剤供給網の途絶、民間企業の裏切り、被験者家族による告発、処分命令を拒んだ護衛兵の離反など、いくつもの小さな亀裂が見えない場所で広がり続けた結果、各国は自分たちが生み出した子供たちを保護するどころか存在そのものを記録ごと焼却し、研究に関わった痕跡を歴史から剥がし取ろうとした。最初に逃げた者たちは国境線を越えるたびに名前を捨て、言葉を変え、顔を変え、偽造旅券と貨物船の冷たい船倉、戦争で放棄された廃病院、孤児を匿う教会の地下室、港湾都市の倉庫街、難民キャンプの仮設診療所を細い糸のように繋ぎながら、同じように国家から消されかけている仲間を一人ずつ拾い上げるための逃亡路を作った。その逃亡路はやがて保護網となり、逃げ延びた子供たちを守るための保護組織となりながら、各国政府や諜報機関と取引する交渉組織へ姿を変えていった。交渉組織は生き残るために情報を握りつつも、情報を握った者たちは金と武器と医療技術と政治的な貸しを蓄え、長い年月の中で国家の外側にいながら国家よりも深い秘密を抱えていった。国境の内側にいながら国旗を持たず、古い恨みと新しい技術、救済の理念と処刑の仕組みを同じ器の中で混ぜ合わせた巨大な影の機構――無国籍審判会へと変わっていったのである。
俺はその無国籍審判会という、国家の戸籍にも企業登記にも宗教法人名簿にも軍事同盟の裏帳簿にも載らないくせに、紛争地の廃病院から東京の雑居ビルの五階にまで細い血管みたいな連絡網を伸ばしている巨大な怪物のいちおう末端にいることになっている。
末端という言葉がどこまで正しいのかは、俺自身にもよく分からない。組織図の上では日本支部第七執行室所属、通称は掃除屋という部署であり、担当は国内案件における実行処理と現場確認という立場だ。正式等級は灰位二等、閲覧できる資料は必要最低限、独断で対象者へ接触することは禁止、…とまあ、できることは限られており、審判官の承認が下りる前に私的な判断で手を出せば即座に懲戒審理、国外案件への関与は原則不可、他支部との直接通信にも制限がある。書類だけを眺めれば、俺は上層部の椅子に座る連中から見て紛失しても別の誰かを補充すれば済む程度の、実に地味で替えの利く実働要員にすぎない。もっともそういう扱いのわりには、依頼が持ち込まれた初期段階で呼び出される回数が妙に多く、審判官がまだ椅子にも座っていないうちから現物確認を任され、依頼人の言葉が嘘か本当か、死者の周辺にどれほど濃い悪意が残っているのか、対象者の名前がただの思い込みなのか、それとも本当に血の匂いを帯びているのかを確かめる役目を押しつけられるのは、俺の手が少しばかり厄介な性質を持っているからだった。
俺は人の罪を視るなどという、安い占い師か売れない詩人が好みそうな言い方が嫌いだ。あれは視るというほど整ったものではないし、罪というほど道徳的に整理されたものでもない。正確に言うなら、対象者、あるいは被害者、もしくはその場に居合わせた誰かが、強い恐怖、苦痛、執着、殺意、羞恥、後悔、憎悪、あるいは本人だけが悦びと勘違いしているような極端な快楽を抱えた状態で触れた物品に、神経の焦げ跡みたいに残った反応の残響を俺の皮膚が勝手に拾ってしまう。映画のように過去が鮮明に再生されるわけではなく、音声記録のように会話が頭の中へ整然と流れ込んでくるわけでもなく、最初に来るのはたいてい匂いで、消毒液、汗、雨に濡れた革靴、安い香水、古い畳、血の鉄臭さ、コンビニ弁当の甘い油、そういうどうでもよさそうな細部が喉の奥へ貼りつき、続いて温度、圧迫感、誰かに手首を掴まれた皮膚の痛み、視界の端をかすめた赤い信号、割れたスマートフォンの画面に映る白い天井などが自分の記憶では絶対にない場所から遠慮も礼儀もなく割り込んでくる。便利ではあると思う。そもそも便利でなければ、こんなものはとっくに自分の手ごと切り落としているだろう。けれど便利すぎる道具というものは決まって使う人間の輪郭まで削っていくもので、依頼品に触れるたび、俺は誰かの恐怖を自分の恐怖のように吸い込んでしまう特性があった。誰かの痛みを自分の皮膚の内側へ一度だけ仮住まいさせ、誰かが死ぬ直前に見たものを夢でもない場所で見せられるため、時々自分が今ここで息をしている黒瀬怜なのか、それとも触れた物にしがみついたまま死に損ねている見知らぬ誰かなのか、その境目がひどく曖昧になることがあった。
「娘さんの所持品は」
俺がそう言うと老人はダレスバッグの金具を外し、中から透明な保存袋に入った薄桃色のハンカチ、スマートフォン、古いキーホルダー、小さな銀色のヘアピン、そして丁寧に畳まれた白いカーディガンを取り出した。その一つ一つをテーブルに置く手つきが、まるでまだ娘の部屋を散らかしてはいけないと考えているように慎重で、俺は一瞬だけ、仕事に邪魔な感情が胸の底へ沈みかけるのを感じた。
「警察には提出したのか」
「スマートフォンは一度、提出しました。戻ってきたものです。中身は、ほとんど消えていました」
「誰が消したか、見当は」
「御影です」
「根拠は」
「娘が、そう書いていました」
「メール以外には」
老人は唇を結んだ。ない、と言いたくない顔だった。ないと認めれば、娘の最後の訴えまで薄い紙のように破れてしまうと思っているのだろう。
「ありません。少なくとも、私が裁判で使える形のものは、何も」
「それでも依頼する理由は」
老人は膝の上で握っていた両手をほどき、テーブルの上の白いカーディガンへ視線を落とした。白い布は雨の日に持って来られたせいか、保存袋の内側にわずかな曇りを帯びていた。
「娘は、自分で死ぬような子ではありませんでした」
その言葉を口にする遺族は多い。ほとんど全員がそう言う。明るい子だった。優しい子だった。責任感があった。約束をしていた。来月旅行に行く予定だった。新しい靴を買ったばかりだった。冷蔵庫に作り置きがあった。ペットの餌を三日分注文していた。人は死者を語る時、生きる予定の痕跡を集める。生きるはずだった証拠を並べ、死へ向かった可能性を否定しようとする。その気持ちは分かる。分かるからこそ、俺たちの仕事には使えない。
「そういう言い方では審査に通りません」
俺は淡々と言った。老人は顔を上げなかった。
「分かっています」
「あなたの娘さんがどういう人だったかは、こちらの審査では補助情報にしかなりません。必要なのは、御影透真が野崎未央の死にどのように関与したかです。直接手を下したのか、追い込んだのか、証拠を消したのか、誰かの指示を受けていたのか。そこを確認できなければ、依頼は受理されません」
「では、確認してください」
老人の声は静かだったが、決して弱くはない。先ほどまでの乾いた針金が、熱を入れられて少しだけ赤くなったような声だった。
「そのために、金を用意しました」
ダレスバッグの底から、老人はさらに茶色の封筒を取り出した。封筒は一つではなかった。五つ。十つ。紙帯のかかった札束だけではなく、古い銀行封筒に分けられたものもある。おそらく退職金、預金、保険、売れるものを売り、借りられるものを借り、娘のために残しておいた何かまで崩した金だろう。俺は札束そのものより、封筒の角に小さく鉛筆で書かれた数字を見ていた。几帳面な老人らしく、出金日と金額が記されている。その中の一つには、未央、とだけ書かれていた。
「規定額より多い」
「足りないかもしれないと聞きました」
「誰に」
「紹介者です」
「その紹介者は、よく喋る」
「いいえ。必要なことだけでした」
俺は封筒には触れず、白いカーディガンへ目を移した。金は大事だ。金は感情より嘘をつかない。無料の正義はたいてい腐るし、報酬のない復讐は依頼人の人生まで巻き込んで破滅する。金を払うという行為は依頼人に後戻りできない責任を負わせるための鎖でもある。とはいえ金だけで動くなら、俺たちはとっくにただの殺し屋になっている。無国籍審判会が今も審判会などと名乗っていられるのは、金で買えない面倒な審査と、金で曲げられないいくつかの規則があるからだった。
「触れます」
そう告げると、老人は返事の代わりに喉の奥で息を一度だけ詰まらせるようにしてからゆっくり頷いた。その頷きは、娘の遺品に他人の手が触れることへの抵抗と、それでも真実へ近づくためなら自分の感情など邪魔でしかないと必死に言い聞かせる覚悟がほんの数センチの首の動きに押し込められているようで、俺は余計な慰めを口にせず、仕事用の薄い黒手袋の端を指先で摘まんだ。表向きは特殊清掃の現場で汚染物や薬剤から皮膚を守るための道具であり、受付や応接室に置いてあっても誰も不審には思わない代物だが、実際には俺の指が他人の感情や記憶の滓を不用意に拾わないようにするための遮断具で、これを外すという行為はただ素手になるというより雑音だらけの夜の街へ耳栓を捨てて立つのに近かった。
裸になった指先が空気へ触れた瞬間、応接室の温度が変わったわけでもないのに皮膚の表面だけが薄い砂を撫でられたようにざらついた。老人の浅い呼吸や窓を叩く雨粒が少しずつ遠ざかっていく。ビルの古い配管を流れる水音と天井の埋め込み型エアコンが吐き出す低い唸り、遠くの交差点で誰かが踏んだブレーキの甲高い軋みまで、今まで同じ部屋にあったはずの音が一つずつ距離を取りながら、まるで透明な膜の向こう側へ押しやられていくように輪郭を失っていった。
俺は白いカーディガンの端へ指を伸ばした。保存袋越しではなく袋の口を開いて布地そのものへ触れる。最初に流れ込んできたのは拍子抜けするほど穏やかな柔軟剤の匂いだった。花の香りだ。安い量販品にありがちな刺すような甘さではなく、洗濯物を畳む時にほんの少しだけ袖口へ残る誰かの暮らしを乱暴に覗き込んでしまったような柔らかい匂い。その奥から保育園の砂場に混じった乾いた土と子供の掌に擦りついた青いクレヨンが頭の中によぎった。昼寝用の布団に残った体温や消毒液の尖った匂い、夕方の職員室を白く冷たく照らす蛍光灯にスマートフォンの画面を握りしめた指の汗、背後に立つ男の靴底が床へ吸いつくような気配と妙に整った白い歯が順番も脈絡もなく重なってきた。
――先生って、正しいことが好きなんですね。
低い声だった。怒鳴るわけでも脅すわけでもなく、刃物をちらつかせるわけでもない。むしろ柔らかく、聞き分けのいい人間を演じ慣れた者だけが出せる丁寧な声色だった。滑らかで、どこか躾の行き届いた犬が主人の足元で尻尾を振るような従順さすら含んでいる声なのに、その奥では相手が怯える瞬間を待っている舌が、ゆっくり唇の裏を舐めているような気持ち悪さがあった。
――そういう人、壊れる時にいい音がするんですよ。
指先が痺れた。未央の記憶ではない。少なくとも記憶と呼べるほど整理され、時間の順に並んだ人間の意識が意味を与えられる形を保ったものではなく、白い布へ押しつけられた恐怖の体温や喉の奥で殺された悲鳴、握りしめすぎて爪の跡が残った掌の痛みと助けを呼ぼうとして飲み込んだ息の熱だけが、遅れて俺の皮膚へ滲み込んできているにすぎなかった。視界の端に非常階段の灰色が滲んでいる。スマートフォンの通知音が鳴って、誰かが泣いている声が聞こえた。子供の名前が呼ばれた後に見えた御影透真の顔は、まだ水に沈めた写真のように輪郭が崩れている。目鼻立ちも表情も掴みきれない代わりに、未央の部屋でも保育園でも、マンションのエレベーターでもない別の場所が割り込んできた。白い壁に金属製のベッド。天井に埋め込まれた丸いカメラ。幼い子供の腕に貼られた識別番号と青い手袋に包まれた研究員の指。
俺はすぐに手を離した。布から離した指先には何も付着していないはずなのに、爪の間に冷たい水銀でも流し込まれたような重さが残り、手袋を戻すまでのわずかな時間さえ皮膚の内側から誰かがこちらを覗いているような不快感が消えなかった。長く触れすぎると残響の奥に沈んでいるはずの別の記録まで引きずり出してしまうことがある。特に研究施設の記憶は危ない。俺たち新人類の感覚は、同類の痕跡や生み出された場所に関わる残留反応へ異様なほど強く反応するようにできているらしく、たとえ本人が何も知らず、触れた物品がただのカーディガン一枚だったとしても、そこに古い実験区画の匂いが混じっていれば皮膚の方が先にそれを敵意として認識する。御影透真がただの情報屋で、ただの脅迫屋で、ただの小器用な悪党でしかないのなら、野崎未央のカーディガンにあんな白い壁と金属製のベッドと識別番号の気配が残るはずがなかった。
顔を上げると、老人がこちらを見ていた。娘の死に誰かが関わっていたのだと証明されてほしい期待と、その証明によって娘が本当に逃げ場のない場所へ追い込まれていたのだと知ってしまう恐怖が、ちょうど半分ずつ混ざった目だった。
「何か、分かりましたか」
「審査には回せます」
老人の肩が、ほんのわずか落ちた。安堵したのではない。これで娘の死がただの自殺ではなかった可能性に、一歩近づいてしまったからだ。遺族にとって真実は救いではない。真実は、死者が戻らないことをより正確に突きつけるだけの刃物になることが多いからである。
「受けて、いただけるのでしょうか」
「俺が決めることではありません」
「あなたは、処刑する人ではないのですか」
「処刑という言葉は、依頼人が使うには少し早い」
俺は手袋を戻し、契約書の二枚目を老人の前へ出した。
「まず審理です」
その言葉を口にした時、応接室の壁に掛けられた資格証の一つが、音もなく内側から淡く光った。老人には見えていない。見えたとしても街灯の反射だと思うだろう。透かしの奥、白楢特殊清掃合同会社のロゴの下に天秤と空白の国旗を組み合わせた紋章が浮かび、その下に小さな文字列が走った。
《第七執行室、初期照合完了。対象者、御影透真。関連語句、旧東雲生体適応区画。照会権限を一段階引き上げ。審判官へ転送。》
旧東雲生体適応区画――その名を目にした瞬間、胸の奥で古い鍵が勝手に回るようなあまり気分のよくない感覚がした。聞きたくない名前だった。俺が生まれた場所ではない。少なくとも組織の記録上ではそうなっているし、担当官も養護施設の古い台帳も、俺に与えられた経歴書も、黒瀬怜という人間は旧東雲とは直接関係がないとまるで口裏を合わせたみたいに整った説明を並べている。それなのに俺の記録には妙な空白が多すぎた。十歳以前の記憶は保管状態の悪い古いフィルムを火で炙ったようにところどころが黒く焼け落ちていて、養護施設へ移された経緯も、誰が俺を無国籍審判会へ引き渡したのかも、なぜ俺の指先だけが他人の恐怖や痛みや後悔の残響を拾うようになったのかも、説明そのものは用意されているくせに肝心の納得だけがいつも少し遅れて追いかけてくる。組織は俺に教育を与えた。住む場所も仕事も偽りではない。戸籍黒瀬怜という名前も、社会の表側を歩くために必要なものは一通り揃えてくれた。与えられたものが多すぎると、人は奪われたものを数えにくくなるものだ。
「黒瀬さん」
老人が俺の名前を呼んだ。来た時よりもほんの少しだけ、声に体温が戻っていた。濡れた紙を慎重に広げるような弱々しさはまだ残っているのに、その奥に娘の死をただの事故や病や自死という言葉で片づけられたまま帰るつもりはないという、細くも折れにくい芯が通っていた。
「娘は、苦しんだのでしょうか」
愚かな質問だった。老人自身、それが答えを得るための問いではないことくらい分かっていたはずだ。優しい嘘で少しだけ呼吸を楽にしたいのか、残酷な真実で娘の最後に近づきたいのか、あるいはどちらを聞いても自分が壊れると分かっていながら、それでも父親として聞かずにはいられなかったのか、そのあたりの区別は、たぶん本人にもついていない。俺は嘘が得意ではない。正確に言えば、調査報告や身分偽装や対象者への接触で吐く嘘には慣れているのに、こういう場面でだけ舌の上に乗せた嘘がいつまでも溶けず、あとになって皮膚の裏側へ棘のように残る。
「怖かったと思います」
老人の目が音もなく揺れた。泣くには乾きすぎていて、怒るには疲れすぎていて、それでもまだ何かを失う余地が残っている人間の目だった。俺はその揺れから視線を逸らさずに続けた。
「最後まで一人だったかどうかは、まだ分かりません」
その言葉が救いになるのか、残酷さを少しだけ形の違うものへ変えただけなのか、俺には判断できない。救いというものは、渡した側がこれは救いですと札を貼って差し出せるほど親切なものではなく、受け取った人間の中で何年も経ってからようやく名前がつく場合もあれば、最後までただの傷口として残る場合もある。
老人はしばらく黙っていた。応接室の空調の音と窓の外を流れる雨の気配だけが薄く残り、テーブルの上に置かれた契約書の白さがやけに冷たく見えた。やがて老人は震える指でペンを取り、呼吸を一つ整えてから契約書の署名欄に自分の名前を書いた。野崎善次郎。達筆だった。長年、黒板に生徒の名前を書き、通知表の所見欄へ言葉を選び、進路指導の書類に赤ペンで注意書きを入れ、保護者宛ての封筒へ崩れない字で宛名を記してきた人間の字だった。ただ、最後の一画だけがわずかに乱れていた。その乱れはテーブルの上に積まれた札束よりも、保存袋に収められた白いカーディガンよりも、娘の名を口にするたびに押し殺される嗚咽よりもよほど正直に、老人の中でいま何が崩れ何が辛うじて踏みとどまっているのかを語っていた。
「契約はまだ成立していません」
「はい」
「審査結果は、こちらから連絡します。それまで御影透真へ接触しないでください。警察にも、弁護士にも、マスコミにも、SNSにも、この件を持ち込まないように。娘さんの部屋にも、こちらが許可するまで新しく手を入れない。あなたが余計なことをすれば、対象者に気づかれる可能性がある」
「分かりました」
「分かっていないと困ります。あなたが娘さんのために何かしたいと思うほど、こちらの仕事は難しくなる」
老人はそこで初めて少しだけ苦笑した。痛々しい笑いだった。
「親というのは、役に立たないものですね」
俺は答えなかった。その言葉に相槌を打つ資格は俺にはない。俺には親の記憶がないし、誰かに親らしいことをされた記憶も、制度として与えられた保護以上には残っていない。
老人が帰ったあと、応接室には麦茶の薄い匂いと、濡れた傘が残した湿気と、白いカーディガンから剥がれ落ちた恐怖のざらつきだけが残った。俺は窓辺へ立ちながら雨に滲む東京を見下ろした。街は眠らないと言われるが、実際には眠っていないのではなく、眠らせてもらえない人間が多すぎるだけだ。終電を逃した若者、夜勤明けの看護師、コンビニの外国人店員、タクシー運転手、ネットカフェに沈む失業者、子供の寝顔を見られないまま働く親、そして死んだ娘の白い服を抱えて、裁かれなかった男の名を繰り返す老人。そういう人間の眠れなさを、東京は光と音で覆い隠している。
机の上の端末が鳴った。画面には組織内通話を示す灰色の紋章が浮かんでいる。応答すると若い女の声が聞こえた。第七執行室の書記官、有栖川苑子。俺より三つ下で、俺よりずっと組織の規則に忠実で、俺よりずっと人を信じていない女だ。
『触った?』
「触った」
『どうだった』
「御影透真は黒だと思う」
『思う、だけで報告書を書いたら差し戻すわよ』
「残響に旧東雲が混じっていた」
通話の向こうで短い沈黙があった。苑子が黙る時は、たいてい面倒なことが起きている。
『それ、本当に?』
「聞き間違える名前じゃない」
『旧東雲は三十年前に閉鎖、関係者は死亡または保護済み、資料は審判会本部の封鎖庫、国内支部の権限では閲覧不可。そういう扱いのはずだけど』
「なら、誰かが閉じた箱を開けたんだろう」
『簡単に言わないで。旧東雲が絡むなら、通常の処刑代行案件じゃなくなる』
「老人には関係ない」
『関係あるわ。依頼人が生きて帰れるかどうかにも関わる』
苑子の声は冷たい。冷たい声でしか心配を言えない女だった。俺は窓の外から視線を戻し、テーブルの上の契約書を見た。野崎善次郎の署名。白いカーディガン。封筒に書かれた未央の名前。
「審判官は?」
『もう読んでる。あなたがカーディガンに触れた瞬間、残響の一部が自動転送された。黒瀬、あなたはいつも遮断を甘くする癖がある』
「依頼人の前で倒れるよりはましだ」
『そういう問題じゃない。あなたの残響は、向こう側からも辿れる可能性がある』
俺は眉を寄せた。向こう側。御影透真か、それとも旧東雲に関わる誰かか。普通ならありえない。物品に残った神経反応の残響は過去の焼き跡のようなもので、そこから現在の俺へ干渉できる人間などそう多くはない。多くはないという言い方になる時点で、組織にいると常識という言葉の安さにうんざりする。
『とにかく、今夜は単独行動禁止。対象者への接触も追跡も禁止。審判官の指示が出るまで待機』
「俺が待機を守る人間に見えるか」
『見えないから言ってる』
「正直でよろしい」
『茶化さない。これは復讐代行の案件じゃないかもしれない』
通話はそこで切れた。苑子が一方的に切る時は、本当に怒っている時か本当に危ない時のどちらかだ。俺は端末をポケットへ戻し、手袋を外しかけてやめた。指先の奥がまだ痺れている。御影透真の声が布越しに残っていた。
――正しいことが好きなんですね。
その言葉がまだ濡れた布の繊維の奥から這い出してきたように耳の裏へ残っていて、俺は思わず笑いそうになった。正しいことが好きな人間ならこんな仕事を選んではいないし、深夜の雑居ビルで死者の衣類に触れることもないだろう。ましてや他人の恐怖の残り香を指先から吸い上げ、契約書と札束と遺族の沈黙を同じテーブルに並べて値踏みするような真似もしない。正しいことを信じられる人間は裁判所の硬いベンチで何時間も待ち、記者会見の眩しいフラッシュの前で震える声を絞り出しては、署名用紙を抱えて駅前に立ちながら政治家の秘書へ頭を下げる。弁護士費用の明細を見て胃を痛めることもあるだろう。「制度」という巨大で鈍い歯車がいつか自分たちの方へわずかに傾く日を信じて、怒りを怒りのまま燃やし尽くさず涙を証拠書類の隙間へ押し込みながら必死に生きている。俺はそういう人間たちを愚かだとは思わない。むしろ俺たちよりよほどまともで、よほど強く、よほど人間らしい場所に踏みとどまっている連中だと思っている。ただ、まともな道筋では到底間に合わない死というものがあり、正式な手続きがようやく動き出す頃には証拠は綺麗に消えてしまうことがままある。証人が職場と家族と未来を人質に取られて黙り込み、加害者が弁護士の後ろで薄く笑いながら被害者の名前だけが地方欄の小さな記事として数秒だけ世間の視界をかすめ、翌朝には芸能人の不倫と政治家の失言と新商品の広告に押し流されていく夜がある。
そういう夜に、俺たちは現れる。
金を積めばどんな依頼も引き受けるという噂は、半分だけ正しく、半分はひどく雑な誤解だった。金は必要だ。善意では情報屋は動かないし、同情では偽名も用意できず、怒りだけでは消された監視映像の断片も戻らない。綺麗な正義感だけで組織の各部署を動かすことはできないし、調査班に過去を掘らせ、監視班に対象者の生活圏を洗わせることも、必要に応じて国外の協力者へ連絡し、依頼人が持ち込んだ悲鳴のような訴えを審判可能な案件へ整えることもできない。金は憎しみだけで誰かを殺したがる連中を入口で振り落とすための重しであり、依頼人に自分の願いが取り返しのつかない形を持っていると理解させるための鎖である。あるいは俺たちがただの感情処理装置ではなく、契約と審査と責任の上に成り立つ存在だと証明するための冷たい印紙でもある。ただし俺たちが受け取っているものは金だけではない。依頼人が二度と元の場所へ戻れなくなる覚悟、死者が最後に残した声にならない叫びや、法が形式の中で取りこぼした空白、記録から削り落とされた痛み、そして対象者がいずれ背負うべきだった負債をすべてこちら側の台帳へ引き受けるのだ。
その夜無国籍審判会の国内支部では、野崎未央という一人の保育士の死をめぐる審理が誰にも知られないまま始まっていた。審判官はまだ表には姿を見せず、書記官は複数の封鎖回線から資料を集め、情報班は御影透真という男の過去に沈んだ名前、口座、交友関係、削除済みの通信履歴を掘り返し、監視班は対象者の移動経路と接触者の顔を一つずつ洗い出していく。俺は応接室に一人残されたまま、テーブルの上に置かれた白いカーディガンの保存袋を見下ろしていた。透明な袋の内側には野崎善次郎の震える指が残した脂の跡と、娘である未央の恐怖が布地へ染み込んだような微かな残響や御影透真という男がそこへ擦りつけていった悪意の薄い膜が、雨の日の窓ガラスに広がる曇りのように重なっている。
人に痛みを与えたものは、同じ痛みを持って償わなければならない。人に悲しみを与えたものは、同じ悲しみを持って償わなければならない。そして人に死を与えたものは、それ相応の対価と負債を払わなければならない。
俺は、その三箇条を信じているわけではない。信じるには世の中はあまりにも不公平で、死者はあまりにも何も語らず、生き残った側だけが都合のいい物語を作っている。加害者は反省のふりを覚え、弁護士は言葉を整え、裁判は事実を扱っているようでいて、ときに証明できる範囲の現実しか拾い上げない。それでも契約書の文言としてなら、悪くない。依頼人に説明するための建前としても、対象者へ最後に突きつける言葉としても、無国籍審判会という巨大な影が自分たちを単なる犯罪者ではなく、どこかで破綻した世界の帳尻を合わせる機構なのだと思い込むための祈りとしても、十分に使い勝手がいい。
俺は応接室の照明を落とし、まだ麦茶の薄い匂いと老人の湿った傘が残した冷えた空気の漂う部屋を出た。廊下の先では資料室の本棚が音もなく横へ滑り、白楢特殊清掃合同会社という薄く清潔な外皮の下に隠されていた無国籍審判会日本支部第七執行室へ続く通路が、灰色の壁と無音の監視カメラと冷えた金属扉を奥へ奥へと連ねながら姿を現す。白い蛍光灯に照らされた小さな清掃会社の事務所から、国家の台帳にも警察の地図にも載っていない場所へ足を踏み入れるたび、俺はほんの少しだけ別の人間になる。黒瀬怜という名前は変わらず、戸籍も保険証も納税記録も表の社会に置きっぱなしにしたまま、それでも孤独死した部屋の床を剥がす清掃員ではなく、死者の残した空白を審理へ運ぶ執行人へと変わっていく。
背後で本棚が閉じた。雨音が遠ざかり、窓の外に広がっていた東京の光も、白いカーディガンに残っていた柔らかな洗剤の匂いも、いったんすべて扉の向こうへ置き去りになる。
そして地下よりも深い場所で、存在しないはずの裁判が始まった。




