零(ゼロ)に還す─ 鋼の扉と、白い手袋─
久しぶりの投稿です。
拙いと思いますが、生暖かい気持ちでお願いします。
じいちゃんの頬は、驚くほど冷たくて、硬かった。
最後のお別れと言われて、恐る恐る指先で触れたその感触は、僕が知っている「人間」の肌とは決定的に違っていた。
先々週までそこにあったはずの熱は、どこか遠い場所へ持ち去られ、残されたのは精巧に作られたプラスチックのモデルか何かのように見える。
(……ああ、本当にログアウトなんだ)
中学生の僕にとって、死という現象を理解するのに一番しっくりときた言葉だった。
高性能なOSが消去され、二度と立ち上がることのないハードウェア……。
棺の中に横たわっているのは、もう「じいちゃん」じゃない。
じいちゃんという意識を長年格納していた、使い古された「入れ物」の成れの果てだ。
会場には、読経の代わりに静かなインストゥルメンタルの曲が流れていた。
家族葬、というやつだ。
集まったのは十数人の親戚だけで、みんな大きな声で泣くこともなく、時折、じいちゃんの生前の失敗談を思い出しては、不謹慎にならない程度の小さな笑い声を漏らしている。
「じいちゃんらしいよね、最期まで意地を張って!」
「あのボロい釣り竿、結局捨てさせてくれなかったなあ」
そんな会話を聞きながら、僕はじいちゃんの顔を見つめ返した。
じいちゃんは、モノを大事にする人だった。
壊れたラジオも、刃がこぼれた包丁も、「まだ修繕すれば使える」と言って、油を差したり研ぎ直したりと……。
「ハルキ、いいか。身体はただの入れ物だ」
いつだったか、入院が決まった夜にじいちゃんが言った言葉が、線香の煙と一緒に鼻の奥をくすぐった。
「中身が大事なんだ。でもなぁ、その中身を運ぶ身体が故障しちまったら、どうしようもねぇ。この身体にはリセットボタンは付いてねぇんだよ。だからなぁ、動いてるうちに、よーく考えてハンドルを切れ。後悔しないようにな」
そう言って笑うじいちゃんの手は、……まだ温かかった。
カサカサに肌は乾いて、節くれ立っていたけれど、確かにそこに「生」の熱が宿っていたんだ。
それが今……、僕の目の前にあるのは番号を振られ、白い布に包まれた「物体」だ。
僕は自分の右手を、じっと見つめる。
じいちゃんの頬を触った人差し指の先が、まだ少しだけ冷えている気がした。
僕のこの手の中には、まだ熱がある。
血が巡っていて、指を曲げれば思い通りに動く。
でも、……この「最新モデル」の僕の身体も、いつかじいちゃんのように、動かなくなる日が来る。
その時僕は、「生きて良かった」と笑えるだろうか……。
式場の出口で、火葬場へ向かう霊柩車が静かにエンジンをかけた。
僕たちはじいちゃんという、空っぽになった身体をきれいに無くす場所へ向かう。
僕のバックパックの中には、じいちゃんとゲームセンターで獲った、あの安っぽいドローンが入っている。
火葬場は、僕が想像していた場所とはまるで違った。
おどろおどろしい雰囲気なんて微塵もない。
高い天井と大理石の床が広がり高級ホテルのようなロビーは静寂に包まれていた。
……音楽すら流れていない。
ただ高性能な空調が吐き出す微かな風の音だけが、広大な空間を漂っている。
余計な感情を排したその清潔さが、かえって僕の喉をカラカラに乾かせた。
僕や親戚たちは「告別室」と呼ばれるところへ移動する。厚いガラスの向こう側には、無機質なステンレスの壁に扉が並んでいる。
……全てを零に還す「炉」だ。
父さんだけが、そのガラスの境界線を越えて、炉のすぐそばに立った。
「キュィー、キュィー……」
静寂を切り裂くように、高い摩擦音が響いた。
じいちゃんを乗せたストレッチャーを運ぶスタッフの男が現れた。
一ミリの汚れもない、眩しいほどに白い手袋……。
男は父さんの前で足を止めると、手元の伝票と、炉の横に掲げられた番号を交互に確認した。
「……一号炉。間違いありません」
その声はガラス越しでは、水の中にいるようにこもって聞こえた。
父さんは小さく一度だけ頷く。
それは悲しみの仕草というより、荷物の受領印を押すような、あまりに事務的な動作だった。
スタッフがレバーを引くと、巨大な鉄の扉が重々しく口を開けた。
「ギー……」
何トンもある鉄が軋む音……。
奥には、四角い耐火煉瓦の空洞が、ぽっかりと暗い口を開けて待っていた。
じいちゃんという「虚体」が、ゆっくりとそこへ押し込まれていく。
一番奥まで届いたとき、壁に吸い込まれ、何かが完璧に噛み合うような鈍い音が、ガラスを伝って僕の足裏を打った。
「……ガッ、」
ハマった。そんな音がした。
さっきまで「じいちゃん」と呼んでいた肉体が……。
その瞬間、一号炉という巨大な焼却のシステムに、組み込まれたような気がした。
「ガッチャン……」
扉が閉まりロックがかかる
僕の視線は、男の指先に釘付けになる。
男は操作パネルの前に立つと、コンソールの数値を一瞥し、彼は迷いや躊躇もなく、点火ボタンをゆっくりと押す。
なぜだろう、僕の目にはそれが「一号炉」という名の、システム化された巨大な墓標に映った。
ボオッ、という低い重低音……。
じいちゃんという筐体が、物理的な「熱」という現象に分解され始めた合図だ。
男はすぐに立ち去らず、パネルに並ぶ計器の針やデジタル数字を確認し、父さんと親族に向かって、深く静かに頭を下げた。
余計な言葉はない。
彼はそのまま、音も立てずに奥の通路へと消えていった。
白い手袋の男にとって、これは日常的に淡々とこなすべき『仕事』なんだ。
(……本当に入れ物だったんだな、身体って)
中身が空っぽになったから、番号を振られて、決まった場所に、決まった手順で片付けられる。
それは残酷というより、あまりに事務的で、清々しいほどの「整理」だった。
「九十分、かかるそうだ」
父さんの言葉は、どこか遠い国の天気予報のように響いた。
九十分……。
じいちゃんという筐体が、完全に零に還すまでの時間だった。
僕はバックパックを背負い直した。
このホテルのような静寂の中にじっとしているのは、どうにも耐えられそうになかった。
父さんの言葉を背中に聞きながら、僕は一人、火葬場の外へと歩き出した。
自動ドアが開くと冷房で冷え切った肌に、むせ返るような初夏の熱気がまとわりつく。
街の喧騒から切り離されたこの場所は、驚くほど濃い緑に囲まれていた。
駐車場を抜け、建物の裏手にある芝生の広場に出る。
僕はバックパックを下ろし、中から「それ」を取り出した。
ゲームセンターのクレーンゲームで、じいちゃんと死闘を繰り広げて手に入れた戦利品……。
箱には『ウルトラ4Kカメラ搭載』なんて大げさな文字が躍っていたけれど、実際にはプラスチックの継ぎ目が甘い、チープなトイドローンだ。
(……ハルキ、角度を変えろ。方向転換だ!)
耳の奥で、……じいちゃんのダミ声が再生される。
あの日アームがスカッと空を切るたびに、じいちゃんは「もう百円だ!」と言って、財布からなけなしの硬貨を放り込んでいた。
「リセットボタンはねえんだぞ。この百円が最後だと思って、よーく考えろ!」
最後はじいちゃんが体をガラスにへばりつけて、執念でようやくゴトンと落とした。
……僕は、送信機のスイッチを入れた。
プロペラが「ブーン」と……、どこか頼りない乾いた音を立てて高速回転を始める。
レバーを倒すと、機体は風に煽られながらも、ふわっと宙に浮いた。
「じいちゃん、見てるか」
高度を上げる。
送信機の小さな液晶モニターに、火葬場の全景が映し出された。
さっきまで僕がいた白い建物。
その屋根の上にあるいくつもの排気口。
その一つから、陽炎のような透明な熱気が、ゆらゆらと青空へ溶け出していくのが見えた。
あそこに、じいちゃんがいる。
あの白い手袋の男が管理する、千度近い炎の中に……。
じいちゃんが「使い倒した」と言った入れ物は、一号炉のシステムによって燃えて分解しているのだろう。
僕はさらにレバーを押し上げた。
もっと高い場所から、じいちゃんの最後の旅路を見届けてやりたかった。
「ピー、ピー、ピー……」
……送信機から間抜けな警告音が鳴り響く。
液晶に『高度限界』の赤い文字が点滅する。
おもちゃには、おもちゃの越えられない空がある。これ以上行けば電波が途切れ、この機体はじいちゃんの頬と同じ、ただの冷たいプラスチックの塊になって地面に叩きつけられる。
「……ここまでかよ」
高度はせいぜい二十メートル。
火葬場の煙突の先を越えるのが精一杯だ。
ふと……、モニターの中に映る自分の指先を見る。
じいちゃんの入れ物はもう、方向転換すらできない。リセットはきかない。
でも僕の指先には、まだこの不格好な機体を、そして自分自身を、右へ、左へと操る自由が残っている。
(身体もいつか故障する。なら動いてるうちに後悔しないようにな)
じいちゃんの遺言が、風に乗って聞こえた気がした。
僕は警告音を無視するように、機体を火葬場の周りにある森の方へと旋回させた。
高度制限という「設計図」の範囲内でも、僕の意思で、この翼をどこへでも運んでやる。
九十分という短い時間のなかで、僕はじいちゃんに、この空を見せてやりたかった。
僕という「最新モデル」の入れ物が、まだ元気に動いていることを、あの一号炉の中に届け!
九十分という時間は長いようで、……一瞬のようでもあった。
ドローンのバッテリーが切れるのとほぼ同時に、父さんが建物の裏手まで僕を呼びに来た。
「ハルキ、終わったぞ」
父さんの声は、少しだけ掠れていた。
再び足を踏み入れた火葬場のロビーは、相変わらずホテルような静寂を保っていた。
けれど……、一号炉の前に戻ったとき、そこには先ほどと違う、どこか神聖な気配が漂っている。
「扉、開けます」
あの白い手袋の男が、再びレバーを引いた。
「ギー……」という重い軋み音。
現れたのは、あんなに頑丈だったじいちゃんの面影もない、真っ白な骨の破片だった。
不思議と、怖さはなかった。
冷却を終え引き出されたトレイからは、熱とすべてが削ぎ落とされた後、乾いた炭に似た微かな焦げた匂いが、静寂の中に漂っていた。
その生々しさを消し去る「物質」の匂いの中で、白い手袋の男は眉一つ動かさず、ただ精密な手つきで、じいちゃんだったはずの白い欠片を整然と並べていく。
それはあまりに整然と、まるで最初からそうあるべきだったかのように、ステンレスのトレイの上に並べたからだ。
「これが、喉仏です。仏様が座禅を組んでいる姿に見えると言われています」
スタッフの男は、今度は細長い箸を手にしていた。その所作もまた、一点の迷いもなかった。
あんなに重かったじいちゃんが、たった数キロの、白くて脆いパーツに成り果てた。
じいちゃん、本当に空っぽになったんだな。
僕たちは順番に、じいちゃんの欠片を拾い上げていった。
箸から伝わる感触は、驚くほど軽かった。
この数グラムの欠片の中に、あのダミ声や、ゲーセンで熱くなっていた記憶や、僕の頭を叩いた手のひらの感触が詰まっていたなんて、到底信じられなかった。
スタッフは、骨がすべて骨壺に収まるまで、その場に静かに佇んでいる。
すべてが終わり、最後の一片が収まったとき、彼は骨壺の蓋を丁寧に閉め、白い布で包んだ。
そして僕たち家族に向かって、これまでで一番深く長い礼をした。
それは「一人の人間」の処理を完璧に遂行したという、仕事人としての最後の誇りのように見えた。
男が静かに奥へ消えていく背中を見送り、僕は「お疲れ様でした」と心の中で呟いた。
帰り道の車内……。
膝の上に置かれた骨壺はまだほんのりと、生きていた時のような温かさを感じた。
窓の外を流れるのは、いつもの景色……。
コンビニ、信号待ちの自転車、下校中の中学生……。
みんな自分という「入れ物」を動かし、それぞれの方向へハンドルを切っている。
僕は、自分の腕をぎゅっと握ってみる。
ドローンのプロペラみたいに速く打つ、自分の心臓の音を確かめる。
(……良くても悪くても人生。どうするかは自分次第……)
じいちゃんの最後の言葉が、胸の中で反芻される。
じいちゃんはこの「入れ物」を使い古して、故障して……、最後はあの白い手袋のプロに完璧に片付けてもらった。
僕は空に溶けていったはずのじいちゃんに、心の中でそっと問いかけてみた。
(「じいちゃん、どうだった?」)
リセットのない、一回きりの人生。
最後にゴトンと、ちゃんと出口に落ちたけれど、じいちゃんはあの日みたいに笑っているだろうか……。
「生きて良かったって、思っているかな」
答えは返ってこない。
でも膝の上の骨壺から伝わる熱が、じいちゃんの返事のような気がした。
読んでくれて、ありがとうございます(*´ω`*)




