51 白雪姫
「それで? 結局、ラストシーンを一度も練習しないまま本番を迎えた王子様は一体どんな演技を見せてくれるのでしょうね?」
舞台袖に回ると、ローブを身に纏いフードを深く被りながら片手に林檎を持った人が話し掛けてきた。
「顔すら晒せないような人に、あたしから何かを説明する義理はないわね」
しかし、冴姫はそれを迷う間もなく一蹴していた。
「私は乙葉美月よっ」
ガバッと勢いよくローブのフードを外すと、綺麗な黒髪がなびく。
魔女の乙葉さんだった。
「白雪姫の命を奪う魔女に説明する言葉はないわね」
「だから、魔女である前に乙葉美月として双美冴姫に質問しているのよ」
「本番前なのに魔女としての気構えがまだ出来ていないの? そんな中途半端な心構えで舞台に立つ気?」
「ですから、その貴女の気構えを最初に確かめようとしていたのは私でしょうにっ」
いがみあう王子と魔女。
作中では交錯しないはずのキャラクターだが、確かに本来であればお互いに衝突しあうのが自然な関係性とも言える。
とは言え、クラスメイト同士として争うのは止めて欲しい。
二人とも言ってる通り、本番直前なのだから。
「はーい、魔女様は理知的な方ですから。そんなにすぐに怒ったらダメですよー?」
そんな衝突寸前の魔女の元に、鏡の声……逢沢さんが間に入って宥めようとしていた。
「で、ですが……私は全体の演劇の事を考えて……」
「全体を統括するのと、個人を操作しようとするのは別物ですよ。乙葉さんならその差は分かる筈です。大丈夫、貴女の頑張りを見ている人ならどんな事があっても貴女を責めたりしませんから肩の力を抜いて下さい」
「……そ、そうでしょうか」
ああ、逢沢さんに完全に宥められていると言うか……もはやとろけてしまっている。
さっきまでの威勢の良さはすっかり消えてしまっていたけど、これはこれで主人公とヒロインとしての構図としてはアリなのかもしれない。
「ふん、何よ。逢沢が言ったら納得するのね」
そうして鼻を鳴らす冴姫。
逢沢さんの前では態度が急変するのがお気に召さないらしい。
まぁ、今はそれは置いといてだね。
「実際問題、どうして本当にラストシーンだけは最後までやらなかったの? 大丈夫?」
とは言え、ラストシーンは棺の中にいる私に顔を近づければ観客側からは死角で何も見えなくなるから本当にキスをする必要はないのだけど。
ここまで頑なに一度もやろうとしなかったから、本番でも拒否するのではないかと心配にはなってしまう。
乙葉さんの心配も、あながち的外れではない。
「べ、べべっ、別に出来るわよっキスシーンくらいっ。ちょっと柊子の顔の近くに寄せればいいだけじゃない」
「いや、そうなんだけど……」
それだけを断固拒否してきたのが、あなたなんですけどね……?
「じゃあ、なんで今までしてこなかったの? 何か理由あるの?」
(いや……ほら、一方的にするのは違うと言うか……公衆の面前はさすがに恥ずかしいと言うか……)
「ん、冴姫?」
「楽勝すぎて時間の無駄だから、時短よ時短っ」
あー、ショーカットしていたという事ですか。
……。
それで乙葉さんと押し問答していた時間の方が遥かに時間のロストだったと思うんだけど、それは犬猿の仲が成せる技なのだろうか。
答えは闇の中だ。
「とにかく、あたしなら大丈夫よ。そもそも王子なんてそんなに出番ないんだから。それより柊子の方こそ自分に集中しなさいっ」
そう言って冴姫が身を翻すとマントがはためく。
カッコいいなぁ、なんてその背中を眺めつつ。
冴姫が言っている事も一理あって、私もそんな楽観している場合じゃない。
主役という大役の重圧が、いよいよ私の心臓を鷲掴みにしようとしていた。
◇◇◇
舞台の幕が上がると、目の前に広がる人の数に圧倒される。
いつもなら、その大多数の中にいてステージを見つめる側なのに。
こうして見られる側に立つと、その景色は全然違う。
集まる視線と静寂、これだけ多くの人達が演劇にだけ集中するという非日常。
その中の登場人物に私がいる事に、改めて驚く。
それでも、意識するのは練習での日々。
積み重ねた台詞や動きを、この場の空気に合わせながら表現していく。
つたないし、力不足なのは分かっているけど。
私に出来るのは精一杯頑張ることだけだから。
次第に過度な緊張は薄れていって、演劇の世界に没頭していく。
「おや、こんな所に女の子がいるよ?」
そうして白雪姫の周りには小人が集まる。
クラスメイトの子が私を取り囲んでいた。
「さぁ、この林檎をお食べなさい」
演劇は進み、場面は変わる。
魔女から林檎を手渡されていた。
乙葉さんとも演劇を通して話す機会もたくさん出来た。
この景色は全部、冴姫が作ってくれたものだ。
本当なら関わることのなかった人達の縁を、冴姫がもたらしてくれたのだ。
最初は私が双美姉妹を助けると息巻いていたのに。
気付けば、私も彼女達に助けられていた。
『そして、白雪姫は眠りにつき小人達は悲しみに暮れるのです』
だから、こんな機会を与えてくれた冴姫には感謝したい。
私一人なら絶対にしなかっただろう経験を、彼女は与えてくれたのだから。
「な、なんて美しい女性なんだ……」
『眠る白雪姫を見た王子様は、その美しさに息を呑みます。そして、彼女を呪いから解き放つべく愛の誓いを立てるのです』
冴姫の声が届く。
演劇もいよいよクライマックス。
うっすらと瞼を開けると、棺の前に跪き、緊張した面持ちの冴姫が私を覗いていた。
(い、行くわよ柊子)
私にだけ届く声で話しかけてくる冴姫。
その声に返すように、私は頷く。
(うん)
冴姫は瞳を閉じて顔を近づけてくる。
もちろん、本当に唇を重ねるような事はしない。
私の顔の横の側まで近づけて、音楽が流れると同時に私が起き上がるのを待つだけだ。
だけど、本当にそれだけでいいのだろうか?
私は一度、冴姫と颯花に頬へのキスを要求している。
彼女達はそれに応えてくれた。
こんな時だからこそ、今度は私が返す番ではないだろうか?
思考が冴えてそんな衝動に駆られ始める。
うん、そうだ。
そうしよう。
私は双美姉妹へのバランスを重視している。
颯花には間接キスをしたのだから、冴姫にもそれ相応のキスが必要だ。
(えいっ)
音楽が鳴り、動かないはずの私の身じろぎの音は掻き消されていた。
(ちょっ、と、柊子……!?)
私は思い切って唇を押し当てた。
そこは思っていたよりも筋張っているというか、弾力に欠けるというか。
でも確かな肌の温度と滑らかさはあるんだけど……?
初めての行為ゆえか、返って来る感触に違和感を感じて瞳を開けると、それは冴姫の首筋だった。
(……おや?)
(……!!)
その首筋を押さえた冴姫が、勢いよく立ち上がる。
「め……目覚めたんだね、白雪姫」
「はい、たったいま目を覚ました」
台詞に続き、私は体を起こす。
冴姫が手を伸ばし、私はその手を取って立ち上がる。
「良かった、魔女の呪いから解き放たれんだね」
「はい、貴方のお陰です」
このまま見つめ合って、物語は終幕を迎える。
……はずだったのだけど。
「もう君を離したりしないよ」
「え、ええっ」
冴姫が私を抱きしめてくる。
これは脚本にはない冴姫のアドリブだった。
そんな事を知るはずもない観客席の方からは歓声と拍手の音が鳴る。
(や、やってくれたわね……柊子)
(いや、冴姫の方こそ……なにかな、これ)
(仕返しよ、仕返しっ)
ご褒美の間違いでは?
でも、さすがに人前すぎて恥ずかしいの方が勝っちゃうな。