15 姉の気持ち
背中越しに柊子の温度が伝わって来る。
触れている部分が柔らかくて温かい。
ふわりと香る匂いに胸が詰まりそうで、意識が持って行かれそうになる。
いけない、と。
歩く事に集中して、柊子を意識の中から遠ざける。
自分から背負っておいて変な話だけど、こうして密着していると心が落ち着かずに浮足立ってしまう。
それはあたしにとって、柊子が恩人だからだと思う。
◇◇◇
柊子と橋の上で出会う、数時間前の話だ。
「双美さぁ、姉妹揃ってもっと足並み揃えられないわけ?」
その子達が乙葉派なのか、星奈派なのか、あるいは両方なのか。
さっぱり忘れたけど、とにかくあたし達に大勢で群がってくる女子達にそんな事を言われた。
あたしと颯花は公然と否定されていた。
「あんた達が勝手にやってるグループ分けに混ざりたくないだけなんだけど」
誰かの集団に入る気なんてさらさらない。
そんな事をしなきゃいけない理由もないのに、それが当然かのように強要される。
そういう空気が嫌いだった。
「もういいでしょ、行くわよ颯花」
「話してても平行線だもんねぇ」
話すだけ無駄だと思って、颯花を連れて帰る事にした。
颯花の言うとおり、この話に終着点はない。
「はぁ……これだから、問題児姉妹は」
その言葉が妙に尾を引いた。
「……何が言いたいのよ」
足を止めて、その言葉の真意を問う。
「誰彼構わずそうやって高飛車な態度とってれば問題になるって言ってんのよ。協調性ゼロなんだもん、あんた達を好きな子なんて誰もいないでしょ」
誰かに好かれようとなんてしてもいないし、思ってもいない。
そんな感情はとっくの昔に捨てた。
あたしは颯花がいれば、それでいい。
そう思っていた。
そもそもの話。
あたしは今いるこの子達に向けて言葉を発した事はない。
せいぜい逢沢と、それに構ってくる乙葉と星奈に思った事を言ったくらいだ。
だから他のクラスメイトとは絡みもしていないし、颯花と一緒にいただけだ。
向こうは多勢で、こっちは二人だけ。
空気は掌握されていて、あたし達が何かを叫んだ所で味方はいない。
「……勝手に言ってろ」
あたしの中のどこかで糸が切れる。
何だか疲れてしまった。
別に味方を欲しいと思ったことはないけど、敵を欲しいと思ったわけでもない。
どこにいても、あたし達は否定される。
因果応報なのかもしれないけど、当人以外に否定される程の事ではないはずなのに。
まるで世界があたし達の退場を望んでいる。
最初からあたし達がいない方が、世界は正常に回るのだと。
そう言われているみたいだった。
自分で呆れる程の被害妄想、悲劇のヒロイン気取り。
そうと分かっているのに、重く沈んでいく気持ちを止める事は出来ない。
降り出した雨すらも、あたし達を嘲笑っているようだった。
「雨、すごいねぇ」
「そうね」
「川の水もすごいねぇ」
「そうね」
冴姫と隣合って、橋の上から川を見下ろす。
次第に雨脚は強くなって、制服はずぶ濡れになった。
肌に張り付いていくブラウスも、重くて動きづらくなるだけのブレザーもスカートも不快だった。
「ねぇ、颯花。このまま飛び降りたらどうなると思う?」
「うーん、助かる未来は見えないよねぇ」
「そうよね」
「まぁ、それでわたし達がいなくなっても悲しむ人もいないんだろうけどねぇ」
颯花もあたしと同じ気持ちだったみたいだ。
足元を覗くと、川は奔流を強めている。
この一歩を踏み出せば、楽になれるのだろうか。
解放されるのだろうか。
まるでそれが正解かのように導かれているような気さえする。
どうせ、誰にも求められていないのだから。
いてもいないくて、一緒なのだから。
「あの、そこのお二人は何をしているのかな?」
すると、雨音を消し去るように声が聞こえた。
傘を差していた少女は同じ制服を着ていて、黒髪のショートカットはどこかで見覚えがあるようで、でもはっきりとしなかった。
最初はひやかしに来ているのだと思った。
嫌われ者の姉妹が、頭のおかしい行動をしている。
さぞ滑稽に映る事だろうと思って、さっさと立ち去って欲しかった。
けれど、それはあたしの間違いだった。
その子……柊子は、あたし達を助けようとして自分が橋から落ちてしまった。
まだ決心もついていないあたし達を助けようとして、犠牲になってしまった。
「颯花、あいつ自分が落ちてんだけど!?」
「あ、ああ冴姫ちゃんっ、でも奇跡的に川じゃない所に落ちてないかなっ」
「ほ、ほんとだっ、早く助けないとっ!」
「そ、そうだねっ」
幸いにも、柊子は足首の骨折だけで済んでいた。
歩けるようになるまで時間は少し掛かるそうだが、日常生活を送るのに支障はないと聞いて、あたしは心から安堵した。
柊子が緊急入院となって、部屋に運ばれるまでの間。
病院の待合室で、あたしと颯花は呆然としていた。
「……あいつ、なんであたし達の事、助けようとしたのかな」
「さぁ、分かんないけど――」
少しの間を空けて、颯花は言葉を続ける。
「――でも“好きだからに決まってるじゃん”とは言ってたよねぇ」
「……言ってたわね」
一瞬、あたしの聞き間違いなんじゃないかと思っていたけど。
颯花もそう聞いたのだから、柊子は確かにそう言ったのだ。
「あたし、あの子がクラスメイトで白羽柊子って名前も初めて知ったんだけど」
「わたしも冴姫ちゃんも、あんまり周りの人に興味なかったからねぇ」
それにしたって。
自分の身を挺してまで、助けようとしてくれる人なんて普通いない。
人は人を助けるよりも、傷つける方がずっと楽だからだ。
誰かを傷つける事で相手を貶め、その自尊心は満たされる。
人はそういう醜い生き物だ。
誰かを救おうとするには相手を受け入れ、それでいながら自身が傷つく可能性だってある。
その見返りが得られる保証すらどこにもない。
そんな面倒な事、誰だってしたくない。
少なくとも、あたしはそんな事をされた事がなかった。
「……手を差し伸べてくれる人も、いるのね」
「……そう、なんだね」
自然と一筋の涙が頬を伝っていた。
泣き出すような事はなかったけれど、切れた糸が、また違う糸で結ばれたような気がした。
今まで誰も好かれず、それでいいと思っていて。
けれど、こうして柊子の優しさに触れて、簡単に気持ちが緩んでしまった。
張り詰めていた緊張が解けてしまった。
「でも、あたしのせいで柊子に傷を負わせてしまった」
「わたしのせいでもあるよ、煽るようなこと言っちゃったし」
罪悪感と幸福感がせめぎ合う。
許されざるを行為をしたはずなのに、救われてしまったという矛盾。
それが、あたしの柊子への気持ちを掴んで離さない。
がんじがらめにされた心は、どう形になっているのか自分でも分からなかった。
「この罪は必ず償わないと」
柊子は許してくれるだろうか。
許してくれなかったとしても、贖罪はしないといけない。
そして感謝したい。
“ありがとう”と“ごめんなさい”。
そんなありふれた言葉を心の底から伝えないといけないと思ったのは、柊子が初めてだった。
◇◇◇
「ねー、そろそろ学院が近づいてる気がするんだけど」
「え、あ、そう?」
いけない。
柊子から意識を離そうと思ったら、過去の思い出にまで飛んでしまっていた。
それでも考えているのは柊子の事なんだけど。
「いーよ、もう、下ろしてぇ」
柊子が背中でジタバタと暴れている。
でも、そうはいかない。
柊子が暴れるなら、その分だけあたしが強く引き付ける。
「なんで更に密着度が上がってるのかなっ!?」
困惑する彼女の方に顔を少しだけ傾けて、告げる。
「もう、柊子を離したりなんてしないから」
あたしを救ってくれたあなたの手を、次は必ず掴むと決めていたから。