女王蟻のロジック
現代においても一夫多妻制を認める社会は多いが、男女の立ち位置が逆転した一妻多夫性を執る社会は非常に少ない。或いはフェミニストなどなら、「男性優位主義の所為だ!」と主張するかもしれないが、実は生物界全体を観ても、一妻多夫性は非常に稀なのだ。
理由は至極単純である。
精子に比べ、卵子の製造コストが大きく、貴重だからだ。その為、複数のオスを占有したとしてもメスにはあまりメリットがない。どうせ少数のオスの子供しか残せないからだ。そして、その代わり、メスは慎重にオスを選ぶ傾向にある。
――ただし、例外は存在する。
例えば、蟻や蜂。これら昆虫のメスは、無数の卵を生産し、複数のオスの精子を体内に保存する能力がある為、複数のオスとの交尾を行う。
これは、つまりは、オスとメスが子供を残す体制は、生物学的な特性の制約を大きく受ける事を意味している。
だから、“――或いは”と、村上アキは思っている。条件さえ整えば、人間にだって充分に一妻多夫性を形成する素地があるのではないだろうか? と。
きらびやかな照明。対照的な薄い闇の中にはたくさんの人々がいるのが見える。中には女性もいるが、ほとんどが男性だ。そして、手にペンライトを持って、まるでメスを誘うホタルのようにリズミカルに振り続けている。
村上アキは、パソコン画面の向こう側に広がるそのライブ会場の光景をぼんやりと眺めていた。
会場の客達は、舞台の上に立つアイドルに声援を送っている。ただし、そこに肉体を持った人間の姿はない。舞台の上に立つのは映像で浮かび上がる仮想の存在、姿形も設定も誰かが考え、作り出した、つまりはバーチャルアイドルだ。
強すぎないくらいの赤の髪、背はやや小さめ、細身だが何故か華奢な印象は受けない。そして芯のしっかりとした強い瞳。設定上は火の妖精という事になっている。名前はサラマ・マラサ。火の妖精というだけあって、炎を吐いたり、発生させたりするイリュージョンの演出もあり、その映像の美しさも彼女の魅力の一つになっている。
ただ、その人気は大部分はモーションキャプチャーでキャラクターを動かす、演者の実力によるところが大きい。歌や踊りはもちろん、小粋なトークが持ち味で、一見ぶっきらぼうに思える中に垣間見える繊細さや優しさが多くのファンの心を捉え、現在、SNSの登録者数は200万人を超えている。一口にファンと言っても様々で、純粋にキャラクターとして彼女を楽しみ、娯楽と割り切っている者もいれば、本気で彼女と結婚をして、自分の子供を産んで欲しいと思っている者もいる。そしてその場合は、当然、演者である人物に恋心を抱いているのだ。
“実際に会ったら幻滅しそうだけどなぁ”
などと、村上などは思っているのだが、最近のバーチャルアイドルは演者も美人であることが多いそうだ。
そして、だからこそ、今回のような“事件”が起こってしまったとも言える。
村上アキはITエンジニアだ。セキュリティシステムの運行業務を任されている。そして、ある日、そんな彼の職場に奇妙な客が訪ねて来た。
――警察である。
「刑事課の火田と言います」
と、火田というらしいその警察の男は名乗った。凶悪な顔をしているが、物腰は丁寧で礼儀正しかったのでそれほどの恐怖は感じなかった。ただし威圧感はある。
火田はたった一人で来客室で彼を待っていた。彼は勝手に警察とは複数人で行動するものだとばかり思っていたので少々意外だった。或いは、人手不足なのかもしれない。
「この会社は様々なシステムの運行を任されているそうですね。すいませんが、私はそういった関連には疎い。具体的にあなた方が何をしていて何ができるのかも分かっていないのです。まずは、そこから話を伺いたいのですが」
来客室は小さいが清潔な部屋で、高そうなソファに洒落た感じのテーブルが置いてある。ただ、実用性はあまり良くない。テーブルは膝の高さまでしかなくて、ソファの高さと合っていない。デザインと雰囲気重視。つまりは取引交渉用の部屋である訳だ。彼のようなエンジニアには不似合いな場である。その所為もあってか彼は軽く緊張していた。
「あ、ご安心を、あなたの犯罪を疑ってはいませんので」
その様子を怯えていると勘違いしたのか、火田はそのように説明して来た。村上自身が名指しで呼ばれたのであれば不安を覚えていたかもしれないが、呼ばれたのは“システム運行担当の誰か”で、自分に押し付けられらだけだったので、何かしら事情を知りたいのだろうと彼は予想し、その点は特に心配はしていなかった。
「あの…… もしよろしければ、何があったのかを話してもらえますか? どうしてこの会社が運行しているシステムについて知りたいのか」
村上はおずおずとそう尋ねた。
「その必要があなたにありますか?」
やや高圧的な口調で火田は尋ねて来た。慎重に村上は返す。
「セキュリティ上、容易く社内の情報を他者に伝える訳にはいかないのですよ。念の為、あなたが本当に警察で、捜査に必要な情報を求めているという確証が欲しいのです」
火田は頷くと「なるほど。良いでしょう」と言って名刺を渡して来た。それから、
「警察に電話して事情を話せば、これで私の身分は確認できると思います。そして、何故この会社の運行しているシステムについて知りたいかですが……」
そう言うと、火田はスマートフォンで検索をかけ、何処かのサイトの電子掲示板を見せて来た。
「サラマ・マラサの記事…… 確か人気のバーチャルアイドルですよね?」
「知っていますか? なら、話が早い」
火田は指を組んで肘を膝に置き、やや前屈みの姿勢になると、「実はこのバーチャルアイドルの凍結卵子が、盗難にあった可能性があるのです」と抑揚のない口調で述べて来た。努めて先入観を与えないようにしているように思える。
卵子を凍結させて保管しておくサービスが存在するのだ。もちろん、将来の妊娠に備える為である。
「可能性?」
村上は首を傾げる。
「普通、盗まれたら分かりますよね? まさか保管している企業が紛失するなんて事はないだろうし」
「はい。現在は卵子はちゃんと保管されてあります。ですが、一度は盗まれてしまった可能性がある」
そこで火田はもう一度スマートフォンの画面を見せ、記事を指差した。
“闇オークションで、サラマ・マラサの凍結卵子のクローンが売りに出されている”
そこにはそのように記されてあった。俄かには信じられない内容だ。村上は思わず呟いてしまう。
「……これはよくあるネット上のデマなんじゃないのですか?」
「なら、良いのですがね。
……ついこの前、主に東南アジアを拠点とする犯罪組織が経営している代理出産を請け負う店が摘発されました。貧困家庭の女を雇って子供を産ませる商売です。この中の数人が、身元不明の女性の卵子の子供を孕んでいたんですよ。しかも、遺伝子検査をしてみたら同一人物のものでした」
「それがサラマ・マラサの演者のものである可能性があると? 本人に検査の為の遺伝子の提供を依頼すれば良いと思いますが……」
当然、やっているのだろう。
「依頼は出しましたけどね、断られてしまっています」
令状がなければ、強制はできないのだ。遺伝子情報は究極のプライバシーとも言える。応じたくない気持ちも分かる。
「それでうちに来たという訳ですか。ニューゲートのセキュリティシステムの運営を請け負っているから」
株式会社ニューゲート。凍結卵子の保管をビジネスにしている会社だ。
「ニューゲートには既に行っているのですか? 一応許可を取らないと」
「それについては問題ありません。詳しい記録が観たいと言ったら、ここを紹介されたのです」
それなら村上にまで話が伝わっていても良さそうだと思ったが、連絡を受けた者の怠慢かもしれない。
「……という事は、ニューゲートの方では特に不審な点はなかったのですか?」
「保管用のロッカーが開けられた記録はあったのですがね。混入物を察知し、除去する為に開けたと聞かされました。特に気にするような話じゃないそうです。虫がロッカーに入ってしまう事が偶にあるのだとか」
「はあ」
村上はシステム屋だ。しかも、実はこの会社に勤務し始めたのはつい最近だった。卵子の保管業務までは詳しくない。
頭を掻くと彼は口を開いた。
「うちで担当している業務はセキュリティシステムの管理です。管理者のIDを登録したり、削除したり。また、セキュリティシステムのアップデートなんかも行いますが偶にですね。それ以外の実運用はニューゲート側で行っています。ログも参照できますが、警察が期待しているような内容じゃないと思いますよ」
ニューゲートで不審な点がなかったのなら、ログを参照しても何かが発見できる可能性は低い。
「でも、AIによる監視ログはこちらでしか参照できないのでしょう? そう伺っているのですが」
銀行の貸金庫の管理者が窃盗を行っていたという事件があったが、そういった問題を解決する為に管理者とAIによる2重監視体制を彼の会社では採用していた。人間の管理者に不審な行動や奇妙な様子が観られれば、上席者やシステム担当者に連絡がいく仕組みになっている。
「はい。その通りです。でも、AIが何か不審な点を見つけていたら、ニューゲートにもうちにも連絡が入りますよ」
正直、ログを調べるだけ無駄だと村上は思っていた。だが、厳とした口調で火田はこう言うのだった。
「――それでも見ていただきたい」
真面目なのか拘りが強いのか、それとも何か先ほどの説明以外にも事情があるのか、その口調から村上は彼の強い意志を感じ取った。仕方ないと溜息を漏らす。
「分かりました。それでは調べます。火田さんも直接見たいでしょう? 入室許可を貰ってきます」
村上が「何もなかった」と言ってもこの男は納得しそうにないと彼は判断したのだ。
「……これは見ていて大丈夫なのですか?」
村上の仕事場のデスクの後ろに、火田は少々居心地が悪そうな様子で立っていた。先ほどのような強気な姿勢がない。システムエンジニアの仕事場と言っても一般的なオフィスとほとんど変わりないが、彼にとってはまるで別世界なのだろう。
「はい。サーバーへのログインは、パスワードではなく、鍵ファイルで行っているので問題はありません。ファイルがなければどうにもなりませんから」
そう言うと、パソコンを操作し村上はサーバーにログインをした。それからAIの監視ログを残してあるフォルダに入った。
「保存期間は5年です。いつ頃のログを観たいですか?」
ログファイル名には日付が付けられており、それで記録が参照できるようになっている。
「先月からその半年前までのログを確認して欲しいです。その期間に盗まれた可能性が高いので。もちろん、サラマ・マラサの卵子が、です。言い忘れていましたが、本名は日野幸江なのでそれで登録されていると思います」
あっさり教えられてしまったが、バーチャルアイドルの本名である。本来、知ってはいけない情報だ。業務上、致し方ないし、守秘義務契約もあるが、それでも村上は少し驚いてしまった。
「分かりました」
村上は頷くと、その期間のファイルをダウンロードして来た。専用のアプリに入れ、ファイル内を検索し始める。AIは特別な動きを検知すると、コードをログに残す。そのコードを検索しているのである。しばらく待つと3件ほどヒットした。中身をクリックすると、異物混入を検知した為、管理者がロッカーを開けた事になっている。火田の話の通りだ。一つはロッカーを開けて凍結卵子の容器を取り出した時、もう一つは異物を取り除いて凍結卵子の容器を元に戻した時、残りの一つは清掃の為に開けた事になっていた。ロッカーの中に凍結保管容器があるので、その周りは常温なのだ。カビが生える可能性があるので消毒したのだと彼は判断した。
「やっぱり特に怪しい点はないですね」
村上はそう言ったが、火田は納得していないようだった。
「AIはどうやって人間の行動を不審だと判断するのですか?」
「まず、もちろん管理者以外の人間が入ってくればそれだけで反応します。更に管理者であったとしも、緊張から動きや表情がおかしくなり、体温が上昇していたりすれば、そういった微妙な変化を察知し、総合的に判断してアラームを出します。その為に我が社オリジナルの膨大な学習データを読み込ませてあるのですが、詳細は企業秘密で……
と言うよりも、実は僕も知りません」
「それは誤作動を起こしたりはしないのですか?」
「起こしますね。ただ、過剰に反応するだけでその逆はありません。例えば、風邪で熱があったりしたら検知してしまったりするそうです。その反対に見逃すというケースは極めて稀なんだそうです」
「なるほど。しかし、それなら、平常心で悪事を行える人間がいたら窃盗も可能という事ですよね?」
「その可能性はありますね。ただ、噓発見器を騙すよりも難しいので、もし可能な人間がいたら特殊技能の持ち主です。考え難いかと思いますが」
それを聞くと火田は悔しそうに口を一文字に結んだ。少し考えると口を開く。
「……もし、あなたが今の立場で卵子を盗むとしたら、どんな手段を考えますか?」
「それはニューゲート側の人間と共謀するという前提ですか?」
「その可能性も考慮して構いません」
軽く村上は頭をひねる。
「AIの監視システムをダウンさせるとそれだけで社内の人間に通知が行くようになっているのです。ですから、それも使えない。できるとするのなら、さっきも言ったようにAIを騙せる技能を持った人間に管理権限を与えるくらいですかね…… 」
「そうですか。因みに、あなたはこの会社は長いのですか?」
「いえ、実はつい最近入社したばかりです。ですから、火田さんが指定した期間は別の人が僕の業務を担当していました」
「その人には会っている?」
「業務引継ぎをしましたからね。会っていますよ」
「なら、その人がここを辞めた理由も知っていますか?」
「別に条件の良い就職口を見つけたからだって聞きましたが。そもそもその人、外注社員でして、長くい続けるつもりもなかったのじゃないですかね? スキルがあれば、我々のような技術者は就職先には困らないし」
「外注社員…… どの会社から派遣されて来たか分かりますか?」
「いえ、僕は知りませんが」
「人事なら知っている?」
「知っているかもしれませんが、あまり意味はないかもしれません。恐らく多重派遣でしょうから」
本人が本当に所属しているシステム会社から数社を介して派遣されて来るケースが、未だにこの業界では少なくない。厳密に言えば違法の可能性もあるが普通に行われている。
「つまり、本当の所属は分からない、と」
「はい」
多重派遣には様々な問題点があるが、このように本当の所属が雇い主に分からないというのもその一つだ。その所為で、産業スパイなどの犯罪者が社内に入り込み易くなってしまっている。
村上は少し考えると尋ねた。
「その人を疑っているのですか? なら、ニューゲート側の当時の担当社員ももう辞めてしまっているのですか?」
だからこそ、火田がここまで疑い深くなっていると思ったのだ。共謀相手いなければ、この計画は使えない。
「いえ、辞めていません。ただ、飽くまで噂レベルですがね、ニューゲートには今まで何度か凍結卵子を盗んだのではないかという疑惑があるのですよ。美人で頭やスタイルの良い女性の卵子を盗んでクローンを作っている……」
女性の卵子に盗みを働くほどの需要があるのかどうかは村上には分からなかったが、少なくとも利用価値がありそうだとは思った。
「なるほど。窃盗を行っている社員に管理権限を与えたって事ですか…… でも、それ、うちだけじゃ無理ですよ。申請をして来るのはニューゲート側のお偉いさんですから。そのお偉いさんもグルって可能性もありますが、どうであるにせよAI監視システムの目をクリアしないと窃盗は不可能です」
「ですかね」
そう応えると、急に火田は気弱な様子になった。何故彼がここまでの拘りを見せるのかは分からないが、自信をなくし始めたようだ。
「とりあえず、その辞めていった外注社員の足取りを追ってみます。ご足労をかけました。協力に感謝します」
社交辞令の挨拶を終えると、火田は頭を下げて去っていった。
火田が去った後、村上は何とも言えないモヤモヤとした感覚に襲われていた。何かが引っかかっているのだ。
ネット上の噂だけで、火田がここまで熱心に捜査をするはずがないように思える。恐らく、何か他に凍結卵子の盗難を疑うだけの理由があるのだ。
「もし本当だったら、罪状は窃盗だけじゃないよな。人のクローンは禁止されているはずだし、代理出産も禁止されている。深刻な人権問題になるのは確実だ……」
デスクのパソコン画面の前で彼はそう独り言を漏らす。
人相は悪かったが、あの火田という人からは誠実そうな印象を受けた。だからこそ、憤りを覚え、熱心に取り組んでいるのだろうか?
「……それだけで、あそこまで熱心になるとは思えないな」
――そもそも、卵子のクローンなんて本当にビジネスになるのだろうか?
アイドルの卵子。熱狂的なファンなら喉から手が出るほど欲しいのかもしれない。異常で狂気じみしているように思えなくもないが、かなりの高額を出すファンもいるだろう。ただその場合、問題がある。本物であるという証拠を売り手側が示せないのだ。もちろん、それでも信じるファンもいるだろうが、流石にかなりのレアケースだろう。
「やっぱり、そんなビジネスをやるのなら“子供を作れる”って謳うのが自然だよなぁ」
子供ができたなら、その特徴からアイドルとの子供だとある程度は分かるはずだ。サラマ・マラサはバーチャルアイドルだが、演者の特徴くらいは出回っているだろう。彼は詳しく知らないが、或いは既に演者の写真も漏れてしまっているのかもしれない。
ただし、卵子だけあっても、それだけで子供を作れる人間は少ないだろう。ならば……、
「やっぱり、セット販売だよね」
パソコンで検索をかける。
卵子だけじゃなく、代理出産も込みでの“バーチャルアイドル、サラマ・マラサとの子供を作れる”プラン。それを売っていると考える方が自然だ。或いはネット上の何処かにその噂が転がっているかもしれない、と彼は考えたのだ。
が、少なくとも、そのような販売情報はヒットしなかった。火田が先に示した、“闇オークションで、サラマ・マラサの凍結卵子のクローンが売りに出されている”という記事くらいだ。
「ま、当たり前か」
そんなに簡単に見つかるのなら、とっくに警察が捜査しているはずだ。
だが、その代わりに彼は妙な記事を見つけたのだった。
『バーチャルアイドル、サラマ・マラサ。卵子凍結を行ったと報告』
クリックして詳しく読んでみる。
どうやら、ライブ配信中に、サラマ・マラサはファンに対し卵子凍結を行ったと発言しているらしい。ファンの中には、配信中にかなり下品な「自分の子供を産んで欲しい」などといったコメントをする者もいるのだが、どうやらそのようなファンとのやり取りの間で発せられた言葉であったようだ。
『最近、卵子凍結をして来たから、がんばったらわたしとの子供を作れるかもねぇ。ニューゲートって会社で保管してくれているはず』
そのライブ配信中は売り言葉に買い言葉の冗談だと受け止められたようだったが、彼女が卵子凍結に行ったのは本当だったらしいのだ。それで話題になっていた。
「なるほどね。だから火田さんは、彼女の卵子の窃盗を疑っていたのか」
秘密にしているのならまだしも、彼女は凍結卵子を会社に保管している事をバラシてしまっているのだ。“欲しい”という需要の声は高まるだろうから、狙われる危険も高くなる。加えて、代理出産を請け負う組織も逮捕されていて、同じ遺伝子を持つ誰の物か分からない卵子が複数発見されている。その他にも警察には更に詳しい情報も入っているのかもしれない。思わず関連を疑ってしまいたくなるのも無理はない。
「しかしなぁ…… どうしてサラマ・マラサはわざわざ卵子凍結なんてしたのだろう?」
今はアイドル活動で忙しくて、子供を産み育てる暇はないが、いずれは子供を産みたいと思っている…… とか。その可能性はある。あるが、
「それなら、発表なんてするかな?」
そう疑問に思った彼は、それから彼女の発言を調べ始めた。ファンサービスなのか素なのかは分からないが、かなり際どい発言も多いようだ。ただ、かなり大量にあり、全てを調べている時間はなさそうだった。流石に業務時間中に職場のパソコンで調べる訳にはいかない。
が、その代わり、
「なんかちょっと怪しく思えて来たな。もう少し前任者のやった事を調べてみるか……」
前任者の申請記録を調べ始めた。これなら、一応は業務の一環として誤魔化せる。
通常の業務では恐らく窃盗の手助けなどできない。が、何か彼が見落としている点があるかもしれない。
「あれ? この人、AIのアップデートもしているぞ」
そして彼は、前任者の申請の中に、AIアップデートの記録があるのを発見したのだった。どうやら新たな学習データを読み込ませているようだ……
火田修平は警察署のデスクに座ってイライラした様子でノートパソコンのキーを叩いていた。
“バーチャルアイドル卵子窃盗疑惑”
この件に関わっているのは、ほとんど彼だけだった。盗難届が出た訳ではなく、代理出産を請け負う違法組織が摘発され、そこで発見された卵子に盗難の疑いがあるので所轄の範囲内にある株式会社ニューゲートの調査依頼が署に来ただけの話だったものだから、ほとんどの署員達はこの仕事を面倒臭がり、あまり真面目に捜査をしようとはしなかったのだった。多少、へそ曲がりなところがある彼にはそれが気に食わず、“自分だけでも真面目にやってみるか”と、思い立ったのが彼がこの事件に拘り始めた切っ掛けだ。
が、しかし、調査し始めて意識が変わっていった。
まず、これは彼が思った以上に深刻な人権問題へと繋がる話だった。代理出産をする女性達もそうだが、生まれて来た子供達が真っ当な扱いを受ける可能性は低い。何しろ、法律上は存在してはいけない子供達だ。多くは人体実験や愛玩用として扱われるだろう。使い物にならなくなったり、飽きられたりすれば処分されてしまうかもしれない。
しかし、表面上は損害を受けた人間はいないように思える。卵子を盗まれた女性がもし知ったなら嫌な気持ちになるだろうがそれだけだ。だからこそ、力を入れて捜査されない。捜査されないから、いつまで経っても悪事が行われ続ける。本当の被害者は、表社会では決して声を上げられない無力な子供達である。
“許せねぇ”
と、彼は思った。
そして、調べ始めると、怪しい情報はたくさん出て来た。保管冷凍容器が偽装されて海外に運ばれているだとか、国内に既に卵子のクローン施設があるだとか。もちろん、眉唾の情報も多い訳だが、それらを個別に調べる必要はない。大元である株式会社ニューゲートを調べ、卵子が一時的に盗まれている証拠を見つけられれば良いのだ。
だからこそ彼は意欲的に捜査を開始し、株式会社ニューゲートと契約しているセキュリティシステムの会社を訪ねたのだ。
……が、成果はゼロだった。
冷静になって考えてみると、荒唐無稽な内容で現実感はないように思えて来る。ただ、それでいて、彼は自分が間違っていたとも思いたくはなかったのだが。彼の“イライラ”の原因はその彼の中の認識の齟齬にあるのかもしれなかった。
――そして、
「火田さん。お電話です」
デスクで“バーチャルアイドル卵子窃盗疑惑”の報告書をまとめている彼の元へ突然電話がかかって来たのだった。相手は村上アキという男だった。一瞬迷ったが、協力を求めたセキュリティシステムのエンジニアがそんな名であった事を思い出した。その時に名刺を渡していた事も。それで連絡を寄越して来たのだろう。
「……はい。何の御用でしょうか?」
忘れ物でもしてしまったかと彼は電話に出た。事件情報の期待はしていなかった。これまでの経験から、村上という男が積極的に協力してくれるとは思えなかったのだ。警察に協力をしても余計な仕事が増えるだけで、何のメリットもない。普通は嫌がる。
がしかし、
「AI監視システムを突破できる方法が分かりました。もしかしたら、それを使って犯人は卵子を盗んだのかもしれません」
村上はそう彼に告げたのだった。
「……すいません。わざわざ来ていただいて」
火田は再びセキュリティシステム会社を訪ねていた。オフィス内。目の前には村上がいて、パソコンを何やら操作している。言葉の割に村上には悪びれた様子がまるで見られなかった。
「セキュリティの都合上、ここでしか見せられないのでしょう? なら仕方ないですよ」
火田はそう返したが彼は何も応えない。その代わり、パソコンのEnterキーを大きく叩くと火田に画面を示してみせた。
「これは?」
そこに映っていたのは、何の面白味もない何かの申請画面のようだった。
「これは監視AIへ学習データを読み込ませる為の申請画面です。前任者が申請を上げているのですね。ログ及びに証跡ファイルが添付されてあります」
「これがどうかしたのですか?」
「あなたが帰った後に調べてみたら、奇妙な事に、前任者の方は二度申請を出しているのですよ。ですが、その期間、学習データの更新は一度だけです。
変でしょう?
二度もやった理由は一度目の更新作業時に誤りがあった為と書かれてあります。予定したのとは、別の学習データをAIに読み込ませてしまった、と」
「……それは、大問題なのではないですか?」
「ですね。ただ、実害は発生していないのでインシデント扱いです。障害票も上がっていません」
火田は少し考えると尋ねる。
「つまりは、その学習データに問題があったという話ですよね? どんな学習データを読み込ませていたのですか?」
「説明では別システムの学習データだったって事になっていますけどね、違うのではないかと僕は予想しています」
「嘘が書いてあると? では、あなたはどんな学習データを読ませたと考えているのですか?」
「はい。恐らくは敵対的サンプル込みの学習データではないかと考えています」
「敵対的サンプル? それはどんなものなのですか?」
「文字通りの意味ですよ。学習してしまうとAIの機能が毀損されてしまう。人間には検知できない画像に隠すこともできまして、まあ、その場合は判断するのは難しいですね。それこそAIに頼るくらいしか見抜く方法はないのではないかと思われます」
「よく分からないが、要するにAIに嘘を教えるって事ですね? それをやるとAIが上手く機能しなくなる。だからその間なら、卵子の盗難も可能になると……」
「分かっているじゃないですか」
少し考えると、火田は尋ねた。
「その学習させたデータは残っているのですか?」
「いえ、膨大なデータ量なので残してはいません。削除しています。保管しておくだけでもかなりのコストになるので。残してあるのは、重要なデータだけですね」
「なるほど」
それでは確証は得られないが、逆に言えばだからからこそ怪しいとも言える。自然に証拠を隠滅できる。さっきまでの気落ちした分を取り戻すかのように沸々としたやる気がみなぎって来るのを火田は感じていた。
「お役に立てましたかね?」
村上の問いに力強く彼は返す。
「ええ、大変参考になりました」
村上は嬉しそうに笑うと言った。
「……では、ついでにまだ提供できる情報があるのですが、聞いていただけますか?」
その表情に多少の違和感を覚えつつも、火田はほぼ反射的に「他にも何か見つけたのですか? なら、是非とも教えていただきたいですね」と返していた。
にやりと笑うと村上は話し始めた。
「バーチャルアイドル、サラマ・マラサについてなんですが……」
それが有用な情報で気分を良くさせてから相手の懐に入るという作戦である事に火田が気が付いたのは、村上が全て話し終えた後だった。
車が走っている。警察の車である。
運転席には火田が座っていた。助手席にいるのは村上アキで、彼は澄まし顔でまるで子供のように目を輝かせている。警察の車に乗れて興奮しているのかもしれない。
「――で、本当にお前は、サラマ・マラサの発言をちゃんと記録しているのだろうな?」とやや威圧的な口調で火田は村上に言う。念を押しているのだ。
「ええ、もうバッチリです」
と、明るい声で村上は返す。それから、「喋り方が随分と変わりましたね」と続けた。
「こっちからお願いして協力してもらうんだったら礼儀も守るけどな。自分から勝手に、しかも強引に事件に首を突っ込んでくるような輩にはこれで充分だ。なんだ、この話し方が怖いか?」
「いえ、こっちの方が話し易いです」
「変わってるな、お前」
「よく言われます」
二人は現在、サラマ・マラサが歌のレコーディングしているというスタジオに向かっているところだった。火田が事情聴取を行いたいと連絡を入れると、「レコーディング作業の合間なら構わない」という返答をもらって二人で向っているのだ。
何故村上も同行しているのかと言えば、彼が過去にサラマ・マラサが発言している数々の卵子窃盗を促すかのような内容を記録しているからだった。
……セキュリティシステム会社のオフィスで、「AIを使ったのですよ」と、村上は火田に説明した。
「自宅のパソコンで複数のサラマ・マラサの配信ライブのアーカイブを流してですね、それをAIに倍速で聞かせて、卵子盗難や代理出産を促すような発言があったら、前後の内容を記録しておくようにと指示を出したのです。そうしたら、色々と怪しい内容を拾って来てくれましてね」
それから彼はその見つけた発言の一部を火田に見せた。
“これでもわたしは、君らの子供を産んであげられないのを、ずっと申し訳ないって思っているんだよ”
“もしも、わたしの卵子をコピーして増やせるのなら、君らに配ってあげたいよ”
“わたしは一人しかいないから無理だけど、もし君らがわたしとの子供を大切に育ててくれるって言うのなら喜んで託すよ”
ファンを挑発しているとも捉えられる発言の数々。本気になるファンが現れたとしても不思議ではない。
「ユーザーの情報は、動画サイトを運営している企業に筒抜けですからね。それがマーケティングに応用されているのは周知の事実でしょう」
それを聞くと火田は言った。
「早い話が、サラマ・マラサに大金をつぎ込んでいる連中も分かるって事ですか。そしてその情報が、犯罪組織に流れている可能性もある、と。しかしなら……」
「そうです」とそれを聞いて村上は頷く。
「サラマ・マラサは、自分の卵子のクローンを売る目的で、挑発的な発言を繰り返していた可能性があります。どんなルートかは分かりませんが、卵子窃盗グループと裏で繋がっているかもしれませんね。まぁ、もしそうだったら、窃盗には当たらないかもしれませんが」
自分の卵子のクローンを作る事も、そのクローンを売る事も、そのクローンを元に子供を作る事も全て法律違反だ。しかし、盗難に遭った被害者であるという態ならば問題にはならない。裏で犯罪組織と取引をして、マージンを受け取っているという事がバレない限りは。
話を聞き終えると、火田は村上に礼を言い、そして彼が持っているサラマ・マラサの発言記録の提供を求めた。がしかし、村上はそれを拒否したのだった。そしてその代わり、
「僕もサラマ・マラサの事情聴取に同行させてください。そうしたら、僕が彼女の発言について質問をしますよ。行くつもりなのでしょう?」
そう提案して来たのだった。
火田の頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。“こいつは一体何を考えているのか?”と。
それから村上は、
「今回の件で、我が社のセキュリティシステムに問題がある事が分かりました。ただ、上層部を動かすのには説得力が必要です。その材料が欲しいのですよ」
などと述べたが建前だと火田は判断した。別の理由で捜査に同行したいのだ、この男は。ただ、サラマ・マラサのファンにも思えない。恐らくは単に好奇心が強いだけ…… そう火田は考えた。
この件に意欲を持っている人間は警察にはいない。AIの技術を持った人間は警察にもいるが、だから手は借りられそうにない。自分の手で、サラマ・マラサのライブ配信をチェックしている時間もない。比較考量するのなら、その提案を受け入れた方が得策だと火田は判断した。
「分かりました。良いでしょう。民間の捜査協力者として同行してもらいます。ただし、私の指示には従ってもらいます」
その返答に村上は「よろしくお願いします」と、にこやかな笑顔を見せた。
レコーディングスタジオを訪ねると、火田と村上は待合室のような場所に通された。応接室が使用中の為に使えないかららしい。対応は丁寧だったので、嫌がらせではなく、恐らくは本当なのだろう。何しろこちらは突然連絡を入れたのだ。準備ができていなくても致し方ない。カジュアルな場所で、緊張感はまるでなかった。橙色の長椅子が置かれている。二人がそこに腰を下ろしてしばらく待つと、サラマ・マラサ…… の演者、日野幸江が現れた。彼女は酷く不機嫌そうな様子だった。
バーチャルアイドルは、演者も美人なケースが増えていると聞いてはいたが、本当に美人だった。きつそうな印象以外に欠点はない。細身であるにもかかわらず、胸などはかなり存在感があった。或いは、そう見える姿勢を身に付けていて、自然と執ってしまうのかもしれない。
「私は警察の火田と言います。こちらはセキュリティシステムのエンジニアをやっている村上さん。捜査に協力をいただいています」
そう火田が挨拶をし、村上が会釈をすると二人を一瞥しぶっきらぼうに彼女はこう言った。
「あたし、警察の事情聴取を受けるような覚えなんてないのですけど?」
マネージャーらしき女性が、その態度の悪さに慌て、
「すいません! 休憩時間を邪魔されて機嫌が悪いんですよ」
と謝罪をして来た。
どうか疑ってくれるなとでも言いたげな様子だ。
火田はどういう態度で接しようかとわずかばかり逡巡したが、結果、やや高圧的にいくことにした。
「日野さんに前向きに協力してもらえるのなら、直ぐに終わると思いますよ」
「あら? こういうのって任意じゃないのかしら?」
「任意ですけどね、我々としても仕事なものですから、あっさりと諦める訳にはいかないのですよ」
そう言い終えた後で、“村上は仕事じゃないけどな”と彼は心の中で呟く。
「――それで、何をお聞きになりたいのでしょうか?」
場の空気が険悪になる前にと思ったのか、マネージャーが慌ててそう言った。火田は嘆息すると、口を開く。この人も大変だと思いながら。
「実はあなたの凍結卵子の盗難が疑われていまして……」
それから彼は海外で代理出産を請け負う犯罪組織が摘発された事、身元不明でしかも全く同じ遺伝子の卵子が複数発見された事、それらにクローンの可能性がある事などをつらつらと説明していった。
「実は日野さんが凍結卵子の保管を任せている株式会社ニューゲートには以前から卵子が一時的に盗まれているという噂がありましてね。もしそれが本当なら、日野さんの卵子も盗まれてしまっている可能性があるのですよ」
相変わらず、日野幸江は不機嫌そうな顔をしていたが、話を聞き終えるとやや落ち着いた口調で言った。
「話は分かったわ。でも、あたしに話せる事なんか何もないわ。その話が本当だとしたら、あたしは単なる被害者じゃない」
それを受けると火田は村上と顔を見合わせた。アイコンタクトで了解し合うと、火田が口を開く。
「もちろんあなたは被害者です。ですが、それでも疑問はありましてね。
……どうして日野さんは、わざわざ盗難の疑いのあるニューゲートを卵子の保管会社に選択したのですか? 他にも会社はあったでしょう?」
「そんなの知らないわよ。卵子盗難の噂があるだなんて初めて知ったわ」
「卵子の保管はあなたにとってとても重要ははずだ。なのに、調べもしなかったのですか?」
「手配は全てマネージャーに任せたの。だから、知らない」
マネージャーはそれを聞いて、驚いた顔を見せる。“嘘だな”とそれで火田は判断した。怪しい。そこで村上が口を開いた。
「日野さんは、サラマ・マラサを演じている時に、度々、卵子凍結に興味があるかのような発言をされていますよね? それなのに自分では調べなかったのですか?」
「あなた、セキュリティシステムのエンジニアでしたっけ?」
「はい。ニューゲートのセキュリティシステムも担当しています」
「なら、過失を犯した犯人じゃない。よく偉そうに言えたもんね」
「はあ。まだ可能性ですが、過失があった可能性があるからこそ、反省をする為に情報が欲しいのですよ。正直、あなたのように公の場で“卵子凍結をする”と発言される方がいるとは思っていなかったので、誰か特定の個人の卵子が狙われるなんてケースが起こり得るとは想定していませんでした」
それを聞くと彼女は嫌そうに溜息を漏らす。
「あー、面倒臭い。分かったわよ、正直に話すけど、卵子凍結はビジネスで言ってただけなのよ。そー言うと、喜ぶファンがいるわけよ、“サラマちゃんの卵子が欲しい~”なんてコメントがついてね。本気のファンもいるし、冗談だと分かった上で乗って来るファンもいるけど、とにかく盛り上がるワケ。だから定期的にネタにしていただけで、本気で興味があったんじゃないの。
……これは分かってくれると思うけど、ネタを出すのも大変なのよ、あたし達は」
「なるほど。ありそうな話ですね」
「でしょ?」
それから村上は少し考えると口を開く。
「でも、あなたはこんな発言もされていますよね?。
“男は精子をたくさんつくれるから、たくさん色々な人とエッチしてあげられる。そーいうのって前は軽蔑していたのだけどさ、バーチャルアイドルになってその気持ちが少し分かっちゃった。こんなにたくさん愛して欲しいって人がいるのなら、やっぱり愛してあげたいって思うじゃない?”」
「それがどーしたのよ?」
「まるで、卵子がたくさん作れるのなら、たくさんの男性の子供をつくっても良いって言っているように聞こえますが?」
それを聞くと、日野は肩を竦めた。
「ちょっとあたしの立場が男だったらって想像しただけよ。きっとファンの女の子を食いまくっているのだろうなって。そーいう男って珍しくないでしょう?」
「いますね。“遺伝子をより多く残す”方略って意味じゃ、有効ではありますから。育児のようなコストのかかる作業はその女性に任せて、自分はより多くの女性に子供を産ませる為に別の女性に手を出す…… それでは健康に子供が育つ可能性は低くなりますが、“数打てば当たる”ってやつで…… 念の為断っておきますが、そーいう男性ばかりって訳じゃないですよ?
因みに、動物の浮気行動には脳の受容体が関係しているという説があります。或いは、人間の場合も当て嵌まるかもしれませんね」
「へー 人間も動物だってことね」
「その通りだと思います」
そこで火田は口を開いた。今のままじゃ、何も聞き出せないと思ったのだ。
「とにかく、あなたはファンの男性をその気にさせるような発言を繰り返していた。そして、卵子凍結を行うとも言ってしまっている。
――なら、卵子が盗まれる可能性があるとは考えなかったのですか?」
それに日野は軽く溜息を漏らした。
「思わないわよ。普通は思わないでしょう? そんなSFみたいな話が、実際に現実で行われているだなんて想像もしなかったわよ」
かつてはSFでしか存在し得なかったバーチャルアイドルの演者である彼女がそう訴えるのは、まるで皮肉の効いたジョークのように聞こえた。彼は何か不審な点がないか、じっくりと彼女の様子を観察する。
ややヒステリックな反応は犯行を誤魔化そうとしているように思えなくもないが、この程度なら本当に休憩時間を邪魔されたくないだけだと言われても納得はできる。どうにも判断が難しかった。
彼が考え込み始めた所為でできた間を居心地悪く感じたのか、唐突に彼女は口を開いた。
「あのさ。代理出産を請け負う犯罪組織が摘発されたって言っていたけど、もし仮にあたしの卵子のコピーがたくさん作られていたとしたら、全て没収されちゃったってこと?」
火田は首を横に振る。
「いいえ、予想に過ぎませんが、そこで発見されたあなたの卵子は極一部だと考えられています」
それを聞くと彼女は「そう」と返し、何故か微笑みを浮かべた。
“なんだ? この反応は?”
彼は不可解に思った。
自分が微笑んでしまっていた事に気が付いたのか、彼女は慌てて言い訳をした。
「コピーとはいえ、自分の貴重な卵子だもの。全滅していないと分かってホッとしたのよ。殺されちゃうのは可哀想でしょう?」
その返答に彼は首を傾げた。
妙な言い方だ。売って儲けられるからかと猜疑したが、普通に考えれば代理出産の業者に届いた時点で彼女に金は渡っているだろう。あまり関係ないはずだ。
彼はそれから探りを入れようと口を開こうとしたが、そこで「すいません。そろそろよろしいでしょうか? 次のレコーディングの準備がありますので」とマネージャーらしき女性から言われてしまい、日野への事情聴取はそこで終わりになった。
帰りの車の中、
「すいません。あまり成果は得られなかったみたいで」
そう助手席から村上は火田に謝った。
「構わねーよ」と、それに火田は返す。
「捜査ってのは成果がある方が稀なんだ。一度の事情聴取でいつも何か分かるってなら楽だけどな。色々な事に何度もチャンレンジしてようやく進展がある。そーいうもんなんだよ」
ぶっきらぼうな言い方だが、村上を慮っている。根が真面目で優しい男なのだろう。
「それに、案外成果はあったのかもしれないって俺は思っているけどな。あの日野って女、妙な態度だったろう?」
「……という事は、火田さんは彼女が自分の卵子を犯罪組織に売ったと思っているのですか?」
「いや、分からねぇよ。ただ、何かやっているのは確実だと見た。あの女の周囲を洗ってみる価値はありそうだな」
村上はその言葉に頷いた。
“何かやっている”のは同意見だったからだ。しかしそれでいて彼は妙な違和感も覚えているのだった。先の事情聴取の途中で彼女が垣間見せたホッとした表情。あれは一体なんだったのだろうか?
それに……
これは単なる直感に過ぎないのだが、彼女は演技をしているように彼には思えていたのだ。本当は機嫌は悪くないのに、悪い風を装っているような。もし、隠しているだけで本当は機嫌が良かったとするのなら、どんな理由が考えられるだろう?
村上が考え込んでいると、不意に火田が話しかけて来た。
「しかし、実を言うと、ちょっと困ってもいるんだよ」
「どうしたんですか?」
「人手不足だ。お前を薄々勘付いているかもしれないが、警察にこの件に首を突っ込みたがっている奴は少ない。面倒臭がっているんだな。だから、あの女の周囲を調べると、お前の前任者について調べられなくなる」
「ああ、そうなんですか。やっぱり……」
火田以外の警察関係者は出て来る気配がないので、少し変だと彼は思っていたのだ。
少し考えると、彼はこう提案した。
「それなら、僕の前任者に関しては、僕の方で調べておきましょうか?」
「できるのか?」
「ま、知り合いの営業を当たれれば何か分かるかもしれないってくらいですが。それにAIに食わせただろう敵対的サンプル込みの学習データはどこから手に入れたのか、どうやって持ち込んだのか、僕の仕事としても調べた方が良いのですよ。上司に話してみたら、問題視していたみたいですから、きっと仕事の一環として認めてもらえると思います」
それを聞くと火田は頭を掻いた。
「本来は、こーいう場合は民間人に甘えちゃいけないんだけどな。悪いが他に手がねぇ。お願いできるか?」
「はい。任せてください」
「頼んでおいてあれだが、危険な事はするなよ? 危なくなりそうだったら、俺に連絡して大人しくしておけ」
「端からそのつもりです。こんな事で殺されたりしなくないですからね」
彼が笑うと火田も笑った。
少しの時間で、随分と彼は火田との信頼関係を築けたようだった。
村上の前任者が窃盗グループと通じている可能性がある事を告げると、スマートフォン越しに話していた営業の口調がいきなり変わってかなり焦り始めた。前任者は彼の営業が担当していた訳ではなかったのだが、それでも同じ会社なのだ。関係はある。
随分前から、“多重派遣”が産業スパイなどの犯罪者を入り易くさせてしまう問題点については指摘されていたから当然だろう。知っていて営業を請け負う会社はそれを放置していたのだ。因みに彼は一緒に働いていた外国人が「入国管理局に行ってきます」と言って休んだきり、二度と出社して来なかったという体験をしている。
「この情報を持って来たのは警察ですから、下手に誤魔化そうとはしない方が良いですよ」
責任逃れの為に嘘を言いそうな雰囲気を敏感に感じ取った彼がそう告げてみると、営業は観念したのか、前任者が職場を辞めた後の足取りを追ってみる事にしてくれたようだった。
「取り敢えず、前任者に関しては営業からの報告待ちだな」
その間に、彼は敵対的サンプルを学習データに紛れ込ませる方法について調査する事にした。
一体、どうやったのだろう?
予め敵対的サンプルが混入した学習データを用意しおいて差し替えられるのなら簡単だが、流石に難しいだろう。データ量が大きくなってしまうし、チェックを通りに抜けられるとは思えない。AIのアップデートサーバーへは会社から支給されたパソコンでしかアクセスできないから(クラッキングも可能だが、それをするのならわざわざセキュリティシステムの会社で勤務する必要はない)、見つからないように短時間で作業を済ませる為にも敵対的サンプルだけを会社用のパソコンに入れたと考えるのが妥当だろう。
――ただし、
会社用のパソコンは外部メモリを接続すると、それがログに残るようになっていて、許可のないメモリが差し込まれた場合は直ぐに発覚し説明を求められる。このセキュリティを突破する技能を持った者もいるだろうが、かなり厄介な作業になる。自分が犯人ならそんな手段は採らない、と彼は考えた。
「それよりも……」
彼は表計算ソフトを疑った。ワープロソフトなどでも同じ事ができるのだが、実は表計算ソフト内には別のファイルを添付できる。敵対的サンプルは、それだけではウィルスでも何でもないからウィルス対策ソフトにも引っかからない。表面上は表計算ソフトのファイルを装って中に敵対的サンプルを潜り込ませる事は可能だろう。
そう考えると、彼は会社用のメールサーバーを管理している部署に問い合わせのメールを投げた。
『僕の前任者の方ですが、盗難を幇助した疑いがあります。表計算ソフトを外部から受信した履歴が残っていませんか? 何回かに分けていると思うのですが』
一度だけでは単なるゴミデータ。しかし、融合させれば意味のあるデータになる。そんなやり方をしていると彼は予想したのだ。その方が一度のデータ量を少なくできるから疑われ難くなるし、見つかった時の誤魔化しも効く。
犯罪絡みだからだろう。直ぐに返信が来た。
『前任者の方は、作業月報用のファイルの雛形を何度もメールで受信しているようですね』
中身も調べてくれたらしく、正体不明のファイルが紛れ込んでいたとの事だった。個人情報も絡むので実際のファイルまでは貰えなかったが、それだけでも充分に価値があるし、彼がチャットで「その紛れ込んでいたファイルは敵対的サンプルではないですか?」と指摘すると調べてくれると返信があった。
それを材料に彼は更に営業に圧力をかけた。「犯罪の証拠が出そうですよ」と。そして、同時に火田へも連絡を取ったのだった。
営業が喫茶店でコーヒーを飲んでいる。特に不審な様子はなく、緊張もあまりしていないように見える。それなりに経験を積んでいるから、場慣れしているのかもしれない。或いは演技かもしれないが。どちらにせよ、営業としてのスキルが活きているのだろう。
これから村上の前任だった男が営業の元へやって来る。彼は向かいの建物の中からその様子を観察していた。隣には火田の姿もある。火田が言った。
「そろそろ時間か」
「そうですね」
営業から前任者と連絡が取れたと報告があったのだ。メールサーバーの管理者が調べてくれ、ファイルにこっそりと添付されてあったファイルが間違いなくAIの機能を毀損させる敵対的サンプルだと既に分かっている。そのファイルをコピーして増幅させ、学習データと融合させたのだ。AIに学習させたという証拠はまだないのだが、状況から判断してほぼ確実だろう。そしてこれは器物損壊罪に当たる。
しかも、改めて凍結卵子保管室への出入り記録を調べてみたところ、ロッカーは開けていないが短い時間不自然に入室しているものがあった。恐らくは、AIを機能不全にできているか検証していたのだろう。
「もう充分に逮捕できるだけの証拠は集まっているんだがな、証言も得られた方が更に堅い」
そう火田が主張した。
だから営業に呼び出してもらい、話を振って前任者が話を漏らすように仕向ける作戦に出たのだ。
がしかし、
「来ねぇな」
と火田がこぼした。もう約束の時間から30分も経過している。それなのに、前任者は一向に現れる気配がない。
村上は表情を曇らせる。
「……まさか、勘付かれたのですかね?」
前任者が一時的に犯行に加担しただけなのか、それとも元々窃盗グループの一員だったのか確証は得られていないが、少なくとも村上達は前者だと判断していた。システムの運営には特殊なスキルが必要だから、卵子窃盗の為だけにわざわざ身に付けるとは思えないし、営業だって最低限の職歴のチェックくらいはするからだ。その予想が当たっているのなら、セキュリティシステムの仕事を離れた後も同じくエンジニアとして働いているはずで、だから「割の良い仕事がある」と言って誘い出せば、来る可能性は高いと考えたのだ。
「……意外に慎重な人だったのですかね?」
AIを機能不全にするといった大胆な犯行をする男だ。リスク管理能力は低いと彼は判断していたのだが。
「いや、それならそもそも営業の話に乗って来ないだろう」
火田がそう返すのを聞くと、彼は首を傾げた。
「なら、急に予定を変えたって事ですかね?」
単に忘れてしまっているだけの可能性もあるが、何か彼は腑に落ちなかった。胸騒ぎがする。それで思わず訊いてしまった。
「何処からか情報が漏れていた可能性はないですかね?」
だからこそ警戒したのかもしれない。
「一応断っておくが、警察は漏らしてないぞ。そもそも前から言っている通り、この件に関わっている警察関係者は少ない。あれからも俺一人で捜査しているくらいだからな。しかも、サラマ・マラサ関連の情報収取しかしていないし」
「僕の方も大丈夫だと思うのですが……。営業さんを信頼するのなら、ですが」
それが本当なら考え過ぎかもしれない。
彼はそう考えたのだが、そこでふと気が付いた。
「“サラマ・マラサ関連”って、また彼女にコンタクトを取ったりしたのですか?」
「ま、多少はな。それがどうかしたのか?」
彼はそれには答えず、おもむろにスマートフォンを取り出した。そして検索をかけ、数十秒後に頭を抱える。
「火田さん。分かりました。恐らく原因はこれです」
それからスマートフォンの画面を火田に見せた。
「これは……」
火田は目を大きく見開く。
“サラマ・マラサが激白。警察の事情聴取を受けた! なんと、彼女の凍結卵子が盗難された可能性があるらしい!”
そこにはそのような記事のタイトルが踊っていた。
どうやらライブ配信で、サラマ・マラサが警察が凍結卵子盗難事件を捜査している事を世間に向かって発信してしまったようなのだった。
バーチャルアイドルの事務所。
こぢんまりとした事務所で、言われなければバーチャルアイドルを扱っているとはきっと分からない。
サラマ・マラサ…… の演者、日野幸江は先日よりも機嫌が悪そうだった。
今回も一応は事情聴取の態だ。ただ、捜査内容を彼女が公にした事は公務執行妨害に当たる為、かなり彼女の立場は危うくなっていた。しかし、それでも彼女はまるで悪びれず、応接室のソファで不遜な態度で座っていた。
「だから、ネタに困っていたのよ。前も言ったでしょう? ネタを出すのが大変なの。それでつい言っちゃったの。警察が来たなんてキャッチ―なネタを目の前にぶら下げられたら思わず使っちゃうわよ」
こっちが悪いとでも言いたげだ。
火田も流石に苛立ちを隠さなかった。
「あのなぁ…… あんた、自分がやった事を分かってるのか? 公務執行妨害で直ぐにでも捕まえられるんだぞ?」
「だから積極的に協力してるじゃない」
積極的かどうかは分からないが、確かに彼女は協力をしていた。今現在、彼女のパソコンとスマートフォンがAIによるサーチを受けている。AIに接続されたノートパソコンの画面上で、処理が進む様子が観察できる。事情を話し、警察の装備の一つを借りて来たのだ。人員までは割いてくれなかったので特別に村上が操作しているが。
「でも、一応、断っておくけど、何にも出て来ないわよ? あたし、窃盗グループとなんか接点ないもの」
AIなので、できる限りプライベートな情報は避けて有用そうな情報だけをピックアップしてくれるとはいえ、抵抗せずに個人の情報機器を渡して来たからには“何も見つからない”という自信があるのだろう。実際、途中経過ではあるが、AIが拾って来ている情報には怪しいものは何も見当たらなかった。食事や仕事の約束だったり、単なるスパムだったり。火田は難しそうな顔を浮かべている。
そもそも、“警察の捜査情報を配信で公にする”のは、窃盗グループに情報を伝える手段として合理的ではないのだ。繋がりがあるのなら、今までと同じ方法で教えれば良いだけだし、そんな事をすれば絶対に彼女は警察からマークされてしまう。彼女は馬鹿ではないから、それくらい分かっているだろう。
ならば、今は窃盗グループと連絡を取る手段がないか、本当に繋がりがないかのどちらかという事になる。
火田はどうやら前者だと思っているようだった。或いは、彼が捜査しているので、窃盗グループと連絡を取れなくなっていると考えているのかもしれない。窃盗グループとの連絡にはスマートフォンやパソコンを使わなかったとするのなら矛盾はない。矛盾はないが。
“……彼女にそこまでのリスクを冒す意味は果たしてあるのだろうか?”
窃盗グループの逮捕によって、自分の犯行が明るみになるのを恐れている…… という可能性はあるかもしれない。しかし、その所為で警察に疑われ、力を入れて捜査されてしまったら本末転倒だ。それに……
「――あのね、あたし、自慢じゃないけど、お金はそれなりに持っているのよ。わざわざ自分の卵子を売ったりなんかしなくても。いくらで売れるかなんて知らないけどさ、なんでそんな事をしなくちゃならないのよ?」
彼女には窃盗グループに加担する動機がないのである。状況や彼女の数々の不審な発言から彼女が何かしら関わっている可能性を村上達は疑っていたが、そこまでして卵子を売りたい理由が分からない。貧困に苦しむ売れないアイドルならまだしも、彼女は非常に人気が高く高収入だ。
“動機は金じゃない。ならば、そもそも売ってすらいないのかもしれない。だけど、彼女は明らかにファンや窃盗グループに自分の卵子を盗むように挑発していた。それに、きっと、ニューゲートが保管している卵子が盗まれている噂も知っていた…… あの時のマネージャーの反応を考えるのならきっとそうだ”
そこでまた新たにAIが情報を彼女のパソコンからピックアップして来た。メールファイル。クリックして調べてみると、それは卵子凍結に関するやり取りで、彼女はそれなりに高額の費用を払っているようだった。
“……金以外で何か彼女の動機になりそうな事ってあるだろうか?”
彼は考える。
卵子凍結を行うのは、当然、自分の子供を残す為だろう。卵子をクローン技術で増やせるのなら、より多くの子供を残せるのも当然の話で……
そこで彼は彼女の数々の発言を思い出した。
“これでもわたしは、君らの子供を産んであげられないのを、ずっと申し訳ないって思っているんだよ”
“もしも、わたしの卵子をコピーして増やせるのなら、君らに配ってあげたいよ”
“わたしは一人しかいないから無理だけど、もし君らがわたしとの子供を大切に育ててくれるって言うのなら喜んで託すよ”
――まさか、あの発言は全て本心だったのか?
そう思った瞬間、自然に村上は口を開いていた。
「日野さん…… もしもですが、あなたの卵子のクローンから生まれた子供が、ある日、“生活に困っている”と言って支援を求めてきたら、あなたはそれに応じますか?」
すると彼女は即答した。
「そりゃ、支援するでしょう? 自分の子供なのよ? もちろん、確証があった場合だけどね」
それを聞くなり彼は再び質問をした。
「あなたは自分を卵子を奪われた被害者だって言っていましたよね? それなのに支援するのですか? 道理で言えば、あなたが負担をする理由はないはずだ」
そこで彼女は初めて動揺を見せた。
「道理で言えばね? でも、道理だけじゃ割り切れないわよ。どんな理由や経緯で生まれたにしろ、それはあたしの子供達で、子供達には罪はないもの」
その発言に、彼は「なるほど」と呟く。そして火田に目を向けると言った。
「火田さん。分かりましたよ。彼女は少なくとも法的にはまったく問題がありません。いえ、警察が捜査している事を公にしてしまた公務執行妨害はありますが、それ以外では罪はないはずです」
火田はそれに不思議そうな顔を浮かべる。
「なんだ突然? お前は何を言っている?」
「僕らは彼女の目的をずっと勘違いしていたのですよ。彼女の目的は金じゃない。自分の子供をより多く残す事こそが、彼女の本当の目的だったのですよ。
いや、もしかしたら、それもちょっとニュアンスが違うのですかね、日野さん?」
そこで彼はゆっくりと日野幸江…… 数多くの男達が大金を注ぎ込んでいるバーチャルアイドル、サラマ・マラサを見据えた。彼女はそれに何も応えなかった。今までとは違った少しだけ悲しそうな表情を浮かべている。
「金にがめついだけの人間は、誰かがどこかで勝手に自分の卵子を盗んで産ませた子供を“支援する”なんて即答はしませんよ」
「いや、それだって嘘かもしれねぇじゃねぇか」
「そうですね。でも、そう考えると全てがスッキリするのです。彼女は窃盗グループと関りなんかなかった。だから連絡手段がない。だから公の場で警察が捜査している事を警告するしかなかった。だから僕らが彼女のスマートフォンやパソコンを調べても、こうして平気な顔をしていられる」
「確かにそうだが、“自分の子供をより多く残す”って、なんだそりゃ? なんでそんなのが動機になる?」
「別に不思議な話じゃないでしょう? 男だってたくさんの女性とエッチしようとするじゃないですか。それも、彼女自身が言っていましたが」
そこで村上は日野の様子を観察した。自ら話す気はないようだと判断すると再び口を開く。
「“これでもわたしは、君らの子供を産んであげられないのを、ずっと申し訳ないって思っているんだよ”
一番僕が気になった彼女の発言はこれです。エンタメだと割り切っているファンは別として、一部のファンは本気で彼女に恋をしています。そしてそういったファンは彼女に大金を使っているとも聞きます。そこまで詳しい訳じゃないですが、何百万って額を使っているって話もある……
彼女はきっとそれに罪悪感を覚えていたのじゃないですかね? だって彼女の為に時間とお金と労力をかけてくれているのだから。
でも、当然ですが、普通は彼女と恋仲になったり、彼女に自分の子供を産んでもらう事なんかできっこない。
――ですが、普通じゃない手段ならば可能なんですよ」
そこまでを説明すれば、火田にも彼が何を言いたいのか理解できたようだった。
「つまり、あれか? この女はファンに自分との子供を作るチャンスを与える為に卵子凍結をして窃盗グループに意図的に盗ませたってのか? わざわざ盗難が噂されている会社を調べて。そんな馬鹿な……」
「馬鹿かどうかは分からないと思いますよ? 何しろ彼女自身にはリスクがありませんから。窃盗グループが勝手に犯罪をしているだけで彼女の罪にはならない。ま、彼女の卵子を購入するファンも罪を犯す事になってしまいますが」
それから彼はゆっくりと日野を見やった。
「あなたは配信内で発言する事で、窃盗グループやファンを操ったのですね。いえ、ファンに関してはそう表現するのは心外ですかね?
“自分との子供をつくれるチャンスがある”
そう教えてあげたって感覚でしょうか?」
その問いかけに、日野…… サラマ・マラサはまずは溜息で返した。
大きく。
それから、
「あ~あ、バレちゃったか。ま、バレても別に良いのだけどね。どうせ罪にはならないだろうし」
などと吐き出すように言った。
「可能性があるとすれば、煽動罪くらいですが、多分平気でしょうね。直接、犯行を促した訳じゃありませんし。単にチャンスがあるって伝えただけです。あなたとしては本当に窃盗グループがあなたの卵子を狙うという確証もなかったのでしょう。だから、僕らが初めに事情聴取をした時に、卵子のクローンが作られている可能性があると知って少し喜んでいた」
「あ、気付かれていたんだ? あたしの演技力もまだまだだなぁ。女優は無理か」
「いえ、充分にいけそうですが」
それから軽く溜息を漏らすと彼女は続けた。
「そうよ。バーチャルアイドルをやっている内に、どんどんと“悪いな”って気持ちが大きくなってきちゃってさ。他のアイドルの子達がどう考えているのかは知らないけど、これってファンを騙しているようなもんじゃない。思わせぶりな発言をして、ファンに媚を売ったりもしているのだし。本気のファンもいるって知っているのに」
その時、AIがまた情報をピックアップして来た。もう無駄な情報だが。
「その内に、中国とかだと人間の卵子の違法クローンが行われているって話を知ったのよ。代理出産の話もね。
だから、“もしかしたら、引っかかるかも”って気分でそーいう連中が狙って来そうな発言をするようになった。断っておくけど、本気じゃなかったのよ? でも、罪悪感は和らいだ。ファンを騙しているのじゃない。ちゃんとチャンスは与える努力はしているって自分を誤魔化せた。それだけのつもりだったのだけどさ……」
「卵子のクローンが本当に作られているかもしれないと知って、あなたは喜んでしまった?」
「そ。自分でも意外だった。あたしの子供を作った人達が、確りと責任を持って育ててくれるとは限らないのにね」
それを聞くと村上は笑った。
「ファンを信頼しているのですね?」
彼女は苦笑する。
「ハッ。どーなのかなぁ? でも、大切に育ててくれたら嬉しいなとは思っているわね」
人道的に許されない事をしてしまっている。その自覚は恐らくあるのだろう。しかし、だからこそ、自分の子供が苦しんでいたら、救いの手を差し伸べる心の準備を彼女はしているのだ。
「で、どーするの? あんたら、世間にこの事をばらす?」
村上はそれに何も返せなかった。道徳だとか倫理だとかとは全く別の感覚で彼女の告白を受け止めしまっていたからかもしれない。
そこで火田が彼の肩を叩いた。交代するように、彼女に向けてこう言った。
「あんたの子供に関しては、もし何かあったら、あんたに必ず責任を取らせる。男にもだけどな。それに関してはだから俺としては別に良い。
だがな。あんたが窃盗グループを逃がした事で犠牲になる子供がたくさんいるんだ。それだけは絶対に俺は許さない」
彼女はそれには何も返さなかった。そっぽを向く。火田は軽く溜息をつくと村上に言った。
「そろそろいくぞ。もうここに用はないだろう?」
彼はそれに無言で頷いた。
帰りの車の中。
暗い夜道を眺めながら、呟くように村上が口を開いた。
「女王蟻っているじゃないですか。“王”って名前が付いているから偉いのだってつい思っちゃいますけど、実際はただひたすらに子供を産み続けるだけの奴隷のような存在なんだって聞いた事があるんです」
「突然、どうした?」と火田が顔をしかめる。
「いえ、バーチャルアイドルって過酷な仕事なんだって話を思い出しましてね。ファンを喜ばせ、期待に応える為に日夜努力をし続けている……
彼女みたいに優しい子なら、きっとより一層大変なんでしょうね」
「なんだ、皮肉か?」
「そんなつもりはありませんよ…… ただ、ちょっと悲しくなりまして」
暗い夜道。
街の灯りが、儚げに世界を照らしていた。