トラウマノアジ
「今度大根の味噌汁作ってよ」
夕食中、豆腐とわかめの味噌汁を食べ終わった夫の、ふと思いついただけのようなその言葉に。
すぐには頷くことができずに、自分の前にある味噌汁を見た。
「わかった、大根ね」
お椀を手に取り、ひと口飲む。
蘇る味に、内心息をついた。
子どもの頃、朝食には必ずご飯と味噌汁が食卓に並んだ。
具はいつも同じではなかったが、どれも同頻度というわけでもなかった。
母親の好み、季節、値段。様々な要因が重なり、どうしたって「よく使われる具材」が出てくる。
大根もそのひとつ。
別に大根が苦手でも嫌いでもないが、特徴のあるその味に飽きてしまった。
豚汁や根菜汁になると全く気にならないのに、味噌汁になるとなぜか主張が過ぎる。
食卓に出る度に、またか、と思いながら流し込んだ。
そんな自分も家を出て食事を作るようになって。
ある日、なんの気なしに作った味噌汁に愕然とした。
店で出される味噌汁にそう感じたことはなく。使っている味噌も違うというのに。
自分の作った味噌汁は、子どもの頃のあの味なのだ。
どこがどう、ではなく。ただ、これだ、と感じる。
懐かしい味ではあるが、懐かしむ気にはなれず。
目の前のそれを食べきってからは一度も作っていなかった。
翌日、夕食の食卓には大根と薄揚げの味噌汁が並んでいた。
「早速作ってくれたんだ」
そう言い食べ始める夫を見届けてから、自分も箸をつける。
具を食べずとも、汁だけでそうだとわかる味。せめてもの抵抗の薄揚げも、やはり太刀打ちできなかった。
数年振りの味はやはり懐かしく。そして同時に、否応なく子どもの頃の記憶を引きずり出すものであった。
嫌な思い出があるわけでもないが、楽しかった記憶には結びつかず。またかと思っていた気持ちだけが蘇る。
ちくりと胸を刺す思い。
子どもの頃は、食事は出されて当然だった。
厭々食べたり残したりしてもなんとも思わなかった。
引きずり出されるのは、かつての浅はかな自分。
誰かに食事を作るようになった今でこそ、母親はそれなりに手間を掛けて作ってくれていたのだとわかっている。
好きではなかった懐かしい味は、今は母親への申し訳なさを思わせる味だった。
「また作ってよ」
そう言う夫に曖昧に微笑む。
嫌いではない。
しかしやはり、いつまで経っても好きになれそうにない。
口にする度にどこか痛みを覚えても、所詮トラウマとはいえないただの後悔。
それでも自分にとってのこの味は「トラウマの味」が一番しっくりくる。
そんなことを思いながら箸を置いた。
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