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第一章/前編

 キィーンコォーンカァーンコォーン

 漸く始業のチャイムが鳴った。

 いつもの様に文庫本を横へ掛けた鞄に仕舞う。

 読み始めてもう3日も経つのにまだ半分も読み切っていない。抑々僕はあまり読書が好きという訳では無いのだ。有り余る暇を潰す為に開いている。

 肌寒くなって来た10月下旬、人肌が恋しい(など)とは言わない優れたぼっちの僕である。取り敢えず、机の下で手を擦り合わせておく。やはり人肌なんかよりも摩擦力だ。

 我がクラス、正確には、恐れ多くも(われ)が所属させて頂いている、1年6組のクラス担任はいつも時間ピッタリに教室へ入ってくる。

 「おーい、座れよー。ホームルーム始めるぞー」

 気怠げな声に動かされ、未だ固まっている高校生たちが三々五々に散る。僕なんて40分以上も前から着席した儘なのだ、少しは見倣って欲しいものである。

 そうしていつも通りに学校生活が始まるのだ。


 高校へ入学して約半年。そろそろ僕にも昼休みを共にする友達の一人や二人は出来たかな?とザッと教室を見渡してみるが、居ないようだ。どうやら友達は自然に発生する類のものではないらしい。知ってた。

 仕方がないので机に置いた愛my(マイ)弁当に目を落とす。今日は何となしにタコさんウインナー(市販)を入れてみた。余り無駄遣いは出来ないが特に趣味のないぼっちにお小遣いの使い道など殆どないのである。うん、おいしい。これがプリ○ハムの力か…。

 教室の昼休み特有な弛緩した喧騒の中、独り、お弁当に舌鼓を打つ。

 ボッチ歴16年と4ヶ月とちょっと。このエリートぼっちを舐めてはいけない。僕は教室の自分の席にてぼっち飯を堪能する。

 朝の時間もそうなのだが、自分の席に座っていないと僕の席は何者かに奪われている。そしてチャイムが鳴るまで解放されることは無いのだ。

 諸兄は退いて貰う様に言えば良いと思うかも知れない。でも思わないで欲しい。無理なものは無理なのだ。

 僕の席は窓際の真ん中に位置している。所謂主人公席のちょい前である。この冬の時期には陽の当たる良い席である。しかし、この席が優良なのはそればかりが理由ではない。隣席に学校一の美少女が凛と着席しているからだ。学校一の美少女という使い古された表現を用いるのが申し訳なる位には清楚な王道美少女である。僕も男子高校生、そんなナンバーワンビューティガールの隣に座れるのはラッキーでハッピーなのだが一つ問題があった。緊張して右隣へ視線を向けられないのは些末な問題でそこじゃ無い。…ほんとだよ?彼女はNBG(No1 Beauty Girl)、休み時間の度に人がわらわらと集まってくるのだ。するとどうだろう、隣席にある僕の机の上にはお弁当とケツが乗っている。これがほぼ毎昼休みに起こるのだ。これはケツも食ってしまっていいということだろうか。食わないけど。物申す勇気も無ければ声量も無い僕は甘んじて受け容れている。

 ケツを視界に入れながら密やかに食べていると、僕の膝に横からドカッと人が座ってきた。その弾みで箸を落としてしまう。

 「おお…!わりぃ、いたのか!」

 驚いた、僕も自分が居ないのかと思った。

 彼は急いで箸を拾い上げる。

 「割り箸、食堂から取って来るから待っててくれ」

 慌てて言う田中くん(推定)。

 「大丈夫、気にしないで」

 彼らの様な陽キャ軍団とは人体構造が異なる僕、逃げの一手である。

 「わりいよ、すぐ帰ってくるから」

 彼らには体裁がある。女の子の前、それも飛び切りの美少女の前ならば良い恰好もしたいのだろう。

 「わかった、ごめんね?」

 おう、と言って駆け出した彼の背中には、何やってんだ宏樹(ひろき)、とか、田口くん呆け過ぎでしょ、なんて笑い声が掛けられていた。田口って言うんだね、こりゃあ1本取られたなあ~。なんつって。がはは。


 日の短いこの頃は、終業のチャイムが鳴る頃にはもう十分に日は傾いている。放課後。当然の如く部活動に所属していない僕は帰宅部の圧倒的エースとして速やかに教室を抜け出す。がやがやとした放課後をあとにして朝にも使った登校ルートを下校する。僕の家から学校へは歩いて行ける距離にあるのだ。

 その道中、一つ交差点がある。この十字路は中央に向かってすべての道が若干傾いている。それに加え、もう一つ特徴があった。大通りと隘路(あいろ)の交差点であるここはいま僕の待つ隘路側の横断歩道が非常に短い。そのくせ信号は異常に長いのだ。今日の様な冬の垣間見える日には最悪である。信号は赤になったばかり。いつも通りこの隘路は車通りが少ない。白線は4本と一寸(ちょっと)。渡って仕舞おうか。そんなことを考えるが結局は行儀良く信号を待っていた。

 ふと、横断歩道の先にオロオロと落ち着かない様子の女性が目に入った。ベビーカーを押している。子連れのお母さんだった。

 総てに置いてどの部活動よりも優位を取っていると云われている帰宅部だが、一つだけ欠点があった。暇なのだ。暇だから声でも掛けてみようか。信号が青に成ったときにでも。

 しかしながら、そんな算段は暫くして無為なものとなった。僕の後方から今にも泣き出しそうにとぼとぼと歩いて来る幼女がいたからだ。

 母親はそんな我が子を発見した時、急に居なくなった事への多少の怒りと見つかった事への莫大な安堵感から、一も二も無くその名を呼んでしまった。

 「美佳(みか)!」

 少女はふっと顔を上げる。

 不安や恐怖のダムが決壊したのだろう。お母さん!と涙声で叫ぶ彼女は、横断歩道へ駆け出した。

 信号は赤だ。

 しかし、少女には母親しか見えていない。赤信号も走り来るファミリーカーも。

 耳を劈く絶叫の中、投げ出した僕の体は確かに少女を対岸へと追いやった。

 横断歩道、短くてよかったあ。

 そんな場違いの安堵感を以て僕の視界は歪みと共に暗点した。


 恐らく衝突してからすぐの出来事だ。しかし、僕には一度カチンコを打った様な感覚だった。ぶつかった時の大きな音のせいだろうか。

 優…、優…!と僕の呼ぶ声が聞こえる。これは姉さんの声だなあ…。姉さんの取り乱す所なんて殆ど見たことがない。とても心苦しい。

 最後に見た感じだと美佳ちゃんは助かっただろうなあ…。この事がトラウマにならないことを祈るばかりだ。

 そう言えば、()つかった自動車の中には、両親と娘の3人家族が乗っていたな。彼らの今後の人生、僕が死んでしまったら大きく歪んでしまうだろう。死にたくないなあ。

 あの交差点、ちょっと傾いてるからスピードが出やすくて急ブレーキを掛けづらいんだろうな。それに、遠くから青信号が見えるから速く行ってしまおうとスピードを出し過ぎてしまうんだろうな。

 なるほど、僕は別に死に際で走馬灯が過るタイプでは無いみたいだ。普通に思考が加速されるだけらしい。へー。

 あと、別に即死じゃなくても痛みに悶えることは無いみたいだ。これが噂のアドレナリンぱわーなのか…。

 あー、もう限界っぽいなあ。

 今までありがとう、さようなら、現世の僕のぼっち人生(ライフ)。来世で君と遭うことはないだろう。


 目が覚めて初めに目に入ったのは白い天井。

 僕はさっき死んだはずだ。

 しかし、僕の身は今ここに存在している。

 と、いうことは。

 おはよう、来世。

 “ぼっち”の反義語は“人”だ。

 今世は人並みの人生を送ろうと思う。

 ところで、ここは病院だろうか。この慣れることのない特有の匂いはよく知るものだ。

 がばっと身体を起す。

 左腕は点滴に繋がれていた。右手の表裏をくるくる回して見る。あれ、前世の僕とホクロの場所が一緒だなあ。これは運命かも知れないな。

 そう言えば、記憶もあるしこれは()の有名な転生なのだろうか。あんまり漫画やアニメの知識に持ち合わせのない僕でも知ってるぞ。

 顔を上げると、奥に点いていない真っ黒な画面のテレビがあった。そこに映るのは僕の顔。

 う~ん……。あれえ……?

 前日から髪の長さすら変化の見られないよく見た顔。家の鏡で見るよりか、モノトーンのお陰でちょっとだけ良く見える。それでもやっぱり冴えない平々凡々な僕の顔だった。

 なるほど。

 とりあえず。

 ぼっち人生(ライフ)さん、今後ともよしなに。

 真っ黒な画面を見詰めながらどうしてここに居るのか思考を巡らせる、ふと首に何かを掛けていることに気が付いた。白黒の画面ではよくわからない。

 目を落として、それを手に持つ。

 手のひらに小さく収まる大きさ。特別な装飾がある訳ではない、シンプルな金色(こんじき)のロケットペンダントであった。繋がるチェーンも同じ金色だ。

 僕はそのロケットを大事そうにぎゅっと握った。

 ?

 自分の行動が不可解である。こわ。

 ぼっちを極めし者は自分を自分の意志で動かすことが困難になるのだろうか。

 そんな時、がたっと引き戸の引かれる音がした。

 「優…!」

 病室に勢いよく入ってきたのは姉さんだった。平生のクールな表情(かお)は見る影も無く憔悴していた。

 「痛みは在りませんか…!」

 ぎゅうっと僕を抱きしめる。見た目ではわかりにくいが姉さんは意外とお胸が大きい。そんな隠れ巨乳でクール美人な姉さんに抱き着かれるのはいつまで経っても慣れる気がしない。

 …というか、どんどん締める力が強くなっている。いま赤らんでいる僕は果たして羞恥からだろうか。

 「姉さん!痛みはないよ!痛いから離して…!」

 「いやです」

 いやかあ。

 姉さんは少しだけ弛めてくれたので成すが儘にされていた。

 そうして暫く。

 僕の胸の中で大きく息を吸い込んだ後、身体を解放してくれた。

 「ふう、お伝えすることが3つあります」

 姉さんはいつもの沈着な表情に戻っていた。

 「1つ、お医者様に依りますと、見た所、異常は何も診られないそうです。しかし、精密な検査をさせてほしいとのことでした」

 優には伝えていないがこれは彼女も同意見であった。多量の血液が出ていたにも拘らず一切の怪我が診られない。ここが今回の最も不可思議な点であるのだが、優が無事ならいいかとすぐに如何でもよくなった点でもあった。

 「2つ、事故の相手方ですが―――」

 「その事なんだけど!」

 話に割り込んでしまった。後悔しても遅い。

 だが、その先は余り聞きたくなかったのだ。

 「そのぉ、えっとぉ、……なんとかならないかな?ほら、その……入院費だけ払ってもらうとか……」

 後ろへ行くに連れてどんどん声量が小さくなっていった。ぼっちの弊害だ。


 焦った様な、不安な様な、怒られないかと怯えながらもわがままを言う幼子の様な表情(かお)をしている。

 「……はあ、仕方がありません。入院費だけというのは厳しいですが、善処は致します。」

 優にそんな表情(かお)でお願いされれば、何も断われなくなる。たとえ、太陽系の水星と火星の位置を入れ替えて、と言われても、仕方ありませんね、と応えていただろう。

 「ありがとう…」

 ぐふっ……!

 序でに火星と水星の位置も入れ替えて仕舞おうか。

 「もう一度言ってください」

 「?……ありがとう」

 がはっ……!

 吐血した。


 僕はどうして2度言わされたんだろう。あと、姉さんは僕のありがとうで何故かダメージを負っている。……なぜ。

 「それから3つ目、これが一番大切なことです」

 姉さんの何時(いつ)にも増して真剣な表情。僕もすっと居住まいを正す。

 「これから毎日いっしょに登下校します」

 なるほど。

 「…………勘弁してください」

 正した姿勢はそのまま綺麗なお辞儀に変換された。

 「いやです」

 いやかあ。


 僕の姉さんの名は氷川(ひかわ)雪乃(ゆきの)と言う。その名に違わず誰もが振り返るようなクールな美人さんである。

 因みに僕の名前は日向(ひなた)(ゆう)。その名に(たが)う。めっちゃ(たが)っている。

 閑話休題、僕と姉さんは血が繋がっていない。かと言って、義姉(ぎし)であるかと言われればそうでもない。()いて言うならばお隣さんである。僕が小学校にも上がっていない小さな頃から慕っていて、勝手に“姉さん”と呼んでいるのだ。嫌がられてはいないと思う。……思う。でも、偶に姉さんが僕に雪乃と呼ばせてくることはある。恥ずかしいからやめて欲しい。

 姉さんの両親は姉さんが小学生の頃に二人とも交通事故で亡くなっていた。なので、両親の家には彼女が1人で住んでいる。

 姉さんは定期的に僕が家に伺わないとすごく悲しそうな顔をする。しかし、僕が行くとさっきまでの顔は何処へやら、ころっと明るくなるのだ。あれはやってる。

 ()く言う僕も一人暮らし。詳しい仕事内容は知らないが、とにかく世界中を飛び回るアクロバット夫妻が僕の両親である。

 仕事内容と言う面では、姉さんも何をしているか分からない。ミステリアスなクール美女である。でも、僕の部屋の扉を開けると高確率で遭遇する。……ミステリアスだ。僕が隠していた筈のエッチなフォルダ、そのショートカットがデスクトップの中央にあった時は震えが止まらなかった。

 そんな姉さんがいま隣にいる。有言実行。登校中、右腕をがっちりホールドされ、地味に大きなお胸が思いっ切り当っている。

 高校生の平均よりか少し小さい僕と同じ位の身長である姉さん。必然的にその整った御顔がとても近くなってしまう。姉さんは所謂ポーカーフェイス、クールで怜悧さ漂うその表情は殆ど崩れることがない。美しく切れ長な目と相俟って、多くの人はその表情に冷酷さを感じるようだ。意外と表情豊かなんだけどね。わかりにくいけど。

 僕も抵抗はした。なんとか一人で登校しようと様々な策を弄したが、総て先回りで潰されるのだ。出来るタイプの姉である。

 魔王に無意味な抗いを見せた所為でいつもよりも出る時間が遅くなってしまった。その結果、完全に通学時間に被ってしまっていた。

 視線が痛い。嫉妬や羨望が(もろ)に伝わってくる。とりあえず、前を向いて歩くことにしよう。

 ただでさえ姉さんは人の目を惹くのだ。艷やかに肩にかかる少し蒼み掛かったミディアムヘアはゆるくカールしている。整った顔はいつも落ち着いていて、真っ直ぐに立つその姿は細く(しな)やかだ。

 そんな姉さんが腕にひっついているのだ。この状況がどれだけ悲惨なものか想像に難くないだろう。果たして今日から正面(まとも)な学校生活を送れるだろうか。………果たして正面な学校生活を送ったことが今までにあっただろうか。

 …姉さん全然離してくれない。

 「そろそろ校門だよ?」

 「知っていますよ」

 その割に離してくれる気配が一切ない。嫌な予感がして聞いてみる。

 「このまま行くと学校にインしちゃうけど…」

 「知っていますよ」

 確信犯だった。


 なんとか姉さんを説得(ひきはが)し、辿り着いた教室。幸い、自分の席が盗られている事は無かった。…あれだけ目立てば当然だろう。

 静寂である。ぎいっと、僕の椅子を引く音が響く程。次いで、密密(ひそひそ)と何か聞こえる。

 僕は取り出した文庫本の喉を凝視する。

 視線は上げられそうにない。教室の時計で現在時刻を確認する事すら儘ならない。


 キィーンコォーンカァーンコォーン

 漸く始業のチャイムが鳴った。

 いつもの様に文庫本を横へ掛けた鞄に仕舞う。

 読み始めてもう5日も経つのにまだ半分も読み切っていない。当然だ。今日は見詰めていただけだ。余り有る視線から逃れる為に開いている。

 肌寒くなって来た10月下旬、人肌は恋しくない。やめて欲しい。取り敢えず、教卓の方を向く。やはり帰ろうかな…。


 お昼休み。流石に教室では食べられない。僕がいつも教室で食べられているのは存在が空気だからである。別にメンタルがオリハルコンだからではない。

 選ばれたのは、屋上前階段でした。掃除の行き届いていない埃っぽさ、光は屋上に続く扉の明かり窓からだけ、完璧である。

 お弁当の包を開ける。今日は姉さんが作ってくれた。蓋をぱかっと開けて、桜田麩(でんぶ)の♡マーク…。とりあえずお弁当の向きを変えて桃マークにする。

 黙々と食べ続ける。姉さんは料理が出来る。腕前はプロレベルと言っても過言ではない。だが、僕が姉さんの家に行くと決まって僕に料理を作らせる。これは新手のいじめである。

 ふと、階下にたったったと階段を上る音が聞こえた。

 まずい。会うと絶対気まずい。

 とりあえず非常に真剣な顔になって置こう。()すればここで食べていても、そう云うものなのかと思ってもらえるかも知れない。

 眉間に皺を寄せ、背筋を伸ばし、弁当を鋭く見据える。

 丁度、階段を上る何奴(なにやつ)が姿を見せた。

 黒く長い髪、くりっと丸く大きな瞳、艶やかな唇、程よい胸のふくらみに、すらっと長い手足。

 我らがNBGであった。

 予想外の人物の登場により険しくなる僕の表情。

 「ぷふっ」

 学校一の美少女と名高い彼女、白波瀬(しらはせ)美空(みそら)が噴き出した。

 「ふっ…ふふっ…」

 噛み殺せていない笑い。

 そっとして置こう。

 僕は食事を再開した。まだ、肉じゃがしか手を付けていない。

 白波瀬さんはまさか僕に用がある訳ではないだろう。ならば、僕は最初から存在しなかったかの様に振舞うことにする。僕は空気。アルゴン。

 ほうれん草の和え物を食べ終えて、視線を上げると、何時(いつ)の間にか笑いが収まっていた彼女が未だ留まっていた。何か言いた()にもじもじしている。

 女の子に話し掛けるのは得意じゃないんだけどなあ…。

 意を決して僕。

 「えっと……あの……、どうしたの?」

 なるべく優しい声を心掛けた。声量が出ていた自信は無い。聞こえたかなあ。

 「あの……えっと……、隣、一緒してもいい?」

 最後の方の声量はかなり小さった。階段の段差の所為で必然的に上目遣いが実装されたお願いである。

 ぐぬ……、断れない。卑怯だぞ!上目遣い&うるんだ瞳は!王道ヒロインか!

 「ど、どうぞ」

 横へ少しずれる。さっきまで座っていなかったその場所は非常に冷たかった。

 隣におずおずと腰を下ろす白波瀬さん。ふわっとフローラルな香りがする。

 白波瀬さんはそそくさと持っていたお弁当を開いて食事を始めた。

 静寂。

 …。

 なんだこれ。どういう状況だ?

 「どういう状況だ?」

 おっと、声に出た。


 「ほんと、どういう状況なんだろう」

 おっと、声に出てしまった。

 今日の朝、日向くんが綺麗なお姉さんと登校しているのを目撃してしまった。あれは血の気が引いた。

 日向くんが盗られてしまうと思って、何も考えず後を追ってここへ来てしまった。私のじゃないけど。

 それにしても、こうやって日向くんの隣で一緒にお弁当を食べられているこの状況はとても幸せである。最高だ。出来ればお話ししたい。でも、彼相手に限って何の話のネタも出て来ないのだ。いつもなら、ほんとうに他愛のない話が出来るのに…。

 すると、日向くんが意を決した様に口を開いた。

 「普通、石なんかを水に入れた時、固体だから沈むよねえ、でも、氷って固体なのに水に浮くんだよねえ、不思議だねえ………」

 日向くんが口下手なのは知っている。この数か月ずっと見て来たから知っている。でも、私を気遣って何か話そうとしてくれたのだろう。やっぱり優しい日向くんだ。

 「不思議だねえ……」

 私も何か応えないとと思って、咄嗟に彼の言葉を繰り返してしまった。

 ほんとは知ってる。


 衝撃だ。この場にこの状況を理解している人間が一人もいない。

 空気を一新する為にも何か話さなくては、と考え、口を開いたが、趣味が勉強みたいな僕には話のネタが全くと言って良い程ない。不思議だねえ、とか言ったが、ほんとは知ってる。

 予鈴が鳴った。あと5分で昼休みが終わるのだ。

 二人とも当の昔に食べ終えているが、一向に動けない。相手の出方を伺っているのである。達人の間合いだ。

 彼女は思い定めた。

 「ぇあ!…あの!」

 急に声を出したからか想像以上に大きな声が出てしまった。

 隣に座っていたが故に近い距離、優はこの時初めて彼女の目を見た。

 「…………えっとぉ、あの……、朝の…あの人って……誰………ですか…?」

 訥々と、最後の“ですか”は殆ど聞こえなかった。

 やはりNBGと言えど、好奇心には適わなかったのだろう。僕は、ふっと苦笑する。

 「ただの姉だよ」

 お隣さんと言うともっとややこしい事になりそうなので、そう紹介した。ほとんど家族の様なものだし、実質的には変わらない。

 「はぁ…」

 答えると白波瀬さんは大きな溜息を()いた。そんなにつまらなかったんだろうか。申し訳なさとショックが同時に来た。

 そう言えば予鈴が鳴っていた。

 「そろそろ鳴りそうだし、戻ろっか」

 白波瀬さんが言う。彼女は食べ始めよりも幾分か緊張が(やわ)らいだ様子だった。

 …待てよ、このまま行くと一緒に帰ることになるぞ。それはまずい。朝の二の舞だ。

 同じ(わだち)を踏まないエリートぼっちとは僕のことである。

 「僕は途中よる所があるから先行ってて」

 要約すると、トイレ行きたい、である。

 察した彼女は、あ、うん、と少し不満そうな表情(かお)で応えた。

 すみません…思い浮かぶ理由がそれしか無かったんです。ぼっちの弊害である。

 御手洗から早足に教室へ戻ると、僕の席は埋まっていた。


 校門を出ると姉さんがいた。やっぱりいた。

 「帰りましょう」

 そう言って、姉さんは朝の様に腕をホールドしてくる。

 「あの……姉さん?」

 「どうしました?」

 クールなポーカーフェイスで返す姉さん。

 「その…僕、あんまり目立ちたくないんだ。姉さん綺麗だから腕を組まれると目立つし、……普通に恥ずかしいから、…出来ればやめて欲しいなあ……って」

 姉さんが心配してこうしてくれているのは理解しているので、余り強く言えなかった。

 「…………」

 姉さんが絶句している。傷付けてしまっただろうか…。

 「き、今日のところは許します」

 姉さんがそっぽを向いてしまった。分かりづらいが、ほんの少し声も上擦っている。

 姉さんはそれだけ言ってこちらに顔を見せず、スタスタと先に帰ってしまった。

 後で謝ろう。

 期せずしてぼっち帰宅。

 歩き始める。

 学校から歩いて20分、家から歩いても20分。

 目の前にあるのは小さな神社。

 あれ?何でこんな所に来たんだろう…?

 初詣の時には毎年、もう少し離れた大きな神社へ行っている。

 街にある小さな神社。初めて来たかも知れない。家からも学校からも丁度疲れる距離にあるのだ。

 ぎゅっと胸のロケットを握る。

 ……!

 でた。僕の謎行為。ぼっちを極めるとこれだから…。

 取り敢えず参拝して行こう。

 昔、気になって参拝の作法を調べたが、神社には年に1、2度しか行かないので忘れてしまった。雰囲気で参拝する。

 拝殿の前、五円玉がコロンコロンと音を立てて御賽銭箱に吸い込まれる。

 鈴を鳴らして二礼二拍手一礼。

 上体を上げると、居た。

 人の女性の姿をした神さま。神ですオーラが凄かった。

 とりあえずさっきよりも深いお辞儀をしておこう。

 「顔を上げて下さい」

 声すらも神々しかった。

 顔を上げる。

 まず目に写ったのは爆乳だ。でかい。

 人間で言うところの20代半ば位に見える。僕よりも身長があって爆乳なのにとてもスタイルが良かった。白銀の美しい輝きを持つ髪は長く流れている。伏し目勝ちな表情にも長く白銀の睫毛がよく映えていた。肌も透き通る白である。だが、瞳は吸い込まれそうな程の黒であった。

 「お久しぶりですね」

 …。

 「…お久しぶりです」

 ここは無難にやり過ごそう。

 「ふふ、何ですかその覚えていない昔の知人に会ったときのような反応は」

 実際そうだ。当てずっぽうで言ってみるか。

 「いえいえ、ちゃんと覚えていますよ、田中さん」

 「違いますよ」

 違った。即答だった。

 ということは。

 「冗談ですよ、田口さん」

 「違います」

 違った。

 「やはり覚えておりませんか…」

 「すみません」

 さっきよりも余程心の込もったお辞儀である。

 「仕方のない事です…。気にしていませんから、顔を上げて下さい」

 上体は起こさず、顔だけ上げる。

 「身体(からだ)も上げて下さい」

 おずおずと上体を起こす。

 「ふふ、そんな申し訳無さそうな顔をしないで下さい」

 女神が微笑んだ。彼女はたしかに神様であった。

 「優さん、あなたの記憶には封が成されているようです」

 封印されし記憶。かっこいい…!

 「しかし、それ程強いものではないと考えます」

 そう言って、女神さまは一拍置いた。だが、そこにあるのは女神の風格では無く、細やかな緊張の様にも見えた。

 「週に一度、私に会いに来て下さい」

 記憶にない僕は一体何を仕出かしてしまったのだ。週一で神様に会う必要があるほどの事。きっと取返しの付かない事をしてしまったのだろう。

 「御迷惑をお掛けしてすみませんでした」

 六度目のお辞儀には後悔が含まれていた。ぼっちである僕の美徳は、周りに迷惑を掛けない事であった筈だ。エリートぼっちという位階は返上せねばならない。

 「それはこちらも同じです。ご迷惑ではありませんか?」

 「いえ、感謝しかありません」

 わざわざ過去の清算に神様が付き合ってくれるのだ。当然である。

 「ならば、それもこちらと同じです」

 優しい女神さまである。


 女神相手では流石に話のネタがなさ過ぎる。なので、参拝時の正しい所作を習うことにした。

 …あれ?よく考えると対人でも話のネタはない気がする。

 そして、帰り際。女神さまは思い出した様に口を開いた。

 「因みに、私は名も無き女神です」

 そう言えば、女神さまは僕の名前を知っていた。

 「ですから、あなたが名前を付けて下さい。今後それを名乗ります」

 プレッシャーがでか過ぎる…!ぼっち見習(みならい)の僕には重すぎる荷だ。

 (しば)し黙考する。

 「“リタ”とかどうでしょう…」

 彼女を見て思い浮かんだ名前がそれであった。威厳は欠片も感じられない名前だが、これが僕の限界だ。

 「すみません…。何か特別な意味が込もっている訳じゃなく、似合いそうな名前を語感で決めました」

 素直に白状した。

 「ふふふ、あなたが似合うと思ってくれているのならば、それで()いのですよ」

 また、女神は微笑んだ。でもそれはただの嬉しそうな笑みであった。


 少し遅めの帰宅、だが部活をしている人と比べたら十分に早い帰宅である。

 神社からの帰りにスーパーへ寄った。姉さんへの御供え物である。

 地元のイベントで貰ったエコバックにプリンを入れて、いざ、インターホンを押す。

 「入ってください」

 普段と変わらぬ落ち着いた声音。インターホン越しでは色は分からない。

 合鍵を使って戸を開ける。

 「おかえりなさい」

 「…ただいま」

 気落ちしている様には見えない…。寧ろ、とても機嫌が良く見える。居間へ戻る時、鼻唄まで歌っていた。……こわい。

 玄関で突っ立っている訳にもいかない。靴を脱ぎ揃え、居間へ向かう。

 「あの……姉さん。プリン買って来たんだけど、…食べる?」

 おっかなびっくり僕は尋ねる。


 今日は非常に身体が軽い。校門で優と会ってからだ。

 優から見て、私は綺麗で腕を組むと恥ずかしいらしい。優は私のことを綺麗だと思っているのね。そう。

 自然と鼻唄が漏れていた。

 優がプリンを買って来ていた。受け取ってそれに合う紅茶を淹れる。優は甘い物と一緒に飲む紅茶は好きだ。それ以外ではお茶より水派である。優の好みは把握している。

 居間にて優の隣でプリンを食べる。優と二人きりであるこの時間が人生で最も幸せな時間である。それは今後も変わらないだろう。

 一方で、優は何故かソワソワおどおどとしていた。

 私はプリンが好きである。正確に言えば、優の買って来たプリンが能く能く好きである。優が小学4年生の10月21日に初めて私へ買ってくれたのがプリンである。あの時は名状しがたい感情に襲われた。

 身を捩ってゆっくり逃れようとする優を抱き留め直す。

 「あ、あの…姉さん…?」

 「優、今日は私が夕御飯を作りましょう」

 平生は優に夕餉を作って貰っている。美味しいし、幸せだから。店を出せば()いのでないだろうか。

 彼の手料理を食べるのも好きだが、彼に手料理を食べて貰うのも好きだ。優は必ず料理の感想を美味しそうに言ってくれる。あの時の優は非常にかわいい。頭を撫でてしまうのも無理はない。

 「一体何が目的なんだっ……」

 よしよしと撫でる腕の下で呟く優。

 はっとして腕を離す。

 彼を可愛がってはいけない。彼が私の事をより姉だと思ってしまう。

 「優、今日は1日、私の事を“雪乃”と呼んでください」

 本当は今日から毎日と言いたい。が、優が拒んでしまうから()める。

 優は顔を伏せ背を丸くしている。

 今日は凝った料理を作りたい。名残惜しいが優の隣を離れキッチンに向かった。

 出来上がった料理をテーブルの上に広げる。掛けた時間に充分見合う、満足の行く出来のものであった。

 対面に座る優が口に運ぶ。

 「…おいしい」

 優は何故か訝し()に言った。

 彼のこの一言だけで料理を作る時間に意義が生まれる。

 ふと優が顔を上げた。何時(いつ)に無く真剣な表情である。

 「…姉さん」

 「…」

 「……ゆ、雪乃」

 「何でしょう?」

 彼はおずおずと口を開く。

 「…あの、今日は…、ごめんなさい」

 優が頭を下げる。

 ?

 「事故を心配してくれているのに恥ずかしいって理由だけで突き放してしまって…」

 校門での出来事。彼もまたずっと気に掛かっていたらしい。

 相変わらずの優である。

 「気にする事ではありません」

 彼はちらっとこちらの様子を覗う。

 「うん…」

 かわいい。

 「寧ろ、もう一度言ってほしいです」

 彼はこちらを向いた儘、暫く黙考している。

 「……うん?」

 小首を(かし)げた。

 優がどうしてか混乱している様なので、その隙を突く。

 「今日は一緒にお風呂へ入ります」

 ぽく、ぽく、ぽく

 ちーん

 優の脳の処理が追い着いた。

 「入らないよっ!?」

 惜しかった。


 土曜日の朝、姉さんは既に起きていた。食卓に朝食が並べられている。

 昨日の夜、まるで当然の事のように姉さんが僕の布団に入って来てそのまま寝てしまった。シャンプーの甘い香りに包まれる中、やわらかく温かい感触は慣れる気がしない。いつもながらに寝付けなかった。

 「おはようございます」

 キッチンの奥から声が掛かる。

 「おはよう姉さん」

 鼻唄は聞こえない。昨日よりか落ち着いた様子だ。

 「今日は予定が何かありますか?」

 僕は少し言い淀む。

 「……大した用はないけど、…千早の付き添いくらいかな?」

 「千早さんですか…」

 トーンが下がった。クールな表情(かお)に映える鋭い目付きが恐ろしい。

 千早は僕の隣家、姉さんとは反対隣に位置する唐崎(からさき)家の一人っ子である。しかし、いわゆる幼馴染である彼女は僕の事を“おにいちゃん”と言って慕ってくれている。……いた。今はこき使われている気もする。結構な頻度でお買い物の荷物持ち役に任命されている。

 彼女は僕のひとつ下、中学3年生である。10月末の受験ストレスが溜まる時期、“このストレスを発散しなきゃやってらんない”らしい。“おにいちゃん、付き合って”と、僕もウィンドウショッピングに付いて行く事が無事決定した。因みに予定があるかは聞かれなかった。

 そんな千早と姉さんは昔から犬猿の仲である。(あいだ)にいる僕はいつもなるべく小さくなって静かにしている。だって怖いから。しかしその割には夕食を一緒にしていたりする。尋常で無く緊張感の漂うその食卓では自然と僕の背筋も伸びている。

 「…だから一旦うちに帰るよ」

 昨日とは全く打って変わった不機嫌な様子。恐らく姉さんは二人いる。

 朝食の片付けを終えて(うち)へ帰るとき。

 「いってらっしゃい」

 「…いってきます」

 この家は魔城であった。


 他愛の無い会話をしながら駅へ向かう。但し、受験に関する話題は一切出さないようにした。

 今日は家から一緒にショッピングモールへ向かっている。千早の気分によっては現地集合であることも間々ある。家は隣なのに。

 現地集合でない今日は少し安心だ。というのも、千早はナンパされやすい。彼女はかなりのオシャレさんだ。それに加えてこのとても整った容姿である。姉さんとは別種の、美人というよりはかわいいこの容姿に声を掛けたくなるのだろう。

 何度か言って見るが、現地集合はしたいらしい。“恐怖よりおにいちゃんをとる”と言っていた。ちょっと何を言っているのか分からない。

 駅に着き、電車に揺られ、そうこうしている内にショッピングモールへ到着した。

 「この空気ぃ、久しぶりだぁ」

 ぎゅうっと伸びをする千早。受験疲れが溜まっていたのだろう。

 それにしても千早は目を惹く、それは学年が上がる度に顕著になっていた。高校生に上がるのが少し心配である。信頼出来る彼氏の一人でもいれば安心なのだが。

 妹のような存在なので忘れがちだが、彼女はこの容姿の上にコミュニケーション能力も高い。高校へ上がってもカーストトップに君臨するだろう。

 彼女は僕と同じ高校を受験すると言っていた。成績が良いとは言えない千早の受験勉強をしばしば手伝っている。

 「ねえおにいちゃん、これどっちがいいと思う?」

 思うが儘に歩く千早に付いて行き、最初に入ったお店。そこで、千早が帽子を手に取り合わせている。

 この手の問題に答えは無い。しかし千早は毎度何か聞いてくる。初めのうちは頑張って答えていたが、最近は面倒なので素直に私感を述べている。

 「千早だったらどっちでも似合うよ」

 千早は俯いてしまった。ぴくぴくしている両頬を抑えている。

 怒らせてしまったかも知れない。難問すぎだ。そろそろミレニアム懸賞問題の新作にしても良いと思う。

 矢庭に顔を上げた千早は僕の手首を掴む。

 「つぎ!」

 大人しく手を引かれる儘に付いて行く。そう言えばこれはウィンドウショッピングだった。


 お昼過ぎ、フードコートの人が徐々に減ってくる頃合い。お盆の上に二人分の天丼を持って千早の座るテーブルへ向かう。彼女はまた男に絡まれていた。

 チャラチャラとした服装で、髪を金色に染めているその男は大学生くらいだろうか。図々しくも千早の対面の席に座って彼女に軽軽(けいけい)に話し掛けている。

 一方の千早は携帯に目を落として一切の無視を決め込んでいる。

 「あの、僕の連れなので」

 天丼をテーブルの上に置きながら男に言う。

 え、こんな冴えねえのが…?って顔をしている。

 「え、こんな冴えねえのが…?」

 言った。

 先程まで携帯を(いじ)っていた千早が顔を上げ、男をギッと睨みつける。

 「わ、悪かったよ、じゃあごゆっくり」

 早口に言って男はテーブルを去って行く。

 離れたところに居た男の連れと合流していた。

 「無視されてんだからあんまりしつこく声かけるなよ」

 連れの男が呆れた様に言う。

 「だってあんなかわいい子そうそう見ねえぞ」

 「確かにかわいかったけど」

 「なんであんな冴えねえ彼氏連れてんだろな」

 「とんでもない金持ちとかなんじゃねーの」

 言い合いながら、二人の男は喧騒に紛れて行った。

 「大丈夫?」

 千早は大人っぽく見えるがまだまだ中学三年生だ。一回りも大きい男子大学生に絡まれるのはやはり怖いだろう。心配になって様子を覗う。

 なぜか千早は満足そうな顔をしていた。

 小声で何か言っているが聞き取れなかった。


 へ~、わたしたちカップルに見えるんだ…。

 おにいちゃんが居るのであんまり変な顔は見せられない。崩れそうな頬を何とか維持する。

 「大丈夫、いつもの事だし」

 怖くないと言えば嘘になるが、おにいちゃんはいつも絶対に助けてくれるのでそんなに気に病む程の事でもなかった。

 それよりもあのチャラ男が対面に座ってくれたお蔭で、おにいちゃんが自然と隣の席に座ることになった。若干の感謝すら覚える。

 おにいちゃんは隣で割り箸を割って持ってきた天丼を食べ始める。

 一方のわたしは慣れた手付きで無音カメラを起動する。


 冬の顔がちらりと(のぞ)く今日この頃、日の傾きも早くなっていた。ショッピングモールを出る頃には夕焼けが見えていた。

 「ふぅー、満足」

 千早は十分に英気を養えたようだ。

 今日は千早の両親が夕食を一緒に出来る日、夕飯の時間までには帰らなければならない。

 千早の両親は二人とも非常に忙しい人たちである。平日に帰って来る時間が日を跨ぐことも屡屡(しばしば)ある。土日ですら夕飯の時間までに帰って来られないこともあるのだ。

 なので、昔から千早は僕の家で夕飯を一緒にすることが多かった。また、逆に、僕も両親が家にいることが滅多に無いので、千早の家で夕飯を一緒にすることも多かった。Win-Winの関係である。特に、千早の両親が居る時は夕飯にお呼ばれすることが多い。日頃の感謝なのだそうだ。ありがたく受け取っている。夕飯を作るのは面倒なのだ。

 「ただいま~」

 気怠げに伝える千早。後に続いて“お邪魔します”と僕も唐崎家に上がる。

 「おかえり」

 おばさんが笑顔で出迎えてくれる。一児の母だとは到底思わせない見た目の若さである。

 「おお!優、来たか!」

 リビングへ入るとおじさんに歓迎された。こちらはダンディなおじ様だ。

 そんなおじさんは最近娘がかまってくれないと言っていた。僕が来たことが嬉しかったのだろう。

 千早の様な美少女が生まれて来たことが納得の両親である。

 食卓でおじさんに僕の近況を話す。千早は隣に座っているが話には入ってくる様子が無い。携帯を弄っていた。

 暫くしておばさんの手料理が完成した。食器を食卓へ運ぶ。

 夕食を一緒して今日は帰ることにした。泊まって行くかと聞かれたが仕事で疲れている所あまりご迷惑になる訳にもいかない。

 隣の家だと言うのに手厚い見送り、玄関の扉を閉めた。


 優が帰り、自然と開かれる家族会議。優は稀に見る良い子だ。幼い頃から知っていて、夫も彼を息子の様に可愛がっている。何より昔から千早の彼を眺める目がすごい。是非息子になっていただきたい。

 「あの様子じゃまだまだ千早の事を妹としか思ってないわね」

 「うっ…」

 千早にも自覚はあるようだ。

 「もういっそのこと押し倒してしまいなさい」

 「…うん…そうする」

 決議は早々に得られた。

 一方で夫は遠い目をしていた。


 日曜日が明けて、人生で850回目位の月曜日。姉さんは一昨日のお願いを聞いてくれたようで引っ付いてくることはなかった。しかし同伴登校は()めないようだ。

 姉さん密着同伴登校事件からまだ日は浅い。今日も屋上前階段でお弁当を開ける。市販のタコさんウインナーも入れて来た。

 今日は足から食べてやろう。ふははは。

 ふと階段を上って来る音が聞こえた。先週に引き続き意外とここには人が来るのだろうか。場所変えようかな。

 そうして顔を見せたのは白波瀬さんだった。場所変えようかな…。

 「…あの……お隣、いい?」

 「ど、どうぞ…」

 どうして彼女が再度訪れたのか。僕は知らぬ間に何かやらかしてしまったのかも知れない。そうであるならば謝罪が最適解だ。

 「すみませんでした、家族は見逃して下さい」

 「えっ…!」

 あたふたする白波瀬さん。どうやら違うみたいだ。

 「どうしたの?何か困り事?」

 あたふたする白波瀬さんを見て緊張が少し解けたので僕から用を聞いた。

 「え、ああ、うん。まあ、そんな感じかな……?」

 彼女も平静を取り戻したみたいだ。

 「僕に出来ることなら何でもするよ」

 多分先生に言われたクラスの雑用とかだろう。それ位なら友達付き合いとか無くて暇なので任せてほしい。

 「あ、…えっとぉ」

 訪れる静寂。余程深刻な内容なのだろうか。

 「そのぉ……………」


 別に用なんて無い。ただ一緒にお昼が食べたかっただけだ。せっかく出来た機会を逃したくなかっただけだった。

 しかし、善意の瞳に当てられて焦ってしまう。何か困っていること、困っていること…。目下最大の悩みと言えば日向くんの事だ。つまり強いて言えば、

 「……恋愛相談」

 

 ぽつりと小さく呟かれたその言葉、屋上前階段の静寂の中ではよく聞こえた。残念ながら僕に出来ないことだ。僕の場合、まず友達を作る方法を教わる必要がある。

 「う~ん、それは僕には厳しいかもしれない」

 ごめんなさいと詫びる。

 「え?…あ、えっと!いや!これは、思わず言ってしまっただけで……ほ、ほら!日向くんモテそうだし…!」

 「はは…この16年モテた試しなんて一度もないよ…」

 モテる兆しもないよ…。

 乾いた笑いが漏れる。

 屋上前階段はまた元の静寂を取り戻した。

 さっきまでの会話を反芻する。出来ることならすると言ってこの体様では不誠実だ。ヒエラルキーならアンタッチャブルに属する僕だからこそ見えるカーストトップの眺めもあるかも知れない。

 「…ぼ、僕で良ければ相談に乗るよ?」

 緊張した。ただでさえ一度断った上に女の子の恋愛相談に乗るのはハードルが高い。

 「え…?ほんと…?」

 鳩が豆鉄砲を食らった様な顔だ。そんな顔も可愛らしく見えるのが美少女の特権である。

 「が、頑張るよ…」

 そう言えば、僕はぼっちだった。


 高校受験へ向けてもう猶予を感じられなくなったこの頃、わたしはお馴染みの校舎裏へと呼び出されていた。

 「ずっと前から好きでした!」

 僕と付き合って下さいと続く。

 「ごめん。君のことはあまり知らないし、受験でそれどころじゃないから」

 わたしも使い倒した常套句で返す。

 受験という言葉は彼らに効果覿面だ。多くはそれで納得して貰える。

 「じゃ、じゃあ、受験が終わったらどう?」

 「わたし好きな人いるし」

 わたしをラインで呼び出した彼は急所に矢を受けたようで、“そう”と言いながらとぼとぼ帰って行った。

 教室に戻るといつもの如く二人が煽ってくる。

 「ひゅーひゅー」

 「モテるね~、ちーは」

 “ちー”はこの二人しか呼ばないわたしの綽名だ。

 一人は机に突っ伏して全身の力を抜きながら顔だけこちらに向けている。目も閉じていた。まったりしすぎだろ…。

 もう一人はニヤニヤしながらわたしに絡んで来た。

 「大変だね〜」

 「はあ、他人事だと思って」

 深くため息を()く。

 「他人事だしねー」

 とりあえず、お弁当を食べて癒やされよう。煽ってくる割にお弁当は待っててくれたらしい。意外と友達想いだ。まったりしてる方は食べ切ってるだろうけど。

 わたしは大方この二人と一緒にいる。まったりしている方の御影(みかげ)まこ、とじゃない方の深江(ふかえ)小夜子(さよこ)、まこちとさよだ。

 二人とも容姿が良くて告白される事も少なくないが、まこちはマイペースすぎて、さよは理想が高すぎて、その悉くが撃墜されている。

 しかし、周囲から見ればいくら告白されても一切付き合わずお高く止まっている様に映るのだろう。わたしたちは爪弾き者の集まりだった。女の嫉妬は面倒くさいのだ。

 「今日のお弁当は千早(あに)の手作り?」

 「何で分かったし」

 「いやあ、顔見りゃ一発よ」

 さよは呆れた顔をする。その顔に少しむっとする。

 「でも料理の出来る男はポイント高いね」

 お弁当を抱き寄せ、さっきよりも顔を顰め細い目でさよを見る。

 「あげないからね」

 「ははは、いらないよ」

 苦笑しながら手をひらひらさせてそう言うさよ。それはそれでムカつく。

 「私は彫りの深いイケメン高身長高学歴大学生彼氏を作るから」

 「肩書き多すぎ」

 「これでも妥協してるんだよ」

 “妥協”という日本語の意義を後で調べておこう。

 昼休みチャイムが鳴るぎりぎりにお弁当を食べ終わる。

 チャイムが鳴って10分後くらいにまこちはのそっと起きた。


 昨日に恋愛相談をしたいと言われてちょうど24時間経った昼休み。白波瀬さんは今日もここへ来るのだろうか。だとするとお弁当を食べるのは待った方が良いかも知れない。

 特に何をするでもなく。ぼけーっとしていると階下に上る足音が聞こえた。

 「隣座ってもいい?」

 白波瀬さんは毎度律儀に聞いてくる。

 「どうぞ」

 僕も慣れてきたのでキョドる事なく自然に対応できた。

 しかし座ってからの静寂の間は相変わらずである。

 「れ、恋愛相談はまだ有効……ですか…?」

 上擦った声で彼女は空気を割いた。

 「い、一応、当店では永年保証の対応を取らせて頂いております」

 かしこまってしまった。

 「…これは私の友達の話だよ?」

 ああなんだ、友達の話かあ。とはならない。

 「友達だよ?」

 「ああ、うん、友達ね」

 友達の話だ。異論は認めない。

 「その子は、そ、その…す、好きな人の前だと緊張して上手く話せないんだって」

 白波瀬さんは続ける。

 「ほんとうはもっと楽しく会話することを思い描いているのに、いざ前にすると話し掛けることすらままならない。イメージトレーニングはしてるのに…」

 はあ、と落ち込んでため息を()く。

 イメージトレーニングすらしていないぼっちに果たしてこの問を答えられるだろうか。

 とは言え僕も何も手ぶらでこの場へやって来た訳では無い。ちゃんとご意見を伺って来た。グーグル先生に。

 「緊張とか不安な気持ちって精々10分くらいしか続かないらしいから、勇気を出して話し掛けさえすればそこからは楽しい気持ちの方が勝って来るんじゃないかな?そう思えば話し掛けるのも楽になるでしょ?」

 知らないけど。

 実体験がなさすぎてお伽噺を語ってる気分だ。

 「な、なるほど…」

 彼女には届いたみたいだ。流石だ、先生。

 「でも、何を話せば良いんだろう…」

 話のネタを考えるのは僕の苦手分野の一つだ。何も思い浮かばない。

 「その好きな人の、その、ほら、………好きな食べものとか」

 自分で言ってて悲しくなる。

 だが白波瀬さんは好きな食べもの…と小声で反芻していた。

 「ち、因みにっ…!ひ、日向くんの好きな食べものは何ですか…?」

 恋愛相談を受けているとは言え人のプライバシーにあんまり踏み込む訳にもいかない。白波瀬さんの好きな人がどんな人なのか分からないが、果たして僕の意見は役に立つだろうか。

 「参考にならないかも知れないよ?」

 「大丈夫」

 「最近は市販のタコさんウインナーかな」

 ただでさえくりっとした目を丸くしている。

 少しして彼女がふふっと微笑した。

 「おいしいよね、あれ」

 「先週くらいからよくお弁当に入れてるんだ」

 「へ~………え!?お弁当、自分で作ってるの!?」

 何か凄い事をしている風に言われ少し(おじ)けてしまう。

 「え、う、うん。で、でも昨日の晩の残りものだよ?」

 手抜きもいい所である。千早のお弁当も一緒に作る時は若干彩りも考えてるけど。

 じーっと僕のお弁当を凝視している。

 「…た、食べる?」

 「え…!いいの?」

 「あんまりお腹()いてないしね」

 全然そんなことないが、圧に耐え兼ねた。

 お弁当を差し出す。奉納している感覚だ。

 白波瀬さんは断って自分の箸で卵焼きを(つま)んだ。

 ぱくっと口に入れる。

 無駄に緊張してしまう。

 「おいしい……」

 呟く彼女。

 「おいしい!」

 俄にぐっと乗り出して、もう一度僕に言った。目が輝いている。

 顔が近い。間近で見ても彼女のご尊顔は整っていた。

 「あ、ご、ごめん」

 ふと白波瀬さんは顔を逸らす。耳まで真っ赤である。

 僕はお弁当に視線を移して自分の耳朶をぎゅっと触る。11月初旬の屋上前階段で手は冷え切っていた。

 ぼっちの僕にこの恋愛相談は荷が重い。


 恋愛相談が始まってもう5日経つ。例外なく毎日この屋上前階段に白波瀬さんは来ていた。

 自然な所作で隣に腰掛ける。

 「冷えるね」

 彼女は冷え切った手にハアハアと息を吹き掛けて笑顔で僕に話し掛ける。

 「そうだねえ」

 僕も流石に慣れてきた。自然と受け答えが出来る。

 もぐもぐと大根を咀嚼し飲み込む。ふと思った。

 「そう言えば、白波瀬さん、ここ最近(まい)昼休み来てるけど好きな人に彼氏がいるって誤解されない?」

 「それは絶対大丈夫」

 すごい自信だ。

 というか何時(いつ)の間にか“友達”の恋愛相談ではなくなっているのだがそこは良いのだろうか。

 お弁当を食べ進める僕たちの間に会話は多くない。沈黙の時間も割とあるがそれも楽になってきた。

 食べ終えたお弁当箱を包む。そして徐に取り出したるはカップケーキの袋詰である。

 「デザート?」

 「ほら、昨日食べてみたいって言ってたから」

 「………私に!?」

 白波瀬さんは一瞬脳を停止させてから盛大にあたふたし出した。電池切れ間近のシンバルを持ったおサルさんみたいで面白い。

 「どうぞ」

 彼女は大事そうに両手で受け取る。

 丁寧な所作で袋を開けると、ひとつ手に取る。

 やはりこれは無駄に緊張してしまう。

 「おいし~」

 僕がいることを忘れているのか、幸せそうに頬を弛めていた。

 「よかったよ」

 肩の荷が下りた。


 帰り道、常態化された姉さん同伴の下校途中、約束を守ってこの若干遠い神社へ来た。

 「その…この用事、結構長くなっちゃうんだけど、やっぱり姉さんは先に帰った方が…」

 「ここで待っています」

 本日2度目の交渉は数秒で終わった。

 「迷惑掛けてごめんなさい」

 「それが栄養です」

 ………。

 意味不明すぎた。

 「ちょっと待ってて」

 近くの自販機へあったか~いカフェラテを買いに行く。

 「お詫びの品です」

 買ったカフェラテとカップケーキをお供えする。

 「私の身が朽ちる迄待っています」

 本気の目だった。


 習った通りの正しい手順で神社を参拝する。拝殿の前には既にリタさんがいた。

 「ごきげんよう」

 (みやび)だ。

 「ご、ごきげんよぅ」

 「こちらに御座り下さい」

 トントンと自分の座る石段の隣を叩く。

 「粗末な場で申し訳御座いません」

 隣に腰掛けるとリタさんに恭しく詫びられる。

 たじろぐ僕。

 「あ、会ってくださるだけで十分ですからっ……!」

 「そう言って下さると嬉しいです」

 白銀の古典的(アルカイック)微笑(スマイル)

 会話が終わる。

 訪れた空白にリタさんが糸を垂らした。

 「今日の学校はどうでしたか?」

 内容は思春期の娘とコミュニケーションを取りたい父親のそれである。だが、何か深い意図があるはずだ。相手は女神さまである。嘘は()けない。

 「特別な事は別段なかったですね」

 嘘を()く事柄すらなかった。悲しいかな僕はぼっちだ。

 「そう言えばリタさんに手土産があります」

 話す事は無かったが、渡す物はあった。本当は初めに渡す予定であったが微笑に見惚れてしまった。

 「“リタ”と呼んで下さい」

 真っ黒な瞳に捕らえられる。

 「リ、リタ…」

 満足そうな顔をしてリタさんはこちらに詰めた。腰と腰が密着した距離感である。近い…。

 「それで、手土産とは何でしょうか?」

 「え、ああ、カップケーキです」

 昨日、リタさんに渡す用、白波瀬さんに渡す用、姉さんに渡す用と3袋分作った。その最後の1つを手渡す。

 「リタさ、リタは食べられますか?」

 僕の質問に彼女は実演で解答した。

 ぱくっと一口。

 「美味しいです」

 伏し目がちな表情に彼女の微笑みが映えている。僕もそれに釣られる。

 「良かったらまた作って来ます」

 「楽しみにしております」

 嬉しそうな笑みだ。作って来た甲斐がある。

 会話の種とするために作って来たお菓子は予想以上の効果を示した。


 日曜日の今日は休日だと言うのに朝から出掛けることにした。最寄駅から数駅隣にある大きい図書館へ向かうためだ。理由は簡単、ネットだけでなく紙媒体からも恋愛術を学ぶためである。

 だが、今日に行くべきではなかった。電車が非常に混んでいた。身動きは取れるが文庫本は出せない(くらい)の混み具合。酸欠気味(ぎみ)になる。

 隣にはスーツ姿のやつれたサラリーマンが眼の下に隈を作っていた。僕は彼が気になった。

 ふと彼は前の女性に手を伸ばす。痴漢だ。

 その手が虚空の内、無意識に掴んでいた。

 「それはだめです。あなたの人生が終わってしまう」

 他の乗客、前の女性にすら気付かれていないだろう本当に小さな声量。だが彼には届いたであろう。彼の隈の出来た眼は僕をぼーっと見ていた。

 「ふっ………ほんとだな…」

 自嘲気味に彼は笑い、腕からは力が抜けた。

 そうして彼は次の駅で降り去った。


 図書館へ辿る道中にさっきの出来事を反芻していた。流石に安直過ぎたと反省している。たまたま合っていたから良かったものの、もし痴漢でなかったなら名誉毀損もいい所だ。それが周りの乗客達に聞こえていたら冤罪で僕があのサラリーマンの人生を潰すところであった。もっと慎重に行動しなくてはならない。ここ最近で色々ありすぎてちょっと疲れているのだろうか。

 考えて見ればおかしな話である。僕の様なぼっちへの副葬品は代り映えしない日常であったはずだ。だが、この10日、車に轢かれ女神に出会って学校一の美少女に恋愛相談をされている。どう見積もっても非日常である。

 「趣味でも見つけよ」

 辿り着いた図書館へそう告げた。


 恋愛術に使えそうな書物を10冊ほど積み上げる。こう言うタワーはやってる感があって好きだ。飽きたら自習スペースにでも行って課題をやろうかな。

 適当に方針を立て、一番上に置いた本を取る。恋愛小説だ。こう言った紙媒体の利点はやはり物語に出ると思う。前小口に指を滑らせてその世界を進める感覚は没入感を一入募らせる。

 3冊目を読み終えて、ふぅと一息()く。読書には体力を使う。一度休憩しようと顔を上げると見たことのある人物を見つけた。話した事はない、名前も覚えていないが、我がクラスの剽軽担当であることは知っていた。カーストトップの陽キャグループに属しクラスのムードをメーカーする存在だ。何やってんだ宏樹(ひろき)、とか言ってるタイプの性格(キャラ)だ。

 そんな彼が物言わず端座して読書に耽っている。度の入った眼鏡を掛けて涼しげな表情で本を開くその姿は少女漫画に出てくるインテリクールイケメンでしかなかった。

 意外すぎてまじまじと見てしまう。いつもの煩い彼は何処へ行ったのだろう。というか想像以上のイケメンだ。陽キャは皆こうなのだろうか。

 目が合ってしまった。彼がこちらの視線に気付いてしまった様だ。だが、気にした(ふう)も無く一瞥したのみで再び読書へ戻っていった。

 視線を戻して僕も4冊目の扉を開ける。灰色の紙を眺めながらさっきの行為が失礼であることに気が付いた。今日の僕はダメだ。表紙を閉じて少し休むことにした。

 ふと目が覚めた。休みがてら千早の勉強用に高校受験の過去問題を眺めていたらいつの間にか眠っていたらしい。赤本に涎を垂らしてなくて良かったあ。

 寝起きの為にぼーっとしていると視界の端にインテリクールイケメンが居る事に気が付いた。彼もまだ図書館に残っているようだ。そう思うも束の間、彼は読んでいた本を閉じてすっと去って行った。

 僕も携帯で時間を確認する。午後3時を過ぎていた。お昼を食べていないので夕食の準備を早めにしたい。そろそろ帰ろう。

 隣に積まれたタワーを仰ぎ見る。はあ、返すのめんどくさ。


 図書館へ行った日曜日が明けて3日が経った。変わらず毎日恋愛相談を受けている訳だが見る間に限界である。月曜のうちは恋愛小説を読んだことでどんな男でも落とせる気になっていたのだが所詮は付焼刃。プロテインを飲んで強くなったと思い込んでいただけだった。

 「とりあえず遊びに誘って見るのはいいかも知れないね」

 もうこれくらいしか言うことがない。

 きんぴらごぼうを口へ運ぶ。今日は和風弁当だ。

 「で、デート……」

 白波瀬さんが神妙な顔をしている。

 「ま、まあ、二人が難しければ他にも友達を誘うって言うのも――」

 「ひ、日向くんは女の子とデートしたことあるの?」

 若干声が裏返っていた。確かに聞きにくいことかも知れない。

 「申し訳ないけど、僕は経験ないなあ」

 だから実践に基づいたアドバイスなどは出来ない。

 「ふ、ふ~ん…」

 彼女は沈黙した。それが何かを言い出そうかとする葛藤によるものである事は分かったので、お箸を止めて待って見る。

 「そ、その…わ、私も…で、デート、したこと無くて……」

 声量がデクレシェンドしている。

 「だから、その……れ、練習に付き合ってもらったり……出来ませんか………?」

 か細い声で上目遣いを搭載したお願い。それはレギュレーション違反だ。

 「ぼ、僕で良ければ」

 ほら、つい受けてしまった。

 はあ、と彼女は大きく息を漏らす。

 「ありがとう」

 彼女は僕にそう伝えた。

 その表情もレギュレーション違反だ。プロテインなんて彼女には必要ないんだろうなあ。


 夜、夕飯を食べ終え、リビングで何となく物理の問題集を開いていた時、携帯が振動した。母さんからの電話である。

 「もしもし?」

 「あ、優ちゃん、こんばんわ~」

 緩く聞こえる母さんの声。電話越しでの“こんばんは”は斬新である。

 僕は両親と顔を合わせる機会が昔から滅多に無い。年に数回程度である。幼い頃は少し寂しいと感じていた事もあった。だが、それでも少しで済んでいたのは、姉さんや千早がそばに居たこともあるが、父さんや母さんが頻繁に電話してくることも大きかった。週に1度(くらい)のペースで掛けて来るのだ。

 そして、特にこの2週間は多く、2日に1度のペースで掛かっていた。もう話すことも別に無い。というか抑々無い。

 「学校はどう?怖い人に脅されたりしてない?だいじょうぶ?」

 母さんは中々の心配性である。一昨日も同じ事を言っていた。

 「大丈夫だよ。2日じゃそうそうな事は起きないよ」

 「そう…、何かあったら言いなさいね。お金と権力ならどうとでもなるから」

 偶に母さんはこう言うが怖いので一度も触れたことはない。

 話題を逸らす(ついで)にこの2日間のお弁当のレパートリーを話すことにした。と言っても2種類しかない。

 「はあ、どの国にも優ちゃんの手料理を超えるものなんてなかったわ…」

 仕事辞めようかしら…、と切実に母さんは続けた。どう考えても辞めない方が良い。

 僕と違って母さんはコミュ力が高い。会話は母さんに任せて置けば何の障害も無くすいすいと進んだ。なぜこの能力が遺伝しなかったのか…。因みに母さんは今シンガポールにいるらしい。

 「ふう、優ちゃん成分は補給したわ。じゃあ、また電話するわね。そろそろ仕事に戻らないと」

 「頑張ってね、母さん」

 「ふふ、私、頑張るわ!」

 そう言って電話を切った。

 暫くするとまた携帯が振動した。今度は父さんだ。同日二人連続なのは珍しい。

 「もしもし」

 「もしもし、優か?」

 「そうだよ」

 そうじゃないことは殆どないと思う。

 銘々に電話してきているが、僕の両親は仲が良い。ただ、二人とも別々の仕事で異常に忙しいらしく会える機会が薄いそうだ。だが、年に数回帰って来る時には必ず両親が一緒に帰宅している。その際の二人の様子を盗み見れば仲が良いことは瞭然だった。

 「学校はどうだ?」

 父さんは口下手だ。多分こっちが遺伝した。

 「特段何もないよ」

 最近あったことと言えば、車に轢かれた事と女神様に出会った事だが、交通事故を話して心配させる訳にも行かない。姉さんにも言わないで置いて貰うようにお願いしていた。それに、女神様に出会ったことを話してもより心配されるだけなので話す訳に行かなかった。

 「そうか…、何かあったら言いなさい。日本くらいならば如何とでもなる」

 父さんも偶にこう言うが、怖いのでどうにもしないで欲しい。

 会話が終わってしまう。4日前もそうだった。父さんとはいつもこんな感じなので沈黙は別に苦ではない。

 間歇(かんけつ)的に会話が進む。父さんは今ドイツにいるらしい。

 「じゃあ、優、俺はもう仕事に戻らないと行けない」

 「うん、頑張って」

 「ああ、また電話する」

 そう言って電話を切った。

 僕ももう少し問題をやって仕舞おうかな。


 中学から駅までの道、私は久々に独りでの下校だ。今日は少し用があったので、千早(ちー)まこ(まこち)には先に帰ってもらった。どうせ独りだ。家に帰っても勉強するだけなので大回りして帰宅してやろう。

 人通りの殆ど無い閑静な住宅街をのそのそ左へ右へと適当に進む。携帯はあるので最悪迷子になったら使えば良い。便利な時代にまじ感謝である。

 何度目か曲がった道の先に迷子の対応をしている人を見た。彼は私の目指す高校の制服を纏っていた。だがその服装にはとても似合わない長ネギの刺さったエコバックを下げている。

 腫らした目を潤ませた小さな男の子に屈んで目線を合わせ微笑みを向けていた。

 「お兄ちゃんがいるからだいじょうぶ。お母さんはすぐ見つかるからね」

 そう言って彼は手を差し出す。おずおずとその手を握った男の子にもう一度微笑みかけ、すっと立ち上がった。その弾みに目が合ってしまう。彼は気まずそうに恥ずかしそうに視線を逸らした。だが一方の私はその一連をまじまじと見てしまう。男子高校生に不釣り合いな長ネギなど気にも止まらなかった。この人はこの前の電車の人だ。

 遡ること3日、日曜日、私は好きな音楽バンドのライブへ向かっていた。予想していた事ではあるが、満員電車。しかし気鬱ではなかった。携帯を出すには人が多い。ドアの車窓から外を眺めながらライブへ思いを馳せていた。その時、ふと私の後ろに人が立った。満員なのだから当然ではあるが、しかし、不自然であったのだ。そして痴漢されるんだろうなと雰囲気で分かった。こんな時、私はまだ中学生であるという事が再認識させられる。まだされた訳でもないが怖くて動けなかった。ぎゅっと拳を作るのが精一杯だった。その折、聞こえたのがあの声。そちらに気を取られていなければ殆ど聞こえないような小声。あの状況で彼は痴漢する側の人も想っていた。

 「あのぉ…私も何か手伝えますか…?」

 気が付くと声を掛けていた。

 「え!?」

 まさか声を掛けられるとは思っていなかった顔だ。私も声を掛けるとは思わなかった。驚きだ。

 「あ、すいません、間違えました」

 「な、何を…?」

 怪訝と困惑の混ざった表情である。

 そして彼はちらと横に手を繋いだ男の子の様子を見た。

 「あの……お願いしてもいいですか?」

 うーん。この人は優しさが天元突破しているな。


 迷子になっていた男の子を不安にさせまいとつい見知らぬ女性の提案に乗ってしまった。すごく気まずい。只でさえ迷子対応の少し恥ずかしい場面を見られているのだ。一入である。

 とは言え、男の子に疑懼の念を覚えさせる訳にはいかない。

 「お兄ちゃんはこの辺に住んでる人なんだぁ。この先の公園知ってる?」

 男の子はやや臆しながらこくりと頷く。上から見られると怖いだろうと思って目線を合わせず前を向いたまま言った。

 「あそこのパンダさん変な顔してるよねえ」

 今度はこくこくと間髪無く頷いてくれた。ちょっと進展。

 「とりあえずあの公園行こっか」

 こくりと頷く男の子。

 それからも安心させようと色々話してみる。

 大丈夫だろうか。胡散臭くないだろうか。しかしコミュ力を母胎へ置いてきた僕にはこれが限界である。()の女性の顔など恐ろしくて見られない。

 5分ほど歩いて到着した公園はそこそこの広さがある。僕はここへよく来る。いつ来てもこのパンダの椅子兼置き物はブサイクだ。ゾウはフツメンなのに。

 三人揃ってベンチに腰掛ける。男の子は手を握ったまま僕の隣へ、女性は男の子とは対岸の隣へ座った。

 「あの、何かプランはあります?」

 小声で彼女は問い掛ける。

 「………ないです」

 応急な対応として落ち着ける場所に男の子も馴染みのありそうなこの公園を選んだだけである。

 「警察への連絡と男の子から話を聞くことくらい……?」

 恥ずかしながら何か情報を聞き出せる(ほど)僕のぼっち歴は浅くない。

 「じゃあ、私がその子の気を引くんで連絡お願いします」

 僕のコミュ力がばれている。

 彼女は男の子の横へ移動した。

 男の子の握る手が強くなる。

 「じゃん、これなんだ」

 「ちょこ…?」

 「そう、あげるよ」

 そこから彼女は到底信じられない速度でどんどん男の子と仲良くなっていった。

 片や僕は大人を相手にたどたどしく状況を説明している。

 警察官と話している間も握られていた手は何時(いつ)の間にやら緩くなっていた。

 「そうたくんのお母さんは駅近くの交番にいるそうです」

 携帯を仕舞って女性に伝える。因みに男の子の“そうた”という名前は二人の会話から盗み聞いた。

 そうたくんの両の手を僕と女性で繋ぎ交番へ向かう。到着した先ではそうたくんのお母さんの鬼瓦を見ることが出来た。それでも泣きながらそうたくんはお母さんの懐へ飛び込む。微笑ましい光景である。

 ぺこぺことお礼をするお母さんを宥めて交番で別れ、駅まで女性を送ることにした。

 「今日はすみません。とても助かりました」

 僕はやはりコミュ力がないんだなあと改めて思わされた。このお姉さんが居なければキョドり捲くっていただろう。

 「敬語じゃなくていいですよ。私、中学生だし」

 「え!?そうなんですか!?」

 彼女はこちらをジトッと横目で見る。

 「あ、えっと、そうなん……だ」

 大人びた彼女は僕と同年代か少し上だと思っていた。

 「最近の子はしっかりしてるね」

 「最近の子のカテゴリー範囲めっちゃ狭いですね」

 「ぼっちは人の子としてカウントできないからね」

 「できますよ」

 できるそうだ。知らなかった。


 授業中。

 「せんせー、モンゴルは行ったことあるんすかー」

 地理の先生はノリが良い。

 「おー、あるぞー、モンゴルはなあ――」

 板書を止めて黒板から振り返り雑談を始めた。大学生時代バックパッカーさんであった先生の話は結構面白い。

 授業中に物怖じすること無く雑談を振ったのはクラスの剽軽者である彼だ。僕には絶対出来ない芸当である。一応授業に出てきた単語だとは言え、それを元手に授業中のクラスの怠い雰囲気を緩和できるのは素直にとてもすごいと思う。これがコミュ力の差、なのか…。

 しかし、果たして彼は図書館の彼と同一人物なのだろうか。今日も含めこの4日は偶に彼のことを観察していたが、図書館で見た姿など見る影も無かった。眼鏡だって掛けていない。

 昼休み。

 今日はいつもと異なり、僕が白波瀬さんに質問していた。

 「相馬くんってどんな人なの?」

 図書館のインテリクールイケメンの名は相馬(そうま)千尋(ちひろ)だった。

 「相馬くん?」

 キョトンとしている。僕が相馬くんと関わっていた姿など一切無いのだから当然だ。

 「面白くて良い人だよ?」

 彼女は不思議そうにしていたがそのまま続けた。

 「何かふとした時に根の真面目な性格が出るみたいな事ない?」

 「え?な、無いと思うけど…?」

 白波瀬さんは水族館にいるよく知らない珍種の蟹を眺める目で僕を見ている。

 「あ、でも、テストの成績とかはすごいよ。今まで3回の定期テストは全部2番なんだって」

 「ヘ~、頭もいいんだ」

 顔もいいし、コミュ力も高い。次出会ったら拝んとこう。

 そう言えば白波瀬さんも頭が良いらしい。先月の2学期中間テストのテスト返し時に隣で周りが盛り上がっていたのを覚えている。確か、学年3位だったと言っていた。運動も得意な白波瀬さん、才色兼備である。

 「え!?急にどうして拝むの!?」

 一通り拝み()るとお弁当へ視線を戻す。

 もぐもぐと昨日の晩も食べたカブのそぼろ煮を口へ運ぶ。

 白波瀬さんも自分のお弁当に箸を(つつ)いた。

 「と言っても、日向くんはずっと学年トップだもんね」

 「え!?」

 ぎょっとする。

 「なんで知ってるの!?」

 「え?だって成績上位50人は廊下に張り出されてるし…」

 そう言えばそうだった。1学期の初めにそんな事を言っていた様な気がする。個人の成績は紙で配られるし、友達のいない僕が一体何を確認しに行く事があろうか。いやないのだ。なので全く忘れていた。

 「なんで驚愕してるの…」

 しかしまあ、成績が良いのは僕の秘かな自慢である。自慢する相手はいないけど。そもそも嫌味になるので自慢する訳にもいかない。テスト自体は普通に嫌いだが、定期テストは好きである。だって1位だから。今のところテストで失点したことは無かった。

 「すごいよね。全教科満点って」

 白波瀬さんは若干あきれた様子である。

 「はは…、勉強しかしてこなかったからね…」

 この16年間、無趣味でぼっちな僕であった。

 次の期末テストは張り出し見てみようかな。


 肩と肩の触れるゼロ距離で隣に腰掛ける女神様に緊張する。僕は人類なのだから仕方がない。

 毎週金曜日の参拝、今日は一度帰宅してからこの神社へ来た。姉さんを寒空の(もと)待たせないためだ。

 「こちらはマリトッツォですね。存じ上げておりますよ」

 リタさんが包んだ袋を持ち上げて嬉しそうに僕に伝える。

 映えの流行は神にも届いていたらしい。

 いただきますと言って小さく一口。その感想は彼女の美しい笑みで伝わった。

 「手間ではございませんでしたか?」

 申し訳なさそうにリタさんは言う。

 「リタの美味(おい)しそうに食べる姿は釣り合うどころか余りありますよ」

 思えば僕の料理スキルは千早や姉さんの笑顔に支えられているものなのだろう。

 「ふふふ、美味しいです」

 白銀の長い睫毛、伏し目がちな微笑みはリタさんのものであった。


 女神様は聞き上手だった。僕の本当に他愛のない近況も楽しそうに聞いてくれる。

 「夕飯の支度があるのでそろそろ帰ります」

 洗濯物も取り込まなければならない。

 「そうですね…」

 僕はリタさんの表情(かお)を窺う。

 「では、また来週にお会いしましょう」

 彼女は微笑んだ。


 みゃ~お。

 鳴き声に振り向くと黒猫がいた。

 くそっ!夕飯の支度をしないといけないのに!

 かわいさには勝てない。

 「よしよ~し」

 とても人懐っこい猫だった。近寄ったら大抵逃げて行ってしまうのに、この子は気持ち良さそうに撫でられている。

 「この愛くるしさは反則だ…。ここが気持ちいいのかあ?」

 みゃう。

 撫で回す手が()まないが本格的に帰らないとまずい。

 「じゃあ、またね」

 最後にぽんぽんと黒猫の頭に手をやって別れることにした。

 家までの帰り道を早足に歩く。今更ながらに思うが、目撃されると大分恥ずかしい場面であった。何と罪深き存在だ。

 しかし彼女はまだ罪を増やすつもりらしかった。

 玄関の扉を開けると器用にすっと僕の横を通り抜け、彼女は僕の目前の玄関でこちらを向いて端座した。

 「みゃう」

 不法侵入だ。


 黒猫を抱き上げる。

 「ごめんね…うちじゃ飼えないんだ…」

 日中は誰もいないし、ノウハウも無ければ、余裕も無い。

 みゃう……。

 「うっ…そんな顔しないでよ…」

 抱えたまま玄関の上がり(かまち)に座り込む。携帯を取り出して猫の飼育を調べた。

 「やっぱり高校生の一人暮らしで命を預かるのは無理そうだなぁ…」

 黒猫に視線を戻す。

 元より首輪の付いていないこの子は野生の猫なのだろう。餌を与えず慣れてしまう前に野生へ返した方がこの子の為になる。

 彼女の(おもて)を見ず抱えたまま玄関を出て元来た道を引き返す。ふと首筋を舐められた。みゃ~う。甘えた声である。しかし負ける訳にはいかない。心を無にして歩みを進めた。

 黒猫と初めに出会った場所へ戻った。

 「じゃあね」

 黒猫を降ろして今度こそ別れを告げる。

 と同時に、だるまさんが転んだが始まった。


 結局、側庭(そくてい)にあるウッドデッキに座って僕は猫を撫で回していた。見上げると明かりの灯った唐崎家がある。

 ウッドデッキに黒猫をストンと降ろす。

 「便宜上、君の名前はクロとします」

 みゃ~…。

 「安直な名前でごめんね。とりあえず寝床を作るからそこで休んで」

 その場凌ぎの策だ。明日の自分に任せることにした。

 今日の僕は洗濯物を取り入れないといけない。


 悴む指で画面をスクロールする。11月も2週目に入り、朝の冷え込みも一層増している。僕はクロを抱えてウッドデッキに座り携帯で猫について調べていた。

 外飼いは危険が多いらしい。と言っても家の中で飼う事は出来ない。

 うーんと頭を悩ましながらお腹を晒したクロを愛でる。

 みゅっ…。

 クロは偶に(なま)めかしい鳴き声を出す。

 ついとクロは身を捩って僕の腕から離れ、すたっと着地した。そのまますたすたと歩を進める。少し歩むと立ち止まりこちらを振り向いてみゃあと一つ鳴いた。

 ついて来いと言うことだろう。

 辿り着いた先はよく知る小さな神社であった。リタさんの居る神社である。

 拝殿の前まで向かうクロを追うと、すっとリタさんは眼前に現れた。

 「どうかされましたか?」

 不思議そうにこちらに視線を向けるリタさんの足元でクロはみゃーと鳴く。

 「なるほど、私に用があるのは貴方(あなた)なのですね」

 慈愛の微笑みをクロへ向ける。

 そして腰を下ろして目線を下げた女神様と黒猫の会話が始まった。

 ぼーっと僕はそのやり取りを眺める。猫語と日本語のラリーは何ともシュールである。

 「優さん、クロさんの事でお話したいことがございます」

 話を終えた二人(正確には一柱と一匹)がこちらを見上げる。見下ろすのは気が引けるため僕もしゃがんで二人の輪へ入ることにした。序にクロを撫で回す。

 「結論を申し上げますと、彼女は猫ではございません」

 怪訝な僕へ向けてリタさんは続ける。

 「形様(なりさま)は黒猫で間違いありませんが、知能はヒトと遜色がありませんし、彼女にはブラッシングや爪研ぎの必要もありません」

 僕はお腹を晒して成すが儘にされているクロへ視線を戻す。光を反射する真っ黒な瞳と目が合った。

 「…?あやかしみたいな事?」

 僕の(とい)にクロはみゃーと答えた。

 「詳細は後後(のちのち)に優さんの知る所となることでしょう」

 そうならば今は深く考えなくても良いのだろう。

 撫でていた僕の指をぺろっと舐めて、クロはくるっと身体を回し僕の(もと)を逃れた。

 こちらを向いて脚を揃えて座ったクロがみゃーと鳴く。

 振り返ってリタさんへ鳴いた。

 「承りました。優さん、私が彼女の言葉を通訳致します」

 クロは丁寧な所作で頭も下げた伏せの体勢になる。人で言う所の土下座に近い体勢である。

 みゃー。

 「“主様(あるじさま)(わたくし)を主様のお(そば)に置かせて下さい”」

 リタさんは声を一変させていた。まるでクロが話しているように聞こえる。すごい、神ってる。

 「一緒に帰ろう?クロ」

 口を衝いて出た言葉がそれであった。

 無意識に僕は彼女へ両手を広げて柔らかく微笑んでいた。

 その返答に顔を上げてみゃ~と鳴いたクロは僕の胸へ飛び込んだ。

 見ていたリタさんが伏し目がちな目を丸くしている。僕も目を丸くしていた。

 「思い出されたのですか…?」

 僕はリタさんの問にゆっくり首を(かし)げる。クロにぺろっと頰を舐められた。

 「無意識ですか……ふふっ、素敵ですね」

 優しく微笑む女神様。

 最近多く見られる無意識行動。ぼっちの生態には謎が深まるばかりである。


 帰宅した僕たちは早速作戦会議に入ることにした。座った僕の膝の上にクロがちょこんと乗って向かい合う形である。

 「クロ、まずは要る物を揃えようか」

 「みゃー」

 しかし今日は予定があった。

 「でも今日は昼過ぎから幼馴染の勉強を見る約束をしてるんだよ…」

 「みゃ…」

 「その後でもいい?」

 「みゃーっ」

 クロはこくっと首肯した。

 お礼を言いながらクロを撫で回す。気持ちが良いのかみゅぅっ…と声が漏れていた。

 クロがこの家にやって来た。


 千早の部屋で僕は千早に勉強を教えていた。小さなテーブルを置いて床に並んで座っている。

 「おにいちゃん、つかれたぁ」

 机に向ってかれこれ3時間になる。

 「そうだね、休憩にしようか」

 飲み物と昨日作ったマカロンを取りに行くため立ち上がる。その弾みで机に置いたプリントを1枚飛ばしてしまった。ひらひらとそれはクローゼットの隙間に吸い込まれて行く。

 「ごめん千早、プリント入っちゃったからちょっとクローゼット開けるね」

 取っ手に手を伸ばす。

 「だ、ダメっ!」

 驚いてぱっと手を離す。想像以上に大きな声で拒否された。

 さっきまでだらっと机に伏していたとは思えぬ深刻な様相である。

 「お、おにいちゃんは下に飲み物取って来て。プリントはわたしが取っとくから…!」

 彼女の雰囲気に気圧される。

 「…う、うん」

 部屋を出て階下に降りた。


 自室の扉を少し開け、隙間からおにいちゃんの階段を降りる姿を見送る。そっと扉を閉めてほっと胸を撫で下ろす。

 「危なかった~」

 扉を背にずるずるっと腰を下ろした。

 クローゼットの中は絶対に見られる訳にはいかない。

 両開きの折れ戸を引いてがらっと開ける。一面に広がるのは自作のおにいちゃんグッズや盗撮写真集である。これを見られて重たい女だとは思われたくない。

 プリントを拾い上げる。おにいちゃんの自作プリントである。

 「はぁ…結婚したいなぁ……」

 思わず声に漏れ出てしまった。

 家事や仕事は言うに及ばずおにいちゃんのためならば何だってできるだろう。

 わたしはクローゼットを閉めてプリントを机に置いた。


 家庭教師も終わり、僕はいつもより早い時間に帰宅した。クロが居るので今日は夕飯を遠慮したのだ。

 「ただいま、クロ」

 何の違和感も無く不思議と自然に言葉が出た。

 「みゃー」

 クロはちょんと座って玄関で待っていた。

 抱え上げてリビングへ向う。

 「じゃあまずは何を買うかを一緒に決めようか」

 「みゃ~」

 ぐうかわだ。

 彼女は僕の頬をぺろっと舐め甘える様に縋って来る。彼女から漏れ出る嬉しいと言う感情に僕は思わず苦笑した。


 クロを迎え入れた翌日の今日、僕にとっての重大事があった。デートである。それも、学校一の美少女と。まあ練習に付き合うだけだけど。

 昨晩に自室でファッションショーを開いて無難な服装を選び抜いた。そんな僕の姿を端座してクロは眺めていたがどこか不満そうな様子であった。

 電車で数駅の間揺られて辿り着いた待ち合わせ場所は駅構内の時計台の下である。改札から出てすぐのこの場所は行き交う人波を眺めていられる。40分も早くここへ着いたので白波瀬さんはまだ到着していないようだった。

 数分の後に白波瀬さんは姿を現した。特段身長が高いと言うわけでもないのに、人波の中でも彼女はすぐに見つかった。やはり彼女は周囲の目を惹くようだ。学校一の美少女は伊達では無かった。

 「ごめんね、待った?」

 彼女は申し訳なさそうに聞いてくる。ダークブラウンのノーカラーコートを上手く着こなしていた。

 「ううん、さっき着いたばっかだよ」

 首を横に振って否定する。実際10分も待っていない。

 「ふふっ」

 白波瀬さんが小さく吹き出した。何故かとても嬉しそうだ。

 「どうしたの?」

 「ううん、なんでもない。何でも無いよ?」

 ならいいか。楽しそうなのは何よりだ。

 「それにしても、さすが白波瀬さんだね」

 僕の言葉に白波瀬さんが疑問符を浮かべる。 

 「ほんとかわいいね」

 白波瀬さんレベルになると“かわいい”という褒め言葉も素直に出て来てしまう。若干の呆れた溜め息混じりである。

 「えっ……」

 白波瀬さんがフリーズした。

 少ししてかあっと耳まで紅潮し、ぼふっと湯気を出した。

 言われ慣れている褒め言葉だろうに彼女の初心な反応に苦笑する。

 僕の反応に少しむっとする白波瀬さんにごめんねと謝って僕らのデートが始まった。練習だけど。

 しかしデートの練習とは何をすればいいのだろう。今日のデートプランは事前に白波瀬さんと連絡していた。僕の素人なプランでは練習にならないし、何より彼女が楽しくないだろうと思い、初めから彼女の行きたい所を聞いておいたのだ。それにあたって僕は学校一の美少女と連絡先を交換していた。…まじか。

 報連相(ホウレンソウ)を重んじた僕らのデートプランはとてもシンプルなものとなった。二人とも初めてだから何も思い浮かばなかったのだ。

 最初に着いた映画館で映画のチケットを2枚購入する。

 「あ、ごめんね、いくらだった?」

 後ろで待っていた白波瀬さんが慌てて財布を取り出す。

 そんな彼女に僕は思わず微笑した。

 「ふふっ、大丈夫だよ。デートなんだからこんな所くらい男の僕に華を持たせてよ」

 ぼーっと僕の顔を眺めていた白波瀬さんはふと恥ずかしそうに視線を外して自分の赤らんだ耳朶を揉む。

 「う、うん。……ありがとう」

 これが練習であるということを忘れそうになる。

 彼女と共にシアタールームへ向かった。7番だ。

 映画が終わると僕らは近くのおしゃれな喫茶店に寄っていた。僕が一人で来ることなど決してあり得ない様な場所である。

 やはりデートの最初に映画へ行くのは正解であった。僕の様な口下手でも映画の感想という立派な話題が掴めるからである。僕らが見た作品は最近上映されたばかりで世間的にも話題性のあるアニメ映画であった。日本中が話題にしているのだから僕にもぎりぎり話題に出来る筈だ。…と思いたい。

 「はあ、ほんと素敵なお話だったね」

 喫茶店に着いても彼女は未だ読後感に浸っていた。相当この映画が気に入ったようでパンフレットも購入していた。

 僕はそんな白波瀬さんを微笑みながら眺め、そうだねと返した。確かに素晴らしい作品であった。流行りモノには流行る理由があった。

 「はい、白波瀬さん」

 僕は包装された袋を手渡す。

 「ありがとう…?」

 彼女は困惑した様子でそれを受け取った。

 「さっきパンフレットを買ってた白波瀬さんに触発されて僕もキーホルダー買っちゃったんだ。折角の記念だし白波瀬さんの分もと思って。映画に出て来た椅子のキーホルダー」

 僕は猫のやつ、と言いながら買ったキーホルダーを彼女に見せた。

 目をぱちくりさせた彼女は相好を崩してもう一度ありがとうと言った。

 昼食を済ませシャレオツな喫茶店を後にした。向かった先は寺院である。11月の中旬である今、丁度見頃となっている紅葉を見に行くのだ。

 電車に乗って一駅、数分で到着した。

 目的は僕たちと同じであろう多くの人が見られたが、不思議と窮屈さを感じないのはこの大きなお寺の荘厳さに由来するのだろうか。

 カラッと晴れた空模様のお蔭か紅葉を楽しむにはちょうど良い清涼な空気の中、僕たちは緩やかな人の流れに沿って歩いた。

 拝観受付にて二人分の拝観料を支払い、建物の中へ足を踏み入れる。ここは周りの紅紅(あかあか)とした世界が一望出来る廊下橋である。一面の紅葉と垣間見える瓦屋根に青空が伴って風情を作り出していた。ゆっくりと歩みを進める僕たちを、焦げ茶色をした木造りの橋廊が落ち着いた匂いで包み込む。

 …デートってこんな渋くて良いのだろうか。

 ちらと白波瀬さんを覗うと図らずも目が合った。

 驚いたのかわたわたする白波瀬さん。

 「あ、え、えーと…!せ、せっかくだし写真撮ろっか……!」

 「そうだね」

 こういう時、写真はツーショットなんだろう。しかしこれはデートの練習、白波瀬さんの好きな人的には他の男と撮ったツーショットに良い気分はしないだろう。相談相手となっている僕が未来のカップルの亀裂を生むような事をするわけにはいかない。だがしかし二人で出掛けているというのは事実だ。いっそのこと、この写真を証拠にするのがいいかも知れない。

 近くを歩いていた人の良さそうなカップルに写真を頼む。

 「じゃあ行きますよ~。はい、ちー……お二人もっと寄らないんですか~」

 「アドバイザーとして最適な距離感なのでそのままお願いします」

 「は、はあ…………あどばいざー?」

 カップルは疑問を持ちながらも撮影してくれた。

 感謝を告げて彼らとは別れた。

 少し落ち込んでいる白波瀬さん。確かにこれではあからさまに避けているようにも見える。素直に理由を伝えることにした。

 「ごめんなさい、白波瀬さん。別に避けてるつもりは無かったんだけど……その……白波瀬さんの好きな人に失礼かなあ…なんて思って……」

 白波瀬さんは目を丸くした。それから微笑みを浮かべる。

 「日向くんはやっぱり日向くんだね」

 さっきの様子とは打って変わって嬉しそうな彼女の微笑に秋空の(もと)で靡く紅葉がよく映えていた。

 夕食の時間前には切り上げることになっていた。デートの帰り道、白波瀬さんが口を開く。

 「今日はありがとう」

 この頃の夕暮れは早い。オレンジ色の空の下、僕らの影は長く伸びていた。

 「今日ちゃんと練習になった?」

 一日通して不安に思っていた事だった。

 「…………あっ」

 なにその反応…。全くの想定外だ。

 「う、うん…!な、なったよ!」

 「…」

 じとっと彼女を横目で見る。

 すーっと白波瀬さんは視線を逸らした。

 「……忘れてた?」

 「そ、そんなことないよー?」

 追及の()が流れる。

 耐えきれず二人して小さく吹き出してしまった。

 「楽しかったなら良かったよ」

 学校一の美少女は普通の女の子だった。


 お風呂上がり、ベットの上で枕を抱き締めジタバタする。胸の奥底から湧き上がり溢れ出る言い知れぬ多幸感を少しでも外に発散するためだ。

 携帯で撮った日向くんとのツーショットを眺めて頬がだらしなく緩む。今の私の顔は到底誰にも見せられないものとなっているだろう。

 今日何度目か分からない脳内デート振り返り。“かわいいね”だって、キャー!

 枕に顔を押し付けて足をバタつかせることで私の精神は()っていた。

 「ねえ!おねえちゃん、うるさい!」

 っ!

 突然部屋の中で聞こえた声に驚いた。

 「な、(なぎ)…ノックくらいしてよぉ…」

 「したよ!おねえちゃんがバグってるからでしょ!」

 「ば、バグ……」

 「とにかく、もうちょっと静かにして!」

 「ご、ごめんね」

 扉を閉めて妹は去っていった。

 テンションが上がり過ぎてしまった。反省だ。

 明日も日向くんに会うのだ。夜更かしはいけない。

 今日は良い夢が見られそうだ。


 白波瀬さんとのデート練習の翌日、昨日の事だと言うのに随分前の出来事の様に思える。僕は平生と変わらず授業開始の40分以上前から教室に居た。当然の事ながら一番乗りであり、朝の冷え切った教室には僕一人の椅子を引く音が響く。いつもなら文庫本を開いて時間を潰すのだが、今日は珍しく二番乗りが白波瀬さんであった。

 「おはよう、白波瀬さん」

 一瞬目を丸くした白波瀬さんは微笑みを湛えて返す。

 「おはよう、日向くん」

 クラスメイトと朝の挨拶をしてしまった…。感慨深いものがある。両手で数えられる程しかやったことがない。

 「いつもこんなに早いの?」

 白波瀬さんは席に鞄を掛けながら僕に問う。

 「うん、でも別に何かやる事があるわけじゃないんだけどね」

 隣席のクラスメイトとの雑談なんて都市伝説だとばかり思っていた。

 僕たちの会話は穏やかに続いていった。

 「はよ~、みぃ」

 未だ二人であった教室に気怠げな声が舞い込んだ。“みぃ”とは恐らく白波瀬美空(みそら)さんの綽名だろう。

 入って来たのはカーストトップのクラスメイト、圧倒的ギャルの三雲(みくも)亜玖璃(あぐり)さんである。ぼっちの僕でも名前を知っているくらいに彼女は目立った存在である。着崩した制服に金色に染めた髪、爪先のおしゃれも忘れていなかった。しかし目立っている理由はその容姿だけではない。彼女の勝ち気で物怖じのしない性格も一翼を担っていた。先生に幾ら注意されても真っ向勝負で髪色を黒に戻さないのだ。ハート強すぎだ。

 彼女は鋭い目付きで見下ろし僕を品定めする。

 「ふーん」

 興味無さげに視線を白波瀬さんに戻した。

 …ちょーこえー。

 「あぐりちゃん、今日は早いね」

 白波瀬さんが三雲さんへ話し掛ける。実に自然な友達の距離感である。

 「昨日ママと喧嘩しちゃったかんね〜」

 彼女は面倒臭そうな顔をする。恐らくよくある事なのだろう。白波瀬さんも「また喧嘩したの」と返していた。

 彼女らの談笑が続く中、僕は少しずつ空気と同化していた。そろそろ風にならんという時についとこちらに話題が飛んで来た。

 「日向とみぃって仲良かったっけ?」

 僕の名前を知っていることに驚きを隠せなかった。

 「なに驚いてんの…」

 「う、ううん、何でもない」

 気を取り直す。

 しかしいざ聞かれると仲が良いと答えていいのか困ってしまう。僕個人の意見で決めてしまっていいのだろうか。白波瀬さんはどう思っているのだろう。そもそも仲が良いというのは何の基準に対して答えればいいんだろうか。他に付き合いのある人と比べるといいのだろうか。だが誰々よりも仲が良いと答えるのはその人に失礼になってしまう。うーん、どうしたものか…。

 「そんな深く考えることじゃないと思うけど…」

 僕と白波瀬さんの関係…。

 「白波瀬さんのスタンド?」

 「は?」

 僕が余りに不可解であった所為か三雲さんが怖かった。

 それから再び僕が会話に参加することはなくなり、とうとう風になった。

 「こりゃみぃも大変だ」

 亜玖璃(あぐり)の小さい独り言は誰の耳にも触れなかった。


 今日もクロは出迎えてくれた。でらかわいい。

 抱えて共にリビングへ向う。彼女の定位置は僕の膝上である。

 家の中にいる時、クロは基本僕の周りから離れない。特に何か邪魔をするというわけでもなく、ただじっと僕の(そば)にいる。だが僕が座って何かしていると彼女は決まって膝の上に乗ってくる。偶にいない時は僕の部屋のベッドの中で小さく丸まって眠っているのが殆どだ。

 一日が終わり、僕がベッドに入るときも例に洩れずクロは離れない。一緒にベッドの中へ入りぎゅっと身体を寄り添わせてそのまま眠りに就いている。

 初冬の候、温もりを感じる今日この頃である。


 舗装されていない踏み()された砂利道を歩く。中心部から外れたここは向かうに連れて活気と共に人の気配がなくなってきている。

 足音を消して進む。追われる身である故に、なるべく気配を薄くしたいのだ。こんな郊外に宿を取ったのもそれが理由であった。と言っても周りには僕がどうしてか記憶に残らない曖昧な存在に見えるように自分へ魔法を施していた。なので足音を消すほど神経質になる必要はないのだが、慎重に越したことはない。

 「ただいま、クロ」

 「おかえりなさいませ、主様(あるじさま)

 何が楽しいのかいつもの如く満面に喜色を湛えて彼女は出迎えてくれた。

 クロは今人間フォルムである。初めて出会った時は黒猫フォルムであったが、最近は人間フォルムの方が多い印象だ。見た目は(あで)やかな18歳くらいの華奢な女性の姿をしている。身形(みなり)はロココ調の黒いドレスにちらと赤い装飾が入っている。故に肌の露出など殆ど無いのに如何(どう)も彼女は蠱惑的で妖艶さが拭えない。そうした彼女の優美な容姿は非常に周りの目を惹くので僕同様に魔法を掛けていた。

 ここ最近はクロとの二人旅を続けている。宿を転々として子どもたちの生活費を稼いでいた。

 「御食事にされますか、湯浴みにされますか、それとも……(わたくし)にされますか?」

 妖美な微笑を浮かべて僕を挑発する。

 「しないよ」

 じとっとした視線と共に返した。

 彼女がむぅっとする。

 「一度くらい()いではありませんか」

 拗ねてしまった。

 「拗ねないでよ。ほら、せっかくクロの好きそうな焼き菓子を買って来たんだから。デザートに一緒に食べよう?」

 クロは瞳の輝きを取り戻す。

 「ぜひ食べましょう!」

 うーん、ちょろいなあ…。

 食卓を二人で囲む生活。クロの優艶(ゆうえん)な見た目に反した異常にエネルギッシュで積極的な性格故か随分と長く過ごして来た気がする。

 食後の時間、紅茶のお供に買った焼き菓子を並べる。クロの容姿や所作のお蔭で非常に優雅な時間と()していた。

 ふと彼女と目が合う。

 にこぉと彼女は微笑んだ。

 「主様(あるじさま)、大好きですわ」

 驚く程どストレートな彼女の好意に気恥ずかしくなる。どうにも慣れる気がしない。だがしかし僕はこの好意には応えられない。この異世界に居続ける事は出来ないからだ。なので何度も断っているのだが引く気配が無かった。

 僕は紅茶を飲む。クロへ目を向けられない。


 寝ぼけ(まなこ)で見上げる天井はぼーっと白い。さっきまで何の夢を見てたんだろう。起きたら何故か忘れているのはあるあるだ。

 はあ、起きてしまった…。体温で温まったこの布団を離したくない。この時期は特に朝が冷え切っている。お腹の上に乗ったクロとお腹の間に手を入れた。あったかい…。

 しかし何時(いつ)までもこうしてぬくぬくしている訳にはいかない。クロを抱え上げて階下のリビングへ向かった。


 どうして同年代には全く懐かれないのに子どもたちにはこんなに懐かれるんだろう。

 公園で僕は子どもたちに囲まれて一緒になって遊んでいた。

 「はるとー!ゆうにーそっち行ったぞー!」

 今は鬼ごっこ中だ。当然僕が鬼。“ゆう(にー)”とは子どもたちが僕を呼ぶ時の愛称だ。

 子どもたちの足の速さに合わせて追い駆ける。

 「晴斗(はると)ぉ、もう逃げ場はないぞ、残念だったねぇ」

 鬼ごっこなので態態(わざわざ)悪役(ヒール)を演じる。僕もノリノリなのだ。

 「昼休みに練習した奥義を見せてやる!」

 晴斗は言って右に駆け出した、とフェイントをかけてくるっとターンし左へ駆け出した。

 「なに…!」

 正直、捕まえようと思えば容易く出来たが、楽しさ優先だ。

 僕は放課後たまにこうして公園に集まる近所の子どもたちと遊んでいる。

 「ゆーにー飽きたあ。つぎおままごとやりたあい」

 ゆさゆさ僕を()する女の子、唯華(ゆいか)ちゃんだ。

 「やめろよゆいかぁ。ゆーにーは今おになんだぞ!」

 大河(たいが)が反発する。いつもの光景である。

 子どもたちには悪いが、こうやって彼らが僕を取り合う姿を見るとどうしても頬が緩んでしまう。なまらかわいい。

 「じゃあ、鬼ごっこはあと一戦ね」

 男子組は「えー!」女子組は「やった~」と対照的なリアクションを上げる。

 こんな反応をしてるが、何をやっても結局男子も女子もみんなきゃっきゃと楽しむのがいつものことだった。だから彼らはかわいいのだ。

 かくれんぼが始まった。勿論鬼は僕だが、実はかくれんぼが一番怖かった。子どもたちが熱中して何処かへ迷子になってしまわないかハラハラするのだ。公園から出ないようには言っているが、見えていない間に攫われでもすると、と考えると心配である。

 公園に背を向けた状態で恐らくその不安が顔に出ていたのだろう。

 「そんな顔してどうしたんですか…?」

 怪訝な様子で話し掛けて来たのは迷子を見かけた時に助力してくれた女性だった。

 「え?あ、この前の…」

 「はい、この前のです」

 ひょいと公園を覗く彼女。

 「かくれんぼ中だよ」

 へーと空返事(そらへんじ)して僕を向く。

 「私も混ざっていいですか?」

 「え…いいけど…」

 小学生しか居ないけど大丈夫だろうか…。

 「大丈夫ですよ。一人だと目を離してるうちに迷子になってしまいそうで不安なんですよね?」

 やり手のエスパーが日本に一人。

 「顔に出過ぎなんですよ…」

 驚愕している僕に呆れた顔で彼女は返した。

 彼女が参戦した時に見られた子どもたちの「え…誰…?」という表情(かお)はすぐに霧散した。子どもたちの順応性の高さや彼女のコミュニケーション能力のお蔭であろう。

 北風などお構いなしに万馬奔騰な子どもたちに彼女は囲まれていた。


 空が橙色に染まって子どもたちと別れた駅までの帰り道。

 「また助けられたよ。何度もごめんね」

 「別に大した事じゃありませんよ。可愛かったですし」

 私も受験勉強の良い気晴らしになったのでWin-Winである。

 「それに恩を返してるってだけです」

 ぽつりと呟いた。

 「恩?」

 心当たりが無いようで彼は不思議そうに問い返す。

 私が痴漢をされそうになった時、彼は私の背に居て顔を見ていないために心当たりが無いのは当然だろう。

 ずっとお礼を先延ばしにしてしまっていた。

 「この前、痴漢されそうになったとき、助けて頂いてありがとうございました」

 目を閉じて頭を下げる。

 “恩”の説明をする代わりに謝意を伝えた。

 伏せていても何となく彼がたじろいでいる姿が見える。まだ会って2回目だが彼のそんな性格は十分伝わっていた。

 「か、顔を上げてよ」

 慌てて彼は言った。

 素直に従って顔を上げると彼のむず痒そうな表情が見られた。こうして正面から彼の顔を見たのは初めてかも知れない。

 逡巡の後に彼は口を開いた。

 「君が無事でよかったよ」

 それは優しい微笑みを湛えていた。

 夕の空が橙色で良かった。

 ああ、私はこの人に恋をするんだな。

 ストンと腑に落ちた気がした。


 図書館にある長机に本を積む。この前の反省を活かして今日は4冊にしておいた。

 またぞろ懲りず休日に図書館へ来ている。先週の白波瀬さんとのデート練習でも思ったが僕にはまだまだ恋愛力が足りていない。アドバイザーとしてもっとムキムキマッチョになる必要があるのだ。

 加えて静けさと本の匂いで満ちるこの空間が単純に気に入ったという理由もあった。

 黙々と小説を読み進める。

 2冊を読み終わる頃には時刻は昼過ぎになっていた。

 ぐうっと小さく伸びをする。机の離れた所にインテリクールイケメン相馬千尋くんがちらと目に映った。毎週来ているのだろうか。

 3冊目の表紙に手を掛ける。僕のようなぼっちには殊に大義名分が無いときに他人へ話し掛けるなんて高度な事は出来ない。

 恐らく僕は本を読むのが苦手なのだろう。それにぼっちへの最近の人間関係供給過多も祟った故か、僕は気付かぬ内に夢の世界へと落ちていた。

 「――い、――――きろ」

 ゆさゆさと揺すられている感覚はある。ぼーっとする。頭を上げるのが億劫だ。

 「おい」

 すうっと徐々に意識が覚醒する。机に突っ伏した無理な体勢で寝ていた所為か腰が痛い。

 まだ重たい頭をゆっくり上げると揺すっていたのは相馬くんであった事が(わか)った。

 「お前は何をしに図書館へ来ているんだ」

 落ち着いた声音には呆れの感情が混ざっていた。

 「あ、おはよう、相馬くん」

 話にならないといった様子で彼はため息を漏らす。

 「この図書館は(じき)に閉館するぞ」

 それだけ言い残し彼は去って行った。

 お礼を言い(そび)れてしまった。


 「なあ聞いてくれよーとうまー」

 相馬くんの声だ。

 学内ヒエラルキーというのは声の大きさに比例している。彼らにとって存在のアピールは大事なことなのだ。換言すると、僕のようななるべく空気になりたいぼっちは必然的にヒエラルキーの最下層にいるということになる。

 このクラスで一際(ひときわ)声が大きいのは僕の隣席に(たむろ)している彼らである。

 中心にいるのは宮前(みやまえ)斗真(とうま)くん。おしゃれなイケメンでスポーツ万能な彼は(まさ)にカーストトップと()うような人である。そんな彼を取り巻いているのが、剽軽役の相馬くんと同調役の田口くんであった。

 しかし僕の勝手な意見であるが、イケメンの度合いで言えば相馬くんが周りから頭一つ抜けているように見える。これは僕が図書館で彼を見たからなんだろうか。学校にいる今の彼はそのキャラ性故か容姿があまり目立ってはいないように映る。

 閑話休題、話を回しているのは相馬くんであった。3人はカーストトップにしか許されないようなノリで休み時間はよく一緒にいた。しかしよく一緒にいるのは彼らだけではない、殆どが彼らから寄って行く形ではあるが女子グループも共に見られた。こちらも圧倒的カーストトップである。中心は白波瀬さんだ。彼女の傑出した美少女力は自ずと彼女をグループの中心へと引き上げてしまう。そして隣にいるのはギャルな三雲さんと流行の遣いである相生(あいおい)さんだ。相生さんは恐らく学年最速で流行を追う女の子である。

 彼らが学年でもトップカーストの陽キャグループであった。僕の隣席でぺかーっと輝いている。日中に左の窓から射し込む日光よりも大いに眩しい右隣である。陰の存在である僕が消滅しない(ことわり)はなかった。僕の机に偶にお話に熱中している彼らのおケツが乗っているのもそれが理由であろう。

 一時(いっとき)前までなら考えられないが、ここ最近は気が向いたとき横目で彼らを観察している。白波瀬さんと関わりが出来た事や相馬くんのギャップを見掛けた事が所以だ。

 何となしにチラ見していたのだが、学べることは沢山あった。特にコミュニケーションという点に於いては僕なんて彼らの足元にも及ばない。それ所か、彼らの足元から数十メートルくらい下に差がついているであろう。

 相馬くんのそれは際立っていた。恋愛アドバイザーとして白波瀬さんと話す経験や先日に見知らぬ女性の助力を得た時にも思ったが僕ももう少しコミュ力をつけたい。ぜひゼロから始めるコミュ力講座を開いてほしい。この間に言い逸れたお礼をする時にでも彼へ一度お願いして見ようか。

 ふと白波瀬さんと目が合った。

 チラ見している時、こうして彼女と目が合うことが何度かあった。今日は何となく他の人にバレないように微笑み返してみる。

 かあっと(あか)くなる白波瀬さん。

 周りは急なその様子を不思議がっている。彼女は「な、なんでもないよ」と返していた。

 なんかイタズラが成功したみたいな気分だ。今まで友達の一人も居なかった僕にとっては何処か新鮮な気持ちである。

 窓の向こうの雲の多い晴れた空を見上げてそう思った。


移動教室前の休み時間にやっと相馬くんが独りになる時間を見つけた。

 友達と談笑している所へ話し掛けに割り込む様な高難易度(ナイトメア)な事は僕には不可能である。なのでこうしてこそこそと図書館でのお礼を言いに行こうとしているのだ。

 「相馬くん」

 次の教室へ向う途中の廊下には他に生徒の姿は見えない。

 「ねえ、相馬くん!」

 今度は肩もとんと叩く。

 「何だ」

 すごく迷惑そうな顔である。

 姿形はチャラくて軽そうに見えるのに芯まで冷え切っていた。

 少し萎縮してしまう。

 「いや、あの…この前、ありがとう。図書館で起こしてくれて…」

 彼は一切顔色を変えない。

 「置いて行く事は寝覚めが悪かっただけだ。感謝しているのならもう話し掛けて来ないでくれ」

 半身で振り向いていた身体を戻して先に行ってしまった。

 むっとする。去った彼の背をじとっと睨む。

 おうおうそんな態度を取るのならこっちにも考えがあるぞ。

 めっちゃ話し掛けてやる。


 本末転倒な気もするが、僕はこの(ところ)迎えに来る姉さんの負担を減らすため下校の時間を揃えている。なので、それまでの間は学校の図書室に籠もっていることが多かった。今日も例に洩れず向かっている。

 放課後に図書室にいる生徒はそれほど多くない。騒がしさなどまるで無いここはぼっちにとっての安息地であった。

 今日は特段少なかった。僕ともう一人の女の子の二人だけである。

 彼女は一所懸命に本棚最上段の1冊を取ろうとしていた。が、全く身長が足りていない。背丈は僕の胸辺りまでしかないであろう彼女、背伸びをしても届いてなかった。

 見ていられなかったので代わりに取ることにした。

 「はい、これであってる?」

 ナチュラルにタメ口を使ってしまう。彼女の幼気(いたいけ)さは凄かった。

 「は、はい」

 突然横から現れた僕に戸惑いながらも怖ず怖ずと本を受け取った。

 「ありがとうございます」

 「気にしないで」

 何かあったわけでは無いのに何処(どこ)となく気まずい空気が満ちる。図書室に二人しか居ない故に物音一つないこの状況が悪いのだろう。安息地とか大嘘だった。

 それじゃあと言ってぎこちなく別れた。

 それから数分、今度は大量の書類を持ってわったわったと歩いていた。自分の身長を優に超えている紙の束がゆらゆら揺れている。どうやって前見てるんだろう。

 案の定、視界は悪かったようで彼女は思いっ切り足を躓かせた。

 「わっ!」

 ハラハラしながら近くで様子を窺っていたのが功を奏した。

 彼女を()ける前に支えることには成功した。

 わさっと縦横無尽に広がる大量の書類。

 「大丈夫?」

 彼女は今、頭を回しているのだろう。

 数秒の(のち)

 「す、すみません…!」

 すばっと僕の胸から離れた。

 気にしないでと彼女に微笑む。屈んでバラバラになった書類を集めることにした。

 慌てて彼女も拾い集める。寂然(じゃくねん)とした図書室に紙を拾う音だけが響いていた。

 「すみません…何から何まで…」

 ぽつりと彼女は呟いた。

 「わたし、すごいドジで、周りの方に迷惑ばかり掛けてしまうんです」

 自責的な声が漏れる。

 「迷惑だなんて思ってないよ」

 「で、でも…」

 「たとえそれが迷惑だとして“ありがとう”と言って貰えるだけでそんな気持ちも吹き飛ぶよ」

 こちらに顔を向けた彼女に笑顔を返す。

 彼女は目を伏せ視線を逸らした。

 「……ありがとうございます」

 頬は少しだけ(あか)らんでいた。

 彼女は図書委員であったらしい。危なっかしい彼女の手付きを放って置けず僕は結局最後まで彼女の手伝いをしてしまった。

 「今日はいろいろすみま……ありがとうございました」

 彼女はぺこっと頭を下げる。

 “ちっちゃくてかわいい”という言葉を擬人化させた様な存在である。素直な性格や童顔で整った容姿、母性を召喚する魔性を備えていた。

 「こちらこそ出しゃばってごめんなさい」

 反省点である。

 彼女には彼女のペースがあっただろうに、僕は余計なお世話だったかも知れない。

 「出しゃばるなんてそんな事ありませんよ。お礼をさせて欲しいです」

 「…じゃあ、その、おすすめの恋愛小説ってあったりする?」

 僕のお節介を恩に着せる訳にもいかないのでお礼を素直に頂くことにした。

 引かれないかと思いながらおっかなびっくり聞いてみる。

 「恋愛小説お好きなんですか!」

 勢い良くがばっと乗り出してきた。ブンブンと揺れる尻尾が見える気がする。

 「う、うん。最近ハマり始めたんだ」

 慮外な勢いに若干尻込みする。顔が近い…。

 「ということは!まだ読んだ事のない名作が沢山あるという事ですね!いいなあ~」

 瞳が爛爛(らんらん)としている。

 「恋愛小説は古いものですと2、3世紀頃に書かれたと云われる『ダフニスとクロエー』や―――」

 嬉嬉として澎湃(ほうはい)たる語りが続いた。内容に興味を引かれるというのもあったが、何より彼女の先程とは一変した楽しそうな雰囲気は僕を話に引き込ませた。

 不意に彼女は我に返る。

 「す、すみません…」

 羞恥を隠すように俯いて前髪で視線を逃した。

 「面白かったよ?」

 もう少し聴いていたかった。

 「…本当ですか?」

 彼女はちらっと上目遣いで僕を覗く。

 なんちゅう小動物感。連れて帰りたい。

 「出来ればもっと色々と教えて欲しいかな?」

 ぱっと笑顔が咲く。

 「任せて下さい!」

 とんと彼女は自分の胸を叩いた。


 図書室に通うたび必ず彼女は居た。名前は二尾(にお)ことりさんであった。今でも信じられないのだが彼女は僕のひとつ上の学年、高校2年生の先輩だ。初対面の時は思い切りタメ口で無礼を働いてしまった。

 僕の定位置はいつしか先輩の右隣の席となっていた。

 今日もまた図書室の利用者は僕たち二人であった。

 「先輩って部活は入ってないんですか?」

 いつ来ても図書室には先輩が居たので気になっていた。

 本を開いたまま先輩はこちらに目を向ける。

 「入っていませんよ?」

 小首を傾げる先輩があどけなさを倍にしてくる。

 「文藝部とか興味ないんですか?」

 昼間に白波瀬さんに教えてもらって知った。この学校には文藝部たる部活があるそうだ。

 「わたしは恋愛小説を読む事しかしませんし、他人(ひと)と会話するのも苦手ですから御迷惑になってしまいますので…」

 わかるぅー。

 コミュ力の無いぼっちな僕が会話に入って空気を悪くするくらいなら初めから空気になっておくのが吉なのだ。

 「わざわざ魔境に飛び込む必要もないですしね」

 沁み沁みと頷く。

 先輩は緩く微笑んだ。

 「そうですね」

 そして僕らは小説へ目を落とした。

 先輩との会話はいつもこれくらいしか無い。隣席でそれぞれ黙して読書をしている時間が殆どである。しかし僕はこの(ページ)(めく)る音のみが満ちる世界が心地よかった。


 お風呂上がり、金色(こんじき)のロケットペンダントを自室の机に置く。

 今日の放課後に先輩に言われて初めて気が付いた。僕は毎日このペンダントを持ち歩いている。それは完全に無意識下の行動でごく当たり前の事だと認識していた。

 机に置いたロケットを開く。図書室でも見たその写真。違和感に満ちたその写真はどうしてか僕に懐かしさを思わせる。僕が生まれる前の昭和の街並みを見たときと同じ感情なんだろうか。

 中央には僕が居た。周りを3人の女の子が囲んでいる。みんな見目の良い女性である。美少女と言って差し支えはないだろう。加えて僕は黒猫を抱えていた。彼女は見紛うもなくクロだろう。どうしてクロも写っているんだろうか。考えても答えは得られそうになかった。

 撮影の範囲が狭い所為か3人とも中央の僕にぎゅっと寄った写真である。真ん中の僕は剣を携えた見知らぬ僕。彼は身を寄せる彼女らに困惑した微笑みを浮かべていたが、嬉しいんだろうなと容易に想像できる様な表情(かお)であった。

 それは白黒の写真であった。


 灰の空。雲が厚い故に光が入り切らないからグレーになっているのだそうだ。

 念のため右手に傘を持って玄関を出た。

 リタさんの居る神社の鳥居を(くぐ)る。参拝のマナーはこういう所にもあったりする。リタさんに教わって初めて知った。

 いつもの様にリタさんへ会いに拝殿を目指す道中、どう見ても不自然な光景に足を止めてしまう。

 拝殿の上空にはぽっかりと円形の穴が空いていた。覗くのは快晴。厚く灰色の雲はその場を避けるように消えていて断面が見えていた。

 ぽかんと見上げる。神様ってすげぇー。

 暫く呆気にとられていた。

 「優さん」

 名を呼ばれてハッとする。

 「リタってやっぱり神様なんですね」

 何の事だろうと一瞬彼女は目を丸くしていたが、見上げて得心がいったようだ。

 「すごいでしょう?」

 無邪気な笑顔。女神様の急なギャップにドキッとする。

 一歩を踏み出した時、僕の視界は暗転した。


 ぽちゃん、ぽちゃんと水の滴る規則的な音に目が覚める。

 僕は寝起きが良い方ではないのだが今はスッキリと目が()いた。しかし状況の把握には幾分か時間が必要だった。

 上も下も左右を見回しても岩肌に囲まれたここが洞窟であることは理解できるのだが、どう記憶を遡っても見知らぬ場所である。家屋の2階分の高さはあるであろうこの大きな洞窟に気が付くと僕は居た。

 直前の記憶ははっきりとしている。さっきまで間違いなく僕は十字路にいた。絶命待ったなしの轢過事故に遭ったはずである。

 つまり、僕はさっき死んだはずだ。

 しかし、僕の身は今ここに存在している。

 と、いうことは。

 おはよう、来世。

 とか言ってる場合ではない。何処だここは。

 あんまり漫画やアニメの知識に持ち合わせのない僕でも分かる。これは異世界転移だ。自分の服装を見ればそのままここへ飛ばされて来たことは明白であった。

 こんな所で留まっていても仕方がない。状況把握の為にも一度先を歩くことにする。

 前に行くべきか後ろへ行くべきか。どぉちぃらぁにぃしぃよーかな―――。決めた、前へ行こう。天の神様がそう言っているのだ、間違いない。

 洞窟なのに不自然に薄暗いため気をつけていれば躓くこともない。

 歩けど歩けど岩肌に囲まれた景色の変わらない事に少し焦りを覚えて来た頃、ぐるると獣の低く唸る声が奥に聞こえた。足を止め、焦りはより一層強くなる。

 何処の世も弱肉強食、僕が焼肉定食になるのも時間の問題だ。なるべくなら隠れてやり過ごしたい。迎え討つなんて以ての外である。喧嘩ですら生まれてこの方一度もやったことのない僕に勝てる見込みなどある筈が無かった。どちらかといえばボコボコにされた経験が二度あるので二度あることは三度あるんだろう。

 しかし僕は安直だった。こんな薄暗い洞窟で視覚に頼る動物など如何(どう)して存在しようか。

 闇の中に紅く存在感を放つその目は次第にはっきりとその姿を現す。どこからどう見ても獰猛で非友好的な者であった。ただ一匹と言えど食欲をありありとその垂れた唾液に見せる狼はこちらを見据えてのしのしと迷いなく近付いて来る。闘志も体長も明らかに向こうが上であった。

 はは、さては死んだな。

 声に出ていたかも知れない。僕は隠れるのをやめた。

 非現実に飛ばされた故に自惚れているのかも知れない。僕は生にしがみつくことに決めた。


 アウターを左腕に巻く。噛みついてきた狼を受け止めその状態で岩壁へと叩きつける作戦だ。だがそんな単純な作戦は直ぐに瓦解する。

 ピタと突然足を止めたその灰の獣は僅かに首を上げ鋭い牙の見える口を開いて空中に火球を形成する。え、なにそれ。思うが早いかその火球は闇を突っ切ってこちらに向う。避けるなんて思考は欠片も浮かばない。両腕で顔を覆うのが精一杯であった。

 地を穿つ(どよ)みが耳を(ろう)する。舞った砂塵に咳き込んだ。

 身体に当たらなかった事を安堵するのは浅慮であった。何か重いものに挟まれた様に左足が動かない。血の気が引いた。どうせなら気が付きたくなかった。

 その猛獣は僕の左足に重く大きな二つの牙を埋めて噛みついていた。首を軽く振られるだけで僕は身体の自由が全く利かない。ぶんぶんと右へ左へ揺られた後に身体が大きく飛ばされる。岩壁に叩きつけられた。

 頭を()つけなかったことが幸いしたのか気を失うことはなかった。だがそれが良かったとは限らない。骨が見えるまで穿たれた左足の痛みに声にならぬ声を上げ苦悶した。

 トドメとばかりにその巨躯はこちらへ猛進する。覗く太い二本の牙は僕を喰い殺すためのもの。

 僕の首は喰い千切られる。狼の(おもて)はすぐそこまで迫っていた。

 僕が死ぬとどうなるだろう。加速して苦痛をも凌駕した思考を巡らす。最初に何を思い浮かべたかは定かでない。だが最後に思い浮かべたのはあのファミリーカーの楽しそうな車内であった。

 僕は生きねばならない。

 服の巻いた左腕を狼の開いた口へ押し込める。喉を詰めた狼が次第にバタバタと暴れ出した。左腕はぐしゃぐしゃになっているだろう。途中狼の使った魔法で肉の焦げた匂いもする。それでも全体重を乗せて狼の息の根をその言葉の通りに止めた。

 殺した狼を洞窟の壁際に眠らせる。僕がどうして歩けているのかさっぱり分からない。歩き(かた)は滅茶苦茶だが、傷みは感じない。壊れてしまったのだろうか。

 冷静に考えれば今は休む方が良い。けれど僕にはそんな思考は生まれなかった。何も考えることなくただ歩いた。

 目に見えてこれは悪手であった。あの狼は(はぐ)れた一匹だったのだろう。先と同種の灰色の毛並みをした狼が3匹も前に見える。一匹を相手にしただけで左腕と左足が使い物にならなくなったのだ。単純計算で僕の腕と足は3本ずつ足りない。僕がもし人ではなくてタコだったらと悔いても遅かった。

 躊躇なく壊れた左足を前へ送る。立ち止まる選択肢はなく、敵を前に僕は歩みを進めた。


 こうずっと暗く朝日のない生活をすると自律神経の乱れから鬱病になることもあるらしい。だが僕の今の気分はとても高揚していた。何日が経過したかも定かではないこの空間で殆ど眠ることなくここに蔓延る魔物たちと生死を賭けて戦い続けたことが所以かも知れない。僕の身体は生きていることが不思議なくらい欠損している。

 何も入っていないが為に胃液ばかりを吐き出したこともあれば、脳が千切れるのではないかと思うほど身体に不調を来たした事もあった。それでも自分の命だけを必死に守り続ける中で僕が藁にも縋る思いで試したものがある。

 それは魔法である。

 ファンタジーの世界ではよく知るそれが僕の命をぎりぎりで繋いでいる綱であった。

 初めて見たそれは火球である。この洞窟に飛ばされて最初に命のやり取りをした灰の毛並みの狼が見せたものだ。あれから出会った魔物の多くは様々な魔法を使っていた。なので僕にも出来るのではないかと半ば祈りに近い推測で試したのだ。

 可能だった。だが指先に点いた火はマッチの炎よりも弱かった。

 火を始め、水や風、今までに相対した魔物たちの使った魔法や日本で培った少ないファンタジー知識を元手にして思いつく限りを試みた。

 結果、微弱な回復魔法で何とか生き(ながら)えている状態だった。

 殺した魔物の肉を焼き無理矢理にでも全て食べる。生き物への感謝の意も多少はあったが占める思考の多くはいま食べておかないと死ぬという恐怖だった。潰れた右目は見えていない。鏡もないのでどうなっているかも分からない。でも片目だけの生活も慣れてしまった。

 素手で肉を千切り思う。武器があれば僅かでも戦闘が楽になるんだろう。ナイフでも作ってみようか。


 何か武器を作ろうと思い立ってから殺した魔物の死体に残すものは無くなった。食用に穫った肉は言うまでもなく骨や皮、内臓に至るまで素材として活用するために漏れなく解体していた。

 軈て出来上がったのが後ろに背負っている僕の2倍以上もあるぱんぱんに膨れ上がったバックパックである。このバックパックも魔物の皮から仕上げたものだった。中には素材や製作品の数々が(ひし)めいている。何故か作ったジェンガとか入ってたりする。

 製作品の中にはバックパックに仕舞っていない、例えば腰から下げた長剣なんかもある。これらを作り上げる上で魔法は不可欠であり魔法技術も着実に向上していた。

 つまるところ、武器の作製は想像を超えた妙案であったのだ。僕の生存確率を大きく飛躍させた。上達した回復魔法で欠損した四肢や潰れた右目も完全とは言わないがある程度動かせるようになった。生きることに希望が視えて来たのだ。


 迷路では左手を壁に沿わせて進むと必ず出口に辿り着くと聞いたことがある。だがもしこの洞窟が階層に別れていてこの階層には出口が無かった場合その階層を隈なく歩き回るだけになるだろう。言い換えるとその階層に巣食う全ての魔物とやり合う事になる訳で命が一つでは無理な所業だ。

 僕の目の前の足元には下る空間が広がっていた。ここへ進むべきか悩む。

 常識的に考えれば洞窟内で下へ降りるという判断はより迷子になるだけのような気がするが、飛ばされた異世界で僕の常識が非常識の可能性も大いにある。

 そんな僕の懊悩に答えたのか後ろからカラカラと積木を崩すような音がした。武器や防具の着けたヒトの白骨、所謂アンデッドと呼ばれる魔物であった。僕の経験上彼ら一人と遭遇したら他に10人はいると考えて良い。シロアリみたいな存在なのだ。(から)の頭蓋に見合わず彼らは徒党を組んでこちらに挑んでくる。一人ならまだしも小隊だと腕の一本や二本は覚悟しなければならない。回復魔法があると言えど体力だって無尽蔵に使える訳でもない。戦闘を回避するために自ずと下へ向かうこととなった。


 全体重を掛けたミノタウロスの突進を右手に持った長剣で受ける。

 ぱきん。

 弾みで飛んだ折れた刀身を首を傾けて避ける。

 ミノタウロスの追撃を往なし間合いを取って戦闘は仕切り直された。

 ここまで生き存えて思ったがこの洞窟の魔物たちは(みな)知能が高く戦闘に於いて駆け引きが出来る。例えば眼前のミノタウロスへ徒手空拳で向う今ではフェイントを織り交ぜて闘っていた。そう易易と騙されてくれる訳ではないが視線の誘導や行動の制限に有用だった。

 そうして出来た一瞬の隙に入り込んで裏拳でミノタウロスの持つ斧を叩き割り上段蹴りで頭蓋を正面からかち割った。

 死亡を確認しミノタウロスの解体に入る。落ち着いている暇はない。獲物を横取りされる可能性や不意をついて僕がやられる可能性もあるからだ。死体あさりにもう罪悪感を覚えなくなってしまったことへ苦味が走るが生の重みには代え難かった。

 折れた剣を見遣る。今の自作の剣は(なまく)らにしかなり得ない。剣を長く使うため僕は僕を含めた全ての力の大きさや向きを意識して闘うようになった。直接剣で受けてしまうと簡単に折れてしまうため力を往なすことを意識していたのだ。それでも限界はある。剣の素材だって手に入るとは言え無限じゃない。あまりポキポキ折るわけにもいかないのだ。やはり折れない剣を作るしかないのかも知れない。


 使える素材は全て使い切ってしまった。だが気の遠くなる検証の(すえ)漸く一振りが完成した。もう何の素材を使ったかも覚えていない。刀身は真黒(まっくろ)である。落としてしまったらこの洞窟じゃ多分見つからない。柄には微妙に余った素材で金の刺繍を魔法の練習がてら入れてみた。様になっていると思う。

 この洞窟に来て初めて正面(まとも)にテンションが上がったような気がする。我ながらかっこいい長剣が打てたと思う。刀で言う心鉄(しんがね)皮鉄(かわがね)に当たる部分を別の素材にしたのもポイントだ。

 誰かに自慢したい気分だが生憎(あいにく)僕はぼっちだった。


 もう何層下りたか分からない。何十と行っているかも知れない。いつか四肢が欠損するほど苦戦していた魔物たちとの戦闘も一撃で済むようになった。僕の闘い方は合気道に近いと勝手に思っている。実際合気道がどういったものなのか詳しく知る訳では無いが、力のベクトルや身体の構造を理解しなるべく相手の力を利用して闘っている。一人で寝ずに生き続ける必要のあった僕に体力を温存するというのは死活問題であったのだ。故に我流で編み出した闘い方がそれであった。

 戦闘スタイルが我流なら剣術や体術、魔法も我流。これぞぼっちである。

 さて、未だ折れるどころか傷も見られない黒い刀身の剣を腰に下げてまたぞろ層を下る。だがいつもとは異なりやけに時間がかかった。

 下りた先、そこには(ただ)一つ巨大な空間が広がっていた。今までだって(ひら)けた空間はあったし一概に画一的な洞窟だったとは言えないが、それでもこれだけ大きな一つの空間のみが広がっている層は無かった。天井だって今までは高くても精精(せいぜい)家屋(かおく)5、6階くらいのものだったのに此処(ここ)はその20倍近くある。

 こんな捕食者だらけの薄暗い世界では気配感知は最重要ポイント、ここへ来るまでの長い道のりで層に到達した瞬間に層全体の気配や構造の探知が出来るようになっていた。

 そんな力を習得してしまったばかりにこの場所の異様さに気付く。

 敵は一体だった。異常なまでに大きな威圧感。もしかしたら力がなくても普通に気づけたかも知れない。それ程までに巨大な存在感であった。

 「ほう、この最奥(さいおう)にヒトが立ち入るとは稀覯(きこう)なこともあるものだ」

 久々に聞いた人語に歓喜した。恐らくこれが海外で日本人に出会ったときの感情なんだろう。挨拶しとこう。

 「こ、こん――ごほっ、ごほっ」

 無闇に音を立てられないこの空間で声を出さなくなってもう一年以上経っているかも知れない。喉が閉まり切っていた。

 右(てのひら)を見せてちょっと待ってとジェスチャーする。

 満足するまで咳き込んで魔法で生成した水を飲み落ち着く。

 「もういいの?」

 ぶっきらぼうな機嫌の悪い声音。

 「ごめんね、ありがとう」

 これから命のやり取りをするとは到底思えない緩い会話だった。

 満を持して姿を見せたのは漆黒の巨躯であった。黒竜だ。堅牢地神の如く頑強な鱗や闊歩すれば災害と化す程の重厚長大な足、羽搏(はばた)き一つで大地を(どよ)すだろう翼に一撃振るえば瞬く間に一面を破壊し尽くせる腕、そんな黒竜の偉大さや荘厳さを象徴するように生える立派な角。それらのすべてがこの薄暗い洞窟でもはっきりと分かる程に漆黒であった。

 この巨大な空間の存在意義を理解した。

 ()の黒竜にとってみればこの空間すらも小さいのだろう。

 「お前は我の寝床へ立ち入ってしまった。(おの)が数奇を恨むが良い」

 その言葉は開戦の狼煙(のろし)だった。

 真紅の瞳には僕が映っている。

 そんな思考は刹那に消えた。豪炎の息吹が僕を襲ったからだ。目前に迫るそれを僕は剣の一振りで半分にする。

 「ほう、我の覇気をものともしないだけはある」

 黒竜は終始こちらを試しているようだ。そんなでっかい隙を逃すほど馬鹿ではない。短期決戦が最適だ。

 途端、優の身体は真紅の中で()れた。黒竜はその巨大な片翼で己を守りながら大きく後退する。片翼の一部が落ちた。黒竜の最大出力の結界を破って己を守った片翼の一部を切り落とされたのだ。しかしそれくらいでは黒竜の痛手にはなり得ない。竜族の自己再生能力は尋常ではないからだ。とは言え間断のない打突や魔法に黒竜は防戦を強いられている。完全に先手を取られてしまっていた。その巨躯に見合わず高速で飛翔する黒竜は後から後からやってくる優の追撃を逃れていた。優は打突をやめ魔法のみに切り替えて追撃をしている。自己再生の為に時間を稼いでいるのは目に見えている。だが優は落ち着いて魔法を同じ場所から撃ち続けていた。その多くが爆撃の魔法で一々火力が大きいため黒竜と言えど受けるのにリスクが伴うのだ。従って避けつつ偶にこちらからも魔法を撃ち返すことで何とか凌いでいた。巧妙に誘導されていることに黒竜は気付けなかった。ついにその真紅の瞳から優の姿が消える。避けている内に彼が死角へ入ったのだ。しかし魔法は同じ所から撃ち続けられている。故に彼が既にそこに居ないなんて思いもしなかった。不意に飛翔が叶わなくなる。地に落ちて理解した。両の翼が根から切り落とされた事に。いつ後ろへ回ったのか、気配は欠片も感知できなかった。堅牢な鱗に覆われた尻尾を彼へ叩きつけ反撃を狙おうとする。だが軽く()なされた。黒竜は焦燥を隠せない。持てる力を全て溜めて竜の息吹を彼へ目掛けて撃つ。黒竜の全力の一撃である。太陽のない洞窟が明々と蒼い光に包まれる。地図をも破壊によって書き換えるその光線はしかし優には通じないとそう感じた。なので黒竜はその頑強な尻尾を今度は地面へ叩きつけ辺り一帯を破壊した。目的は優の足止めである。黒竜は敗走した。


 僕は切り落とした翼を眺めて反省する。

 一の太刀で決着をつけていれば逃げられることも無かった。まだまだ僕は未熟だ。

 魔法により刹那に最適な状態へ剣を整える。この魔窟でゆっくりと剣の手入れなどしていられないが為に編み出した魔法であった。

 剣を鞘へ収め思い立つ。

 僕は戦闘中に魔法による様々な強化を身体全体へ考えもせず掛けていた。けれど不必要な箇所へ掛けるくらいなら必要な部分へ必要な時に凝縮した強化魔法を掛けるのが良いかも知れない。

 一度鍛練して試してみようかな。


 試行の機会はすぐに訪れた。

 「このままでは終われないわっ……!」

 奥に声が聞こえて数瞬の間もなく竜の息吹がこちらを襲う。蒼い光線は僕の身体の何回りも大きい直径で辺りを破壊し突き進む。僕は正拳突きに必要な身体の部位にだけ魔法を掛け拳でその光線を打ち消した。

 「何でもありか!!」

 怒りを隠すことを完全に忘れて黒竜は吐き捨てる。

 僕はそんな言葉に鼓膜を揺らされながら、鍛練の成果を実戦で発揮できたことに内心で小躍りしていた。

 黒竜との戦闘は初戦に比べ随分楽なものとなった。体力の消費も少ない。身体が軽くなったような感覚であった。

 だがやはりまだ物に出来ているとは言えない。切り落とした黒竜の尾を見て思う。また逃げられてしまった。


 それから黒竜は都度都度再戦してきた。黒竜もその度に力をつけ対策も練って来るので毎度トドメを刺しきれずにいた。

 これは一体何度目の戦闘になるだろうか。幾度も戦闘を繰り返すのでまるで他人事の様に思えてきた。僕が思考を手放し始めたとき剣が発動途中の魔法を陣ごと切った。自分がやったことであるにも拘わらず目を見張る。冷水を浴びせられたように目が冴えた。

 これは僕が鍛練の途中でそんなことがあったらいいなあと思ったこと。斬撃の際、身体の必要な部分に加え剣刃にも魔法を以て強化することで凝縮されたエネルギーを生み空間ごと切り裂いてしまえないかと考えた。何百も試みるが結局叶わず、そんな物理法則を無視した奇想天外なことが出来るわけもないかと諦めたことだった。

 だが今目の前で起こったのはそれだった。空間ごと切り裂くのだからそこに存在する全てを両断できる。我ながらすごい単純バカな発想だが、出来てしまったらもう驚く以外やることがない。黒竜ですらも口をあんぐりと開けている。そして攻撃をやめた。

 「もういいわ。あたしの負けよ」

 ぷつんと何かが切れたように黒竜は(こうべ)を垂れる。

 「竜族の誇りだなんて聞いて呆れるわね」

 自嘲するように独り()ちる。

 「あんたにはどう足掻いても勝てないわ。せめて一撃で葬って頂戴」

 たとえ首を垂れようとも僕は大きな黒竜を見上げる形になる。

 「勝つまで立ち上がる不屈の闘志だって誇りに思っていいと思うよ」

 黒竜は目を細めてこちらを見据える。

 「ふんっ、あんたに言われると皮肉にしか聞こえないわよ」

 そっぽを向いた。

 僕は思う。

 「僕と君が共生する未来はないの?」

 「は?」

 「意思の疎通ができるのに僕たちが共に生きる道はないのかな?」

 「何言ってんの?さっきまで殺し合いしてたじゃない」

 ほんとその通りだ。

 だが本当にその通りだろうか。僕は毎度彼女にトドメを刺しきれずにいた。勿論実力不足も要因だがそれだけなのか。僕は意図的にその感情を無視していた。この洞窟に飛ばされて生きるために自分のために何体もの魔物を殺してきたからだ。彼らにだって生きる権利があった。

 僕は思う。

 「僕は君を殺したくない」

 彼女の覇気で空気が強張る。憤怒がありありと伝わった。

 「あたしへの憐憫で今まで生かしていたのか?」

 真紅の瞳が僕を睨めつける。

 「舐めるなよ?」

 彼女は続ける。

 「我ら竜族の誇りは何よりも、(おの)生命(いのち)よりも重いのだ」

 「僕にとっては君の命が何よりも重く大切だ」

 彼女の瞳を見つめ返す。

 僕はこの洞窟へ来て知った。日本で生きてきた16年のぼっち生活など何もボッチでは無かった。周りにはいつも温もりがあった。千早や姉さん、父さん、母さんに唐崎家のおじさんとおばさんだってそうだ。僕は恵まれていた。それなのに自分をボッチと定義するなど甚だ傲慢たる所業であった。

 この洞窟で僕は独り(ボッチ)だった。“人”は人と人が支え合って出来た漢字だなんて云われる。実際は人一人の象形文字が成り立ちだ。だがそう云われる理由を僕はこの薄暗がりの岩肌を進む中で少しだけ理解が出来た気がした。僕たちが支え合っているそれは“不安”という気持ちなんだろう。誰かと一緒だから怖くない。誰かと一緒だから頑張れる。誰かと一緒だから…。その存在は僕たちの背中にそっと手を置いてくれているのだ。

 だからこれは僕のわがままなんだ。

 「僕は君と友達になりたい」

 僕の瞳は竜の瞳に反射した。


 ボッチじゃなかったと分かったところで友達が居なかった事実は変わらない。だから友達の距離感なんて分かる筈もない。

 赤髪ツインテールの美少女が横に座って僕の肩に(もた)れ掛かり後ろで竜族自慢の尻尾をぺったんぺったんと左右に揺らしていた。

 …近くない?普通の友達ってこんなもんなの?て言うか、いつの間にこんな近くなったの?

 そんな自分の疑問に答えるには幾らか記憶を遡るしか無かった。


 僕が友達になりたいと言った。殺し合っていた先の時間よりも余程重苦しい空気に感じる。

 ついと僕と黒竜の間にあった張り詰めた空気は彼女の嘆息で押し流された。

 「はあ、あんたバカね」

 その回答に僕はほっと安堵の息を漏らす。

 「バカで良かったよ」

 心底そう思う。僕は満面の笑みで返した。

 「ふんっ」と言ってそっぽを向いた彼女はそのままぶつぶつと何事か呟く。

 「あたしが“何よりも重く大切”ってどう言う意味よ」

 僕には聞き取れなかった。


 「友達って具体的には何の益を求めるの?」

 面倒くさいけど渋々協力するといった様子で彼女は問うた。

 「友達って何なんだろう…?」

 よく考えたら別に友達が出来たことはない。

 「あんたが言い出したんでしょ…」

 彼女はじとっとこちらを睨む。

 「まあでも益なんて要らないよ。隣に居てくれればそれだけで嬉しいから」

 笑顔で語りかける。

 「あんたねえ……はあ…」

 呆れた溜め息を彼女は()いた。

 「まあいいわ」

 何か諦めたようだ。いいことだ。

 「とりあえずこの大きさじゃ邪魔ね」

 何のことだろう?

 すると彼女の足元を魔法陣が囲む。魔法が行使された次の瞬間には黒竜はヒトの姿になっていた。まるでTV(テレビ)のチャンネルを変えたときのような入れ替わりである。

 端的に彼女は美少女だった。整った鼻梁に少しだけ垂れた目、若干の幼さが垣間見える綺麗な顔立ちだ。腰まで届かんとするほど長く(しな)やかな髪は彼女の瞳と同じ真紅である。華奢な体つきに手足はすらっと伸びていてスタイルの良さも窺えた。そして姿を変えても尚竜族の立派な尻尾は誇り高く見えていた。

 「…なによ」

 ぼーっと見ていたからだろう。

 「その変身ってどんな姿にでもなれるの?」

 「魔力を使えば可能だけどこれはあたしの大本(たいほん)を現したヒト型よ」

 彼女は目を細めて続ける。

 「悪かったわねえ。ご期待に沿えるような容姿じゃないわよ」

 「普通にめちゃくちゃかわいいけどね」

 一般的にもそうだと思う。

 「なっ…!さっきからあんたは羞恥心をどこに置いてきたのよ!」

 真っ赤になって反発する彼女。面白い。

 「なに笑ってんのよ!」

 ここへ飛ばされて初めてこんなに笑った気がする。やはり友達は偉大なのだ。


 「アリスよ」

 ぶっきらぼうにそう伝えられた。名前だろう。

 「僕は日向優だよ。日向が名字で優が名前」

 物理的に離れた距離に心の隔たりを感じる。

 「ユウね。忘れるまで覚えておくわ」

 下の名前で呼ばれるのは友達っぽい。

 しかし友達って具体的に何をすれば良いのだろう。

 …。

 「と、とりあえずジェンガでもする?」

 僕、友達向いてないかも知れない。


 「あっ」

 アリスが()()ジェンガを崩した。

 「アリス弱くない?」

 まだ5ラリー目だ。でもこれでも長く続いた方である。

 「う、うっさいわね」

 アリスは崩したジェンガを組み直す。

 「もいっかい!もいっかいよ!」

 何度目か分からないその言葉に苦笑する。彼女の負けず嫌いはやはり相当なものだった。

 「次は勝つわ」

 アリスは闘志に燃えていた。

 そして彼女はやっぱり倒した。


 思いついた事は何でもやってみた。例えばベーゴマを作って戦わせてみたり料理を作って食べてもらったりと数撃ちゃ当たる戦法で友達っぽい事を色々としてみた。

 初めに感じていた隔たりも少しずつ解けたと思う。実際、物理的な距離は縮まっていた。

 ただ縮まり過ぎているような気はする。彼女はいま僕に凭れてすやすやと眠っている。さっきまでぺったんぺったんしていた尻尾も今は大人しい。この前まで本当に僕たちって殺し合ってたのかな…。

 「この格好で岩肌に凭れて寝るのは痛いじゃない?」と言って僕の肩に凭れてきた。信頼されているのは嬉しいが黒竜の姿に戻れば良かったんじゃ…?とは思った。だが何か楽しそうだったので口には出さなかった。

 竜の覇気で魔物がこの層にやってくることはないらしい。僕も覇気を(おし)えてもらおうかな。そんな事を思いながら僕にも睡魔がやって来た。この洞窟へ来てずっと気を張っていた。右に掛かる柔らかな重み。薄暗い空間で初めて感じた温もりに彼女の凭れる理由も少し分かった気がした。


 間の抜かれたジェンガが綺麗に積み上がっている。不器用なアリスが唯一極めた遊びだった。

 「ねえ、アリス」

 ドヤ顔のままこちらに視線を寄越す。

 「地上に出る方法ってないの?」

 もうこの洞窟で出来ることも思い付かない。太陽のない生活も限界だ。

 「え…?」

 驚きと寂しさの入り混じったような表情である。

 「ずっと一緒に居てくれるものだと思ってた…」

 ぶつぶつと小声で彼女は呟く。

 「ごめん、もう一回言ってくれる?」

 「な、何でもないわよっ!」

 ぷいっとそっぽを向いた。深紅の髪から覘く耳は紅くなっていた。朱に交われば赤くなると言う事だろうか。

 「一応あるにはあるわよ。直通ルートが」

 少し不機嫌に、でも教えてくれるアリス。

 「一応?」

 「上に向けての直通ルートなのよ。飛べなきゃ無理ってこと」

 「じゃあ大丈夫そうだね。僕もアリスも飛べるし」

 きょとんと彼女の若干の垂れ目がまん丸になる。

 「え…?あたしも行くの?」

 「え?行かないの?」

 全く同じ熱量で疑問に疑問を返してしまった。

 アリスは口をもにょもにょさせている。恐らく笑みを懸命に我慢しているのだろう。すごいわかりやすい。

 「し、しょーがないわねっ!ユ、ユウがそんなにあたしと一緒に居たいなら、面倒だけどっ!、ついて行ってあげるわよ!」

 腕を組んでこちらに顔を向けずに言う。真っ赤だった。

 そんな彼女の様子に苦笑する。

 「な、なに笑ってんのよ!」

 「アリスと一緒なら僕は嬉しいよ」

 苦笑と共に本心が漏れた。


 「じゃあ行くわよ」

 黒竜姿のアリスの背中に乗る僕へ視線だけを向けて言う。

 僕も飛翔の魔法は使えたがアリスは背中に乗りなさいと言って僕を乗っけて地上へ向かってくれるようだった。

 「ほんとによかったの?」

 「しつこいわね。あたしたちはその…友達なんでしょ?だったらこう言うのは持ちつ持たれつなのよ。今度あたしに何かお礼しなさい」

 アリスはかっこいい性格をしている。

 「アリスのそう言うとこ、ほんと素敵だね」

 「なぁっ…!あんたのそう言う所は少しは自重しなさい!」

 多分顔真っ赤なんだろうな。

 初めて出来た友達は立派な尻尾を持った頼りになるツンデレさんだった。


 ぐんぐんと風を切って上昇する。結構な速度を出しているはずなのにまだまだ岩肌は見えていた。

 「しっかり掴まってなさいよ。振り落とされても知らないから」

 どんどん加速度が加わっていく。あの洞窟は窮屈だったのだろう。ストレスの発散でもしているのか加速が留まるところを知らなかった。

 貫く風の音が変わる。

 「もうすぐよ」

 アリスの言葉に間違いは無かった。

 そうしてこの長い暗闇があけた。

 朝日がこんなに暖かいものだと僕は知らなかった。非日常になった昇る太陽の光に目が眩む。手で(ひさし)を作りながら、この太陽がまた日常になって行く未来に僕は魅せられた。


 上から探せば街はすぐに見つかった。人には見つからないよう態態(わざわざ)幻色の魔法を掛けて目に映らないようにした。

 街へ入ってからもヒト型アリスの尻尾に同じ魔法を掛けていた。竜族の誇りだから隠しておきたくないと言うアリスに人を避ける竜族が街中に居ては騒ぎになると言って採った折衷案が僕とアリスにしか見えないように僕が魔法を掛けることだった。こういう器用さの求められる魔法はアリスの苦手とする所だったからだ。

 暫くアリスは不機嫌だった。ムスッとした顔で歩いている。

 「ごめんね、アリス。そろそろ機嫌直してよ…」

 「別に怒ってないわよ」

 ついと顔を背ける。どう見ても怒っている。

 彼女は僕を置いてずんずんと先へ進んでいく。

 「あ、ちょ、アリス」

 「しつこいわね。だから怒って――」

 振り向くと僕が泣いている4歳頃の子どもをあやしていたから言葉に詰まったのだろう。

 「僕がいるからだいじょうぶだよ~」

 屈んで目線を合わし背中を擦って泣き止むのを待つ。

 「あんた息をするように人助けするのね…」

 呆れた物言いだがアリスも隣に屈んで僕に習う。

 「泣き止みなさい。男でしょ」

 男の子が泣き止む気配はない。

 「はは、アリスってやっぱり不器用だよね」

 「う、うっさいわね!今に泣き止まして見せるから見てなさい!」

 「そんなに意気込んだら余計びっくりしちゃうよ」

 「し、仕方がないでしょ!ヒトの子どもと話した経験なんてないんだから!」

 男の子を挟んでその後も僕らはボールを投げ合う。

 僕が背中を擦り続けた結果か将又(はたまた)そんな言い合いの結果か気が付けば男の子は泣き止んでいた。ぼーっと僕ら二人の会話を見ていた。

 気付いたアリスが僕に言う。

 「泣き止んだわね」

 「あ、もう大丈夫?」

 男の子はコクリと頷く。

 その後、経緯を聞いた。男の子は訥々と話してくれる。今日はお母さんの誕生日らしい。サプライズでお母さんの働き場へ作った誕生日プレゼントを届けに行こうとしたのだ。帰宅時に渡せば良い物を逸る気持ちが抑えられなかったのだそうだ。お婆ちゃんにも内緒で家を出た。だが家を出て歩き回る内に迷子になってしまった。辺りには厳つい人も多く、助けのない独りぼっちの状況に急に怖くなって足が(すく)んでしまった。

 「お婆ちゃんやお母さんもすごく心配するし、もうこれからは勝手に出歩いたら駄目だよ」

 こうして怖い思いもするからねと付け加えて男の子の頭にぽんぽんと手を乗せる。

 赤く腫れた目のままコクリと首肯する男の子に笑顔を向ける。 

 「とりあえずお母さん探そっか」

 僕は男の子と手を繋ぐ。男の子は空いたもう一方の手を当然のようにアリスへ伸ばした。

 しょーがないわねと頬を染めそっぽを向い彼女はその手を握った。男の子はご満悦な様子である。

 「こうしてると友達というより夫婦みたいだね」

 アリスの顔が見る間に沸騰する。

 「よよよ、余計なこと言ってると燃やし尽くすわよっ!」

 アリスってすごいからかいがいあるよね。でもあんまりやり過ぎると嫌われてしまうから程々にしとこう。

 「ふんっ、それよりどうやって探すのよ」

 アリスが話を逸らした。

 「気配探知魔法の応用で何とかなると思う」

 魔力や気配を探知する魔法。それを延長すれば構造物の見取りも出来る。それをこの街全体を対象にして使えば建物や生物など全てを把握することが出来る。その上で男の子から聞いたお母さんの特徴を照らし合わせればすぐにでも見つかるだろう。

 「そんなことやろうとして出来るのは世界を探してもあんただけよ…」

 呆れた様子のアリス。

 洞窟にいた時はずっと使っていた魔法だから少し皆よりも慣れているだけだと思うけどね。

 そんな事を思っている内に男の子のお母さんを見つけた。

 「お母さんの所まで僕たちと一緒に行こっか」

 男の子の満面にぱあっと笑顔を咲かせる。

 「もう見つけたの…」

 「冒険者ギルドって看板の出された役場で働いてるみたい」

 早速手を繋いだ僕らはそこへ向けて歩みを始めた。

 向う道中、男の子は只管(ひたすら)にママはすごいんだよ〜と色んな話を聞かせてくれた。それに対してアリスはへーすごいじゃないと返したり立派なお母さんじゃないと返したり、意外にもしっかりと男の子の話を聞いてあげていた。将来はいいお母さんになりそうだ。

 ふと僕たちは影に入る。道順を歩いていたはずなので不自然に思い、立ち止まって見上げるとそこにはこれでもかと言う程の大男が立っていた。後ろには取り巻きの男が二人見える。

 大男が口を開く。

 「おい、そこの女を置いていけ」

 「断ります」

 考えるよりも先に口が出た。向こうへの敵愾心はなるべく抑える。

 体に見合った大きな腕で胸倉を掴まれる。相手の力を流しつつ重心を下げて僕の体が持ち上がらないようには対処した。ここで武力に訴えて敵対してはいけない。

 持ち上がらないことに違和感を覚えながらも彼は続ける。

 「死にたいのか」

 彼の入れ墨のある厳つい顔が迫る。先と同じ重低音だがより凄みが増していた。

 「彼女に指一本でも触れようとするならその指を切断するよ」

 僕も少しだけ眉根を寄せる。

 「そのおもちゃでか」

 そう言って大男の視線が一瞬僕の剣へ逸れた時、未だ男の子と繋いでいる手とは逆の空いた手を用いて胸倉に掴まれている大男の手を外した。

 「ほう、少しはやるじゃないか」

 決して関わらまいと僕たちから一定の距離を置いているが辺りの騒ぎは徐々に増している。密密(ひそひそ)としていた声もこちらへ届く位の声量へと増していた。

 「おい、誰か衛兵を呼んだ方がいいんじゃないか」

 「でも相手はあのワイアットだぞ」

 「Aランク冒険者ってほんと何でもありだよね」

 「ワイアット、前は駆けつけた衛兵を殺してたぞ」

 「こういうのは見て見ぬ振りをすんのが吉」

 「Aランク冒険者だしどうせ捕まんないよ」

 「あーゆー奴の所為で冒険者全体が迷惑被んだよ」

 「おいバカ!聞こえたらどーすんだ」

 ガヤの声など聞こえていないだろう傲岸不遜な大男はその取り巻きに指示を出す。今度は僕から視線を外さなかった。

 取り巻きは下卑た笑みを湛えてアリスの方へ歩み寄る。

 やむを得ない。

 僕は彼ら3人を()めつける。その刹那、彼らは皆意識を失った。受け身を取ることなくバタンと倒れる。

 これは僕がアリスの見様見真似で習得した竜の覇気の応用である。彼ら3人へ向けてぶっつけ本番だったがそれを放ったのだ。成功して良かった。

 無様に倒れた彼らを尻目に僕は身体を横へ向ける。

 「アリス、大丈夫だった?」

 アリスは地に伏した大男たちを見下しながら言う。

 「ふんっ、人間如きがユウに適うわけないでしょ」

 なんと。僕はいつの間にか人間ではなくなっていたらしい。気付かなかった。

 僕は屈んで男の子に視線を合わせる。

 「ごめんね、怖かったよね」

 ぶんぶんと音がなりそうな程に男の子は首を横に振る。

 強がりだろう。未だ繋ぐ手は初めの頃よりずっと強く握られていた。

 僕は少年の一生懸命に相好(そうごう)が崩れる。

 「立派だね。カッコイイぞ!」

 ぽんぽんと頭に手を乗せる。

 男の子はさっきの恐怖が僅かに残るその表情(かお)でドヤ顔を作って見せた。

 大男と取り巻き2人が卒倒したため騒ぎはさらに大きくなっていた。なので無事を確認できた僕らは早々にこの場を後にした。彼らの処遇は衛兵さんにお願いしよう。


 漸く冒険者ギルドに到着した。戸を開けて厳つい人の密度が倍になった。この場所はどう見積もっても子どもの来る場所ではない。故に僕らはすごく目立っていた。

 男の子の握る手がまた強くなる。

 「安心しなさい。ユウの強さを見たでしょ?」

 僕より先にアリスが口を開く。ガヤガヤとしたこの建物の中でも男の子の耳に届いただろう。男の子は強張った手を緩めた。

 その信頼やアリスの僕への評価の高さに少し気恥ずかしくなる。

 受付を担当しているギルド職員に声を掛けた。

 その時初めて男の子とお母さんの名前を聞く。男の子はエル、お母さんはミーシャと言うそうだ。

 ミーシャさんに子どもがいる事実に対応してくれた受付嬢は声を上げて驚いていた。

 「ミ、ミーシャちゃんに子どもが……」

 余程ショックだったのか数秒フリーズしている。

 はっと自分の仕事を思い出した。

 「ミーシャは(いま)奥で休憩しております。少々お待ち下さい」

 待つこと数十秒。帰って来た受付嬢に僕らは奥へ通された。

 簡素に大机と椅子が数脚置かれたその()は如何にも休憩室であった。

 ミーシャさんは立って出迎えてくれた。

 事情を説明すると、エルくんはそれはそれは滾滾(こんこん)と叱られた。恐らくお母さんに出会えた安心もあったのだろう、エルくんはわんわんと泣きながら「ごべんなざい」と言っていた。

 「エルがご迷惑をお掛けしました」

 ミーシャさんが丁寧に頭を下げる。エルくんも泣き腫らした顔でお母さんに習い頭を下げていた。

 「迷惑なんて思ってませんから頭を上げてください」

 年が上の人に頭を下げられると恐縮してしまう。

 「それにエルくんは何も好奇心で出掛けたわけではないようですし」

 渡すものがあるんだよねとエルくんに微笑みかける。

 うんと小さく頷いた彼は肩に掛けた鞄から紙を取り出す。怒られて取り出す機会を失っていた誕生日プレゼントだ。母親を描いた似顔絵である。

 「ママ、お誕生日おめでとう」

 エルくんはミーシャさんと目を合わせず俯いて怖ず怖ずとそのプレゼントを渡していた。

 そんな息子を母はぎゅっと包み込むように抱き締める。

 「ありがとう」

 彼女は優しく諭すように伝えた。

 そしてそんなサプライズに心が緩んでしまったのだろう。

 「ほんと、無事でよかった…」

 辛うじて聞こえる声。内に仕舞った言葉が僅かに漏れていた。


 「ギルドマスターから本日は早退の許可を頂きました」

 一時退席していたミーシャさんが戻って来てそう伝えてくれた。つまりエルくんの帰りの心配はしなくて良いということだ。

 「本当にありがとうございました。何かお礼をさせて下さい」

 改めて恭しく頭を下げるミーシャさん。

 「そんな大した事はしてませんから頭を上げてください」

 たじろいでしまう。こんな時にスマートな対応のできるイケメンになりたい。

 「お礼なんてそんな……じゃあ、この街について聞かせて下さい」

 「そんな事でよろしいのですか?」

 「結構な一大事なので」

 洞窟で育った野生児とは僕のことだ。この世界へ転移して来て未だ一般知識を手にしていない。

 「ではせめて本気で説明致します」

 彼女の気迫にゴゴゴゴっと音が聞こえた気がした。

 彼女の本気は伝わった。

 この街はレストフィア王国、フロイトリッヒ辺境伯領。この領地において繁栄の主軸は多く訪れる冒険者にあった。というのもこの領地と程近い場所に世界に7つしか存在しないSランクダンジョンの一つがあるためだ。Sランクダンジョンとは各国の冒険者ギルド総意のもと特別に危険であると判断された“迷宮ダンジョン”のことを指す。だが危険であることと引き換えにその見返りは莫大である。Sランクダンジョンを踏破したという名声にそれに伴う富、それらは計り知れないものになるのだ。史上未踏破故に夢に溢れたそれは正に“冒険”の代名詞となっていた。

 「それにSランクダンジョンより回収できる魔物素材や鉱石などはどれも貴重なものばかりです。買取価格も高価なため一獲千金を狙う冒険者の方々が多く見られます」

 ミーシャさんは表情に少し影を落として続ける。

 「ですが、やはり皆さんの想定の何倍も危険なのがSランクダンジョンです。ギルドが発行したクエストには冒険者ランクに制限を設けられますが、ダンジョンに対しては制限を設けられないのです」

 ダンジョンは山や川と言った自然物に等しく、ギルドの管轄に置くことが出来ないのだ。制限が無いから誰でも挑戦できる。実力の伴わない無謀な冒険者が一獲千金を求めて挑み命を落とすケースが後を絶たないそうだ。

 「冒険者ランクって何ですか?」

 「冒険者ランクとは冒険者ギルドに登録頂いた方の実力、より正確には危険域でのクエスト達成率および生存確率をランク()けしたものです。冒険者ランクはF,E,D,C,B,A,Sの順に高くなります」

 つまりランクが高い方が強いのだ。主な機能はギルドの発行する依頼(クエスト)をその危険度順にこちらもF,E,D,C,B,A,Sとランク別けしクエストのランク以下の冒険者がそれを受けることで無謀な挑戦による死を防ごうというものだ。だが現下ダンジョンに規制が掛けられないためその機能はあまり発揮できていない他、ランクによる選民の思想が生まれてしまった。簡単に言えば高いランクの者が威張り散らしているのだ。特にこの街のように多くの冒険者で栄える場所では自分のランクを盾にランクが下のものや冒険者ではない者にも武力に任せて傲慢に従わせようとする者が現れた。

 「勿論、そんな横暴な方ばかりではありません。特に我らがギルドマスターの在中するこのアカリスでの暴掠は見つかり次第半殺しにされます」

 真顔で言う“半殺し”の威圧感は半端ない。先程出会ったワイアットという男とその取巻きも半殺しにされるのだろう。

 冒険者ギルドはどの国も本部は王都にあるそうだ。なので普通本部を拠点にするギルドマスターは王都に在中することが多いが、このフロイトリッヒ辺境伯領、通称アカリスではSランクダンジョンに近い事を理由に冒険者の街となっている性質上ギルドマスターがこの冒険者ギルド支部に在中していた。

 「ギルドマスターっておっかないんですね…」

 「世界に5人しか居ないSランク冒険者ですからね」

 冒険者として強いと言われるのがBランクである。Bランク冒険者が冒険者として目指す最大のラインだとも言われていた。しかしそんなBランク冒険者20人が(たば)になっても敵わないのがAランク冒険者である。AランクとBランクでは歴然とした差があるのだ。世では才能の壁と囁かれていた。そんな中、Sランク冒険者はAランク冒険者100人が束になっても敵わない存在だった。明確な化け物なのである。

 「それだけ強ければSランクダンジョンも余裕なんじゃないんですか?」

 「はい。確かにダンジョン最奥まではソロでも行くことは可能だそうです」

 それでもあのギルドマスターが少し苦労するそうですがとミーシャさんは付け加えた。

 「しかし最奥に端座する魔物は別格です」

 Sランクダンジョンの最奥にいる魔物はSランク冒険者ですら如何(どう)にもならない、人の手には負えない厄災なのだ。

 そんなダンジョンには間違っても入りたくない。僕はもっと平和に生きよう。

 「因みにどんなのがいるんですか?」

 怖いもの見たさ、好奇心である。会いたくはない。災厄らしいし。

 「例えば此処アカリスに近いあのSランクダンジョン、極夜の深層(アルターノクス)では“黒竜”の存在を確認しています」

 ん?

 「現ギルドマスター、ヴィオレット・クロデル様の曽祖父にあたるジャン・クロデル様が切り落とした黒竜の爪が今もこの街で大切に保管されています」

 「キモいわね」とアリスが小声で呟いた。

 「歴史上、厄災である黒竜に()い生還したのはジャン様のみです」

 「すごい人なんですね」

 「私も実際お目にかかった事はありませんがこの街の中央に銅像が立っていますよ。赤い英雄(ウランバートル)という異名がつく程に伝説的な御方です」

 う、ウラン-バートル…。モンゴル…。

 「因みに今のギルドマスターも生ける伝説ですよ。炎焰の華(アマリリス)なんて異名がついています。御二方共“火属性”の魔法を得意とされて練達された剣術と合わさり無類の強さを誇っています」

 「ああ、なんか居たわね。炎振り回してたやつ」とアリスはまた小さく呟いた。

 黒竜ってアリスの事じゃないよね?

 アリスは小声で続けている。「確かに人間の中では一番強かったかしらね、そのウーロンボトルとやら」

 お茶になっちゃった。ウランバートルだよと心の中で突っ込む。

 「そんなにすごい人が取り締まってくれるならこの街も安心ですね」

 「とは言え粗暴な方も少なくはありませんから4歳の子が気軽に歩けるような街ではないんです。本当に今日は感謝してもし切れません」

 ミーシャさんはエルくんを始めに見た時の心底不安で焦ったような表情をしていた。話を聞いてその意味を理解できた気がする。

 冒険者ギルドに勤め、街を行き交う多くの冒険者を見てきたからこそ分かるのだろう。常に生死を賭けた彼らの張り詰めた空気やそれから生まれた街の有り様を。だからそこへ飛び込んだエルくんの無事が本当に心配だったのだ。

 だから僕も感謝を素直に受けることにした。

 「はは、エルくんが無事で良かったです」

 照れが少し混ざってしまった。

 ミーシャさんは横で座って絵を描くエルくんを愛おしそうに見ながら言う。

 「エルがお腹にいる時、夫は冒険者として殉職しました」

 昔を懐かしむ様子で彼女は語る。

 夫を亡くしミーシャさんはエルくんを20歳の時に産んだ。そして一人では困難と考え、実家に帰りエルくんを育てることにした。しかしエルくんが1歳の時、ミーシャさんのお父さんが亡くなった。収入を得るためミーシャさんは街へ出てこの冒険者ギルドを見つけたそうだ。

 「冒険者であった夫の事でも思い返したんでしょうかね」

 気が付けばこの冒険者ギルドで働いていたそうだ。

 仕事と子育てに追われる日々は時間など思ってはいられなかった。

 「もうエルは4歳です。産まれたあの頃が懐かしいのに昨日の事のようです」

 何処か嬉しそうな表情である。

 「今も母と私とエルの3人で細々と暮らしています。なのでエルには寂しい思いをさせてしまっています」

 ミーシャさんはエルくんの頭を撫でる。

 突然ばっと顔を上げたエルくんはさっきまでぐるぐるとペンを滑らせていた紙を顔の前に掲げる。

 「できたあ!」

 椅子を降りてトテトテ大机を回り込み僕の前に来る。

 「これあげる!こっちがユウでこっちがアリス!」

 一枚の紙に描かれた絵を小さな指が示す。僕とアリスと両の手を僕らに引かれたエルくんの姿が描かれていた。丁度今日の光景である。絵の中の僕らは皆ニコニコと笑顔であった。アリスのこんな笑顔は見たこと無い。いいものが見れた。

 大事にその絵を受け取る。僕はその可愛さに感極まってしまった。絵を机においてエルくんをぎゅっと抱き締める。

 アリスも屈んでエルくんに視線を合わせ感謝を伝えていた。

 僕たちの「ありがとう」にエルくん「へへっ」と自慢()に笑っている。

 「私が柄にもなくあなた方に身の上話をしてしまった理由が何となく分かりました」

 ミーシャさんは大机に置かれた僕らの絵を見てそう呟いた。

 

 エルくんとミーシャさんと別れ、僕たちは先に冒険者ギルドを出た。

 「ねえ、アリス。アリス以外にも黒い竜っているの?」

 質問の意図が理解できなかったのか首を傾げて彼女は答える。

 「いないわよ?」

 「じゃあ、ジャン・クロデルさんに爪を落とされたの覚えてる?」

 「さっき思い出したわ。あたしの住処を荒らして唯一逃げられたし、人間の中では一番強かったんじゃない?そのウドンバトル」

 わんこそばならぬわんこうどんなのかな?

 「もしかしてあの洞窟って極夜の深層(アルターノクス)なのかな?」

 ずっと渦巻いていた懸念を怖ず怖ずと口にする。

 「普通に考えればそうなんじゃない?」

 アリスは淡白に肯定した。

 しれっとSクラスダンジョンのラスボスを連れ出しちゃったけど……黙っとこ。


 僕らは(いま)宿を探している。宿代はミーシャさんに持っていた幾らかの素材を換金してもらっていた。序に冒険者登録も(おこな)った。一部例外はあるが、登録はFランクが始めである。ギルドの発行するクエストを(こな)すことでDランクまで上げられる。それ以上は各ランクごとに試験を突破する必要があるそうだ。しかしそこにも例外がある。著しい功績を残せば試験なしに上位のランクに上がることもあるのだ。

 宿を確保するなど、生活を安定させるために日銭を稼ぐ必要がある。素材の換金や冒険者としてクエスト達成の報酬で稼ぐのが今の最善策だ。

 ただ今日は宿を探す時間が必要なのでクエストには行っていられない。素材の換金で遣り繰りせねばならない。今思うと、換金の時にミーシャさんが一瞬目を丸くしていたのは僕が持って来た魔物の素材が原因だろう。やっぱり僕のいた洞窟はSランクダンジョン極夜の深層(アルターノクス)だったんだろうなあ。あからさまに驚かなかったのはミーシャさんがプロだったからだろう。彼女からはクールで仕事の出来る雰囲気(オーラ)がメラメラと立ち上がっている。

 とにかく余り目立たないようには注意したい。僕がSランクダンジョンを生き抜けたのだって偶々運が良かっただけだろうし、実力の伴わない状態でクエストの依頼なんかされた日には愈々絶命する。抑々友達も碌にいなかった僕が注目の的になってしまった暁には恐らく溶けてしまう。物理的に。なので細々と冒険者を続けて行きたい。目指せCランク。

 「何をそんなに思い悩んでんのよ」

 隣を歩くアリスからふと声が掛かる。じとっとこちらを横目で見ていた。

 「べ、別にあんたの事が心配で聞いたわけじゃないわよ!横で辛気臭くされるのがウザかっただけだから!」

 何も言ってないのに言い訳するアリス。

 「ふふっ、ありがとう」

 「違うって言ってるでしょっ!」

 僕の友達は何処までも微笑ましい。表情筋が鍛えられて小顔効果が狙えそうだった。


 気配感知の応用による頭の中の観光マップで宿はすぐに見つかった。しかしこのマップ、予約状況の確認は出来ないのだ。故に問題が一つ発生する。

 「申し訳ございません。今空いているお部屋は一つしかございません」

 ベッドは二つあるそうだ。

 「ま、まあ別に!根性なしのあんたの事だから何も出来ないでしょ」

 「確かに出来ないね」

 「何でよ!」

 アリスは顔を真っ赤にしている。

 「部屋が二つある宿屋を他に探そっか」

 流石に友達と言えど男女が同じ部屋で寝泊まりするわけには行かないだろう。

 「ここにするわよ」

 「え?」

 鬼気迫る表情のアリス。

 「いや、部屋一つしかないし――」

 「ベッドは二つあるじゃない」

 言い終わる前にアリスは被せてきた。

 彼女のこの感じを僕はよく知っている。原因は何か分からないが、負けず嫌いが発動した状態だ。こうなったら彼女は譲らない。

 仕方なく僕はこの一部屋を取ることにした。


 翌朝、アリスは目の下に隈を作っていた。

 「眠れてないの?アリス」

 「ええ、おかげさまでね」

 半身を起こしたベッドの上からこちらへじとっとした視線を向ける。

 「あんたはつやつやしてるわね」

 「うん、おかげさまでよく眠れたよ」

 洞窟にいた時のアリスが居れば魔物が来ないという経験のお蔭か、アリスが近くに居ればぐっすり眠れる体になっていた。その上今日はベッドが使えたのだ。ゴツゴツとした岩肌よりも余程深く眠ることが出来ていた。そりゃつやつやにもなってしまう。

 はあ、と彼女は大きく一つ嘆息した。

 「こっちの気も知らないで」

 アリスは優に届かない小さな声で呟いた。

 宿を後にし二人で冒険者ギルドへと向う。今日から本格的に冒険者をするのである。

 ミーシャさんからクエストを貰う。Fランククエストなのでそれ程大層な物ではない。薬草採取のクエストだった。

 教わった自生地へ向けて街を出て歩く。やはり冒険者の街、城壁を出て行き交う人々は佩剣(はいけん)していたりローブを羽織っていたりと冒険者の風貌の者が殆どを占めていた。

 しかし打って変わって辿り着いた薬草の自生地には冒険者の姿など一つと見られなかった。わざわざ冒険者の街であるアカリスに来るのだからFランク冒険者なんて居るはずがないのだろう。

 今日の様な天気の良い日に草原を踏み回っていると小学生の頃に友達間で流行った四つ葉のクローバー探しを思い出す。まあ僕は一人でやってたけどね。

 僕がそんな感慨とも哀愁とも取れない気持ちに浸っている傍らアリスは意に違わず不器用を存分に発揮していた。

 僕らが依頼された薬草は根の部分も役立つらしい。根が切れていても問題はないのだが買い取りの価格が幾らか下がる。減価分はチリツモで案外馬鹿にならないのだ。

 隣で採取していたアリスの右手には無事に根の切られた草が握られていた。

 「はは…」

 思わず漏れる苦笑い。

 「何よ!」

 羞恥か憤怒かその両方か、彼女は顔を真っ赤にして僕を睨む。

 「まあ……頑張って」

 こういうのは焦っても仕方がない。得手不得手ってあるから。

 序に言っておいてあげよう。

 「アリスの持ってるそれ、薬草じゃなくてただの雑草だよ」

 ………。

 「あー!もー!こんなちまちましたことやってらんないわっ!」

 アリスは持っていた雑草をふぁさっと地に投げつけ、草の上に仰向けで倒れた。

 「あんたは何でそんな綺麗に採れんのよ」

 アリスは体勢をそのままに、屈む僕を不満そうに見上げる。

 「こういう細かい作業は好きだからね」

 それに洞窟での戦闘経験から繊細な力の扱い方に散々慣れたというのも理由の一つだろう。

 僕が薬草を根から順調に掘り返す傍らでアリスは(まぶた)を落として気持ち良さそうに呼吸をしている。

 アリスを見ていると僕のこの陽気に当てられたくなってしまった。

 「僕も少し横になろうかな」

 「そうしなさい」

 アリスの隣で横になる。

 吹き抜ける風が草木を(さら)い葉擦れの音を残す。背を預ける草原はひんやりと心地良く冷たい。これはアリスが目を閉じているのも頷けた。

 こちらに害意のある魔物が本能で近付けないと感じる程度に調整した覇気を発しているのでこの辺りは安全だ。少しくらいなら眠っていても大丈夫だろう。

 微睡みの中そんな事を考えていた。

 ふと近くの気配に目が覚めた。この異世界に来て僕の寝起きは頗る良くなってしまった。

 こちらに敵意は無いようなのでぼーっとそのままの仰向けの体勢でいる。

 ばっとその気配は僕を上から立ったまま覗き込んだ。僕の頭が影に隠れる。

 「こんな所で寝ていると危ないよ?」

 覗き込んだのはエナンを被った女性であった。歳は僕と同じくらいだろう。

 「ここもそんなに多くないし強くないけど一応魔物の出る区域だから気をつけた方がいいよ?」

 疑いようもない善人だ。

 ありがとうございますとお礼を述べながら素直に腰を上げる。アリスは未だすうすうと寝息を立てていた。

 「薬草採取のクエストをしてるってことはもしかして君たちは新人さんかな?」

 立ち上がって彼女の容貌が分かる。身形(みなり)は冒険者に近い様な感じだが何処か品の良さを覚える。姿形は優しいお姉さんという言葉が最も近いだろう。肩を過ぎた辺りまで伸びる長髪は後ろで緩く結ばれており、僅かに垂れた目尻やくりっとした丸く大きな黒い瞳が醸し出る優しさ湧き所だろう。鼻梁に口元、整った顔立ちには慈悲の微笑みを湛えていた。

 「僕も彼女も昨日にアカリスで登録したばかりです」

 ふ~ん、なるほど〜と彼女は何か考え込む。そしてぱっと何か閃いたようだ。

 「じゃあ、先輩冒険者であるこの私に任せなさい!」

 僕より少し小さい彼女がふんと豊満な胸を張る。

 優しい“お姉さん”は撤回しないといけないかも知れない。

 「私はBランク冒険者のミヨと申します。よろしくね」

 そう言って差し出された右手を僕は握った。

 彼女の嘘は優に見抜けなかった。

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