28.セリーヌの目覚め
セリーヌが目を覚ますと体の感覚がいつもと違うことに気がついた。体を巡るものが軽い。
(何故だろう)
そして、頬に温かいものが伝う。慌てて拭うと濡れた。涙だったようだ。
泣いているつもりはなかった。それでも涙は後から後からとめどなくこぼれ落ちてくる。
(何がとても大切なものを無くしたみたい)
でもセリーヌにはそれがなんなのか分からなかった。それは例えば、いつも子供扱いされていた親から一人の大人として扱われた時に感じる寂しさだったかもしれない。しかし、母親のいないセリーヌがそれを知ることは無理だった。
ランスがノックもなく部屋に入ってきた。セリーヌが目覚めているとは思っていなかったようで驚いた顔をしているが嬉しそうに表情を緩めた。
「シェリー、よかった。目が覚めたね」
そういったランスの目元は赤く腫れぼったくてまるで泣いていたかのようだ、とセリーヌは思った。まさか兄が目を腫らせるほど泣くはずもないと思ったセリーヌには信じられないかもしれないが、ランスは昨晩泣き明かしたのだ。セリーヌのこと、ソレイヤのこと、全てがごちゃ混ぜでどうしていいか分からなくなったランスは泣きながら一晩中庭で素振りをしていたらしい。それを止められる者は誰もいなかった。
「うん、熱もない」
セリーヌのおでこに手を当てたランスが言う。やっと憂いが一つなくなってホッとした表情だった。
「ごめんなさい。心配おかけしました」
「倒れて運び込まれた時はどうなるかと思ったよ」
「ええ、私…」
そこで思い出した。最後はソレイヤに抱きしめられていたのだ。
(ソレイヤさまはどうしただろう!)
「あの、お兄さま。ソレイヤさまは…」
「……うな」
「え?」
「あいつの名前を言うなと言った」
それは聞いたこともない唸るような低い声で。セリーヌはそれ以上聞けなくなってしまった。
(どうしてあんなにお兄さまは怒っているのだろう。
とりあえず今は無理でも少ししたら話してもらえるかもしれない)
そう思ってその日は一日中ベッドの中で大人しくしていた。心配かけた分わがままは言えない、昔からセリーヌは寝込んだら大人しく何も欲しがらずにじっとしているのだ。それがたった一つ、迷惑をかけたことへの恩返しだと思っているから。
それでも3日も経てばそろそろベッドから出てもいいだろうし、熱は1日で引いたのだから普段の生活に戻っても問題ないだろう。それなのにランスはなかなか許してくれない。
「お兄さま、お仕事は大丈夫なのですか?」
ベッドにから上半身を起こした状態で本を読んでいたセリーヌが聞いた。魔術に関する書物はランスがどこかへしまってしまったから仕方なく戦記物を読んでいる。そこには物語上だけど魔術師が出てくるからだ。絵空ものでももしかしたら何かヒントになるかもしれない。セリーヌはまだソレイヤの体のことを諦めてはいなかった。
「隊長からはしばらく休んでいいと言われている」
それは半分本当で半分は都合の良い解釈だ。隊長からは「今のお前では前線に出せないから一度体制を立て直せ」と言われている。魔術は精神衛生に敏感だ。今の乱れたランスの状態ではほんの小さな綻びが命取りになりかねない。そう判断されての対処なのだ。
別に魔術師をクビになったって構わない、それくらいランスはセリーヌが心配なのだ。鍛錬塔に戻されることになってもいい。それよりもランスはセリーヌのそばにいたかった。セリーヌの心からもうソレイヤがいなくなるまで守りたいのだ。
「お兄さま。私はもう大丈夫ですよ。前ほど虚弱ではありません。先日は倒れてご心配をおかけいたしました。でも一晩で下がりましたし、お言葉に甘えて3日ほど休ませて頂きました。もう普段通りにしても問題ありません。ですからお兄さまもご自身のことをなさって?」
「シェリー、お前は何をするつもりなんだ?」
「私は図書館に行きたいのです。ソレイヤさまを…」
「だから!」
「いえ、言わせてください。私はソレイヤを元に戻したいの、私の自己満足だと分かっています。苦しいのはソレイヤさまだもの。でも私は諦めたくないの」
「そっとしておいては やれないのか?」
「ご本人からそう言われればそうします、でも私はそう言われてはいませんもの」
「どうしてシェリーがしなくちゃならないんだよ」
「私がもっと一緒に彼といたいんです」
「…シェリー」
魔術師棟にいたころから誰も近寄らせない雰囲気を出していたあいつにどうして妹が懐くのかランスは見当がつかない。それにあの少しでも女が近寄ってきたら野良犬のごとく威嚇していたソレイヤが主人を失った小犬の様に情けないなりで寄り添っていた姿が忘れられない。ランスはもう自分ではどうにもできないことを悟っていた。
「私、お兄さま達からたくさんいただきました。だから今度はそれをソレイヤさまにあげたいの。どうやっていいかなんて分からなかったけど、多分お母さまが教えてくれたと思う。だから……お願い」
「ああ、もう。好きにすればいい!」
「ありがとうお兄さま、大好き」
それを言われたらもう何も言い返せないだろう、とランスは頭を抱えた。




