第2話 ログイン(2)
「ここはアグニスっていう国のアーグ地方ってところだ。」
この言葉で、有り得ないことが起こってしまっていると悟った。アグニスなんて国は聞いたことも無い。当然アーグ地方もだ。そして、目覚めた時に見た風景と道中の景色。これらの証拠が揃えば疑いようがない。
本当に異世界転移をしてしまったらしい。
「どうした少年?ボーっとして?」
男がかけた言葉でふと我に返る。
「すみません。聞いたことない場所が出てきてしまって……混乱しているんです。」
とりあえず場を繋ぐ言葉を紡ぐ。
「そうか……。まぁいい、今は詳しい事情は聞かないよ。話したくなった時に話してくれればこちらとしては満足さ。なぁ?」
「えぇそうね。辛かったんでしょう?とりあえず気持ちの整理をつけてからでいいから。ゆっくりでいいからね。」
2人がそう言ってくる。正直、気持ちの整理がつくかは見当もつかないが、そう言ってくれるだけでもありがたい。少し肩の荷が降りた気がする。とりあえずは追い出される心配はないと考えていいだろう。そして、感じる温かさと優しさ。そして懐かしさ。
まるで昔のーーー
「お。見えたな」
「ええそうね。」
その声を聞き、俺は思考をやめて、窓の外を見てみる。
透き通るような青空と白い雲。その下に広がるのは何軒かの建物と、それらを彩るような草むらと花々。そしてそれらを守るように存在する丘と崖。
美しい。
その一言に尽きた。昔では見ることが出来なかった景色と久しぶりに味わう感動。いや違う。前にも似たような経験があったはずだ。思い出した。あの時、新作のゲームのPVを見た時と同じ感情だ。まるで自然が目の前にあるような迫力と美しさ。思わず釘付けになるような光景。そして、言葉だけでは言い足りない感動と期待の数々。
不思議なものだ。今までの自分はこのことを思い出すと悲壮感で満ち溢れるか虚無になるはずだったのに、今はそれを感じない。むしろ、少しワクワクしている。無くしていたものが取り戻ってくるように。捨てていたものを拾い直すように。冷めていたものが温め直されるように。
そうか。俺はこの状況を楽しんでいる。異世界に転移されたこの状況を楽しんでいるのだ。
「どお?綺麗でしょ?この景色がここの地方の魅力なの。美しさだけなら全ての国の中でもトップクラスだと思ってるわ」
俺に自慢するように女性は語る。
「ここが俺たちの住んでいる場所、アーグ地方の第2集落だ。」
男が続く。
「ここには3つの集落があって、それぞれ100人数くらいが暮らしているのさ。」
放浪していた目的の「建物を見つける」というのは達成された。しかし、日本に帰る手段は無さそう。異世界だし。
「あ、そうだ!名前言ってなかったな」
そういえばそうだった。名前を聞いていなかった。
「俺はアレン、アレン・ノエルって言うんだ。そして、隣のは妻のシータ・ノエルだ」
「よろしくね」
なるほど、2人は夫婦だったのか。仲良さそうだったのも、席に座る時に2人が隣り合わせになってるのも納得がいく。
「それで、君の名前は?覚えてるかい?」
アレンさんがこう尋ねてくる。
どうしたものか。一応、向こうでの名前は持ってるものの、2人の名前を聞いた限り、使えそうにはない。郷に入ったら郷に従えということわざがあるくらいなので、ここはカタカナの名前にしようではないか。でも困った。そんな瞬時に自分とは違う名前なぞ出せん。
いや、ある。夢を追い続けていた時の自分、もうひとつの自分を形づくる名前がある。憧れへと突き進み、頂へと登るために必要な翼。
「えっと……」
言葉が詰まる。言えない。言ってしまったら戻れない。今度こそ壁にぶつかったら立ち直ることが出来ないだろう。俺は、かつてその翼を1回放棄した。別にその翼のせいで誰かを傷つけてしまったからというわけではない。翼を授かっても飛ぶ意味がなかったからだ。
ーさぁ、新しいゲームを始めようぜー
目覚める前に聞いたこの言葉を思い出す。もう二度と縁はないと思っていたこの言葉。でも、今は自然とこの言葉が恋しい。異世界というアウェイな環境が影響しているのだろうか。そして妙に馴染む感覚と懐かしい気持ち。
この世界は異世界。どんなに頑張ったところで、日本には帰れないと思うし、いつもの生活には戻れそうにない。なら、いっその事思いっきりはっちゃけでも良いのかもしれない。そう思うと気分が楽になっていく。俺は刺激が欲しかったのかもしれない。いつもの周回ではなく、体験したことないような驚くような出来事を待っていたのかも。
まだ気持ちの整理がついていない。これは事実だ。到底消えそうにない深い深い傷だ。完全な回復は難しい。でも、それを背負って生きることは可能である。傷を埋めるのではなく、滑らかにしていく。
ならこれなら翼を広げてもいいだろう。前の自分とは決別しよう。いや、この言い方は正しくない。上書きしよう。以前の出来事なんて吹き飛ばすような面白い事をやりまくろう。気持ちが高鳴る。かつてしまい込んでいた思いが溢れてくる。
「忘れちゃった?」
シータさんが顔をのぞかせる。また、長考してたみたいだ。俺の悪い癖だ。
「いや、覚えています。」
さぁ、羽ばたく時。長い長い夜を超えて、ここからが夜明けだ。新しい冒険だ。気持ちを新たに、その名を言う。
「アルトです。アルトっていいます。」
こうして、アルトとしての新しい生活が幕を開けた。