獣の森
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その子供は、その家で生きるにはあまりにも無口過ぎた。
身分、財産共に申し分ないのだが、その分他の権力との繋がり、すなわち社交界での手腕が問われる一家。
当然、そんな家に産まれた子供は徹底した教育を受ける。ましてや長男であればなおさらである。
しかし彼は、人と接する事、語らう事が生まれつき不得手であった。
そんな我が子を両親は許さなかった。
なんと、魔法使いに依頼し、彼を獣の姿にしてしまいったのだ。そしてこう言い放った。
「この魔法は、真に人と心を通わせた時に解ける。私達は、人としてのお前しか我が子として受け入れない」
こうして、獣となった男の子は家から追放された。
両親はすぐに魔法を解いて帰って来るだろうと思っていた。しかし実際は、そんな日が訪れる事は無かった。
数年後
「今日は猪が捕れた」
その少年は立派に成長していた。獣として。
彼は人間との接点を失った事で、むしろ生き生きとした生活を送っていた。
覚えているのは基本的な言語と、人間への嫌悪感。今や彼は、言葉を話す獣となっていた。
そんなある日。
「きゃ!」
ここは獣が生活の場として使っていた森の中。
声のした方を向くと、そこには一人の人間の少女がいた。
「チッ」
人間と関わると録な事が無い。そう思い舌打ちをしつつ、彼はどうするかを考えた。
見なかった事にするか、今ここで食べてしまうか。
「……失せろ」
考えた末、獣は見逃す事を選択した。
食えば食ったで彼女が帰れなくなり、更なる人間が捜索しに来る。彼はそれを危惧したのだ。
「あなたは、誰?」
言葉が通じると知った少女は、勇敢にも獣に話しかけてきた。
「お前には関係ない。食われたくなければ黙って帰れ。そしてここで見た事は全て忘れろ」
「……分かったわ」
少女はそのまま、踵を返して去って行った。
そしてこの出会いは、互いの記憶にすら残らない過去となる……はずだった。
それから数日後。
「こっちだ。あの女の話では、この辺に人の姿をした獣がいるらしいぞ!」
人間の時より格段に良くなった獣の耳が、こちらに近付いて来る人間達の声を聞き取った。
「……やはり、あの時食っておくべきだったか」
これまでで獣が接触した人間はあの少女だけだ。つまり、あの人間達は少女が呼び付けたと言う事だ。
その言葉から、明らかにこちらを狙っている。逃げ回った所で時間の無駄だと獣は判断した。
「俺に何か用か?」
そこで獣は堂々と人間達の前に姿を表し、声を掛けた。
男が数人、皆猟銃を所持している。
「まさかそっちから出てきてくれるとはな。それじゃあ死ねやぁ!」
「問答無用か、むしろやり易い」
次の瞬間から一匹の獣と数人の人間との戦いが始まり、ものの数秒で決着が着いた。獣の勝利で。
そもそも野生動物が人間の銃に勝てないのは、何が起こっているのか理解できないからである。
逆に言えば、銃による攻撃がどのようなものかを知っていれば、身体能力で凌駕する獣側に負ける要素は無い。
かくしてそこには、獣を殺そうとした人間達の死体が転がる結果となった。
「増援まで呼んでおいて、お前はそこでだんまりか? 仲間が物言わぬ骸になったと言うのに」
獣は気付いていた。男達と戦っている最中、あの時の少女がやって来て、近くの茂みに身を潜めていた事を。
「―――」
皮肉とも挑発ともとれる獣の言葉に、姿を見せた少女は、獣にすら聞こえない小声で何かを呟いた。
「何だと?」
獣が聞き返すと。
「殺したいなら殺せば良いじゃない!」
と、号泣しながら叫んだ。
「……お前は一体何がしたいんだ?」
彼女の真意が理解できず、獣は襲撃された怒りを保留し、話を聞く事にした。
「私だって、こんな事になるなんて思ってもいなかったわ!」
「あの男達が俺に返り討ちにあった事がか?」
「違うわよ! 彼らが本気であなたを狩りに出た事がよ。結局私には、あなたが忘れろと言った意味が理解できていなかった」
「人間なぞそんなものだ。未知の存在は必ず支配下に置くか、さもなくば排除するか。そのどちらかをしなければ気がすまない生き物だ」
「……」
「今度こそ理解しただろう。俺とお前は住む世界が違う、関わった所で良い事など一つも無い」
「でも、私にとってあなたはもう未知じゃないわ」
「お前一人で何ができる。今度こそ、俺の事は完全に忘れ、人間の生活に帰れ」
その言葉を最後に、獣は走り去って行った。
「待って! ……あれ? 今の」
この時、少女が一瞬だけ見た彼の後ろ姿は、獣のそれではなく人間の少年のようだった。
あれから数年の月日が流れた。
森の獣は半ば伝説と化し、彼が住む森には人間が寄り付かなくなった。
その結果、人間に住み処を追われた他所の動物達が逃げ込む、動物の楽園となっていた。
「酷いものだ」
どんどん動物が流れ込んで来る現状に、獣は悲嘆に暮れていた。
その時。
「ん? この足音は人間か……」
成長して更に鋭敏になった聴覚が、この森に入る人間の足音を察知した。
数は一人。単独でこの魔境に踏み入った愚者がいるらしい。
「味は悪いが、肉である事に変わりは無い」
獣はその人間を完全に食うつもりで、気配のする方に向かった。
「……何をしに来た?」
「あなたを探しに来たの」
獣が食べるのを待ったのは、それが見覚えのある女だったからだ。
「俺に何の用だ」
「あなた、あそこの貴族の長男よね? 人間に戻りたくは無い?」
女の言葉に、獣の口から思わず笑みがこぼれた。
「俺が親に唯一感謝する事は、俺にこの姿を与えた事だ。人間に戻りたいなど、一瞬たりとも願う事は無い」
獣は長年蓄積された恨みを吐き捨てるかのように、言葉を続けた。
「俺はこの姿で、今までこの世界の、そして人間の醜さをずっと見てきた。例え一時でもあんな生き物だった事実の方が、今の俺にとっては反吐が出そうな悪夢だ」
「……そう」
女は諦めたように首を振り、いきなり小瓶に入った液体を一気に呷った。
「だったら、私もこの森の一員として、一緒に暮らさせて頂戴」
「ここは人間のいて良い場所では無い。失せろ。さもなくば、今度こそ食うぞ」
「私は帰らないわ。そして、もし私を食べるのならお好きにどうぞ。ただし、今私が飲んだのは特定の魔法を解除する薬。私を食べた瞬間、あなたは即座に人間に戻るわ」
「……チッ」
説得も威嚇も効かず、強硬手段も封じられた獣に、彼女を帰す術は残されていなかった。
「そんなに邪魔なら、食べたりせずに私を殺せば良いじゃない? あなたなら簡単でしょ?」
「脅威でもなく、食うためでもなく相手を殺すのは、人間のような下衆のやる事だ」
「そう……」
その日から、この森に唯一の住人が加わった。
「結局、お前は何がしたい?」
「見極めたいのよ」
「見極める?」
彼女は頷き、ゆっくりと語り始めた。
「私は今までずっと、人間の側からこの森を見てきた。本当に酷いものよね。ここには、人間の積み重ねた業が詰め込まれている」
「……それで?」
「でもだからって、人間が何もかも悪いとはやっぱり思えない。だから、見極めたかったの。森側から人間を、そして動物達を見て、何が正しいのか、一人の人間としてどうすれば良いかを」
「……好きにすれば良い」
獣はそれ以降、彼女に何も言わなくなり、さらに時は流れた。
そんなある日。
「何か身体が変だ……」
「あなた、その体!」
獣が訴えた身体の不調の正体を、女が先に気付いた。それは、見た目ですぐに分かるものだったからだ。
「! これは……」
獣は、川の水面で自分の姿を確認して驚愕した。そこに写っているのは、見た事もない人間の男の姿だった。
「元に戻ったのね」
「……」
変わった自分の姿を見ながら、獣だった男は何かを考え込んでいた。
「これからどうするの?」
人間に戻った以上、彼には選択肢が発生する。このまま獣としての生き方を続けるか、人間の社会に復帰するか。
「そうだな。まずは……」
男は立ち上がると、改めて女に向き直った。
「先に聞いておく。ここに住んで、お前には何が見えた? 以前言っていた結論は出たか?」
「……今はまだ難しくても、人間と動物が共存できる未来はあると思う。決して居場所を奪い合うだけの関係にはならないはずよ」
「そうか」
女の言葉を聞き終えた男は、そのまま女に近づいていき……
長く爪の伸びた手で女の胸を突き刺した。
「そんな日は永遠に来ない。人間と獣は、どちらかが滅びるその日まで争いを止めない」
「……」
女はショック状態からの、ほぼ即死だった。
「この姿になった以上、お前を食えない理由も無くなった。人間は不味いが、残さず食ってやる」
その後彼は、女の体を火で焼いて、骨まで残さずに食べた。
それからしばらくの時が経ち……
「ずいぶんと大きくなったな、我が息子よ」
「俺に親はいない。まして人間の親などな」
森の中に、獣だった男の父親と、数十人の猟師達が入って来た。
偶然近くにいた動物はことごとく射殺され、回収もされずに死体が転がされていた。
「長い時がかかったが、お前はちゃんと人間に戻る事ができた。さあ、帰って来い。今からでも遅くはない」
「寝言は屋敷に帰って寝てからにしろ」
父親は、男を迎えに来ていた。
彼はこの森の怪物が自分の息子である事を知っており、最近人間の姿に戻った事を聞きつけ、ここまでやって来たのだ。
「この私がお前を育て、試練を与えてやった恩を忘れたか?」
「くっ……かっはっはっはっはっ! 恩だと? 笑わせるな!」
男の一喝に、場の空気が一気に緊迫する。
「自分の身勝手な思想を押し付け、不適格だと見るや呪いを与えて追い出す。それ恩だの試練だのと良く言えたな! どうやらお前は、人間でありながら、恥という感覚を持たないようだな」
「そうか。残念だ」
「これが最後だ。失せろ。そして、永遠にここに来るな」
男の言葉に、父親は無言で片手を上げた。すると、周りにいた猟師達が一斉に銃を構えた。狙いはもちろん男だ。
「……結局、これが人間だ」
動いたのはほぼ同時だった。
大量の銃弾が襲い来る中、男は目の前の父親を無視して、後ろの猟師達に襲い掛かった。
獣だった時ほどの身体能力はもう無いが、それでも差は歴然だった。
噛み付き、殴り、投げ、首をへし折り……様々な方法で、次々と猟師達を殺していく。そしてついに最後の一人を片付け、男は父親の前に戻って来た。
「ま、待て! すまなかった。教育方針に不満があるなら見直す。だから、私をグェッ」
男はおもむろに父親の首を掴み、吊し上げた。
「俺は人間ではない。むしろお前達の行いを裁く、獣だ」
男が手に力を込めると、掴んでいる喉から血が滴り始め、しばらく流れた所で父親は絶命した。
「これで分かったか。そんな日など、永遠に来やしない……」
独り言とも、ここにはいない誰かへの言葉ともとれない呟きを漏らした後、男は倒れ、死亡した。
彼の全身には、銃弾による無数の穴が開いていた。
この出来事は、歴史の闇の中に忘れられていった。
やがてこの森は伐採され、動物は狩り尽くされ、それらを売る人間達の市場として栄えた。
買い付けに来る商人曰く。ここで手に入る木材や肉は、他とは一味違う、上質な物品なのだとか……
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
ちなみに、投稿直前まで付いていた仮タイトルは“三つ子の魂百まで”でした。