9話 悪魔の仕業
時間は遅めの夕刻、外は紺と橙の混ざった幻想的な色をしていた。
俺は帰路につき、今夜のことを考えていた。
いや、もはや今日はそれしか考えていない気がする。
正直、ビビっている。
吸血鬼との出会いとは違い、中途半端に悪魔の情報を持ってしまったからである。
きっと、何も知らなければ今の不安はなくて、すんなりと今晩を迎え入れることができたのだろうが、それが絶対に良いことであるかはわからない。
どの行動が正しいのかわからないからこそ、その場その場で適切な決断をせねば。
ということで、悪魔と二人っきりが危険であると判断した俺は、フィリードに助けを乞うことにした。
自宅に着き、すぐさま電話をかける。
「もしもし、フィリード?」
「やっほー、お兄さん」
しかし、返ってきた声は全く知らないものだった。
「……誰すか?」
「さぁね、誰でしょう?」
うわ、ウッザ。
フィリードの携帯にかけたのは間違いないから、近い人だろうか。
「あの、フィリードに代わってもらってほしいんですけど」
「フィリーちゃん、下僕さんが寂しがってるよ」
声が遠いのか、うっすらとフィリードの声が聞こえた。
「お兄さん。あなたの主人、めちゃくちゃ足遅いって知ってた? 夜だと負けるんだけどね、日中はほんっとに遅い」
「は、はぁ」
いや、だから何だよ。
俺はフィリードと大切な話があるから邪魔しないでくれ。
「ねぇ、お兄さん。フィリーちゃんの検索履歴とか気にならない? 今教えてあげよっか」
マジで何言ってんのコイツ?
俺が軽く引いていても、謎の声は続けた。
「だって、吸血鬼だとしても思春期の女の子だよ? 気になっちゃうでしょ、男だもんね」
「……なにも言ってないのだが」
知りたいけども。
でもダメでしょ。
いや、知りたいけども!
俺はできるだけ平静なふりをした。
いかにも、そのような変態行為に興味はありませんよ的なオーラを出し、なるべく淡白な声色を意識する。
「やめておけ。そんなことをしたら俺の主人の母親が黙っていないぞ」
「大丈夫だってぇ。ルンちゃんにかかれば、ノープロブレム」
ルンが声の名前か。
「ルン、どうしてそう言いきれる?」
「だって、ルンちゃんは悪魔だもん」
「え!?」
変な声が自然と出た。
やっべぇ、殺される!
もっと敬語使って、ペコペコ頭下げる予定だったのに!
まだ取り返せるだろうか。
「ルンさん、申し訳ありません。私のご主人とお話をさせて頂けませんか?」
急な口調変化のせいか、ルンのクスクスと笑う声が聞こえた。
「お兄さん必死だなぁ。その態度に免じて、フィリーちゃんと代わってあげる。くく……」
笑いを堪えているように聞こえるが、俺は何か変なことをしただろうか。
俺の敬語、変だったか……?
「もしもし、下僕」
と、聞き慣れた声にようやく交代された。
だが、その声はとても疲れているようだ。
「フィリード、大丈夫?」
「ええ。ちょっと走っただけよ」
電話を取り返すためか。
本当にフィリードが遅いのか、それともルンが速いのか。
俺が意味のないことを考えていたら、いつの間にか主人の機嫌が損なわれていた。
「下僕。そんなことよりも、謝ることがあるんじゃないかしら」
「謝ること?」
何かやらかした?
こういう時、下手に違うことを言えば、さらに相手の逆鱗に触れるだけだ。
つまり、沈黙が最強。
「わからないのね。いいわ、言ってあげる」
続いたのは衝撃の内容だった。
「ルンに私の検索履歴を見るよう要求したことよ!」
「は……?」
「ルンのせいにして、自分の下卑た欲望を発散しようだなんて、見損なったわ」
「待て待て! それはルンから聞いた話だろ!」
「だから何よ」
「嘘だっての! あいつが嘘ついてんの!」
とんでもない濡れ衣だ。
悪魔、邪悪すぎるだろ。
あの堪えた笑い声は俺を陥れようとしていたからか。
「うぅ……。ほんとに見てないのね?」
「見てない見てない」
「フィリーちゃん、騙されないで! この男、クズだよ!」
クズはお前じゃあ!
心の中では悪魔に対して散々に叫んでいる。
どうにか無実を証明したかったが、ルンは最後の切り札を使ってきた。
「下僕さん、フィリーちゃんが胸の大きさについて調べてるのを聞いて、すっごく興奮してたんだよ!」
「なっ!?」
これで本当に聞いたか聞いていないかは関係なくなった。
たとえ先ほどまでの議論がどちらに傾いていたとしても、俺がまずいことを聞いてしまったことは事実になったからだ。
「下僕、最低ね……」
フィリードの声がとてつもなく小さくなっていた。
「違う、違うって!」
「何がどう違うのか、説明してほしいよねー」
てめぇは黙ってろよ、ルン!
だが、小心者な俺は悪魔に口答えなんてできなかった。
「全部嘘なんだって! フィリードが何を調べてたかなんて今、初めて知ったから!」
「でも、お兄さんは証明できないよね。どっちにせよ知っちゃってるわけだし」
くそ、コイツ……。
現状を無罪で終わらせることができないのなら、情状酌量しか俺に残された道はなかった。
「……やってないけどごめん! マジで全部ルンのせいだけど、フィリードのこと、知っちゃったのも事実だし。……ごめんなさい」
「下僕。胸なんて飾りよね?」
「ん?」
「やっぱり、お母様みたいに大きいほうがいい?」
「全然! そんなこと考えたこともないわ! フィリードは、今のフィリードでいいんだよ」
胸のこと、すっげぇ気にしてるじゃん。
もっと自分に自信のある性格かと思ったが、繊細な部分を見てしまった。
「じゃあ、なかったことにしてあげるわ……」
とりあえず収拾はついたっぽいが、その代償にフィリードのテンションがだだ下がりとなった。
「……えっと、本題に入っていいかな」
悪魔に対する不安と、二者ではなく三者面談にしてほしいという要望を伝えたが、そもそもルンが俺の家を知らず、フィリードも同行する予定だったらしい。
また、ルンについて
「隙があればイタズラばかりするわ。今さらになって申し訳ないのだけれど、さっきの事件も全部あの子のせいにしか思えないし、後で締めておくわね」
と。
「……よかった。冤罪晴れたか」
「疑ってごめんなさい」
「いや、そんな。つか、ルンのこと、信じていいの?」
あんなやつで大丈夫なのか?
「あれでも私の友達なの。とんでもなく悪いことはしない子だから、許してあげて」
俺たちの仲を裂こうとしなかったか?
これ、めちゃくちゃ悪いことっしょ。
「とりあえず、詳しいことは今夜ね。22時にそちらへ行くわ」
「オッケー。じゃあ、待ってる」
「ええ、またね」
プツリと通話の切れる音がした。
一息ついて顔を上げると、外はすっかり紺に染まっていた。
紺のフィリードがいれば、悪魔に命を奪われることはないと思うが、性格に難ありだ。
円滑に朝を迎えられる気が全くもってしない。
長い夜がいよいよ始まろうとしていた。