37話 冷たさのあとは
神社に戻っても雨は降っていなかった。
大天使が発生させたものだったからか、山の上以外からは星空が見える。月だって。
神社に戻ったのは吸血鬼の飛行でなく、幼女の術でだ。
吸血鬼、悪魔、天使の3種族が急遽会談することになったから、シュリネスには余裕がないのである。
そんな訳で幼女が。
「おい主よ、帰るのだろう? ほれ、手を繋いでみぃ」
と切り出した。
理苑が何もわからないまま幼女と手を結ぶ。
「……これで戻れるの?」
「うむ。おい、鬼。……あー、従僕の方じゃ。お前の呼び名を考えないといかんのう」
「俺のことだよな」
もしかすると秀一さんのことを呼び出しているかもしれなかったので、一応確認をした。
幼女はうんうんと頷いてくれたので、どうやら正解のようだ。
「いかにも。ついでじゃ、お前も送り届けてやろう」
「えっと、手を握ればいいんだっけ……?」
幼女の手は小さく、ふよふよとした柔らかみがある。
手から体温の高さも窺えた。カイロのように暖かい。
「よしよし。では、参るぞ」
幼女がぎゅっと握る力を強めると、あたりを煙のようなものが立ち込めた。
煙が濃くなり、すぐ隣の幼女だけがかろうじて見えるほどに視界は悪い。
数秒の後、強風が煙を吹き飛ばす。そこで見えた景色は神社の敷地内だった。
そして今に至る。
星空の下、ずぶ濡れの3人がいるのは違和感があった。自分たちだけバケツでも被ったかのようだ。
幼女があっさりと瞬間移動をこなしたことに理苑が質問をする。
「お狐様。それ、なんで行きは使わなかったの」
「主様は人間だからわからぬだろうがな、妖術を使うにはそれなりの体力が必要なのじゃ。しかもな、妾が妖怪出身だからという理由で制限がかけられておる」
「制限……?」
「携帯のデータ残量みたいなものじゃ。一月に使える妖力が限られておる。行きに使わなかったのは戦いのために温存したのじゃよ。蛇足であったがの」
赤髪の吸血鬼は近代的なデバイスを使わないが、例えに出すほどだから神様は持っているのかもしれない。
神の連絡先を知っていたらかっこいいかも……。
「さて。では鬼の従僕よ、さらばじゃ」
幼女は別れの言葉を俺にだけ言った。
友人は室内に連れて行かんとされている。
「お狐様、僕のことも放してよ!」
「ならん。言うたじゃろ、終わったら1杯付き合えと」
「本気だったの!? 寒いし、もう遅いんじゃ……」
「そうか、寒いか。ならばまずは風呂じゃの。裸の付き合いから始め――いや、浴槽で呑むのも乙なものじゃな!」
自分より一回りも二回りも小さな少女にずるずると引きずられていく親友。
強引な神は主の言葉に耳を傾けなかった。
「お狐様、力、強い……! うぅー!」
どうにか踏ん張ったり、引っ張り返したりする理苑。しかし神は涼しい顔で動じない。
「主様は非力じゃのう。女子か?」
「あ、真弥! 行かないで!」
帰ろうとする俺を理苑は引き止めた。
表情で助けを訴えているが足を止めるわけにはいかない。
「悪い。俺、散歩の途中なんだ」
「ど、どういうこと! ちょっと待ってよ!」
高い声を上げて支援を乞うが、次第にその声も遠くなっていく。
最後には完全に聞こえなくなってしまった。
俺はそのまま自宅へ急行。濡れた体をどう言い訳しようか考えながら向かう。
家と神社が近いせいで言い訳がまとまる前に到着してしまったが、迷わずに扉を開けた。
俺には作戦があったのだ。
妹に姿を見られる前に風呂へ直行すればいい。そうすれば自分が濡れたことなんて気付かれないはず。
俺はゆっくりと扉を閉め、なるべく音を立てないように戸締まりもこなした。
妹から「おかえり」の言葉はない。どうやら察知されていないようだ。
静かに、だが素速く行動し、とうとう脱衣場の扉に手をかけた。
ここに入ればこちらの勝ちだ。
俺は先程までの静寂を切り裂き、勢いよく扉を開けた。
途端に肌を優しい熱気が、鼻をシャンプーの香りが刺激する。
だがそれは、つい今、誰かが風呂場と脱衣場を行き来した直後であるということの証拠であった。
自分と同じように濡れた髪を垂らす妹が、そこにはいた。
「……きゃっ! 兄さん!」
「あ……。失礼しました……」
これをラッキーと捉えるには無理がある。スケベではあったが。
ほんの一瞬だけ結月の一糸まとわぬ姿を見てしまったものの、彼女は驚いてすぐにバスタオルでアウトな部分を隠す。
その状況がどうしてラッキーではないのか。
理由は二つ。
まず、妹の裸体をそんな特別なものと思ってはいけないからだ。それを意識したら負けである。
そして重要なのはこっち。
バレたのだ。妹に。違和感が。
「お、おかえり。って、どこに行ってたの? びしょびしょじゃん」
「散歩だっての。急に雨が降ってきてさ……」
妹は訝しんでいた。
「雨の音なんてしたかな……」
ぶつぶつとその違和感を口にしたものの彼女はそれよりも別のことが頭にあったようで、すかさずそちらを指摘した。
「それにしても遅い! 11時前には帰らないと補導されちゃうよ!」
この11時はつまり23時のことだろう。
向かった先は人気のない山の中であったし、深夜外出を咎める人物はあの団体にいるはずもないから心配は無用。その団体のことは口が裂けても言えないが。
俺が脱衣場の扉を半開きにしていたせいか、妹が体を震わせてくしゃみをした。
自分の体も冷えているが彼女は一度暖まったぶん、さらに冷気に敏感なはずだ。
「悪い、今後は早めに帰るよ。もっかい風呂、入ってきな」
髪を拭くためのバスタオルだけを手に取り、脱衣場から退出。だが、閉じた扉からすぐに「いいよ。兄さんが入って」と声がした。
いつもならドライヤーを吹かせて髪を乾かす彼女だが、今日だけは湿ったまま。そんな厚意を踏みにじらないよう、俺は言葉に甘えることに。
「ありがとな、結月」
「ん。正面からお礼言われると気持ち悪いかも」
「はぁ? やっぱりお前から入れよ!」
「兄さんに言われてから入るとブラコンみたいで嫌なの! ほら、風邪引くよ!」
物理的に押されて、結局入浴することに。
浴槽に入ると寒さだとか疲労だとか、いろいろなものが溶けて消えていく。そんな暖かさを体の芯から味わうこととなった。
今日は戦争の蟠りさえとけたのだから。