36話 雨の中で
「はじめまして……。し、真弥って言います」
ミスった。
自己紹介をするにしても、これは唐突すぎた気がする。
サキュバスにセクハラされているところにいきなり男がやってきて、突然名乗られても微妙な反応をされるだけだ。
もっと前置きとかするべきであった。
しかもこれがサキュバスをさらに燃え上がらせるきっかけに。
「ちょうどいいや、おにーさん。そこで見てて」
大天使との身長差を少し飛ぶことでカバーして、ルンが体を弄ぼうとしている。
シエルが俺の肩を持ってめちゃくちゃに揺らした。
大振りな衝撃に頭が痛くなる。
「シンヤさん、早く止めてください! なぜ鼻の下を伸ばして見ているのですか!」
「わ、わかってるって! おい、ルン! その人と話がしたいから変なことするな!」
叱咤するもルンは口を尖らせて応じなかった。
「ぶー! 変なことじゃないですーだ! おにーさんちゃんと見ててよ。ほら、ゆっさゆっさ」
ほんとに乳大好きだな、この淫魔は。
頭の中に乳しかないのではないか。
「シンヤさん、なんで母の胸をガン見しているのですか! 最低です!」
「見てないって! 人を悪者にすんなよ。シエル、前科あるからな、忘れてねぇぞ!」
いつだったか、吸血鬼と悪魔と天使が揃ってしまった時。全員が俺の敵になったことがある。
俺は天使を支持してやったのに裏切られたのだ。絶対に忘れない。
「とにかくルンを止めてくださいよ! シンヤさんがやらないのなら、私が……!」
「おっとシエルちゃん。それ以上近づいたら大事なママのお洋服をビリビリに破いちゃうよ。いいの? おにーさんに見られちゃうよ?」
「シンヤさん! あなた何しに来たのですか! あなたのせいで不利になっているじゃありませんか!」
「ふざけんなよ、俺だってこんなはずじゃなかったって!」
なんで俺に責任を押し付けるの! ルンに吐いてよ、その不満は。
それにしてもどうしようか。
正直、大天使の見た目が若いせいで裸体を見ることは自分にとって得しかないのだが。
だけれども、ここで欲望に負ければ外交は白紙になりかねない。なによりフィリードにそれを目撃されるとまずい。
数日は話を聞いてくれなくなるだろう。
「ルン、頼むから少しの間だけ自重してくれよ」
「えー。偉い天使のおっぱいなんて触れる機会ないし、もうちょっと楽しませてよー」
「バカ言え、外交がうまくいけば触り放題だぞ」
ルンはこれを聞くと「そっか!」と声を上げて大天使を開放した。
大天使の服は乱れ、清楚を掲げる象徴には似つかわしくない格好だ。
「シンヤさん、私、あなたが怖いです……」
「なんでそんなに距離置くんだよ。いや、しょうがないじゃん! 方便だっての、本気で言ってねぇよ!」
「でもルンは本気にしますよ、絶対に……」
娘は今後を憂いてため息をついたが、母はサキュバスが去ると安堵していた。
「感謝します! あなた、悪魔祓いか何か? 本当に助かったわ!」
「……俺、ルンの契約者ですけど」
「げぇ! 不浄な存在にあやかろうだなんて、正気ですか! 悪いことは言いませんから、さっさと関係を断ちなさい!」
悪魔の話になると急激に性格が変わる大天使。
そんな母に娘が語りかけた。
「だからお母さん、ルンは悪い子じゃないんですって」
「どこがよ! あんなに全身を弄られて、吐息を吹きかけられて……」
「ルンは確かにちょっとハレンチでイタズラをすることもあります。でも、それ以上に悪いことはしないんですって! あれが彼女なりの愛情表現なのですよ」
「文化の違いってこと……? 釈然としないけれど」
サキュバスの文化は知らないが、あそこまで女性一筋なのは彼女だけではないか。
それに愛情表現でもなんでもなく、自分の欲望のままに貪っているだけだと思う。
だが、大天使はシエルの言葉を信じたようだ。
「戦いに負けた時点で私に選択肢は残されていませんしね、応じますよ。命だって見逃していただきましたし」
「え、じゃあ……」
「はい。吸血鬼とでも悪魔とでも、お話をいたしましょう」
きっとこれは歴史的なことだ。
仲の悪い種族が戦争の果に和平を掴もうとしている。それも自国のためではなく、吸血鬼のために。
遠くから話を聞いていたのか、デリンがこちらに歩み寄る。
「ご協力、感謝します。こうやってお話するのに随分と長い時間がかかってしまいましたねぇ……」
悠々とデリンは話すが、まだ天使には抵抗がある様子。
少し固い身持ちで声が震えている。
「こ、今後は人を貶めることのないようにしてくださいね!」
「我々は人間の願いを叶えているだけなのですがねぇ……。そこらへんもそのうちに理解をいただければ」
「……はい」
まだぎこちないやり取りだが、きっとここから始まるのだろう。
雨が降る中、デリンが手を伸ばすと天使も同じように差し出した。天使と悪魔が握手をする瞬間であった。
それを見届けると一連の主催者だった巫女が愉快そうに話しかけてくる。
「お疲れ。よくやったね、少年」
「俺、何もしてませんよ……」
「いやいや、一番多くの異種族と関係があるのは君だよ。そんな君がいたから、この結果にたどり着いたの。ありがとね」
濡れた髪を荒く撫でられ、水しぶきが飛ぶ。首に冷たい粒が当たった。
「難しい話し合いは大人の仕事だからさ。あんたたち少年はそろそろ帰りな」
これで終わったのか。
いや、ここから始まるのだ。吸血鬼社会の再建が。




