25話 神の怒り
先日、俺の主人が天使との商談をお断りした。
それは「お断り」なんて丁寧な言葉を使うのも憚られるほど粗暴なやり取りだったが。
頼めば家事全般もこなしてくれるという点は悪魔よりも助かるが、フィリードとの仲を考えれば却下せざるを得ない。
結局、総合的に考えればどんぐりの背比べだったし。ならば先着順でルン優先、と。
そういった理由を考え、自分でもフィリードの「お断り」は納得していた。
戦争がどうこうというのもとりあえずはルン側を支持して、吸血鬼捜索にこぎつけてもらおう。
さて、今日は何もすることのない休日。
適当にゲームでもやろうと俺はスマホに手を伸ばそうとして――。
その直前、異音に気づいた。
ドッドッという低くて鈍い音だ。
「結月、なんか聞こえない?」
「……ホントだ。兄さん、見てきてよ」
音は玄関の方から聞こえる。
妹の怯えた表情に負け、原因を突き止めることに。
しかし、玄関に行けばすぐに音の出どころがわかった。
誰かが外からドアを叩いているのだ。
窓ガラスならわかるが、なぜにドアを?
呼び鈴を押せばいい話ではないか。
正直、不審者かなにかだと予想はできた。だが、この音が続けば妹の顔が晴れることはない。
行け、自分!
妹を護るのは兄の役目!
己を鼓舞し、その扉に手をかけた。
真昼の日差しで目の前が明るくなる。
いいや、日差しだけのせいではない。
扉を叩いていた人物。その者の髪が光り輝く黄金色だったのだ。
シエルとは違う。
シエルよりさらに神々しいような、そんな幼女がいた。
幼女。
幼女だ。
ちょこんとした身長のせいで呼び鈴に手が届かなかったのだろう。
ただ、どうして幼子が我が家に?
迷子か?
と、幼女は自分の右手を勢いよくかざした。
彼女の着ている紅白柄の和服が揺れ、開口。
「控えおろー! 妾こそ懸けまくも畏き神、そのものであるぞ!」
と。
時代劇ドラマでも見て影響されたのだろうか。
「……お嬢ちゃん、お母さんかお父さんは?」
俺は視線を合わせるようにして幼女の前に屈んだ。
しかし、彼女はますます怪訝な顔をし、決定的な発言を出す。
「部下が世話になったそうだがの、生憎あの天使は恩人の娘なのじゃ」
俺は「天使」と聞いてシエルを思い浮かべたが間違いないようだ。
天使たちが吸血鬼の救済を考えたのはシエルの上司だと、彼女は言っていた。
だがシエルの上司が幼女……?
違う、神と言っていたな。「掛け軸も貸してくれる神」だっけ……。
俺が記憶を掘り返している間にも「神」の言葉は続く。
「聞いたぞ、なんでも妾たちに向けて宣戦布告したとな。今日はその相手をしに来た」
相手……?
それって、フィリードが脅しで言ったリアルファイトのことか。
「おいおい! フィリードが言ったことだし、あいつも本気で言ってないって……」
俺は妹に聞かれぬよう、扉を閉めて訴えた。
幼女は「やれやれ」と肩をすくめ、顎で移動するよう促す。
行き先は神社のようだ。
幼女が歩き出し、俺はそれに続く。
振り向きもしないまま、幼女は声を発した。
「だいたいのう、妾が気まぐれに助けてやると言うたのじゃから甘んじて受ければいいものよ。妾の好意を踏みにじった時点でもうアウトじゃ」
「アウトって……。えぇ……」
吸血鬼から始まり、ついには神へ。
毎回、俺が被害に遭うのだ。
この不幸体質、どうにかならないものか。
鳥居をくぐり、そこまで長くない石段を登る。その先は賽銭箱へ伸びる石のバネルと砂利が広がっていた。
境内の端には一本の桜、隣には祠がある。
見慣れた光景だ。毎年行っているんだから。
幼女は境内の中心あたりで足を止め、くるりとこちらへ回転。「始めるか」と言った。
やる気満々のご様子。
「なに、殺しはせんよ。ちと体に教えてやるだけじゃ。どちらが上の存在か、をの」
彼女は穏やかに吐いた。
俺と彼女の間には距離があったし、小学校低学年ほどの女の子では高校生にアザをつけることすら難しいだろう。そう油断していた。
幼女は静かに両手を俺のいる方向へ伸ばし――。
ぎゅっと拳をつくった。
するとどうだろう。
俺は首元を誰かに絞められているような苦しさに襲われたのだ。
ぎりぎりと気管が狭まり、声帯が押しつぶされていく。
苦しそうにもがく俺を見て幼女はクスッと笑った。
「驚いたかの? 妾は元・アヤカシ。『妖術』が得意でな」
目を凝らすと彼女の体から、ついさっきまではなかったはずの狐耳と二股の尻尾が出ている。
しかし、そんなことを気にしてはいられない。
このままだと息が詰まって窒息は確実。
少しずつ絞められていく苦しさに精神的なダメージもあった。
どうにかして打破せねば。
俺は『妖術』を使っている本人を叩けばこの苦しみから開放されると睨んだ。
小さな体を傷つけるのは心苦しいが、本当に息が苦しいのだからこの手段しか残されていない。
幼女のもとへ駆ける――だが、数歩進んだ瞬間。たった一瞬だが、完全に息ができなくなるほど強い力が加わった。
接近する俺を見かねた幼女が術を強めたのだろう。
突然の出来事で体が固まり、盛大に転んでしまう。
転んだ衝撃と酸素不足のせいか、世界が歪んで見えていた。
「おうおう、これが効くのか? ほれ、ほれ!」
幼女は反応を楽しむかのように一瞬、また一瞬と首を圧迫。
俺は不規則にやってくる苦痛に耐えられず、のたうち回ることしかできなかった。
呼吸するたびにヒューヒューと音が立つ。
ただ気絶するだけならどれほど楽だったか。
強制的に息を止められ、開放され。開放されたと思ったら深呼吸をしている途中でまた息を止められ。
しまいには咳き込んだ途中で黙らされ、喉を焼ける熱さのような痛みが蝕んだ。
地獄のような拷問である。
願わくば、誰か助けてくれ……!
もう誰でもいい。早く楽になりたい。
誰か、いないのか……! すぐに駆けつけてくれるやつは!
たった一人だけ心当たりがあった。
どんな時でも、どんな場所でも、一声呼べばすぐに現れる人物。
しかも都合よく、彼女の名前は短い。
俺はチカチカと点滅する視界の中、最後の力を振り絞って声を上げた。
「……ル……ン!」
普通の人間ならうめき声にしか聞こえなかっただろう。
声がうまくでなかったからだ。
しかし、仕事熱心な悪魔はクライアントの声を聞き逃さない。
黒い円が幼女の後ろから、音もなく出現する。
悪魔の神へ向けた反逆が始まろうとしていた。