14話 ディープ・スリープ
やるべきことは全てやった。
あとは、今日を終わらせるだけ。
なのに……。
「来ないじゃねぇか……」
もう普通に寝てしまおうか?
時刻は23時過ぎ。
まだ起きてはいられるが、正直起きる理由がなかった。
今の状況も不眠症であるからではなく、ただ悪魔の仕事を消化するために適当なことを言っただけなのだ。
それにしても、悪魔の仕事がオーダー制とは。
てっきり自主的に悪さをしているものなのかと思ったが、悪意の根源は人であった。
いいや、それを手助けしている時点で『悪』なのか?
人間社会で不安を感じてはいたが、悪魔や吸血鬼の社会も楽ではなさそうだ。
きっと、この世の中には完全に楽ができる場所なんてない。
俺はベッドに横たわった。
ほどよい柔さが体を受け止めてくれる。
あぁ、楽ができなくても、休む場所はちゃんと用意されているんだ。
うつ伏せで転がっていると、ふわりと甘い匂いがした。
どこかで覚えがある匂い。
「ちょうどフィリードがここにいたよな……」
別に深く意識しているわけではない。
というか、吸血鬼の主従関係がどれほどの距離感なのかがまだわからないから、そもそもどれほど意識していいものか。
特に深い意味はないが、とりあえず上下逆向きに寝相を変えた。
「これもルンのせいだ……」
しかもアイツ、遅いし……。
「ルンー」
俺が元凶の名前を呟いた瞬間。
天井に黒い円が現れる。
「はーい、おにーさんが呼べばいつでも来ちゃうルンちゃんでーす」
黒い円から降りてきたルン。
降りるというより落ちるか。
「遅くない? もう催眠なしでも十分眠いぞ」
「いーのいーの。お仕事したって事実が必要なだけだから」
すると、ルンは俺の隣で添い寝を始めた。
「……何やってんの」
「え、お仕事だよ?」
「一言も一緒に寝てくれとは言ってないのだが」
「ぐっすり寝たいんでしょ? 眠くなるまでルンちゃんとおしゃべりすれば解決ー」
「いや、催眠……」
催眠術、気になってたのに。
もし本当にやらないならさっさと帰ってくれ。
「おにーさん、お風呂上がり? いい匂いするね」
「嗅ぐな嗅ぐな」
ルンの顔が近い……。
だからといって断じて意識はしていないが。
「おにーさん、心の声漏れ漏れだよ」
「……ルンのことなんて意識していないが?」
「そうだよねー。妹ちゃんくらいの女の子に手出しはできないもんねー」
ルンが正面から抱きつく。
その強さはもはや苦しいくらいだ。
「おにーさん、こんなに近いと危なくない? 『囁き』、しちゃうよ?」
悪魔はクスクス笑いながら言った。
笑うたびに吐息が耳を刺激する。
「寝ようよ。なぁ?」
「おにーさん、本当に隠せてると思ってる? もう正直になってもいいんじゃない?」
距離が近いせいで、こちらが呼吸すると相手の匂いもわかってしまった。
甘い匂い。
だが、フィリードと同じではない。
違いを聞かれても答えるのは難しいが、どこかクラクラしてしまう妖艶さがあった。
「おにーさん、もう動けないんじゃない? 頭もぼんやりだよね」
言われてから気がついたが、体に力が入らなくなっていた。
違う、『囁き』だ。
言われたから気づいたのではなく、言われるまでその状態ではなかったのだ。
「ほーら、だんだん何も考えられなくなってきたね。呼吸しかできなくなってるんじゃない?」
ひとつ、またひとつと行動が制限されていく。
どうなってしまうんだ、これから。
俺は何をされてしまうんだ。
そんなことを考えていたはずなのに、次の瞬間には考えたことなんて忘れてしまう。
正真正銘、頭の中は空っぽだった。
「いい顔だよ、おにーさん。……ほら、だんだん気持ちよくなってきた」
もう何もわからない。
さっきまで目の前には光があったばずなのに、じわじわと闇が広がっていく。
自分の体の重みとルンの声だけが、最後まではっきりとしていた。
「……そろそろ落ちちゃうね。いいよ、おにーさん、好きなときに落ちちゃって」
世界が完全に闇で染まった。
それから何秒ほどか時間が経ったような気がした。
突然光が戻る。
失ったときと同じように、徐々に体の感覚も回復してきた。
体が動き、眼も動く。
刺すような光に怯えながらゆっくりと瞼を開いた。
「おはよー、おにーさん。よく眠れたでしょ」
先ほどと変わらず、俺の体にぴったりと貼りついていたルン。
語弊がある。
たしかに一連の出来事はちょっとだけ前に起きたことのように思える。
だが、空はどうだろうか。
太陽さえ起床しかけているではないか。
時計を見ると6時過ぎ。
それなのに、いつもなら寝た後特有の気だるさが今は一切ない。
ついさっきベッドに横たわって、そのまま何事もなく起き上がったかのようだ。
「これでルンちゃんのノルマおーわり! また必要なときはいつでも呼んでね」
帰ってしまうのか、締めのあいさつらしき言葉を吐く悪魔。
「ちょっと待て! これ、絶対に安眠なんかとかより有意義な使い方あるって!」
「ルンちゃんが『囁き』をするのは、イタズラかおにーさんの依頼だけだからねー。有意義に使わせたいなら注文してよ」
「なんでだよ、他の人の言うことも聞けよ」
「だって、契約してるのはおにーさんとだけだし。ルンちゃんは世のため人のためなんてキャラじゃないし」
「わかった。そうだよな、あくまでも悪魔だもんな」
「悪魔だけにー」
距離が近いからといって忘れてはいけない。
彼女は恐れられるべき対象そのものなのだ。
人智を凌駕した能力を持ち、闇の中で暗躍している。
そんな種族なんだ。
だが、悪魔という団体は何とも言えないが、ルン個人ならそこまで危険ではないと思える。
それも戦略なのか……?
「おにーさん、何か訝しんでいるみたいだけれど、ルンちゃんは契約者に嘘を言うつもりないから。安心して」
「……やっぱり、人の考えてること透視できてないか?」
「まぁねー。おにーさんも練習したらできるよ」
え、なにそれすごい。
俺も超能力者になれるとか?
「できるようになるまでどれくらいかかるかわからないけど。ただの人間だし」
「いいよ、考えてること当ててやるよ。ただの人間って表現、ちょっとバカにしたいからあえて使ってるだろ」
「ちょっとじゃなくて、とってもバカにしてますよーだ」
ケラケラ笑う悪魔。
「おいバカ! 大声出すと妹が起きるだろうが!」
「あーあ、バカにバカって言われちゃった」
「……お前、契約破棄な」
「ごめんなさい、ルンちゃんが悪かったです、許してください!」
冗談のつもりでポロッと出た契約破棄のフレーズが、想像をはるかに超える効力であった。
やっぱり仕事熱心だよなぁ、コイツ。
暴走を抑えるストッパーに使えそうなキラーフレーズであったが、頻繁に使ってはかわいそうなので、当面は封印することにした。
「謝んなくていいよ。本当に契約をなかったことになんてしないから」
「約束だからね?」
俺の契約破棄にすっかり畏縮してしまったルン。
次から極端に態度が違ったらどうしよう。
そうなったらフィリードにも何か言われそうだ。
「なんてねー、ルンちゃんは契約が無くなりそうだと『囁き』パワーで解決しちゃうから、おにーさんは永遠に逃れられないのだ」
心配無用、いつもの超絶プリティなルンちゃんであった。
テンションが低いよりかはマシかもな……。
もう割りきって、そう考えることにした。
「おっと、そろそろ妹が起きる時間になるな。ルン、そろそろ帰っていいぞ」
「お仕事終わりだー、やっほー!」
ルンは勢いよくベッドから立ち上がった。
「おにーさん、ルンちゃんが必要なときはしっかりと名前を呼んでね。そうすればまた来るから」
「そうしてくれるうちはずっと契約しておくよ。そこまで期待しないでほしいけど、何かあったら呼ぶ」
俺の言葉を聞くと、ルンは黒い円を自身の足下に出現させ、そのまま円の中に消えていった。
直後、ルンを吸い込んだ円も消滅する。
そういえばと思って天井を見上げたが、夜、そこにあった円もいつからか消えていた。
ルンの催眠能力……。
改めて自分が、とんでもない存在と接していることを自覚した。
この能力をもっとうまく使いこなせれば、きっと吸血鬼の繁栄にも繋がるはず。
慎重に使い道を考えよう。
照り輝く朝日。
まだこれから、さらに高く昇りそうだ。