11話 契約書にサインを
妹は気遣いが巧みである。
それが、両親がいないという特殊な家庭環境のせいだからか、生まれつきの性格なのかはわからない。
ただ一つ言えることは、ノックもなしに兄の部屋へ入ることなどしない人間だった。
そう、『だった』。
まさか、あの妹が暗黙のルールである入室前ノックを破るなんて。
俺は夢にも思ってはいなかった。
だから今、妹に極が付くほどの秘密を見られてしまっても、どうすることもできずにいた。
最初からそんなリスクを考えていなかった。
そんな俺とは裏腹に、存在そのものがリスクである人物が静寂を壊す。
「はじめまして、超絶プリティなルンちゃんだよ。人じゃなくてね、悪魔なんだー」
妹は俺を見る。
ルンが言った話が真実か否かを尋ねているようだ。
俺は首を横に振ろうとした。
だが、それよりも一足早くルンが動く。
「あれれ、疑いの眼差しだね。どうしたら信じてくれるかな……」
「ち、近づかないでください! 兄さんが説明して。この人は危ない気がする」
ルンが危険なのは合っている。
だが、だからこそ、妹をこの話に混ぜるわけにはいかないのだ。
「……えっと、アカネの友達だよ。ほら、アカネもいるじゃん!」
はたして中学生の妹の目には、ベッドの上でぐったりとしたフィリードがどう映っただろうか。
「兄さん、サイッテー!」
とりあえず、よからぬ方向に映ってしまったようだ。
「アカネさんと、その……そういうことをするのはいいかもしれないけど、なんで他の女性が絡んでくるの。よくないでしょ」
正しいが誤解である。
フィリードがこうなったのはルンのせいだし、そもそもフィリードとはそんな関係じゃない。
ただでさえ認識の齟齬があるのに、トラブルメーカーがそれを助長した。
「だってぇ、おにーさんが満足できないって言うから、三人で……」
「兄さん……見損なったわ」
「言ってねぇよ!」
なんだよこれ。
全部俺が諸悪の根源であるかのように改変されていく。
しかし、警戒心を宿していたはずのルンの言葉を信じるほどに、妹は俺が原因だと思い込んでいる。
饒舌悪魔め……!
だが、その悪魔は俺に弁解させる暇さえ与えなかった。
「しかも、次は妹ちゃんも混ぜたいとか言ってたよ。怖いねー」
「に、兄さん!?」
妹の顔が赤くなる。
「そ、そりゃあ、私たちは一緒に暮らしていて、それなりに仲がいいのかもしれないけど、さすがに、そんな、ねぇ……。ダメ、だよ……?」
「んなことわかってるわ!」
なんだよこれ!
妹の世話を焼きたいとは思う。
家族のために何かしたいと思うのは当たり前ではないか。
でも、だからといって妹と夜の関係になるなんて、それは違う。
「なーんか面白いね。おにーさんの周り」
ルンが見透かしたように言う。
お前が面白がってる状況は、俺からすると地獄でしかないのだが。
主人はまだ上の空だし、妹は顔を伏せてしまったし、これをどうまとめろと。
俺はルンに小声で助けを求めた。
「あのさ、結月には全部言ってないんだよ。なるべく巻き込みたくないから。どうにかしてくれない?」
もちろん、ルンは二つ返事なんてするやつではなかった。
「おにーさん、悪魔にお願いしちゃうんだ。本当にそれでいいのかなー」
「どういうことだよ」
「おにーさんがしてるのは、ルンちゃんと契約しちゃうってこと。フィリーちゃんとの主従関係じゃなくて、もっと商業的な関係だけどねー」
ルンは不敵に笑う。
「そうじゃなくて、もっとメリットとデメリットを明確にしてくれない?」
「妹ちゃんの記憶をいじれるのがメリットかな。デメリットは……あるかなぁ?」
わざとらしく言うルン。
理苑が言うには、悪魔との契約で魂を失うらしいが……。
背に腹は変えられないし、やるしかないのだろうか。
俺は気がかりな点を単刀直入に聞いた。
「もしそれをやったら、俺は死ぬかな」
ルンは即答した。
「だから、ルンちゃんはそんな酷いことしないって。物騒だなぁ」
妹の安全か、己の安全か。
それに、もし俺が死ねば、フィリードもシュリネスも黙ってはいないはず。
ここはルンに賭けるしかなかった。
「契約、する。今夜の記憶を結月から消してくれ」
「はーい、かしこまりました」
そのままルンは妹に抱きついた。
「うわ! な、何、何するんですか!?」
「ごめんね、妹ちゃん。でも大丈夫、とーっても気持ちいいから」
ルンはまるで柔道の技をかけているかのように妹を投げ飛ばし、ベッドに叩きつけた
。
「おにーさん、フィリーちゃんの体どけておいて!」
「わ、わかった」
俺のベッドは当然ながらシングルサイズであるから、さすがにルンも狭いと感じたようだ。
フィリードの意識がどれほどはっきりしているのかは不明だが、人生初のお姫様抱っこを捧げた相手は彼女となった。
抱いてみると、彼女の体の熱さや柔らかさなど、いろいろな情報を感じ取れてしまう。
モテるやつってこんなことを平然とやってのけるやつのことなんだろうな。
俺には無理だ……。
主人を抱えながら部屋を出、そのまま下の階へ。
階段を下りるごとに彼女の髪が揺れ、甘い香りがする。
まずい、うちの主人はとんでもない上玉かもしれない。
フィリードを恋愛対象として見るなんてことはなかったが、今現在、胸の鼓動が速まっているのは確かだ。
いやいや、これがルンだったとしても俺は緊張するんだ。
妹以外の女性とあまり接しないから、女性が近くにいるだけでドキドキするに違いない。
そう言い聞かせ、フィリードをリビングにあるソファへと寝かせた。
さて、上ではどうなっているか……。
何も音がしないから、ルンの仕事は終わったのだろうか。
俺はフィリードを残して自室へと戻った。
直後、後悔することになる。
「んっ……。兄、さん……たす、けて……」
髪と服が乱れ、涙目な妹。
まだルンはフィリードにしたように、妹を洗脳中であった。
フィリードのあられもない姿を見た時も、見てはいけなかったかもしれないと罪悪感があった。
しかし今回は血の繋がった妹。
普通の兄なら妹のそんな姿、見たくないじゃん!
朝まで笑顔だった妹がここまで歪むなんて……。
とても複雑な気分である。
いや、記憶を消すには致し方ないのだろう。
でも、それでも、妹のこんな表情は知らないままでよかった気がする。
こればかりは俺の記憶も消してほしかったな……。
忘れることの大切さを痛感することとなってしまった。