7 黒鉄の豚王
「……な、何だよ、これ。血が、うぅぷ……」
顔を真っ青にした浅間が口を抑えてしゃがみこむ。他の面々も同じようにへたり込んでおり気分が悪そうだ。
今まで気丈に振る舞ってきた綾瀬さんでさえ、警棒を握る手が震えている。
「……先輩。顔、酷いことになってますよ……」
「……ガミちゃんもな……」
血に濡れていないところを探す方が難しいほど、ホームは真っ赤に染まっていた。雨を弾くための屋根には大きく穴があき、壁にはあちこちにヒビが入っている。
何より不自然なのは、これだけの血を出したであろう人の死体が見当たらない点だ。
あのアナウンスの時にホームで次の車両を待っていた人たち、俺たちのいた電車から逃げ出した人たちはどこに行ったのか?
駅の反対側まで行ったところで俺たちは目にする。
――――そこにあったのはまさに地獄だった。
別世界のような光景の中で、赤黒入り混じった山がその存在を主張している。そこに積み上げられたものは一様に命を失っており、今まで散々あった非常識な現象よりはまだ理解が及んでしまう光景だったが、現実味がないのも確かだった。
その山の手前にたむろっているモンスターの集団。
ゴブリン、ホブゴブリンの集まりの中で、一際大きい体が際立つ人型の魔物。片手に肉切り包丁のような刃物を握っており、その黒い皮膚で覆われた体躯は、力士のそれと同等、あるいはそれ以上のものだ。
豚のような鼻に口からはみ出る牙……オークだ。
山を囲んで騒いでいる他と違い、下卑た笑みを浮かべながらも目だけはまっすぐこちらを見つめているそのモンスターからは……濃密な死の気配が溢れていた。
背後で誰かがへたり込んだ。振り返って声をかけてあげたいところだが、奴から目を離した瞬間、首から上が無くなるのではないかという恐怖が体を縛り付けている。
……あれはやばい。MMOゲームで適正レベルを大きく超えたところに迷い込んだような状況とも言えたが、ここは現実でリスポーンは不可能なのだ。
「……に、逃げましょう、先輩。あんな、あんな化け物に勝てるわけないじゃないですか」
ガミちゃんが声を震わせながら言ってくるが、果たしてやつが見逃してくれるのだろうか。
ゴブリンが雑魚だった事もあってどこか期待していた。世界のルールが変わっても、そこそこ生きていけるんじゃないかって。
だが、いま怪物を目の当たりにして初めて気づいた。俺たちが巻き込まれているのは、紛れもなく命の奪い合いなのだ。
今一度考えを改めたその瞬間、やつが体勢を変えて、とんでもないスピードでこちらに突っ込んでくる!
「! 『安全地帯』!!」
咄嗟に発動したスキルによって巨躯を跳ね返すことに成功する。刃物さえ弾いた透明な壁にオークは、しかし今までのゴブリンとは違い、近くに落ちていた瓦礫を掴むとこっちに投げつけてきやがった。
透明な壁をすり抜けて、石の弾丸が俺に迫ってくる!
「はあああ!!」
動けなかった俺たちの中で、唯一綾瀬さんだけが反応できた。両手で握った警棒を横から叩きつけて、石の軌道をそらすことに成功する。
迫っていた命の危機にどっと汗が湧き出てくるが、落ち着ける状況ではない。石を弾いた綾瀬さんの警棒も少し曲がってしまっている。
「あいつは! 私が相手します!! その間に皆さんは逃げてください!!」
「……俺も残ります。鶴見さん、俺と綾瀬さんに付与お願いします」
「ダメです! 今までの相手とはわけが違うんですよ! 大川くんは皆を守りながら……」
「俺は! 他人を犠牲に生き延びるなんて真似出来ないんだよ!!」
大声をあげる綾瀬さんに怒鳴り声をぶつける。怯んだ様子の綾瀬さんに向かってオークが投げてきた瓦礫を、足の裏で横に弾く。ダイレクトパス技術の一つで、骨に衝撃がいかないように正確に力積を与える蹴りだ。
ステータス画面から『身体強化』を上げられるだけ、レベル5まで上げる。オークを睨みつけながら、これからの指示を背中の皆へ出す。
「今から、『安全地帯』を切ります。浅間、皆を守りながら線路まで戻ってくれ。俺たちを無視してゴブリンがそっちに行くかもしれない」
「ぼ、僕だって、た、た……」
「悪いが、残るのは俺と綾瀬さんだけだ。皆を守れるやつが1人は残らなきゃいけないだろ? 逆の駅まで行けば生き残っている人がいるかもしれないから、まあ頑張れ……鶴見さん、付与をお願いします」
「……『プロテクション』、『ビルドアップ』」
鶴見さんが呟くと、俺たちの体を黄色い光が包みこむ。耐久と力に補正を与えるバフ魔法だ。
あいつから皆を守るように、一歩前へ出る。
「本来なら男の俺だけが残るべきなんですけどね……1人じゃ瞬殺されそうなんで、綾瀬さん、一緒に死んでくれませんか?」
「……はあ〜。大川くんはこういう子だったんですね〜」
ため息をつきながら横に並んでくる綾瀬さん。すいません、最期を一緒にする相手が俺みたいな冴えないやつで。
「先輩! わ、私も……」
「『安全地帯』を切る。浅間、頼んだぞ」
ガミちゃんが何かを言う前に、無理矢理、話を終わらせる。スキルを解除すると同時に、俺はやつに向かって走り出した。
投げてきた石を裏回し蹴りで弾き、必死に足を動かす。ステータスによって強化されている肉体で、あっという間にやつの懐に潜り込んだ。
オークは近くに刺していた刃物を引っこ抜くと、力に任せて振ってくる。無駄に大きい軌道を描いているため避けることはできるが、もらったら一撃でアウトだ。
「おっらあああ!!」
しゃがむことで横の薙ぎ払いを空振らせ、握りが甘くなった腕を蹴り上げる。肘にヒットした攻撃は、武器を落とさせることに成功したが、硬い肌に守られたオークにダメージが入ってるようには見えない。
落ちた刃物を蹴り飛ばし、後ろの綾瀬さんに向けて滑らせる。
「それ使って、はっ、くだ、さい!! 俺は、ふっ、ローで疲労、蓄積、を、狙うんで!!」
ぶん回してくる腕を紙一重でかわし続ける。耳に届く風を切る音に肝が縮むが、動かなければ攻撃をもらってしまうのだ。
リーチは短くなったが、その分硬直時間が短くなっている。
「おらっ!!」
「はあああ!!」
振り下ろされた腕を右に避けて膝を横から蹴りつけると、綾瀬さんが左に抜けながら武器を振る。警棒と違って使い慣れていないようだが、皮膚の表面を切りつけられたようだ。
背後に回るとオークの向こうで逃げ出している皆が見える。浅間が、ガミちゃんを抑えながら後退しているのを見て思わずふっと笑ってしまった。
俺を慕ってくれるいい後輩だった。話したのは今日が初めてだが、なぜこんなにってくらいに俺に親しく接してくれた。
あの日から、俺の周囲に誰もいなくなったあの事件から久しく無かった他人との繋がり。ネット上の顔も知らないゲーム仲間とはまた違う、どこか懐かしく温かいやりとり。
自分の命なんて惜しくない。俺はただ、他人の泣いている顔が見たくないだけなのだ。
〈ゴブリンを倒しました。経験値を1P獲得しました〉
〈レベルが7になりました。ステータスが上昇しました。スキルポイントを2P獲得しました〉
〈ホブゴブリンを倒しました。経験値を2P獲得しました〉
「くそっ! 『ファイアーアロー』! よっと、おら喰らえ!」
脳内に響くアナウンスは、横を抜けていったゴブリンを浅間が倒しているのだろう。気が散ってどうしても生じる隙を、手数の確保のために戦いの最中でとった火魔法でどうにか埋め合わせる。
時間の感覚も分からないまま、 目の前の戦いにひたすらのめり込む。乳酸が溜まりに溜まっている足を、止めたら死ぬとただ動かす。
俺が左膝だけを執拗に攻め、綾瀬さんが無数の切り傷を皮膚に刻んだ結果、オークの動きは目に見えて鈍くなっていた。真っ黒だった体のあちこちから赤い血が流れ出ている。
戦闘前には絶望的にも思えたスペック差も、土壇場の『身体強化』上げでなんとかなっている。ステータスに大きく差があるだろうに戦いについてくる綾瀬さんは、やはり流石だ。
オークもどこか息が上がってるように感じる。
上手くいけばこのまま倒せるんじゃないか? もし生き残れたら、綾瀬さんに強さの秘密を教えてもらおう。
そんな悠長なことを考えていた時、それは起こった。
“――――――――!!’’
攻撃を全てかわす相手に怒りを覚えたのか、あるいは体力がなくなってきた事で頭に血がのぼったのか。
オークがあげた咆哮に、俺の体が吹き飛ばされる。俺より軽い綾瀬さんもまた吹き飛ばされるのを見ながら、ホーム横の線路に落とされた。
“――――――――!!’’
慌ててホームに戻った俺が見たのは、気絶してるのか起き上がらない綾瀬さんと、彼女に向かって突進するオークだった。
「! やめろおおおおお!!」
無我夢中に走って、二者の間に割り込もうとするも……ダメだ、このままじゃ間に合わない!
俺の目の前でオークの手が綾瀬さんに伸ばされ……
「『安全地帯』!!」
走る勢いのままスキルを発動し、両腕を前に出して飛び込む。効果範囲にいたオークは横向きに大きく吹っ飛ばされ、ホーム横の壁を突き破って落ちていく。
「先輩!!」
空中に身を投げ出した俺は、その穴に向かって飛んでいき……
〈黒鉄の豚王を倒しました。称号、王を殺した者を手に入れました。経験値を100P獲得しました〉
〈弥生線の支配権を獲得しました〉
〈レベルが10になりました。ステータスが上昇しました。スキルポイントを6P獲得しました〉
地面に思いっきり叩きつけられて、世界が暗転した。