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創作意欲のための永久燃料

作者: なみがら

 作品を手掛けることは非常に楽しいことだ。

 それは私達にとって有意義な時間を過ごす方法の一つである。

 作品が完成すれば、大きな達成感と新しいものを生み出したという満足感を得ることができる。

 この奮い立つような歓喜は、新しいモノを生み出さない消費型の趣味では中々得られるものではない。

 もちろん、ゲームやスポーツといった趣味にも達成感や白熱があり、決められたルールの中でプレイすることの楽しみや理想的なチームワークを体感するといった魅力はあるのだが、それを得るためにもある程度のプレイヤーレベルを要求されるだろう。

 私の場合は少数チームで争う対人ゲームで得られる勝利の喜びに魅了されているが、満足するには勝つ必要があるのは当然で、負ければ不満足、負け続ければ喪失感や倦怠感を得るのだ。

 一方で、小説を書いたり絵を描いたりするなどの生産的な趣味は一人で達成できることであり、尚且つ作り上げたものは成果物として形に残るのだ。

 

 成果物は自分自身の思考や自分だけの世界の実体化だ。

 そのような作品は創作主の子どもとも称される宝物にすら成り得るのだ。

 そしてなにより創作意欲さえあれば、いつまでも創作活動を続けることができる。

 つまり、趣味の時間を創作する楽しみで埋め尽くすことも不可能ではないのだ。


 ならば、誰しもがそのような時間を実現できるかというと、思わぬ障害のせいで思うようにいかない所がある。

 その障害とは「飽き」だ。


 飽きるというのは誰しもが経験している感情のひとつだろう。

 食べ物の味に嫌気がさしたり、楽しかった趣味をきっぱりやめてしまったりすることだ。

 対象や原因は様々だが、結局はそれに魅力を感じなくなったということだ。


 ところで、私がこの文章を書いているのは、創作活動に飽きたことがあるからである。

 いかにも深刻に書いてはいるが、私自身が無名であり大した作品を持っていないことなどは少し調べれば簡単にわかるだろう。 

 そんな私でもやはり何かを手掛けること、完成させること、新しい世界を作ることには神秘的で壮大な魅力を感じている。

 その魅力は、創作活動から目を背けた私を何度も振り

向かせ、今現在ではそれから目を離すことができない。

 もはや一時の迷いや興味ではなく、純粋に創作活動を愛しているからこそ、私は筆を取ることにしたのだ。


 私情は置いておき、創作に飽きることについて考えてみよう。

 「飽きた」を言い換えれば、「魅力がなくなった」になる事は前述の通りだ。

 魅力がないから創作活動をしない、これは言わずもがな分かるだろう。

 ならば、魅力とはなんだろうか。

 それは創作活動によって得られる感情や作品そのものの事だ。

 その魅力に気が付きさえすれば、創作活動を継続させる創作意欲を何度も得られるはずだ。


 露骨な流れになってしまうが、この文章のテーマはタイトル通り「創作意欲」だ。

 ここからは創作意欲の亢進の方法について、様々なタイミングや切っ掛けごとに考えていこうと思う。


 まずは活動の始まりだ。これに関しては大きく2通りの切っ掛けがあるだろう。

 一つは、誰かの作品を見て自分もやりたいとなる場合。

 もう一つは、何かしらの発想が下りてきた場合だ。

 私のような無名な人間の場合は前者のルートで創作活動を始める方が多いのではなかろうか。

 小説であれば、主人公がかっこいい、世界観が素敵、感動的、楽しいなどの印象が創作意欲を刺激するだろう。

 絵であれば、かわいい、感情的、今にも動きそう、迫力がある、怖い、シュールなどが、こんな絵を描きたいというインスピレーションをもたらすだろう。

 一方で後者の場合は原動力は自分自身であるので、特別なイベントではない。

 言い換えれば、ちょっとおやつを食べたくなった、などの突発的な感情に近いだろう。


 ここで上述した2つの「創作意欲の燃料」は全ての人間が創作に入るときに使用するものだ。

 例外として嫌々やらされていたが、途中から楽しくなってきた人種もいるかもしれないが割愛する。

 ここでの本題は、このスタートを切ってから作品を完成させた者がどれだけ居るだろうかということだ。

 もちろん長編小説や未完だが満足行くところまで仕上げたという人がいるのは分かるし、私はその点を素直に評価したいと思う。

 だが、彼らを除いて「できた」と言える者はどれほどいるだろうか。

 私を含め、耳が痛くなったものがいるはずだ。

 だが私は情け容赦なく、この「飽きる」ポイントに切り込んで行きたいと思う。


 スタートを切った直後に躓いてしまうのは何故か。

 その原因は創作の「経験」や創作の「目的」にある。

 

 まず「経験」に注目したい。

 Lv1は初めて創作意欲が湧いた人だ。

 彼らは右も左も分からないが、何かを切っ掛けにやりたい、やってみたいという感情を抱いたのだろう。

 大方、二つの燃料のうちの前者の燃料を用いたのだと思う。

 もう一つの燃料を得た人は、図画工作や表現の技法を囓っており、この方法で何かを表現したいという思いを持っている筈だ。

 さてそんな初々しい彼らが遭遇する障害は、想定とのギャップによるもの、ではないだろうか。

 例えば、小説はひたすら文章を書けば誰でもできそうなイメージがある。

 題材を決めて、簡単な文を繋いでいけばそれなりの作品が出来ると思うだろう。

 絵も同じように、パーツの位置関係や配色のやり方さえ取得してしまえば自由自在に作品を描けるのだろうと思うことだろう。

 実際に、私も趣味でやる創作活動にはそのようなイメージを持っていた。


 結論から言えば、創作において題材や技量は二の次であり、最も必要なのが完成までの忍耐強さだ。

 勿論、より魅力的な作品を作るには二の次が役に立つだろう。

 しかし、最も大切なのは完成させることだ。

 

 私が最も言いたいのは、まず完成させたという経験と喜びを得て欲しいことだ。

 あえて繰り返しているのは、上述のようなイメージでは創作活動の魅力である一片に中々たどり着かないからだ。

 想像上なら主人公の容姿を決めたり、そして動かしたりすることは比較的簡単だ。

 それから、イメージしたものを外に出すために創作をする。

 恐らく頭の中では、創作活動は想像して生み出す操作のことを指していると考えるだろう。

 私も簡潔に答えるならそう言う。

 だが、この様な淡白なイメージでは創作活動の魅力など見当たらない。

 いざ、誰かに創作活動のことを教えたとして、このような事で惹かれる人などいるのだろうか。

 目的の物を得るために方法を学んで只管に手を動かす。

 創作活動とは、単なる面倒な作業だったのだろうか。

 そのような夢のないことだったのだろうか。


 創作活動の魅力は生み出したモノに出会えることだ。

 完成した作品は貴方の想いを伝える存在となり。

 きりの良い製作物は育て甲斐のある子となる。


 この喜びは、創作活動を成し遂げた時にしか得られない。

 これらの魅力を知るには実際に創作活動を完遂させる必要が有るのだ。

 しかし、悲しい事に経験がものを言う障害が幾つもある。


 一つは、時間だ。

 創作活動はとにかく時間がかかるものが多い。

 私の場合の話だが、初めてイラストを描いた時は線画を描くのに2週間掛かっていた。

 そこから色塗りを行い一ヵ月掛かってようやく一枚の絵が完成した。

 今でこそ遅くとも累計一週間くらいで完成させられるが、当時は何度も挫折していた覚えがある。

 一方で、ゲームなどの趣味はクリアすれば十分な満足を得られる上に、時間に関しても創作に比べればごく短時間だ。


 二つ目に、クオリティだ。

 長い時間を掛けて完成させた作品は必ずクオリティが伴う。

 もちろん時間がかかるほど、より理想的なものが出来上がると初心者は思うだろう。

 やってみれば分かるがどれほど長い時間を費やそうと、理想的な作品に近づいていかないことが多い。

 そのような現実を見る事になれば、自然とモチベーションが下がってしまうだろう。 

 私も消したくなるような作品を量産してきたので、誰もが通る道だと信じたいところだ。

 今では評価されるようなクオリティではないものの、愛着の湧く作品を生み出すことに成功している。


 さておき三つ目は、慣れだ。

 当たり前だが、何事においても初めから上手く行くことなどないだろう。

 大抵新しく物事を始めるときは、お手本を用意して行うのではないだろうか。

 小説でも絵でも、先ずはじめの一歩として講座や書籍を見たり買ったりする人も多いはずだ。

 しかしながら、芸術的な技術というのは人それぞれの我流が混じり、完全なマニュアル化は難しいと思われる。

 つまり、講座や書籍などの技術や経験を持つ人たちの作成したものは、初心者の知りたい技術と経験から身に付いた各人の技術が混じったものとなる。

 さらに残念なことに、この二つを切り分けるには片方だけを知っておく必要があるという点だ。

 私の感想ではあるが、このような書籍は創作に対して朧気ながらも自分の描き方を身に着けたものに対して大きな効果をもたらすものだ。

 

 さて、創作意欲を失墜させる要因を挙げてみたが、筆を取る前から予想で来ていた人はいるだろうか?

 これを知っているだけでも、創作意欲の低下はある程度防げるだろう。

 そして朗報は、一度でも完成を得れば創作にかかる時間を知ることが出来、作品はクオリティの基準となる。

 さらには創作の手順を網羅したことになり、初回よりもスムーズに創作が行えるようになるのだ。

 言ってしまえば創作というものが分かるという話だが、たったこれだけでも作業中に感じたマイナスの印象も見え方が変わってくるのではないだろうか。

 

 作品の完成を知った人は、これから新しい作品を手掛けに行くこともあるし、面倒だからやめるという選択もある。

 どちらにせよ、一度生み出した作品とその結果から得たものは、決して失われずに次に活きてくるはずだ。

 新たに創造することを選んだ人は、初めて程ではないにしろ似た規模の苦痛を味わうことになるだろうが、完成させれば前と比べてどうだったかという比較できる楽しみを得る事だろう。

 そして比較すれば、どこを変えていきたいかの目途が立てられ、その解決に様々な文献が手を貸してくれるのだ。

 新たな知識を得れば、それを使った創作に興味を持ち、創作意欲が増す。

 いずれは、時間が掛かることなど気にならなくなり、自身のやり方と言うものが確立することになる。

 

 ある意味、一度の作品の完成こそが創作意欲のための永久燃料とも言える。

 さらにおまけとして、作品の見方が単なる良し悪しから、ここがこうなって、あれがどうなって、というような作り方に注目したりするかもしれない。

 さらにさらに余談だが、興味を持って勉強するという感情を知る事ができているのではないだろうか。


 以上が創作の「経験」に関する飽きる要因だ。

 ここで分かったのが、作品の完成が創作意欲のための永久燃料の一つであるという事だ。

 しかし、もう一つの要因がこの創作意欲を破壊してしまうことがある。

 情けない話だが、私の庭ある灰色の枯れ木と背丈の低い若木と小さな一輪の草花も、その影響によるものだ。

 

 では、創作の「目的」とその落とし穴について見ていこう。

 始めに断っておくと、話題にするのは作品を作る目的についてだ。

 作品を作りたいがために創作活動を行っている者は、先ほどの「経験」にだけ気をつけていれば順風万歩な創作活動を行うことが出来るだろう。

 しかし、作品を投稿して閲覧数や賞賛の言葉を貰いたいというような人は「目的」による障害を気にする必要がある。

 もちろん、投稿することや上記の目的や夢を持って作品を手掛けることを否定するつもりは全くない。

 むしろ、投稿する事によって不明瞭な完成基準を明確に定めることができるのだ。

 既に述べたように、完成させることが創作意欲を亢進させるので、投稿すること自体に大きな問題はなく、可能ならば積極的に行うべきだと思っている。

 

 ならば障害とはいったい何かといえば、希望と現実の差の事だ。

 人の目につく場所に作品を掲示したのなら、より高評価をより閲覧数を得たいと思うはずだ。

 初めて投稿した作品は、たった一人の閲覧者だけでも嬉しく思えるだろうが、次第にもっと多くの人に見てもらいたいという欲が出てくるだろう。

 十分な欲求を満たせれば、大きな創作意欲の燃料となることは確実だが、それは余りにも不安定な供給だ。

 多くの人は、作品に熱意や時間をより多く費やすことで、評価される作品が出来上がると思うだろう。

 しかし、作品に対する自己評価は必ずしも他人からの評価と一致することはない。

 また私の場合の話をするが、二週間かけて描いた作品の閲覧数やお気に入りなどの評価は、二日程度で出来上がった作品の評価と比べて誰が見ても劣っているのが現状だ。

 しかも、後者の方が投稿日は遅いのだ。

 このように、作品にかけた時間によって他の人からの評価が増えるわけではない。


 このような現状を目の当たりにして、投稿者はどのような心情を抱くだろうか。

 この部分がよくなかったからと現状を受け入れて分析するだろうか。

 まだまだ未熟だからと、のび白に期待して創作を続けるのだろうか。

 それとも、自分にはセンスがないと結論付けて、創作活動から身を引いてしまうのだろうか。

 いずれにしても、他人からの評価によって創作意欲が損なわれてしまう場合もあるのだ。

 だからと言って、他人の意見を気にしない天邪鬼に成れと言いたいわけではない。

 先ほども言ったように、十分な欲求を満たせばプラスになるのだ。

 このプラスを一度でも知っていれば、完全な天邪鬼になることは難しくなるはずだ。

 そうは言うものの、望ましくない評価を受けたからと言って、創作活動をやめるべきだとは到底いうつもりはない。

 

 ならどうすれば良いのかというと、創作活動の魅力を今一度思い出せばよいのだ。

 創作活動の魅力は、自分だけの世界を実体化させることができるという点だ。

 確かに似たような作品ならば既に無数に存在しているだろうが、果たしてあなたの手掛けたその作品が有象無象のどこかに有るというような認識でいるのだろうか。

 いや、絶対に特別なものに見えるはずだ。

 なぜならその作品は、あなたしか想像していない世界の風貌を語っているからである。

 あなたの想像した世界を基底に組み上がった作品は、最もあなたの見たい世界を作り上げているのだ。

 

 そして最も覚えておいて欲しいのが、あなたの作品はあなたにしか作れないということだ。

 いくら想像上で世界を作ろうとも、彼らが生き生きと動く姿を客観的には見られない。

 脳内の世界は当然誰かの書いた作品を見ることに比べて、断片的で霞んで見えるだろう。

 そこで創作活動だ。

 創作活動は自分だけの世界をより色鮮やかに作り、その出来上がる過程を楽しむこともできるだろう。

 そして完成した作品はあなたの世界を共感し、好意的なフィードバックを返すのだ。

 このような感情を与えるのは、他なら貴方の手掛けた作品だけだ。


 創作の「目的」による障害の話は以上だ。

 人によっては天邪鬼になることが創作意欲の燃料になると感じたかもしれないが、単純に他人からの評価よりも完成した作品に情を注ぐことに注力して欲しいということだ。


 このあたりで結論に向かおう。

 「飽きる」という点から「経験」や「目的」による要因を挙げて、それぞれに対する考え方を提案してきた。

 特に未経験者や始めたばかりの創作者にスポットを当てて話を進めてきた。

 私自身がある一方向においてようやくルーキーを若干脱した様な人間であるため、これ以上のアドバイスを与えられる自信はないが、何かしらのインスピレーションを与えられたのなら幸いに思う。

 だが、結果として得るものがなかった人もいるだろう。

 そのような人たちでも次の二つだけでも覚えておいてほしいと思う。


 一つは、作品を完成させること。

 もう一つは、自分の作品を創れるのは、自分しかいないこと。

 

 この二つが、創作意欲のための永久燃料だ。

 

 

 


長時間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] ありがとう。すごくやる気が出てきました。すごく面白くて、読み手に力を与えてくれるそんなエッセイだと感じました。
[一言] 読んでいて力がわいてくるエッセイでした 文字に魔法でも掛かっているんじゃあなかろうかと思うほどずっしりと頭の奥まで届きます 何だかやる気が出てきたので執筆してきます 自分以外の誰かを文字だけ…
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