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二つの烙印

 明日は仕事。光は今日の最終の新幹線で神戸に帰ると言う。リーダー目指しているんだもの。休むわけにはいかない。

「うん。」

私はうなずいたけど、やっぱり目に涙を浮かべてしまった。条件反射かな。光と離れるのは悲しい。だけど、私にはもう、別の生活もある。寮に帰ってどっぷりと疎外感に浸る、今までの私ではない。

ナオは私にどう対応するかはわからないけど、光が来たことで、変る関係でもないような気がする。だって、始めっからわかっていたこと。もう一人の私は隅っこで、静かにナオのこと、計算してる。でも、今は、光でいっぱいの私が、私の真ん中にいた。


アパートからすぐの駅から市電に揺られて広島駅に着いた。光は送らなくていいと言ったけど、私は強引についてきた。まだ時間があったので駅前の「アデュー」という喫茶店でコーヒーを飲んだ。

結局私たちは、核心を突くような会話を全然していなかった。アパートに来た時、男がいたこと、それだけ言っただけで、それ以上は光も聞かないし、私も言っていない。

電車の時間までまだ四十分ある。

「これから、どうなるんやろな。」

光は私を見ずにぽつんとそう言った。

「どうって?」

「俺たちの関係。」

光は私に答えを求めていた。

「電話ないと不便だね。」

私は話をそらしたような答えになった。光は苦笑してる。

「もう、突然押しかけへんし。」

「へんなとこ、見たないし。」

カチンときた。そんなとこ、見せてない。

「何が?」

むきになって言う。

「そういう感じやった。」

今になって言い出すなんて。

「どういう?」

私はつっかかった。言われても仕方のないこと、していたくせに。

「おまえの体、変ったし。」

「どんなふうに?」

私は疑問符ばかりを重ねる。光はひとり言のように、自分の気持ちをつぶやく。

「わかるんや。俺一人のものやった時と違うし。」

私はもう、言い返せなかった。確かにそうだ。光一人だけしか知らない体じゃなくなった。でも…。

「…友達だって言うたじゃん。」

消え入るようにやっと答える。

「どういう?」

今度は光が疑問符を放つ。

―― sex friend

そんなこと、言えない。だけど、言いたいことは一つ。

「ただの、友達。好きとか、愛とか、そういう気持ちは全然ない。」

「さみしいから、一緒にいただけ。光の代わり。」

本当のこと。

「夜もか?」

下を向くしかない。


光は深く溜め息をつく。

「わかった。」

そう言って、立ちあがった。

「もうええから。おまえ、ここで帰れ。」

疑惑が確信に変わると、心はうろたえるものだろうか。分かっていたくせに、光はあきらかに平常心を失っていた。

私はやっぱり泣いた。こういう時、泣くしかない。泣かなかったら私じゃない。下を向いてぐすぐす泣いた。だけど今回は光はもう、レジで支払いを済ませ、私を置いたまま店を出てしまった。私もいつまでも泣きながらここにはいられない。うつむいたまま、逃げるように店を出た。涙なんかピタッと止まった。

光はもう、駅の方に早足に消えていく。追いかけようか、どうしようか、一瞬迷う。私は光への自分の気持ちに翳りを感じた。どうしても、離したくない人だろうか。今まで電話しなかったのも、ナオのこと言ったのも、どうでもよかったからじゃないか。光が優しく髪をなでてくれるのが気持ちよくて、その手が恋しくて、求めてしまうだけじゃないのか。

冷たく消えていく光の背中は私の求めるものじゃない。「俺、弱いんや。」と言って、私に寄り添ってくれる光じゃなきゃ、私はいらない。

私は駅に背を向け、市電の方に向いて歩いた。ちょうど私の乗る五番電車が出るところだ。飛び乗って、あいてる席に座りこみ、ぼーっと目をつむった。もう涙は出ない。心の奥深く眠ってる私は、泣き虫なんかじゃないんだ。光が言った「強い女」の私が今、再び目覚めかけていた。




宇品三丁目、自分のアパートの電停を一つ通り越して、私は電車を降りた。まっすぐ南へ歩く。最後の四つ角を右に曲がると不意にうしろから呼び止められる。振り返ると何と、光が息を切らして立っていた。私は息が止まるほど驚いた。

「どうして?」

光はあれから振り向くと私の後ろ姿が見えて、あわてて追いかけたって。電車に乗る私をタクシーで追いかけて、私が降りるはずの宇品二丁目でタクシーを降りたら、私は降りてこなくて、焦って走って電車を追いかけて、やっと追いついたって言う。そして、

「どこへ行こうとしてる?」

って聞く。ナオのアパートが目の前に見えている。

「友達のところへ。」

とっさにセリの名を出すつもりで答えた。なのに光はそれ以上何も聞かない。聞けないでいる。

そのまま私を抱きしめて、

「さっきはごめん。」

抱きしめられて、息が止まりそうで、苦しくて、…。光の気持ちを踏みにじったようで後ろめたくて、そして今にも、そのむこうのアパートからナオが出てきそうで、…私はうろたえていた。

「おまえの男友達に会いたい。」

追い討ちをかけるように、光は私の頭の上でつぶやいた。

セリの名を出すつもりだったのに私はしばらく考えて、

「そこ。」

アパートを指差してしまった。あせって、うろたえて、開き直った。光もナオもおだやかな性格だから、へんなことにはならない、そう思えた。でも、

「向こうは会いたくないと思うよ。」

念のために言っておく。

「だろうな。」

光はふっと笑って少し後戻りしてポプラでビールを買って来た。

光は一気にビールを飲み干す。そして、なんだか、やけくその宴会気分の勢いで、私と光はナオのアパートに乗り込んだ。


ノックをしてカギのかかっていないナオの部屋のドアを開けるとナオは寝転んでボーッとテレビを見ていた。私を見て

「おう。」

って言ったとたん、私のうしろの人影を見て跳ね上がった。

光は

「こんばんは。」

と言って、私と並んで玄関に立った。


「浅野、です。」

光が自己紹介すると、ナオはひきつった顔で軽く会釈して、私になんで?という視線を送る。

「ナオに会いたいって言うから、連れてきた。」

ナオがとまどうのも無理はない。光と差しで話し合うことなんて何もない。彼は私の何でもないし、私も彼の何でもない。出会って二週間余り。体はたくさん重ねたけれど、心は結ばれてはいない。

光とナオを見比べて、私は改めて気づく。光のこと、本当に好きだっていうことを。

「もう、いい?」

光に聞く。早くナオを解放してあげたかった。

「おじゃましてええか?」

なのに、光は帰るどころか返事も聞かずに上がり込んだ。


三人でわけもわからずビールを飲んで、やけくそではしゃいでる。盛り上がるわけでもないけれど、険悪なムードでもない。学校の話なんかして、なんとかつないでる。

私は、二人のペースに合わせてビールを急ピッチで飲みすぎて、もう限界だった。寝不足でふらふらするし、横になっていつのまにかうとうとと眠ってしまった。起きた時には二人の姿はなかった。


なんだか胸騒ぎがした。私は光のこと、まだ全然分かってない。それに、ナオのことなんか、なおさらわからない。外に出て、様子を伺ったけれど、その辺にいる気配はない。二人が帰ってきたのは午前二時を回っていた。

私にと、おでんのお土産を下げて、二人で結構楽しそうにしている。「海岸通」で飲んできたと言う。

「心配したのにぃ。」

文句を言うと、

「それくらい当然、こんないい男振り回してんだからな。」

「なあ。」

なんて二人で顔を見合わせて笑ってる。でも、もう、二人とも飲み過ぎと、眠気で限界で、すぐに高いびきで寝てしまった。

私は眠れないで、寝がえりをうってばかりいると、右から手をふわりと捕まれた。右には光、左にはナオ、私たちは広がった川の字のように寝転んでいた。光はまっすぐ私の目を見て、

「あいつ、いいヤツやな。」

そう言って、私を自分の方に引き寄せて、軽く抱きしめた。

雲間から月が覗いて、光の目がきらきらと、濡れたように煌めく。私は光に抱かれたまま、眠りに入っていった。


翌朝、まず光が飛び起きて、外の緑の公衆電話から会社に電話を入れた。ナオは、どうしてもサボれない授業が一時限目にあると言ってバタバタと出て行った。私はぼーっと寝転んで、掛け布団をかぶったままでいた。寝転んだまま、ナオを見送って、しばらくすると、一度起きていた光もまた、私の布団にもぐりこんできた。布団は一組しかないから、私が占領していたのだ。

主のいない部屋で、光は私を愛撫し始める。私は少し抵抗しながらも光の巧みなテクニックに屈してしまう。ニットのシヤツも、スカートのすそも、くちゃくちゃにたくし上げられ、私は光を受け入れる。スカートのまま下着だけ取って、光の上に座らされ、首筋に光の唇を感じながら、腰を上下に震動させ、息が、声が、かすれて漏れる。

高まってくる。何も考えられなくなる。熱い息が声に重なる。光と共に、迎える絶頂。今、この瞬間の快楽が何物にも代えられないすべてだと、この一瞬は思ってしまう。


高まりが静まって、冷静になると、二人は主のいない部屋にこうしていることの不自然さにようやく気づいた。空気を入れ替え、できるだけ、さっきの行為の気配を払いのけて、私たちはナオの部屋を出た。曇り空はやがて本格的な雨になって、私のアパートに着いた時には二人はびしょ濡れになっていた。

部屋に入り、着替えようとする私に光はまた、からまってくる。

「また?」

この三日間の回数は尋常ではなかった。

 光が雨と汗で汚れて濡れた私の体を執拗に求めてくる。私の体を丁寧に丁寧に唇で洗い清めようとするかのように。そしてその上に、自分の匂いを染みつけようとするように。

光は私の体中を隈なく愛撫し、舐め尽くし、いたるところに吸いついて、キスマークをつける。さっきはすぐに終えたのに、今度は長い長い、いつまでも終わらない前戯。一時間は経っただろうか、二時間近くかもしれない。外の雨が安定した、リズミカルな音を刻んでいる。いつまでも終わらない愛撫に、私は高校時代を思い出す。終わることができなかったから、私を一時間も二時間も、ゆっくりと、優しく触り続けてくれた光。彼の腕の中で私は、どんどん成長していったんだ。

いつのまにか私は泣いていた。しょっぱい涙を光が舐めとってくれる。しょっぱいキスの中、体の感覚も麻痺してくる。光は舌で、私の全身をとらえ、バリアをはりめぐらせ、他の男の侵入を阻むつもりなのか。そんなことをぼんやり考えながら、私は気だるくて、力が抜けていく。


何時間も何時間も、光に抱かれている夢を見ていた。私はいつのまにか意識を失い、眠ってしまったようだ。気がつくと、光が隣に座って、ぼんやりと煙草を吸っている。裸の私には毛布がかけられていた。

「よく寝たな。」

光は穏やかに笑った。

「今何時?」

もう、午後二時。テーブルにはオムレツとトーストとコーヒーが乗っている。いつ作ったのだろうか。完全に冷めていた。

「俺、帰るわ。」

「うん。」

起きようとすると、

「あ、送らんでええで。また帰れんようになったら困るしな。腹減ってるやろ。ちゃんと食えよ。」

いつものくったくのない目をしてそう言って、すぐに立ち上がって、玄関で

「じゃあ。」

と言って出て行った。

私は空腹と倦怠感で立ち上がる力がなかった。弱々しく光に向かって手を振るのが精一杯だった。ガチャンとドアが閉まる音がして、光が大きくため息をついたように感じた。

裸のまま、毛布をはおってトーストをほうばった。冷めたコーヒーをすすりながら、光が二度と私の前に現われないような気がしていた。だけど、それでもいいと思えるほど、私の体は光で埋め尽くされていた。




夕方、ナオが来た。私は服だけ着込んでまた眠り込んでいた。明るいナオの顔に、なんだかこの三日間が嘘のように思えた。なにかどんと来るものが食べたくて、二人で例の古びたお好み焼き屋に行った。

食べてる間中、ナオはしゃべり続けた。

「光さんって、ほんと、大人じゃあ。」

初めはびっくりしたけど、あの人だったら、いい友達になれそうだとか、ファンになったとか、ナオはあっけらかんと恥知らずなことを言う。

「私がいない時、なんか話した?」

そう聞くと、ナオはやっとまじめに話す顔つきになって言う。

「俺の代わりにゆづるを頼む言われた。」

「は?」

勝手に頼まれても困るんですけど。それになんでこんな時だけ名前なんて呼んでんの。しかも呼び捨て。

ナオは続ける。

「ゆづるって、意地っ張りで強気じゃけど、本当は泣き虫でもろいんじゃって。」

「なによそれ。」

勝手に評価されたくない。そういうことは、光が私に直接言ってくれなくちゃ。

「俺も、そう思う言うたら、光さん、わかるか?言うて喜んどった。」

分かっていても、無神経に言ってほしくないことだった。

私がムッとしていても、おかまいなしでナオはしゃべり続ける。

「俺、約束したけえね。光さんがおらん間、おまえのこと見守っちょくいうて。」

勝手にナイト気分で守られてもありがた迷惑。なのにナオは、もう、すっかりその気になっていた。自分の立場がはっきりして、安心したように。

私は肝心なこと、聞いてみる。

「あんたとあたしの関係のこと、聞かれんかった?」

「聞かれた。」

「なんて言うたん?」

「体の関係だけゆうて。」

頭を抱えた。もう!ナオはほんとに無神経。

「ゆづは光さんのもので、俺は好きな女がおって、お互いに別の人を思っちょるけど、そばにおらんから、慰めおうちょるだけじゃって言うといたけん。」

あっけらかんと言われると、かえってすっきりするものかもしれない。ちょるちょるってうるさい山口弁も、くったくのないナオのつるんとした顔にも、人をなごませる魅力がある。私は怒る気も失せてしまった。光も、だから、「いいヤツやな。」なんて言ったのかもしれない。

「でも…。」

ナオが真剣に私を見つめる。めずらしい。黙って見返していると、

「やっぱやめた。」

なんてはぐらかす。そしてそのまま何でもない話になって、終わり。

ナオといると何でも「ま、いっか。」って思えてくる。不思議な軽いヤツ。むきたてのゆで卵のような顔をして…。


その夜はさすがにナオと過ごす気にはなれなくて、私はナオと別れてセリのアパートを訪ねた。セリにこの三日間のことを話すと、セリは冷静に

「ゆづは甘えすぎている。」

と例のしかめっ面をして言い放った。自分が傷つかないように、自分の都合のいいように男をふりまわしているだけだって。

三人でいた時、私はなんだかはしゃいだような気分になっていた。光に何度も求められて、必要とされる喜びを感じていた。ナオに紹介して、ナオの言動をなんとなく楽しんでいた。光が苦しむのも案外楽しんでいたのかもしれない。映画のシーンのように、ヒロインの自分中心に物語が進むのを、観客席でも見ていたんだ。ホリー・ゴライトリーにでもなった気分で。

気づいていた。セリに言われなくても。でも、これが私だから、本当の私だから、仕方ない。

「違うよ。」

セリは真っ直ぐ私を見て、少し穏やかな表情になって言う。

「ゆづはまだ、本当の愛を知らないだけだよ。自分を捨ててもいいと思えるくらいのね。」

当たりだと思う。光のこと好きだけど、自分の方が大事。だから、私は光が何を言っても、何を感じても、傷つかない。好きだから一緒にいたい。一緒にいられないから他の人で間に合わせる。そんな事ができるんだ。

「ナオもかわいそうだね。」

セリは光には会ったことないから、どうしてもナオの方に気が向くらしい。

「なんで?あいつもあたしと一緒じゃん。」

「そうかな。」

セリは含み笑いをしてる。

なんだか疲れてきた。まだ体はだるい。当たり前だ、使い過ぎ。帰って寝よう、そう思って、セリの部屋を出ようとしてふと、

「今日、何曜だっけ?」

そう言って、はたと思い出した。

「あーー」

月曜日だと言うのに、ベビーシッターのバイトをすっぽかし、チェックの厳しいリーディングⅠの講義もサボってしまった。暗い気持ちで部屋に帰ると玄関ドアの下に、雨に濡れた紙切れがごみくずのように落ちている。だいちゃんのママから電話があったと言う大家さんからの伝言メモだった。時間は午前十時になっている。多分、ドアを開けた時に気づかずに落ちたのだろう。

ナオのこと、無神経で軽いなんて、言えない。似た者同士、光と私。私とナオ。みんな、優柔不断でいいかげん。一番私がいいかげん。「今」のことしか考えてない。


火曜日、私は朝一で雇い主の奥さんに電話を入れ、昨日、急病で寝込んでいたと嘘をつき、電話を入れなかったことを詫びた。奥さんは私の体を心配もしてくれたが連絡を入れなかったことはきっちり責めた。隣のおばあちゃんがみてはくれたが、だいちゃんは一日中ふてくされていたと言う。

明日はがんばります、と言うと、明日はお願いするけれど、来週からは水、木のバイトは不要だと言う。奥さんの会社が軌道に乗ってきて、従業員を増やしたので、水曜日は休むことにし、木曜日は終日家庭教師をつけることにしたらしい。勝手な言い分に少し腹が立ったけど、何も言えるはずがない。「わかりました」と素直そうに答えておいた。

午後から必須科目の第二外国語の講義を受けに行くと、来週から月曜一時限目に時間変更になると言う。嘘でしょうと、周りに同意を求めると、もう、みんな知っていた。 五月から掲示板に書いてあったと言う。見てなかったのは私だけ。Oh(オー)! là(ラ) là(ラ)! 結局、月曜のバイトさえできなくなったということだ。

 翌日の水曜日、バイト先に行き、奥さんに事情を説明するとあっさりと、

「では、残念だけどやめてもらうしかないですね。」

なんて言う。いずれにせよ、月曜一日だけのバイトは非合理的ではあった。

だいちゃんに向かって、

「このお姉ちゃんは、今日でお別れだからね。」

なんてびしっと言う。だいちゃんは早く話を終えて遊ぼうよと、私をせっついていたところだったのだけど、私の顔をのぞきこんで、私がうなずくといきなり号泣。帰るまで泣き続けられて、弱った。

「ごめんね。だいちゃん。」

私はそればかりを繰り返して、振り返り振り返り門を出た。母親に抱かれて身を乗り出すようにして、彼はいつまでも泣きながら私を見ていた。


翌日、私は再びだいちゃんの家に出向いた。バイト代を清算してもらうためである。送金しましょうかと言われたけれど、だいちゃんのことも気になって、出向くことにしたのだ。

奥さんはもう仕事に出かけていて、おばあちゃんが玄関先で封筒を手渡してくれた。奥をのぞくとだいちゃんのけらけら笑う楽しそうな声が聞こえたきた。呼びましょうか、とおばあちゃんに言われ、また泣かれると…と躊躇していると、だいちゃんが自分から走ってこっちにやって来た。

栗色に光る長い髪をなびかせた色白の女の人の手を引いて。

「おねえちゃあん。」

嬉しそうに笑って、私を見て、

「ばいばい。」

だって。そして、玄関を抜けて、雨上がりの外へ飛び出して行った。一緒にいた彼女は今日から来た、家庭教師らしい。大卒で、私より四つ年上だけど、同じくらいに見える。

だいちゃんは、私と初めて会った時も、同じように、すぐになついてべったりつきまとってきた。私を特別気に入ったのかと思っていたけれど、そうじゃない。誰にでも、そうなんだ。だから、お母さんも、全然気にしないで私をあっさり解雇したんだ。

なんだか気が抜けた。別れる間際には大泣きして、翌日はけろっとして、別の人と戯れてる。まるで誰かさんと同じだね。笑いが体の芯から込み上げてきた。そしてその後、悲しくなった。

いつまで経っても進歩しない自分、相手の気持ちなんか何も考えてない、自分勝手な自分。いつになったら大人になれるのかな。本当の恋愛を私はできるのかな。遠い遠い未来に、おばあちゃんになった頃にやっと一人前になれるのか、死ぬまで無理なのか、ボーッと考えながら、私は帰りの電車の中でうつらうつら眠っていた。

 光の胸にしがみついている私。そして私はだいちゃんになり、お母さんになった光に抱かれていつまでも泣いている。目の前で、ゆで卵をくわえたナオがにやにや笑って立っていた。

宇品二丁目、アナウンスで目が覚めた。電車を降りると雨がまたぱらぱらと落ちてきた。


雨の中、傘も差さずに私は歩いた。濡れる感触を楽しみたかった。ほんの五分の間だったけど、雨はすぐに本降りになり、私の体に容赦なく打ちつけて、私はびしょびしょになった。体が震えた。全身をタオルでぬぐって、服を着替えて私はそのまま布団を敷いて横になった。

夕方、ナオが来た。全身がだるかった。熱を計ると三十七度六分あった。

「かぜだね。雨に濡れたまま寝たからね。」

力なくそう言うと、ナオは

「天罰よ。」

なんて言う。

そして、あわてて

「うそうそ、冗談。」

なんてへらへら笑ってる。

「もういいから、帰って。」

私はナオのへらへら顔を見てると余計に熱が出そうで冷たく突き放す。

「ちゃんと寝て、明日には治せよ。」

そう言って、ナオは素直に帰って行った。


本当は、さみしい。帰ってほしくない。光なら、言わなくても分かってくれる。私の目をのぞきこんで、光なら。光と別れてから、私はナオと交わっていなかった。そんな気分にならなかった。当たり前だ、あれだけ光と回数を重ねたんだ。

 光がつけたキスマークは翌日にはほとんど薄く消えていたが、一つだけ、右の胸の血がにじんだような真っ赤な跡だけは三日経った今も鮮やかに残っていた。へらへらしたナオを見てるとその跡をわざと見せて、光の気持ちを見せつけてやりたい気がしてくる。


その夜、ぐっすり眠ると、私は少し元気を取り戻し、早朝ナオのアパートに上がり込んだ。ナオのふとんにもぐりこんでいきなり抱き着いた。ナオはねぼけたままでも、すぐに私に反応して来た。薄いカーテンを通した朝日を浴びて、私の胸の赤が際立つ。ナオはすぐにそれを認め、そこをわざと避けて、左の胸に同じように赤い跡をつけた。そして、それをながめて、満足そうにへらへら笑った。

そんなものか。ナオの気持ちも私の気持ちも。光の気持ちだって、へらへら笑えば消えていく。血の赤だって、安っぽい笑いで溶けていく。薄っぺらい快感と共に。

「熱、大丈夫?」

終わった後になってナオは思い出したように言う。私はナオのほっぺたを軽くかじった。

 私の体は熱かった。一気に熱が上がり、それから一週間、私は寝込んでしまった。二つの胸の烙印のせいで、恥ずかしくて病院にも行けなかった。

―天罰だ

ナオのせりふが頭の中でこだました。

 もしこれが天罰なら、生ぬるいよ、神様。光の心を踏みにじって、それでも光は許してくれて、私を光でいっぱいにしてくれた。だけど、その余韻がすっかりなくなってしまったら、やっぱり隙間を安易な快楽で埋めようとする私。心はどこまで軽んじられるのか。体の快感はそんなに重いのか。ナオなんかどうでもいい。光の方が好き。そう思うのに、私はやっぱり目の前のナオにすがってしまう。





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