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言葉はすべてをだめにする

広島駅から真っ直ぐ寮に帰った私はいきなり現実を突きつけられた。その日は一泊二日の新入生歓迎オリエンテーション・セミナー、通称オリゼミの日で、みんないないと思っていたら、二年生の寮長が残ってくれて、私を待っていたのだ。

「どこ行ってたん?」

最初は優しく問われた。私は昨日、外泊届を出していなかった。オリゼミは、原則的に新入生は全員参加になっている。

「友達の家に…」

消え入るように答える。

「そう、それならよかった。みんな、心配したんよ。」

「これからオリゼミ、参加する?」

行きたくなかった。とにかく休みたい。黙ってると、彼女の口調は少しきつくなった。

「あのね、棟家さんのこと心配して、みんな、今日の出発一時間遅らせたんよ。実家にも電話してみたけれどわからないと言うし。」

オリゼミは宮島で行われている。

私はうろたえた。大学生なんて、誰にも干渉されない、もっと自由なものだと思っていた。ノンポリ学生の三無主義だの、見延典子だの、生ぬるい大学生を取り上げた本を勝手に解釈して、私は自由と無責任を履き違えていた。無断で休んでも、大学生はもう大人。気にする人は誰もいないと思っていたのだ。でも、もう遅い。ああ、結局母親にも余計な情報が入ってしまった。

「頭痛がするので。」

そう言って、私は逃げるように自分の部屋に入った。


 同室の先輩もいない。誰もいない部屋。久しぶりに一人になって、私は瞼の裏に、また、あの、いやな血のような赤い影を感じた。

 どんよりと胸にのしかかる虚しい気持ち。それを追い払うように、私は目をつむって眠ろうとした。だけどむしろ、頭は冴えて、胸はどんどん苦しくなるばかりだった。夜、家に電話して、「友達の家にいた」と言うと、母は笑って「そんなことだろうと思ってた。でも、連絡はちゃんとしないとだめよ。」と言った。私を信用してくれる母。やっと少し救われた気がした。


翌日、一泊二日のオリゼミを終えて、みんなが帰って来た。同じ学部の友達に、いろいろ聞かれたけれど、私はあいまいに答えただけ。本当のことを言えるような友達はいなかった。別に責められることはなかった。だけど、なんとなく、みんながよそよそしく感じられた。居場所がない、そんな気がした。私のこの虚しさも、それでも光を求める衝動も、誰もわかってくれないと、思い込んでいた。




 光は彼女と別れた。約束をすっぽかした光を、彼女の方が振ったことになってるらしい。光らしいや。

一方私の方では、 東京へ行った元彼から、初めての手紙がきた。

「東京は大都会で、ぼくはまだまだ馴染めない。

田舎生活が懐かしい。君にとっても会いたいです。」

そんな手紙に私は冷たい返事を書いた。

「大学生活は快適です。好きな人ができました。」

同級生の元彼は、その手紙に、投げやりな返事をよこした。

「僕は心を空気にしたい。

 そしたら何にも傷つかない、誰にも裏切られない。

 言葉はすべてをだめにする。ただ空間だけがそこにある。」

オリジナルでこんな詩を書くような子じゃないから、何かの詩の引用のようだけど、遠まわしな抗議文だということはわかった。私は心がちくちく痛んだけれど、もう、彼には何の感情も湧かなかった。

言葉はすべてをだめにする

 確かにそうなのかもしれない。だけど君は、言葉どころか空気も読めなかったじゃないか。



金欠の光とは、手紙でやりとりしていた。借りた帰りの新幹線代は、手紙に同封して返した。光の手紙は短くてぎこちないけれど、私の胸に響いた。


「ゆづるに会いたい。

ゴールデンウィークが待ちきれん。

今『お前だけが』を聴きながら、リザーブ飲んでる。

お前の寝顔を思い出しながら、一人でにやけてる。

もうお前を離したくない。

俺の気持ちは正やんのこの歌と同じやから。


『お前だけが』

たとえこの世界で一番きれいな

人が僕を好きだと言っても

~略~

お前だけがいてくれたらそれでいい

~略~」


 光の確かな愛を感じて、私はふわふわ浮かれていた。その一方で、会えないストレスに身を焦がした。学校へは行きたくない、だけど寮にもいたくない。勉強なんてそっちのけで、私はバイトを始めた。時給七百円、ベビーシッターのバイトだ。

一歳と三歳の男の子をあやしながら、私は光のことを考えて過ごしていた。




待ちに待ったゴールデンウィーク。私は実家で過ごした。高校の同窓会もあったし、文芸部の友達も恋しかった。ホームシックとは認めたくなかったけれど、家に帰るとやっぱりホッとした。光は初任給を使って私に会いに来てくれた。友達の家に泊めてもらって、二日間会った。太陽のもと、お金のかからない、健康的なデートをした。

光は日中留守にしている友達の家で二人っきりになりたがったけれど、私はそれは拒んだ。

「こんどの時にね。」

そう言って光をなだめ、バスの待合室で誰もいなくなった瞬間、軽いキスだけ許した。私は近々神戸に行くつもりでいたのだ。


 楽しいばかりのゴールデンウィークが終わり、私はまた、一日、一日と、暗い翳りに包まれていた。ずっと気づかないふりをしていたけれど、影は最初から体の奥にあった。得体の知れない影ではなく、今回の影ははっきりしていた。


 お腹の中に、一つの生命が宿っているかもしれない。


 あんなに注意していたのに、あの時、朝日の差し込む最後の接触で、二人は行為に夢中になった。次の生理の二週間前が妊娠しやすい。だから多分今日は大丈夫。当てにならない荻野式の計算で、私は光を直接受け入れた。入り口で終わった前の時とは違う。確実に受け入れた、確信のある疑惑だった。今なら薬局で妊娠検査薬が買えるけど、発売はまだまだ先のこと。

バイト先の無邪気な幼児の笑顔に接して、私は涙ぐみそうになる。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

黒目がちな瞳に私の瞳が映る。三歳のだいちゃんを抱っこして、私は彼に頬ずりする。

「くすぐったい。」

と笑う彼に私の心は不安定になる。

一人で病院に行こう。そう思いながら、私はその日をずるずると引き延ばしていた。


大学には必要最低限しか行かなかった。留年は避けたかったので、どうしても、出なければならない講義だけは受けた。友達とはあいかわらず、一定の距離があった。

「最近、変やで。」

光からの電話に私は胸が熱くなる。光は敏感。私の変化を、不安をすぐに読み取ってくれる。

「そんなこと、ないよ。」

「いや、わかるんや。おまえ、感情の起伏激しいねんから。」

「どうした?」

まだ黙ってる私に光は切り込む。

「ほかに好きな人できたんか?」

「ちがうよお。」

私は苦笑する。光、不安なんだ。そして二番目の不安を探る。

「まさか、おまえ。」

「なに?」

「生理、きたか?」

少しの沈黙の後、

「まだ。」

私は何でもないように明るく答えた。

「何日?」

光と会った頃が、本当はその予定のはずだった。だから、あの時、もう排卵はとっくに過ぎていると思ったんだ。保健の教科書のその部分は、昔何度も読み返した。

「一ヶ月、遅れてる。」

光はちょっと考えて、

「今度の休み、俺がそっち行くわ。一緒に病院行こう。」

と言う。

本当は私の方が会いに行く予定だった。

「いいよ、まだ、わからんし。」

「わかれへんから見てもらうんやろ。」

光の声は真剣だった。

「もしできてたら…」

聞いてみた。

「ええよ。…産んでも。」

まただ。あの時と同じ。光は私を全身で受け入れようとしてくれる。だけど、それは、ベストな選択とはいえない。

私はわざと軽く答える。

「じゃあ、いいじゃん。このままで。」

できてたら、できてた時のこと、産んでもいいなら自然にまかせていいじゃん。そんなへ理屈で私は光を説得した。

いいわけはない。本当は。自分が一番分かっていた。だけど、病院には行きたくない。何でもないことを祈っているだけ。神様なんか信じてないくせに、こんな時だけ神頼み。

予定通り、今度の金曜日、午後から私が神戸に行って、日曜日まで光と一緒に過ごす。費用は割り勘。交通費は自分で出す。私は一方的に光にそう言って、電話を切った。


新神戸駅に着くと、光が優しい笑顔で待っていた。銀色の柵を通って彼の腕に滑り込む。待っているものはまだ来ない。だけど、そのことは忘れたい。忘れて三日間過ごしたい。レストランで腹ごしらえして、異人館通りを歩き、光は夜景のきれいな高台へ連れて行ってくれた。地元の人しか知らない穴場だそうだ。

前の時はそんな余裕なかったから、神戸に来た気がしなかったけど、こうして、夜景を見ていると、ぐっと気分が盛り上がってくる。夜風が心地いい。見上げると、星もきれい。十時まで待って、私たちは「お泊り」コースで部屋に入った。もう、光は躊躇しない。私は意地悪く聞いてみる。

「あたし、墜ちた?」

光は笑う。

「俺が相手やし、しゃあないわな。」

開き直ってる。

部屋に入るとすぐに光が私に抱き着いてくる。子供みたいにせっかちに。

「だいちゃんみたい。」

そう言うと

「俺、三歳児か。」

って笑いながら、もう、私の服をどんどん脱がせていく。

あっという間に全裸になって、ずっとがまんしてきたこと、思いっきり。一度目が終わって、光は優しく私を抱き寄せて言う。

「俺、もう、おまえを離したくない。」

「うん。」

そして、

「結婚…したい。」

「…。」

私はとっさに言葉が出ない。光は前にも言った。同じような事。でも、私はまだ、考えてない、そんなこと。もしも妊娠してたら、すぐに堕ろす。大学はちゃんと卒業して、就職もする。結婚なんて言葉、私の頭の中の未来にはまだ存在しなかった。堂々巡りのデジャブみたいだ。

困惑している私の顔を見て、光は慌ててつけ足す。

「今すぐじゃなくていいんや。将来。俺の気持ちはもう、決まってる。せやから、子供産むなら…。」

「待って。」

私は光の言葉を遮る。

「わからんよお、そんなこと。前にも言うたじゃん。」

「前とは、もう違うやろ。」

光が不安げに私を覗きこむ。

「おまえも、産んでもええって言うたやん。」

「それは…。」

しばらく二人で黙って見つめ合って、私は観念して答える。

「いいよ。」

「産んでも?」

首を振る。

「産むつもりはない。今はそんなの考えられん。でも…」

私は光のプロポーズに答える気になっていた。本気じゃなくて、遠い遠い現実味のない約束として。

「結婚、してあげる。」

にこっと笑うと光はほっとしたように笑って私をぎゅっと抱きしめた。それからまた、二回目の行為に入っていった。


あっという間に三日が過ぎて、また、別れの時がやってきた。駅のホーム。溢れる涙をどうしようもなかった。

胸で泣き出す私を彼は壁際に引き寄せて、誰からも私の顔が見えないようにしてくれる。光はこんな時も私のこと、気遣ってくれる。

光に優しく髪をなでられながら、今度いつ会えるか問い掛ける。

「来月。」

六月は二週間先だった。私は、涙が出なくなるまでひとしきり泣いて、自分にふんぎりをつけて、

「じゃあ、またね。」

そう言って、博多行きのひかりに乗った。

姫路、岡山と過ぎた頃、私の心はもう落ち着いていた。そして、夢物語から、現実に戻っていく。涙が涸れるように、心もどんどん冷めていく。

結婚?多分光とはしない。だって私、彼の優しいセックスしか知らない。これだけじゃあ、結婚なんてできないよ。

妊娠?してない、…多分。つわりもないし、何の変化もない。一ヶ月くらい遅れること、たまにある。今回は四十日遅れてるけど…。

光から「結婚」という言葉を聞いて、眠り姫は眠りから覚めた。お伽噺なんて信じない私には、現実こそがいばらの垣根。垣根を取り払わなきゃ。棘は痛いかもしれないけれど、道は開かれる。病院行こう。はっきりさせよう。自分の体も、自分の気持ちも。

ぺたーっと広がった冷たいもう一人の私が急に現れて、今までの私を隙間なく覆っていくような予感があった。




病院に行こうと決めたけれど、月曜日はバイトと学校に行っただけ。火曜日は、午前の体育、午後のフランス語を終えた学校帰りに、ぶらぶらと街の病院を外側から物色して素通り。水曜日と木曜日はアメリカ文学総論の発表準備に費やし、金曜日一時限目、いざ発表。要は好きな作家を選んで自分なりに評論するというものなのだが、私が選んだのはカポーティ。このために『ティファニーで朝食を』を原文訳文で三回ずつ読んだ。私だってやるときはやる。嫌なことはしたくないけど、好きなことには手を抜かない。

二時限目は心理学。発表後の高揚した気分で今日はなんとなく出てみた。本日のテーマはフロイトの基礎心理学。無意識のイドが成長して自我になり、やがて理性的な超自我が未熟なイドを抑え込む。ゆがんだ抑圧は、エディプス・コンプレックスを引き起こす。ふうん、おもしろいじゃん。だけど、机上論だけじゃ何も始まらない。

 病院なんて、はずかしいし、億劫だ。どんな診察をされるのかもわからない。でも、はっきりさせなきゃ。前の生理日から八十日が過ぎていた。もし、妊娠してたらもうすぐ三ヶ月になることになる。自分の体は自分で守らなきゃ。未来の自分のためにも。心理学の講義が終わる頃、私はやっと、覚悟を決めて、寮や学校からはかなり離れた、郊外の品のよさそうな個人病院に行った。受けてたとう。未熟なイドが出過ぎた私の、超自我からの審判。


問診と検尿。重苦しい待ち時間が流れる。しばらくして呼ばれて、私は医師の言葉に胸をなで下ろす。

「反応は陰性です。多分、じき月経をみるでしょう。」

そう言われ、月経を促す薬をもらって帰った。内診も触診も何もない。あっけなくて気が抜けた。ほっとすると同時に、一気に心が浮き立った。


市電の帰り道、ぶらっと八丁堀で降りて、一人でウインドウショッピングを楽しんだ。なんとなく、カラフルな水着と、ショートパンツを買って、寮に帰るともう七時だった。寮の玄関にニュートラくずれのような似たようなファッションの女の子二人がたむろしているのに鉢合す。寮の子かなと思って会釈しようとすると、私の高校時代の友達だった。

「どうしたん?」

彼女たちは広島の専門学校に行っている。だけど、私とはそんなに親しくはない。共通の友達がいるから、その子に私がここにいることを聞いたらしい。

「よかった、帰ってきた。」

「え、ずっと待ってたん?」

「ううん、ほんの十分くらい。ちょっと遊ばんかと思うて。」

にやにやして、「この近くのアパートでコンパやっとるけんおいでよ。」と言う。

なんとなく、浮かれ気分のまま、ふらふらと私は彼女達について行った。十分くらい歩くと目的のアパートに着いた。

六畳の間の窓際に小さなコンロとシンクが申し訳程度についているだけの殺風景な部屋。男の子三人が、すでに酒盛りを始めていた。

「連れてきたよ。」

と言われ、私は頭数合わせに呼ばれたことを知る。ちょうど三対三になった。まあいいか、寮も近いし、そこそこつきあって帰ればいいや、そんなふうに気軽な気持ちで私はその場の雰囲気に合わせていった。

宴会は思いのほか楽しかった。私はお酒は苦手だと思っていたのに、甘いカクテルならぐいぐい飲めた。初めて「ほろ酔い」という気分を味わって、心も体もふわふわしていた。光のことなんかすっかり忘れて、初対面の男の子たちと悪ふざけして盛り上がった。光とはぜんぜん違う、可もなく不可もなく、軽い乗りの子たちだった。


そのうち、一組の男女がアパートからいつの間にか消えた。その後、もう一人の女の子が泣きながら帰った。そんな姿をぼんやり見ながら私は飲み続けていた。カクテルはやめて、薄いウォッカの水割り。味なんかわからなかったけど、薄いから何杯も飲めた。飲めば飲むほどのどが渇いて、私はぐいぐい飲んでいた。

気持ちよくて、わけが分からなくて、気がついたら私は布団に入って眠っていた。男の子の腕に抱かれて。

朝が来ていた。

「帰る。」

そう言って立とうとしたら、強烈な頭痛に襲われた。生まれて初めての二日酔い。それからいきなりどんよりと胃が突き上げられるような気がして、吐き気。トイレに駆け込んでゲーゲーやってたら、

「大丈夫か?」

って、部屋の主。一晩寝床を共にした人。

「おまえ、飲み過ぎ。」

飲ませたのはこいつだ。

私は帰るどころじゃなかった。布団とトイレの往復を這うようにして繰り返した。彼はずっと、つきっきりで見てくれた。


酔っ払っていたけれど、本当は、薄ぼんやり覚えてる。私、この子とキスをした。それから、いろいろ触られた。だけど、それ以上はなかった。「抱きしめて、一緒に寝て」って、自分からお願いした。もう一人の男の子とも、私、キスしちゃったんだ。それで残ってた女の子、帰ってしまった。男の子、彼女追いかけて出て行って、私たち二人っきりになって、布団ひいて寝たんだ。

思い出したくなかった。覚えてないふりをして、そのまま忘れてしまいたい。

昼過ぎになって、私はようやく落ち着いて、

「ごめんね。」

と言ってアパートを出た。ここには二度と来るつもりはなかった。この子にも、二度と会うつもりはなかった。


寮に帰ると光から電話があったという伝言メモがドアにはりつけてあった。おととい、病院に行くことを告げてあったから、心配してかけてくれたんだ。

光に悪くて、後ろめたくて、自分から電話ができなかった。体もまだけだるくて、まるで病人のよう。朝から何も食べていないのに、ちっともお腹が空かない。ベッドにもぐりこんで、ひたすら眠った。

夜、光から再度電話があった。私の不機嫌な声に光の声は控えめになる。

「病院、行ったか?」

「うん。」

「…どうやった?」

「どう思う?」

「…」

「できてた。」

意地悪な気分になる。

「そうか。」

光はすぐに信じた。

「あたし、産むから。」

「…。」

光を試してる。本当にそうなった時、どうするか。

「ええんか?」

「いいよ。」

「大学はやめる。光とは結婚しない。一人で育てる。もう、あたしのことは放っといて。」

そんなめちゃくちゃを言う。

「待てよ。」

「いいんよ、もう。」

「…。」

光の声は沈んでいた。私の言葉をどこまで信じていいのか、わからなくなってる。

「ごめん。」

光が謝る。

「なんで?」

「俺がそばにいてやれへんから、おまえに、心細い思いさせて。」

私は泣きたくなる。寮のピンク電話ではさすがに甘えて泣けない。今、電話のそばには誰もいないけど、誰が通るかわからない。

「ごめん。」

また光が謝る。謝らなくてはいけないのは、私の方なのに。

「ごめん。」

私も言った。

「できてなかったよ。ちょっといじわる言うただけ。」

観念して本当のこと伝える。

「ほんまに?」

何度も確認して、光はやっと、安心したように柔らかく息を吐いて、

「そうか。」

と一言言った。

私はもう、それ以上話すと、昨日のことを言ってしまいそうで、疲れているからと言って、そっけなく電話を切った。お腹が空いてきたけれど、もう遅いので、空腹のままベッドに入った。泣きたかったけど、一人だと泣けなかった。




ベビーシッターのアルバイトは通常月曜日の午前中と、水、木の午後から、土日は雇い主の必要と、私の都合に応じてあったりなかったりする。シッターは私のほかにも二人いて、ローテーションになっている。

奥さんはインテリアの会社を切り盛りしているスーパーウーマンで、旦那さんは大手企業のサラリーマン。隣の家にはおばあちゃんもいて、一歳の翔ちゃんの食事やおしめ替えはおばあちゃんがしてくれた。だから私はただ、二人と遊んでいればいい。


晴れた日は家のすぐ正面にある大きな公園に行くことになっていた。公園に着くとすぐに、だいちゃんはもう、汗びっしょりかいて走り回っている。元気な男の子。

翔ちゃんをベビーカーから降ろして、専用のスモックをすっぽりとかぶせて、砂遊びをさせながら、私は砂の山を作っていた。高く土を積み上げるそばから翔ちゃんが小さな手でトンネルを掘って、山を崩していく。崩しては喜び、私の顔を覗き込む。

もう、この遊びは何度もしているので、私が少々悲しそうな顔をしても翔ちゃんは動じない。早くまた山を作れと、手をとって催促する。

作っては壊され、顔を覗きこまれ、作っては壊され…。そんなことを繰り返していると、突然山は小さな足でぼこぼこに踏み固められた。だいちゃんだ。

「もう帰る。」

だいちゃんは、大好きなよう子ちゃんが今日は他の子と遊んで相手にしてくれないのでさっきからいじけていた。まだ、公園に来てから三十分も経っていない。私が首を振ると勝手に家に向かって走り出す。

私はあわてた。家は公園のすぐ向かいだったけど、大きな道を挟んでいる。砂場に一緒にいた子のお母さんに翔ちゃんを頼み、だいちゃんを追いかけて走った。公園の門のところで片袖を掴まえると、小さくて軽いだいちゃんはふわっと一瞬宙に浮くようにすぐに私の胸に引き寄せられた。

「だめでしょ。勝手に公園出たら。」

厳しい目をして言うと、だいちゃんは目をうるうるさせた。でも、泣かない。さすが男の子だ。

「僕、さみしいよ。」

そうぽつんと言って上を向いた。

私もさみしい。なんだかだいちゃんにつられて私もふっと切なくなった。手をつないで砂場まで引き返して、ぽかんとした翔ちゃんをベビーカーに乗せて、帰り支度を始めると、含み笑いをしてよう子ちゃんがやってきた。

だいちゃんは嬉々としてよう子ちゃんの後を追ってままごと遊びに入れてもらった。私は結局翔ちゃんと、また山崩しを再開した。



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