スカートの裾揺れて
ファーストキスの後は、会うたびに、何度も何度もキスをした。雨の日は人のいないバス停で降りて、待合室でキスをした。神社の陰でも抱き合った。さびれた廃校の倉庫も人目を避ける絶好の場所だった。あいかわらず、最初に抱き着いて、最初に顔を近づけるのは私。息が苦しくなるような激しいキスも、彼に習ってできるようになった。衝動は止められなかった。
私は彼の前で相変わらずよく泣いた。なんとなく、苦しい気持ちになって、キスをしながら涙をこぼした。そんな私に、彼は
「なんかかわいそうになってくる」
と言った。
そう言う自分だって、十七歳の少年でしかない。だけど、十五歳の私には二年の月日は大きかった。
そんなふうに会う度に、恋人同士のようにしていた私たちだが、私はまだ肝心な事を言っていなかった。彼への気持ちである。
「わからない」
問われると、ずっとそう答えていた。
「好きだけど、前から好きだった甲斐君の方が好き」
光は
「おまえなあ。」
って苦笑い。私はまだそんなことを言っていて、それを光は仕方なくだけど受け入れる。
本当のところ、私の頭は光のことでいっぱいだった。でも、のめり込むのが怖かった。
彼のどこが好き?優しいところ。私の話をずっと聞いてくれるところ。抱きしめてくれるところ。求めるままにキス、してくれるところ。だけど、それでいいのかな?自分から好きになった人じゃない。好きだと言われて好きになった人。
中学の時、ちょっとつきあった人も、このパターンだった。だから、やっぱり、結局甲斐君への気持ちを貫くために別れたんだ。もし甲斐君が、声をかけてくれたら…そう考えただけで私は揺れた。
私の中のたくさんの「好き」はウォーリーの絵本のよう。いつもいつも探しているのは甲斐君だった。遠くからただ見ていただけの、私の理想の人。中学の卒業式で会ったのが最後。地元を離れ、遠い学校へ行ってしまった。
このまま光とつきあって、どうなっていくのか。抱き合って、激しくキスして、このままで終わるはずはない。そして、いきつくところまで、彼といくつもりか。体の関係が心地よくて、離れられなくなるのか。
そんなの本当の恋じゃない。すくなくとも、十五歳の私のすることじゃない。そう思い始めると、心は重い。私が評判のよくない他校の上級生とつきあっているのを、母が心配してうるさく聞いてくるのもうっとおしかった。
初めて海岸で会った日、母は目ざとく言い当てた。
「あんた今日何か変よ。電話のあの浅野って子と会ってたんじゃないの?」
抱きしめられた興奮で、、家に帰ってもいつまでも顔がほてっていた。そんな私の変化を感じ取って、母は光とのつきあいを警戒していた。電話の取次ぎで光の人馴れした大人びた気配を感じていたのかもしれない。
「せっかくいい高校に入ったのに、わざわざあんな学校の子とつきあわなくても…」
やくざがらみの事件は、もう卒業した生徒の問題で、二年の終わりに転校してきた光には全然関係なかったけれど、悪いイメージはどうしてもぬぐえない。
「お母さんが心配するような人じゃないよ。神戸では成績よかったって言ってたし。バスケ部のキャプテンもしてたらしいよ。」
成績よかったというのは中学時代の話、それも自己申告。神戸の高校ではバスケットに燃えてたらしいけれど、こっちでは暇そうな帰宅組。
光の弁護はするけれど、母の言葉は私の心にちくちく刺さる。光のことでとやかく言われるたびに母との関係がぎくしゃくした。報告できるようなことが何一つなく、デートのたびに嘘をついたり、目を盗んで出かけることが多くなって、私は後ろめたさも感じていた。
今まで、さしつかえないことなら何でも母に話してきた。多少のずるや、責任転嫁はあったけれど、基本的には話せるようなことしかしてこなかった。親との仲は良好だった。だけど、それは私がいい子を演じているから。抱きしめられたの、キスしたの、なんて生々しいことは死んでも言えない。そんな粘着タイプの恋愛は、さらさらな円満家庭には不向き。私と母が小さな土煙を上げると、父と母の関係がつむじ風に発展してしまう。私は両親の愛娘として、無菌の培養トレーの中にいるのが一番なのだ。夏休みに入って、家で過ごす時間が長くなり、私の光への気持ちはどんどん急降下していった。中学生に毛の生えたくらいの私には家庭の方が比重が大きい。私を心配する父と母。反発はするけれど、思ってくれる気持ちはわかるから、親の期待するラインを踏み外せない。
私は光に対してだんだん無口になった。それでも私は抱き着いた。抱き着いて、キスして、何も言わないでボーッとして、ただ海を見詰めた。
「最近おとなしいな」
そう言って、光は心配するでもなく私に腕を回して頭の上で煙草をふかす。学校ではストローでがまんしてると言っていたけれど、ポケットにはいつも煙草が入っている。制服の白いワイシャツの下はいつも決まって紺のTシャツ。Tシャツ姿で煙を吐く。
私が黙っていたら光も黙ってる。海は岸壁に阻まれて、ただ行ったり来たりを繰り返す。煙だけが自由に空に広がっていく。心は何に縛られているのか。私はどうしてこんなところで、こんなことしているのか。わけのわからない不安に、心がだんだん重くなる。この人は私をせき止めて、空へ運んではくれない。もっと自由に、お互いに成長できるような人とつきあいたい。家族にも堂々と紹介できるような。
彼はあまりにも大人の空気感を持っていたと思う。もう、キスもして、大人のつきあいをしてそうな、そんな気配を感じさせる人だと、母なら勘づくと思えた。母が好む相手には思えなかった。私はそれがいやだった。母を失望させたくなかった。母にとっていい子でいたい気持ちが強かった。本当は、ただ、自分の中の菌に侵されることを恐れ、無菌トレーに逃げ込もうとしただけかもしれない。
光への思いが自分の中で、明らかに変わってしまったのを感じた。
「もう、いい」そう思った。キスしてみたかっただけ、いい経験になったよ。もう、おしまいにしよう。このゲームはキスで終了。次のステージには進まない。私は来週のデートで光と別れる決心をした。そう決めると、土煙が収まって、視界がすっきり晴れてきた。
七月下旬。例年より遅い梅雨明け宣言から数日後の暑い日だった。
お決まりの海岸は、いつもなら午後から西側の長い工場跡の建物で影になり、海風で心地よいはずなのに、その日は風がぜんぜん吹かなかった。つぶつぶの汗が鼻に浮かぶ。
「もう、会わない。」
突然の言葉に、光は最初、またいつもの軽口だと思って笑っていた。
「何言うてんの?」
「だって、一番好きじゃないんだもん。」
「…。」
私はずっとそう言っていたけれど、そうじゃない事もにおわせていた。好き好きと何度も繰り返して言ったし、会うといつも彼にしがみついて、彼だけを見つめていた。彼は私の言葉の裏側に、私の態度に、自分への熱い想いを確信していたはずだった。
笑いかけたような顔のまま黙りこむ彼に、「じゃあ、ばいばい」と冷たく言って、一度も振り向かないで私は自転車をとばした。汗ばんだブラウスと切りたての短い髪に風が通ってはたはた揺れる。抱き着かなかったのはこの日が初めてだった。
十五の頃の私は「プラトニック」な関係こそ本物だと信じてた。抱き合って、肌の温もりを知ってからつきあうなんて偽物。体の関係を汚らわしいと思うからこそ、好きという気持ちには、説得力ある理由が必要だったのだ。
夏休みに光に「別れ」を告げてからの私はとても平穏だった。女友達と遊ぶ時間も増えたし、光に会うためにさぼりがちだった文芸部の活動にも二学期からはきちんと参加した。文化祭に向けて、詩を書いたり、少女趣味の物語を書いたりして毎日を過ごしていた。
とは言え、光からはときどき電話が入った。
「別れ」の日の夜、光は「もう一度話し合いたい、納得できない」と電話をしてきた。私はきっぱりと「もう電話もしてこないで」と言った。なのに彼は一週間空けて、
「よお、元気か?」
と気軽に私の心に入ってきた。気まぐれな私のつっぱった気持ちが、少し落ち着いてきたところを見計らうようなタイミングで。「ただの友達、それならええやろ」って。
私は新学期早々気管支炎で体調を崩し、バス通学にかえて、もう、光と自転車ですれ違う事もなかった。古川商店で例の軍団とたむろしているのをちらっと見かけることはあったけれど、軽い電話友達、そんな関係が三ヶ月くらい続いた。
十月、体育の日が重なって連休になった快晴の日曜日、私は甲斐君に会った。彼は全寮制の県外の高校に行っていた。中学では学年トップの成績で、誰もが知っているような有名高校にみごと合格したのだ。そんな彼から突然、会いたいって電話があった。私が誰にも内緒で卒業間近に出した、手紙の返事もくれなかったくせに。
だけど、私は有頂天になった。本命の甲斐君とのデート。レモンイエローのニットのアンサンブルに、まっすぐで細い私の足が一番綺麗に見える青いタータンチェックのミニスカート。待ち合わせの十分前、JRの駅に着いた。しかし、彼は待ち合わせの時間に三十分も遅れ、さらに私の期待を裏切り、高校の友達を連れて現われた。そして私のことを「同級生一の美人だから、地元の観光案内役に抜てきした。」なんて紹介した。
冗談ばっかり、と笑ったけれど、甲斐君は本当の同級生一美人とちょっと噂があったし、三年の時にはかわいいと評判の転校生とも親しくしていたから私の気持ちは小さな棘にチクンとした。軽口をたたきながら、友達に気を遣い、私を友達との間にはさんで、コンパニオンのように扱う彼に私は不信感を覚えた。半日一緒にいて、近くで話してみると、なんだか話もかみあわなくて、三人のデートはちっとも楽しくなかった。日本の未来だの、世界の行方だの、大きな話をして、冗談のスケールも大きい。そのくせ、内容は水素のように軽い。
さすがに彼は、その日の夜、
「今日はごめんな。棟家が来てくれて助かったよ。」
なんて電話で言ってくれたけど、その言い方は、他を当たったけどだめだったような言い方にも聞こえた。
「ううん。またこっちに帰る時はいつでも言うてね。楽しみにしてるから。」
なんて私はかわいいことを言ってみた。そしたら甲斐君がダメ押しのように
「そうそう、高木がおまえがかわいくて、惚れそうって言ってた。」
とってつけたようにそんなこと言われても喜べない。
そういうあなたはどうなの?あなたは私をどう思っているの?
一緒にいても楽しくない人。もう、甲斐君から、気持ちは遠のいているのを認めないわけにはいかなかった。案の定、彼の方からの連絡も、またぷっつりと途絶えた。「惚れそう」なんて言ったという高木という子からも別段何もなかった。
その後、中学の同級生に会う機会があった時、私が甲斐君に手紙を出した事が、男子の間では、結構噂になっていたことを聞いた。
甲斐君は私にとって、理想の人です。尊敬しています。
高校生になってもその持ち前の意志の強さでがんばってね。
応援しています。 棟家ゆづる
好きだとは書かなかった微妙な一筆箋だったけれど、これはまぎれもなくラブレター。甲斐君にだけ伝えたかったメッセージ。頭のいい彼が、気づかないわけがない。それを、彼は、自分の家で、みんなに得意げに披露したらしい。
一気に甲斐君への想いがしぼんでいった。私は甲斐君に失望した。嫌悪さえ感じた。甲斐君の、意志の強いところが好きだった。人の目を気にせず、信念を貫いて希望を遂げる、そんな人だった。甲斐君を好きになる納得できる理由が私にはあった。だけど、人の気持ちを踏みにじる奴は、馬に蹴られて死んじまえだ。
私はいつものように電話をくれた光に泣きついた。
「そいつ最低やん。」
と慰めてくれた。
光の優しい声が耳に心地よかった。そして、私が光に会わない大きな理由の一つが消えた。わかっていた。だけど、今の電話だけの関係を保ちたかったから、何も言わなかった。別れてから最初のうちは一週間に一回程度の電話だったけれど、少しずつ間隔が狭まって、最近はだいたい二、三日おきくらいに電話をくれるようになっていた。私はだんだん光からの電話を心待ちにするようになった。電話がかかると学校での出来事や、家でのこと、心の中のもやもやや楽しかったことなんかを一気に吐き出した。甲斐君との一件があってから、また前のように、一時間も話すようになった。恋人でもなんでもないから恋の話はあえて避けて。
十一月。文化部にとっての大イベント、文化祭を迎えた。一学期はサボリ魔だった私も二ヶ月間準備にいそしみ、「反逆」というパラドックスな詩と短いお話を冊子に書いた。
反逆
周りに何人いたって
一人であることに変わりはない
どんなに優しい言葉でも
口にしてしまえば嘘っぱち
ごまかすのはやめてくれ
浮世離れの神作り
涙なんかよしてくれ
どうせ心の絵空事
神なんか引き摺り下ろせ
甘っちょろい白昼夢
泥にまみれて消え失せろ
笑え笑え気が狂うまで
常識なんか木端微塵
追いかけろ、強く嚙め
自分の尻尾に血が滲む
お話の方は『赤毛のアン』のサイドストーリー。アンとギルバートの心の葛藤を抜粋してつないだ。乙女チックなイラストをつけて。
あの人には絶対に負けたくない。たとえ親友のダイアナでも、あの人のことだけは口に出してほしくない。あなたとはお友だちになりません。ギルバート、なりたくもないんです。言った後、不思議な後悔。すわりこんで大声で泣けばいい気分になれるだろうか。私は自分でも気がつかないうちにゆるしていたことがわかったが、それはあまりにも遅すぎた。なんて強情なバカな子なんでしょう。
あの時、君の髪をからかったりして、本当に悪かったと思っているよ、アン。だけど、君を悲しませる気なんかなかった。「にんじん」と言ったあの髪も、今は綺麗な褐色だと思っているのに。僕は僕の気持ちをただ、朗読にのせ、遠くから見つめるだけ。
「いま一人あり。そは妹にあらず。」君の落とした薔薇は胸のポケットの中に。
だけどアン、僕たちは一番のなかよしになれるんじゃないかな。僕たちはそう生まれついているんだよ。
ああ、ロマンチック。本当にそうか。現実には汗ばんだ臭気だってある。
言葉とイラストにまみれた放課後のまじめな部活動の隙間に得た情報は、とても刺激的でエロチック。文芸部は女の園。みんな耳年増。そして情報源は週刊誌。
光と最初に二人っきりで会った日、スカートの中は、薄い化繊のショーツ一枚。
あの日、家に帰ってから、紺のボックススカートのうしろのちょうど真ん中に、濡れたようなしみを見つけた。自転車のサドルの先に直接あたる部分だ。サドルが濡れていたのかな。何だろう。洗面所で下着をとってみて驚いた。濡れているのは下着の方だった。
一瞬おしっこを漏らしたのかと思ったけれど、まさかそんなはずはない。何の兆候もなかった。思い当たる事など何もなかった。
「へんなの。」
無色透明の液体の意味するところを私はまだ知らなかった。
それがまた現れたのは、次に光に会った日だった。家に帰るとまた同じように下着が濡れていた。三回目にやっと、それと光とのデートの関連性を確信した。
光と会ったらこうなる。私の体はどこかおかしいんじゃないか、何かの病気なんじゃないか、何もわからないまま、その現象を私は胸に秘めて誰にも言えないでいた。
その理由が初めてわかったのが、文化祭の準備が忙しくなる前、十月の終わり頃。部室で回された週刊誌の中の記事を見た時だった。過激な性の特集。「告白!大仰天!私の初体験」。私はそれを見て、自分の反応が特別ではないということを知った。生殖活動に必要な潤滑油。体の反応、心の反応、そのどちらからでも出る液体。
体はもうわかっていた。だけど、「感じる」ということの意味が頭ではつかめずにいた。その時は、その先にある行為の記事を見て、大人になってもこんな恥ずかしいことはしたくない、私にはできない、そんな想いがあった。だってこんなアンに劣らないやせぎすの私の体に魅力なんてないから。部屋の姿見でおそるおそる映す、小さな胸、へこんだ乳頭、いびつなアンダーヘアの生え方。何もかもがコンプレックス、誰にも見せることなんてできない。
うちの学校の文化祭から二日後の文化の日、光の学校の文化祭があった。少し肌寒い小雨の夕方、友達から、彼が学校で、女の子と仲よさそうに歩いていた事を聞かされた。
その夜、久しぶりに私は自分から光に電話した。かけずにはいられなかった。あの海岸での別れ以来、私からかけたのは初めてだった。
「今日、文化祭だったんよね。」
それは、前の電話のときに聞いていた。一応、光に誘われたけど、行かなかったんだ。
「おお、おまえ、やっぱくればよかったのに。おまえの学校の子けっこうきとったんやで、そうそう、あのリサって子も来とったで」
リサはまさに目撃した友達だ。光のテンションなんか妙に高い。
「なんか、いいことあった?」
「え?わかる?へへへ」
含み笑い。いつも私がやってる感じ、今日は完全に逆転だ。
「俺なあ、告白された。今日は実は俺の誕生日なんや。どっかの誰かさんは忘れてもうてんけど、プレゼントくれる子もおんねんで。」
そういえば、前に聞いたような気がする。でも、彼氏でもないのに、誕生日なんて覚えてないよ。うれしそうな光に、私は「よかったね」と言うしかなかった。
「つきあうん?」
「ううーん」
「その子の事好きなん?」
「わからん、今までそんな目で見たことない、けど、いい子なんや。」
「じゃ、つきあえば?」
私はちょっと突き放すように言った。彼はあきらかに私に探りを入れていた。
私は彼を他の女にとられたくなかった。つきあってもいい、だけど、私の話は聞いて、私が悲しい時は慰めて、私が楽しい時は一緒に笑ってほしかった。私こそ、馬に蹴られて死んじまえな奴。
彼が好きだった。理由なんていらない、好きなものは好き、それでいい。それだけが、動かしがたい事実。今思えばすぐわかるのに、当時はそんな簡単なことがわからなかった。方程式はするりと解けるのに、強情が、心の底を濁らせる。だから私は
「でも、これからも、あたしの大親友でいてね。」
と言った。
光は笑いながら
「おお。」
と答えてくれた。男と女の友情は成立するのかどうか、ちょうど気になる年頃でもあった。
だけど告白してきた女の子とつきあうことにした光は、それからぷっつり私に連絡してこなくなった。当然ではあるけれど、こんなところだけはきちんとしている。私は不満だった。
光に会いたい。急激にそう思った。彼と話していると楽しかった。それは最初からずっと変わらない事実。
彼に、無性に会いたかった。会う口実をつくるために、私はマフラーを編んだ。彼女にもらったという手編みのセーターに合うマフラー。小学校の時、家庭科クラブで習ったから、編み物は意外と得意なんだ。真っ直ぐ編むだけなら三日もあればできる。私だって、光のために何かをすることできるんだ、そういう思いを示したかった。ジェラシー?そんなつもりはまったくなかった。
文化祭から一週間後、再び私から電話をした。中学生にしてはあどけない声の妹が出て、すぐに光に代わった。
「よお、どうした?」
相変わらず優しく受け入れてくれる光の声。失いそうになって慌てて掴まえようとする。
私はストレートに言えなくて、言いよどんでいた。ありきたりな話の後、「彼女とはうまくいってる?」と探りを入れる。
「まあ…」
彼は濁した。
ちょっと深呼吸をして、私は自分の用件に入った。
「渡したいものがあるんだけど。」
彼は私の心を感じ取るのがうまい。とっさに気づいてさりげなく確信をつく。
「へー、めずらし。なんか不気味。」
笑いながらそう言って、ちょっと間を空けて、
「外、さむいしなあ…」
言いながら考えている。私はしおらしく、彼の言葉を待つ。いつも主導権は私なのに、こういう時、彼は案外大胆。
「俺んち、くるか?」
不意に言われて少し躊躇した。でも、さらりと答えた。
「うん、行く。」
なんだか、あっけなく、再会の段取りは整った。胸にヘリウムガスが吹き込まれ、ふわふわ雲の上を漂うようなうれしさがこみ上げた。
文化祭から十日後の日曜日、指定された「山越」というバス停は私の町からは二つ隣の初めて降り立つ見知らぬ土地。彼がざっくりしたアラン編みのセーターを着て待っていた。
「これ、ええやろ。」
セーターをひっぱってニヤッと笑う。彼女にもらったセーターだ。
「うん、似合うよ。」
私も笑った。もらったセーターはスリムな光には少し大きめで、ふかふかの冬毛をまとったゴールデンレトリバーのようだった。本当に似合っていたし、別段何にも感じなかった。ただ、今こうして光と会えたことがうれしかった。
「髪、伸びたなあ。」
「そう?一回切ったよ。」
七月に光の好きなレイヤーのショートカットにしていた髪は、九月に一度切りそろえたけれど、もう肩にかかるほどになっていた。私は薄手のサーモンピンクのセーターと、裾にレースを施したグレーのひざ下丈のギャザースカート。
四ヶ月ぶり。お互い目を合わせるのが照れくさくて前を向いて歩いた。彼の家はバス停から五分程度、少し古びたモルタルの一戸建ての平屋。夫婦共働きで、家には誰もいなかった。彼の部屋は、玄関を入ってすぐ左の引き戸の六畳。和調漂う部屋に、不似合いな大きなメタルのオーディオセットと木製のベッドが置かれ、煙草とコーヒーの香りがした。
お気に入りのブラジルコーヒーを豆からひいて、本格的にガラス風船型のサイフォンでコーヒーをたててくれる。
しばらく部屋を見回して、部屋の真ん中の四角いテーブルに座った。そしてすぐに「はい」と言って、例のプレゼントを渡した。
「なに?」
光は豆を挽き終わり、慣れた手つきでアルコールランプを調節しながら目をきょろっとさせた。包みを開けて、
「うわ、これええやん。まさか、手編み?」
「そう、お世話になってるお礼。」
「へえぇ、なんか意外。」
言いながら、すぐに首にまいて鏡を見ている。
「このセーターにぴったりや。おんなじ茶色やし。」
セーターとマフラーは揃えたようにぴったり同系色。手編みのプレゼントは気持ちが重いと敬遠されるというけれど、私にそんな他意はない。あったのはただの会う口実。使ってくれようとくれまいとかまわない。
でも彼はくったくなく喜んでみせてくれた。私たちは彼が入れてくれたコーヒーを飲みながらしばらく他愛ない話をした。
楽しかった。光と会って話しているだけで、こんなに楽しいなんて、なんだか不思議だった。夏休みの別れは後悔していない。私は後ろを振り向かない。一度別れたから、また、新鮮な気持ちで会う事ができたんだとも思った。
こうして、本当の親友のように、ただ、話をして笑って、そんな関係が続いたらいいな、男女の友情って成立するかも。そう思った。思ったはずなのに。私はまた、性懲りもなく、友情の風船に、針で小さな穴を開ける。
「彼女とは、どんな関係?」
その話はしないようにしようと思っていたのに聞いてしまった。
「どんなって、ふつうの関係やん。」
「ふつうって?」
「え?適当に会って話して、電話して、そんな感じ。まだ、つきあい始めたばっかやしな。」
「あたしとは、ふつうだった?」
「げっ。」
わざと不快そうな、しらじらしい顔をする。
「なによ、それ。」
怒るふりだけしようと思った。怒ってなんかいない。なのに、そっぽむいてるうちに、封じ込めた気持ちが、ぬるぬるとヘドロのように、開いた穴から流れようとする。顔を見られまいと下を向いた。下を向いたら、光はいつも、心配そうにのぞきこんでくれた。頭をもちあげて、優しくキスしてくれた。
でも、もう、それは期待しちゃだめなのかな。
私たちは直角に机をはさんで斜めに向かい合って座っていた。光は右手を伸ばして私の頭にそっとのせた。
「どした?」
その手はただ、引くでもなく、突き放すでもなく、まっすぐ置かれただけだったけど、私には「おいで」と聞こえる。私は体をずらして、彼のとなりに寄った。そして、肩に頭をぺたっとつけて目をつむった。初めて二人で会ったときのように。
彼は動かなかった。何も言わなかったし、なにもしなかった。小さな穴が膨らんで、涙があとからあとから流れてきた。
泣く理由は自分でもわからない。だけど、泣きたかった。生まれてからこれまでの悲しいことを全部思い出して泣いているかのように。彼のセーターがじっとり重くなる。鼻水だけはセーターにつかないようにすすりながら。
「ちょい待っとって。」
彼は急に立ちあがって、何かごそごそ探し始めた。そして、私の頭にふわりとかけた。石鹸の香りのする白いバスタオル…。そして私の隣に座り直して、顔をそのバスタオルでとんとんとぬぐってくれた。
「あいかわらず泣き虫。」
子供をあやすお母さんのような手つきに思わず笑いそうになりながら、私は鼻をすすることしかできない。
「これならいくら泣いてもだいじょうぶやろ。」
たとえ私の体中からありったけの涙を絞り出しても、バスタオルはさらさらと乾いたまま、いつまでもやさしくぬぐい続けてくれそうだった。
涙の理由を彼は聞かない。いつもそう。何も言わないで好きなだけ泣かせてくれる。理由を聞かれても答えられない。私だってなんで泣いてしまうのかなんてわからない。ランナーズハイのように、泣くことに快感を覚えているのかもしれない。優しく慰められることで加速的に増えていくエンドルフィン。私は彼の胸に顔をうずめてしがみついて、また泣いた。今度は彼は、抱き留めてくれた。よしよしと、いつものように、頭を優しくなでてくれた。
どんなに泣くことが好きでも、どんなに悲しいことがあっても、人間は一生泣き続けてはいられない。しばらくして涙が止まる。私も光ももうわかっていた。黙ったまま、自然にキスをした。何度も何度も、いっぱいキスをした。自分の涙でしょっぱかった。
彼に抱かれたまま、キスをしながらだんだん床に倒れていく。私は床に背中をつけて寝転んだ。私の上におおいかぶさるように彼の体があった。
一度、両手の平を畳に突けて、腕を真っ直ぐ伸ばして、光は私の顔を正面から見た。いつもの笑った顔じゃなくて、真剣な顔だった。
それからいきなり抱き着いて、キスをしながら彼の手は、薄手のセーターの上から私の胸をきゅっとつかんだ。
抵抗しなかった。家に行くと決まってから、もしかしたらこうなるんじゃないかと思ってもいた。話すだけで終わりたかった。だけど、こうなることを望んでいる私もいた。さっきのヘドロは涙に溶けて全部バスタオルの中。
光は一瞬胸をつかんだだけで、はじけるようにすぐに体を離した。
「いいよ、別に」
私は言った。平気だった。服の上から触られるくらいなら。だけど光は首を振った。
「おまえを大切にしたい。」
そう言って、私の体を起こして、軽くキスしてくれた。真顔のままで。光の真顔はいつも泣いているように見えた。
窓をすかして、煙草の煙を外に向かって吐き出しながら、光は外を見つめていた。そして、つぶやくように言った。
「帰らんでええんか?」
外は暗くなりかけていた。
うちまではバスで三十分かかる。私は母に友達の家に行くと言って出てきた。門限は六時。暗くなったら帰らなければならない。コンビニもない、何軒かあるスーパーも六時にはどこも閉まってしまい、開いているのは歓楽街というには申し訳程度の、狭い一角の飲食店だけ。田舎の夜は暗い。なんだかんだ言ってもやっぱり私は親の前ではいい子でいたい。
五時二十分のバスに乗るために私は光の家を出た。彼はバス停まで送ってくれた。私たちはほとんどしゃべらなかった。私はただ、スカートの裾のレースがひらひら揺れて、足に当たることだけを感じて歩いていた。
三日後、光の方から電話があった。
「彼女とは、別れた。」
いきなり言われた。
「なんで?」
白々しく尋ねた。
「なんでって…そんなんわかってるやろ。」
なかば溜め息のようだった。
「あたしのため?」
「まさか。」
「…」
「彼女のため。こんな優柔不断の男じゃ、かわいそうやろ。」
「ふうん。」
優柔不断…。それは私の方。私の気持ちもまだ固まっていなかった。私は光のことが好きだけど、彼に彼女がいてもよかった。別にわかれてほしいとは思わなかった。ただ、彼女より、私を大切に思ってくれればいい。矛盾していた。だから、光が「彼女のために」と言ったのは的を射ていた。
「俺、おまえがどう思おうと、かまへん。おまえのことが心配なんや。こんな気持ちで他の子とはつきあえんやろ。」
光の言葉はかなり効いた。ただ、好きだといわれるよりも強烈に私の心に響いた。だけど私はなおも白々しくうそぶいた。
「別に心配してくれんでもいいけど…」
「そういうとこが、危ない。ほっとけんのや。」
「あたしはそんな弱い女じゃないもん。」
「強がってるだけや。俺にはわかる。」
「ばぁか。」
「わかったわかった。ま、そういうことやから。」
しばらくの沈黙の後、私はまたいたずら心をおこした。こうして余計なことを言うから私は変な溝にはまってしまう。だけど、思ったことを言わないで平坦な道をまっすぐ歩くだけなんて、もっとつまらないから。
「彼女、どうだった?」
「どうって?」
「どんな反応した?」
「別に、どうでもええやろ。」
「別れようって言うたん?」
「ああ、」
「で?いいよって言われたん?」
「うう」
「いやって言うた?」
「まあ」
「で?」
どんどん問い詰めていったら光は意外とあっさり白状した。
彼女は泣いた。なんでって理由を問い詰められて、他に気になる子がいると言ったって。でも、泣き止まなかったから、ずっとそばにいてあげたって。それから、抱きしめて、顔あげさせて、あいつはその子に…キス、したって。
聞いた瞬間、私は逆上した。聞くんじゃなかった、いや、聞いてよかった、両方思った。
「なんで?」
「なんでって、せやから言いたなかったんや。」
「じゃあ、言わなくてもいいじゃん。」
光はよけいなことを言って、私まで泣かせた。
「悪かった。言うつもりなかったし。おまえが聞くから…」
女をその気にさせるヤツ。そしてそういうサインを見逃さないヤツ。私にはわかってた。きっと彼女が誘ったんだ。キスしてほしいって目をしてたんだ。だから、光はキスしてあげて、その後、彼女は素直に別れてくれたんだ。別れても、いやな思いは残さない、光はそんな男なんだ。だから私は一度別れたくせに、こんなにも、ヒカリニヒカレテシマウンダ。
電話口でひとしきり泣いて、泣きながら光の悪口並べ立てて、私は光を困らせた。
「もう、あたしにはキスさせない。」
私がそう言うと、光はちょっと黙って、
「ああ。」
と同意した。
そんな事を言いながら、私は光と会う約束はした。今度の土曜日、学校帰りに港中央で自宅とは反対側のバスに乗り換えて、彼の家に行くのだ。また部活をさぼって、親に嘘ついて。もうキスはさせない。そう言ったけど、本当は、激しくキスしてほしかった。他の女にキスしたのは嫌だった。だけど、そんな小さな怒りよりも、キスしたいという衝動は大きかった。
土曜日、いつものように、彼の家には誰もいない。私は彼の部屋に入るなり、いきなり彼に抱き着いて、彼の胸に顔をうずめた。彼女のことなんて、一晩で忘れた。彼は私の頭をなでながら、くすくす笑う。
「なんで笑うん?」
怒ったふりして尋ねる。
「いや、別に…」
目尻にしわを作ったまま、私の怒ったふりなんてもう慣れっこな余裕の態度。
「もう、いい。」
すねたように体を離してそっぽをむく。
彼が私をうしろから抱きしめた。体が宙に浮いたように私はふわふわした気分になる。首筋に彼の息遣いを感じる。彼の腕は私を腕の上から体ごと抱え込んで、私は力を失った。
そのまま二人はベッドに倒れこんだ。彼が私の上にいた。もう、何も、見えなかった。
彼は私が望んでいたように、激しいキスをした。そして、私の胸に手をのせた。何度ものせては離した。片手で触れて、片手で躊躇するように、彼の手はあきらかに迷っていた。
「いいよ。触って。」
私が言ったとたん、彼の右手が強い意思を示した。
その手が制服のブラウスをたくし上げ、素肌の肋骨をまさぐる。Aカップの胸がブラジャーごと彼の掌にすっぽりと収まって、いつもよりさらに縮こまる。そして、手は下に下がっていく。手と並行して、唇も、首から下へ徐々に下がってくる。
…どうしよう。このままじゃ、最後までいっちゃいそう。そこまでは、そんなことまでは、考えていなかった。まだ、考えられなかった。「いいよ」と言ったのは、こういうことじゃない。
光の手が、スカートの裾から中へと入ってきた。私は自分の手を重ねる。つかんで制止しようとする。でも、彼はもう、ブレーキがきかない。
「だめ、」
「やめて…」
私は外に聞こえないように、小声で懇願した。体を捩って足をばたつかせ、本気で蹴って、彼の手を私の体からふりほどいた。
「いやだ、それ以上は。まだ。」
手がほどけて、魔法もとけた。光はふーっと溜め息をついて、ごろんと仰向けにねころんだ。
私は乱れた服を整えて、ベッドの端に座った。涙ぐみそうになったけど、横目で伺ったら、光も泣き出しそうな顔をしていて私の涙はひっこんだ。
「あせりすぎ」
わざとおどけて私は笑ってみた。光は起き上がって、
「そやな。」
と溜め息まじりにつぶやいた。
多分、今度会ったら、もう一歩、次の段階に進むだろう。あと、何回会ったら最後までいくのだろう。あの雑誌の記事のようなこと、する日が本当に来るのだろうか。
そんなの出来ないと思いながら一方で、私は光とひとつになる日がそう遠くないのをぼんやりと確信していた。




