高校時代~まぶしい青空
高校時代
つんと潮の香りのする、瀬戸内海の穏やかな海に包まれた町で、私は高校までを過ごした。光と最初に会ったのは、そばかすの気になる十五歳、高校一年の春だった。
髪を茶色に染めたり、化粧をしたりなんてとんでもない。ちょっと遅く帰るだけでも親から「不良」と叱られた。現代からは想像もできない「常識」に縛られていた時代。携帯電話もインターネットもまだまだ出ていない、録音はカセットテープ、LPレコードに針を落として歌を聴く、土曜の夜はオールナイトニッポン。超アナログな時代だけど、不自由なんて感じてない。だってそれが当たり前、当時の最先端だったのだから。
右肩上がりと言われた高度経済成長期が終わり、安定成長期に続いていく、それが私の青春ど真ん中。
光は神戸元町から田舎に越してきた、ちょっとだけ都会の匂いのする、私の周りではいないタイプの人だった。私だって、実は東京生まれ。東京育ちの母の影響で言葉は共通語に近いんだけど、残念ながら生まれてすぐこっちに越してきたから中身は生粋の田舎人。
いつもは自転車で三十分、友達と二人、海岸線を激チャリで通学の私だったが、雨の日だけはバス通学。中学時代は上下紺の合羽にヘルメットで通ったけれど、さすがに高校になるとそういうのはパス。とは言っても、バスが通っていないエリアなら未だに雨合羽は免れない。私の家は幸い、バス停から歩いて十分。繁華街の「港中央」で乗り換えはあるけれど、バスを乗り継いで、高校に行ける。今日は雨の金曜日。海岸通りをくねくねとバスが走る。蒸れた匂い、もうすぐ梅雨入りだ。
古川のバス停。ステップを降りたときから違和感はあった。バス停横の古川商店で紙パックジュースのストローをくわえながら、待ち伏せしてたようにこっちを見てなんだかにやにやしている男子高校生の一団がいた。グレーのブレザースーツだから、すぐそこの地元の高校生だ。もう過去三回くらい、目撃している。六人位いたかな。みんなでストローをくわえて、わいわいやっている姿がなんだか奇妙で目立つから、印象に残っていた。そのストロー軍団が、いきなりみんなでジャンケンをし始めたので、一緒にバスを降りたリサと見るともなく見ていたら、ジャンケンに負けたらしい一人が、私に近づいてきて立ち止まった。くわえていたストローを右手で口から外して
「タクがあんたと話したいって言うんやけど、いい?」
それが光の第一声だった。
私は隣町の進学校だけど、彼らは私の家の近くの高校。受験前にやくざがらみの事件があったりして、すこぶる評判が悪い学校だ。それでイメージ一新、学ランとセーラー服から男女共にデザイナーズブランドのグレーのブレザーに制服を替えたともっぱらの噂。
光が指差したタクという子は遠めには目がくりくりしたジャニーズ系のような顔立ちで、私と目が合うと中途半端に笑った。私は光に電話番号を聞かれたけれど、そんな経験は初めてで、リサと一緒に走って逃げた。通りの曲がり角を過ぎて振り返ってみたけれど、追いかけてくる気配はなかった。なんだかおもしろいことが始まりそうな予感がした。
その夜、タクから電話があった。あの後、私の名前を誰かから聞いたらしい。私の名前は「棟家ゆづる」。棟家鉄工所の娘。電話帳で調べれば一発でわかる。
彼らは高校三年生。入学したての私から見れば、りっぱな大人だ。タクがだらりとした口調で、「会って話したいだけ」というので、多少の警戒はあったけれど、「会うだけなら」と、翌日、部活帰りの夕方、バス停の脇で二人で会った。いろいろ気になる人はいたけれど私は事実上フリーダム。タクはビジュアル的にはまずまずだったから、少しだけ期待したんだ。でも…。結果はいまいち。近くで見ると、瞳がどんよりして、ことごとく話がかみあわなくてうんざりした。話が泳いでさっぱり続かないんだ。それなのに、タクは「俺とつきあってよ」の一点張り。別れ際、
「じゃあ、俺とはつきあえんてこと?」
「うん。ごめん。話が合わんと思うよ。」
「わかった。なんかおまえって見かけと違って男みたいなヤツじゃのう。」
色気がないってことか、さばさばしてるってことか、タクの貧困なボキャブラリーからは察することができなかったけれど、そう言われて私は悪い気はしなかった。
でも、問題は、そのあと。その日の夜だ。八時ごろ、光から、家に電話が入った。
「こんばんは、俺、浅野。」
「は?」
「タクの友達。あんたに最初に話し掛けた人」
実はぜんぜん顔を覚えていなかった。ただ、なんとなく、笑った時目尻が大きく下がって、太いしわが寄って、なんか妙に安心できる、笑える顔だったような印象だけはあった。髪はふわふわでぼさぼさだったような…。
てっきりタクのことについて、話があるのかと思ったら、
「俺とつきあってくれん?」
だって。
私はその瞬間、がーっと頭に血が上るのを感じた。だらーっとした夕方のタクにもうんざりで、浅野と名乗るその男、光の下がった目尻をぼんやり思い出して、安心感もあったのかな、他校の年上の男だというのに、勢いに任せて
「ばかじゃないの?そんなんだれが信用するんよ。ばかにせんといて。あたしをからかうのもいいかげんにして。あたしはそんな軽い女じゃないもん。」
かなりきつい口調でまくしたてた。そしたら光は怒るどころか笑い出して、
「わかった、わかった、じゃあ、電話だけでいい、また、電話していいか?」
「ばか」
さらに追い打ちをかけるようにそう言って、私はがちゃんと電話を切った。
威勢良くつっぱねたけど、実は胸がドキドキした。
「電話していいか」
包み込むように柔らかい声のトーンが耳に残った。
翌日、何もなかったように、光から電話がかかった。
「よう。俺。浅野。」
「何の用?」
って私、つれない返事。でも、そんなのおかまいなしに、彼はこっちの言葉と神戸弁の交じったような、独特な口調でへらへらと話しかけてくる。私の言葉をものともしない、ふてぶてしいヤツ。言葉の裏側を巧みに読み取ってくる。
「俺な、いつも自転車ですれ違うの楽しみにしてたんやで。」
「うそ、」
そんなのまったく気づかなかった。いつも激チャリでひどい顔してるのに。
「雨の日は古川商店でバス、三本待ったりして。」
「ばっかじゃないん?」
バスは一時間に一本だ。ストローをくわえながら、何してんだか。
「一番最初におまえみつけたの、タクじゃなくて俺なんやで。」
「別にどっちでもいい。」
私は誰かに飼ってほしい捨て猫じゃないし。
「最初目がくりくりでリスみたいだって思うてたんや。そしたらタクが木之内みどりに似てる言い出して。」
「そんなん言われたことないもん。」
この頃人気があったタレントだ。ショートカットの髪型とスレンダーなところだけ、ちょっと共通していたかもしれない。だけど、私がそんなにかわいいわけないじゃん。丸顔で目は大きいけれど鼻は低いし。えらもちょっと気になるし、鼻のそばかすは一番の悩み。そう言えばキャンディーズのミキちゃんに似ていると言われたことはあったかも。中学の時だ。でもそれも一回だけ。そんなことを思い出して言ってみると
「俺ミキよりランの方が好み」
なんてどうでもいい情報をくれる。おまけにピンクレディーならケイちゃんの方、なんてことまで。そして
「おまえの顔はかなり好み。でも、タクが勝手に熱くなって、告白する言うから黙って譲ったんや。」
なんて言う。
「関係ないし」
そう言いながら、私もまあ、悪い気はしない。
「振られたようやったから、チャンス到来と思うて即行で電話した。」
そこが問題。わかってないなあ。
「私、だれともつきあう気なんてないもん。そういう軽い人大嫌い。だからもう電話しないで。」
こんな人どうでもいいからものすごく楽。彼の話を作り話だと決めつけて、高飛車にめった打ちする私を「オモロイ子やなあ。」と彼は笑った。
私が何か言っても、「え?」とか「よくわからん」なんて言うタクとは違って光は私のあしらい方がうまかった。言葉はきつかったけれど、おもしろがってる私がいた。光はそれをきっちり見抜いた。そして次の日も、その次の日も電話してきた。
『風と共に去りぬ』を読んでレッド・バトラーの深い愛に感動したと私が言うと、光は『惜しみなく愛は奪う』ものなのだと言う。有島武郎の本は難しすぎて読んではないけれど、従姉の姉ちゃんの話に引き込まれたんだそうだ。愛はいろんなものを奪うけれど、奪われた方は何も失っていない、なんて実は本人もよくわかっていなさそうな、従姉の姉ちゃん経由の有島論。で、自分は読むのは星新一くらい。長編読むと頭痛がすると言う。基本的に本は嫌いで好きなのはマンガ。『ブラック・ジャック』絶賛。妹がいるから少女漫画にも精通してる。『エースをねらえ!』は二人して讃えあう。私は宗方コーチも藤堂さんもどっちも捨てがたい。光はお蝶夫人の大ファンだと。あと清原なつのの『花岡ちゃん』シリーズのシュールさ。そして最近注目の亜月裕! でも一番好きなのはフォーク。N.S.Pに風。私も好きだったけど、私とは違う角度で切り込んでくる、光との会話は新鮮でおもしろかった。
お互い中途半端な知識でしゃべる、他愛ない話だけれど、当時の私にとっては画期的なことだった。中学の時は、告白は、もっと思いつめた感のあるものだった。それが、気軽になんの緊張感もなく、女友達のように、いやそれ以上に自然。だから私も気を遣う事なく、自由に好きなことが言えた。そんな私を彼はうまく受け止めてくれた。楽しかった。単純に。気がついたらそんなどうでもいいやりとりで一時間も経っていたりした。
結局私は実質的に光からの電話を受け入れた形で、一週間毎日電話で話して、土曜日の午後、海岸で会う約束をした。お互いの通学路の中間点だった。まだ、警戒心はあった。でも、それ以上に興味もあった。電話ではいつも楽しくて、お互いのことを少しずつしゃべっているうちに、光のことをすっかり知ったつもりになっていた。お互いの異性経験まで話したりしていたのだから。
土曜日。やっぱり。最初の印象通り、笑うとくしゃくしゃになる、優しそうな顔、無造作なふわふわパーマヘア。声と同じ、すっぽりと包み込んでくれるようなその雰囲気に無条件に引き込まれた。
しばらく話をして、海岸の土手に横並びで座って、なんとなく話が尽きて、黙ってぼーっと海を見ていたら、魚の生臭いにおいにつつまれた潮風が、鼻腔から胸の奥につんと入ってきた。すぐそこに、彼の肩があった。気持ちよさそうに海を見ている光の肩に、私は吸い込まれるようにもたれかかった。
光は何も言わないで、自然な感じで私を横から抱きしめた。胸がキューンとして息苦しい。意外とがっちりした肩につけたほっぺから、熱が体全体に広がる。
こんなふうに誰かに抱きしめられたかった。ずっと前から。中学のころ、つきあってた彼はいたけど、つきあうなんて、言葉だけ。私に指一本触れなかった。手をつないだり、ほっぺにちゅって軽いキスも未経験。本当は今、心に秘めた好きな男の子はいたけれど、ずっと片思いで、遠くから見ていただけ。そして、そんな気持ちとは別の部分で、誰かに抱きしめられてみたかった。だけど、本当にいざ肩を抱かれると、心臓が張り裂けそうなくらいすごい刺激。たしか中三の林間学校のテントの中。女同士で盛り上がって、理想の抱きしめられ方を実践なんかした。女同士でだって、なんか胸がドキドキした。
それが実際に男の人に抱きしめられると、頭が真っ白になって、私の胸はパンクしそうで、なにもかもがパンクしそうで、目から涙があふれてきた。光は今度はちょっととまどったけど、すぐにうつむいた私の顔を両手で上に向けて、顔を近づけてきた。私はとっさに横を向いてかわした。
「いや。このままがいい。」
抱きしめられたまま言った。そのとき、光は泣いてる私の頭を「よしよしいい子」って笑ってなでてくれたんだ。
十七歳の割に、女慣れした男。高二まで過ごした神戸で、年上の女の人とつきあっていたから、こんな十五のガキンチョなんてお手の物だったのだろう。だけど経験は、キスとその先ちょとだけ、なんて濁してた。その先ってどんなことするのか興味津々で聞いたら「おまえって変なヤツ」と笑われた。A、B、Cなんて言っていた時代、Bが何なのかわからなくて。光は笑いながら、「俺が教えてやるよ」なんてきわどい冗談。そんなことまで電話では話していたのに、いざとなるとただ泣いてしまった私。
光と会う日の朝、私は念入りにシャンプーした。私は身長百五十六センチ。彼は百七十四センチ。二十センチ近く背の高い彼に抱きしめられた時、いい香りがするように。夏服になった私の制服は、白いオーバーブラウスに紺の二つひだのボックススカート。ボックスの縫い止まりは校則より五センチ下。少しだけタイトになって、シルエットがシャープに見える。丈はひざ下十センチ。これも校則よりも少しだけ長め。今は短すぎるといけないと言われるけれど、当時は長すぎると不良だと叱られた。私のやっていたのはほんの少しの校則違反。まじめな進学校でのささやかな抵抗。だけど、鞄はパンパンの豚鞄。勉強には手を抜かない。一方、光の鞄は幅三センチくらいのペッタンコ。教科書も副本もほとんど学校に置いてきている。何をしに学校へ行ってるんだか不思議。
学校の違う二人はいつもお互いの通学路の中間点、初めてデートした海岸で待ち合わせた。時々定期便の船が通る、メイン道路から百メートルくらい奥まった、人気のない岸壁。大きなシュロの木が一本あって、その周りに小さい白っぽい枝の木が三本ある。いつも海風で小さな葉っぱがさわさわ揺れている。海は北側に面していて、私たちは太陽を背にして座る。道路からは木でちょうど死角になる。
土手にすわっていろんな話をする。学校の事、異性の事、理想の恋愛、将来の夢。当時の私は本当に、何も知らない夢見がちの少女。自分の未来は向こうから、うれしそうにやってくると漠然と信じていた。それなりにいい大学に入って、得意な英語を学んで、世界中を旅して、ベストセラーの紀行文を書いて。小説家もいいし、ジャーナリストもいいかも、テレビに出て有名になったりして、なんて。その私の理想を彼はおもしろがっていつまででも聞いてくれた。異性の事も、私はいろいろ話した。女友達にも誰にも言っていない、前からずっと好きだった人のこと。学校の先輩にもちょっと気になる人がいること。光への気持ちは置いといて、悩み相談のように自分の心の中のことを思いつくまますっかり全部話していた。一人っ子の私は、ずっと優しいお兄ちゃんがほしくて、光はそんな気持ちも満たしてくれた。彼には五歳年下の妹がいて、結構かわいがっているから、妹扱いがうまい。でも、彼と私の関係は、もちろん「兄妹」ではない。しいて言うなら「恋人未満の友達」だった。
「好きだけど、一番好きじゃない。」
私はいつも、そう言った。あこがれも含め、複数いる好きな人の中の一人。だけど、並んで座って話をして、十分もたたないうちに、左腕にぎゅうっと抱き着くのは私。いつも私からだった。抱きしめてもらって、いっぱい話を聞いてもらいたかった。そして、私はことあるごとに彼の気持ちを確かめた。
「あたしの事、どう思うてる?」
「友達やろ」
私が再三そう言わせているせいで、彼はいつもそう答えざるを得ない。でも、
「友達がこんなことする?」
と腕にきつくしがみついて意地悪く問い詰めると
「一番大切な人かも」
なんてぽろっと言う。私はその言葉に満足し、また、ぎゅっと抱き着く。
「俺ってばかみたいやん。」
って苦笑する彼。
楽しかった。私を見守ってくれる人。彼の前では何も考えず、自分が自分でいられる気がした。
そういうデートを何回か重ねたけれど、「キスはいや」と言った私の気持ちを察して、彼は抱き着くと、抱きしめてくれるだけ、それ以上、何もしようとしなかった。話しながら顔と顔が近づいて、危ないシーンは何度もあった。そのたびに、私はゲーム感覚で、唇がふれそうになる瞬間、顔をそらして笑った。光も「このやろ」なんて言いながら私をおもしろがってくれた。彼は初めてじゃない分余裕があった。私は唇が触れそうになるとドキドキした。キス、したかった。でも、その前の段階も楽しみたかった。キスしてしまったら、未経験の自分にはもう戻れない。だから、先に延ばしたかった。
「その日」は、初めてデートしてから一ヶ月後にやってきた。いつものように、抱き着いて、おしゃべりして、ちょっと黙って私が彼の顔を見上げた時、彼はじっと私を見詰めた。そして、いい?っていうようにかすかに首を傾けて、唇を近づけてきた。
あまりにもタイミング良くて、答える暇もない、そらす余裕もなかった。かさなった唇はやわらかくて、なんの味もなかった。笑いかけたままの開き気味の唇がだんだん湿ってきて、開くことも閉じることもできない。どうしていいのかわからない。
厚ぼったい光の唇の、やわらかさが心地よかった。目をとじた。でも、あんまり長いので目をあけた。「青空がまぶしい。」思った瞬間涙が出た。かすかな船のエンジン音と波のざわめきを背中に感じながら。




