これから~ときめきは色あせない
~これから
光に指定されて待ち合わせた場所は、家から車で二十分程度の、市の中心部に最近できた、このあたりでは一番気の利いたホテルだった。平成の大合併で、私の町も、光の住んでいた町もそこら中がここの市と合併し、郡部だった我町も住所だけは立派な「市」に躍り出た。名前だけでなんにも変ってはいない、むしろ、水道代が値上がりしたデメリットだけだと母は言っていたが。
四階建てホテルの最上階にある少し薄暗いレストランで、光は携帯電話の画面と格闘しているところだった。昼間の喪服ではなくボタンダウンの白いシャツに薄手のグレーの綿パンを穿いていた。シャツの襟から紺のTシャツが覗いている。髪は無造作になでつけてあったけど、視界に入った光の全身は、高校の頃そのままに見えた。
私の方は紺のベアトップワンピースに白のジャケット。なんだかペアファッションみたいに見える。
目の前に立つと光はふっと顔を上げて
「よう。」
って、やっぱり昔とまったく同じリアクション。私も
「久しぶりだね。」
と、普通に返した。年甲斐もない胸のドキドキは、光の姿を見つけた時にはもう大分おさまっていた。
すぐにお水を持ってやってきた店員に、シェフおすすめスペシャルニューとやらを頼み、車だからと私はお酒は断り、光は生ビールを注文した。光は車だけど、今日はこのホテルに泊まる予定にしていると言う。
「お母さんと息子さんは?」
「ああ、親戚の家。もともと二人は残って、俺だけ大阪に帰る予定やったんやけど…」
やけど…とちょっと濁して、私をまっすぐ見て視線を止めた。私は赤くなったかもしれない。でも、平静を装って、
「大阪におるん?」
「おお、今俺、コーヒー喫茶のマスターなんやで。」
ちょっと自慢げに胸を張ってそう言った。意外。いや、似合ってるけど。
「すごいじゃん。そういえば、言ってたよね。老後はおいしいコーヒーの店出してのんびり暮らしたいって。」
「のんびりとはいかんけどな。それに、まだ老後じゃないで。人生まだまだこれからや。」
なんて光はちょっとウインクするように目尻に一層しわを寄せて、左目だけ小さくして言った。
「おまえは塾やってるんやろ。和尚がいろいろ教えてくれたわ。」
和尚が、彼の息子が「ゆづる」という名前だと知って、興味深そうに私のことを話し出したのだそうだ。私の「ゆづる」という名前は和尚につけてもらったのだ。昼間の若和尚じゃなくて、あの和尚の父親である、今はほとんど隠居状態の大和尚さんだ。「ゆづる」というのは「禅」という字に由来する言葉で、もしも私が男だったら「禅」と書いて「ゆづる」になっていたらしい。ともかく、大和尚は人格も優れていて、私の祖父と仲良しで、両親は尊敬していたというのに。若和尚ときたら…
三回忌の時に、棟家鉄工所はもうつぶれたけれど、今は駐車場やアパート経営で悠々自適に暮らしているということ、ゆづるという娘は京都にいる、ということを、ぺらぺらしゃべったらしい。そして今日は、一昨年父親が亡くなって、私がこっちに帰ってきているということを、聞きもしないのに法要の前後での雑談で、和尚が教えてくれたのだそうだ。
別に我が家のことだけでなく、他意もなくいろいろしゃべる和尚なのだ。黙っておくべきことまではしゃべってはいないとは思うけれど。
その和尚が興味を持ったこと、私も触れてみた。
「ゆづるって、名前、つけたんだね。」
「ああ。あれ、おれの奥さんがつけたんや。」
「え」
思わぬ答えだった。
「奥さん、百合っていうんやけど。六年前の今日、乳がんで死んだんや。」
光はちょっと遠くを見るような目をして、次の言葉を言おうかどうしようか考えているふうだった。あの人、三宮で会ったあの彼女が…そう思いめぐらしながら、私の方が先に口を開いた。
「三宮で一回会ったよね。わかってた?」
光はちょっと笑顔を見せた。
「すぐわかった。おまえ全然変わってへんし。今もやけどな。」
懐かしそうに私を見る。そして、そのまま視線をそらさず
「あの日、三宮で会ったとき、俺はおまえの隣に男がいたから安心した。やっぱおまえは、俺がおらんでも大丈夫なんやって。」
いきなり中心に迫る発言で驚いた。あんな人、全然そんなんじゃなかった。でも、まあ、いいか。そう思われても仕方ない。肯定も否定もしないで、私はちょっと笑いながら光の話を聞いていた。光は次にはちょっと斜め上を見て愉快そうに、
「俺、新聞広告で見たで。おまえの名前。旅行業務取扱主任って。名前見てびっくりした。」
「その名前、みつけたの百合なんや。ひらがなで『ゆづる』ってあんまりないもんな。百合は旅行申し込んでみようかななんて冗談か本気かわからんようなこと言うてたんやけど、」
「チラシ見て、ゆづるってつけたん?」
「そやない。それはもう名前つけた後のこと。」
そうだった。名前をつけるような時期には私はまだ資格をとっていないから、自社の旅行案内の広告に名前は載っていない。
「百合は専門学校の頃からのつきあいやから、おまえのことを全部わかってて、子供に『ゆづる』いう名をつけよう言うたんや。なんか、百合はおまえのこと、気に入ってたんやな。名前もやけど、性格も。会ってみたいとも言うとった。変なヤツやろ。子供を、おまえみたいに自由でまっすぐに育てたい言うてた。俺はちょっと不満やったんやけど、まあ、考えてみたら俺、おまえのこと、いっぺんも名前で呼んでへんしな。」
ああ、やっぱり。あの専門学校からの彼女と結婚したんだ。光は私とのことをどこまでその、百合さんって人に話したのだろう。私は名前も聞かなかったのに。どんなことを話したのか気になった。それにどうして光は一度も私を名前で呼ばなかったのか。その理由さえ聞いたことがない。口を開きかけたら店員が前菜を持ってきた。スープとテリーヌが置かれるのを待っていたら、光が笑いながらしゃべり始めた。
「まだあるんやで。」
「何が?」
「おまえの添乗員姿、写真で見た。」
「え?どこで」
「うーん、話せば長なるんやけど…」
そう前置きして、光は前の会社がつぶれてしまったことを簡単に説明した。そして、
「俺、失業保険で、しばらくぶらぶらしてたんやけど、従姉のゆき姉の旦那が会社の社長やっててそこそこ成功してて、なんとか頼み込んで、そこに入れてもろうたんや。そこで見たで。社員旅行の集合写真。ハワイのカウアイ島で撮ったやつ。おまえ、前言うとった夢に向かってがんばってるんやなと思うた。」
光に見られていたなんて。不思議な気分。考えてみれば、光の会社の社員旅行のツアコンに行くっていう可能性も無きにしもあらずだった。さすがに光の会社には営業は行かなかったけれど。自分のエリアではなかったし。でも、カウアイ島と聞いて、私はちょっと胸騒ぎがした。カウアイ島には何回か行ったし、集合写真にも何度も納まってはいるけれど。
「なんて会社?」
光はごっくんとビールを飲んで、「YM企画」と答えた。聞いた途端、私は絶句した。
あの社長のとこだ。じゃあ、社長の奥さんは、光の話によく出てきた、あの、従姉の姉ちゃん。点と線がいきなりバチンとつながって、押し込めていた過去の記憶がよみがえる。私の顔色が変わったことは、テリーヌの中身を確認していた光には、気づかれなかった。何もなかった。社長と私には、何も。すべてのつながりは削除したんだから。大丈夫。
三十年のブランクがそうさせるのか、それとも、光がコーヒー喫茶のマスターとして日々話術に長けてきたのかはわからないけれど、光は昔よりよくしゃべった。
「写真の子が社員旅行の企画して、添乗員もしてくれたって聞いたし、俺、焦ったわ。でも、俺が入る半年前くらいに会社やめたんやて聞いた。そう聞いたら今度はなんか残念やったわ。」
ものすごいニアミス。あの、傷心の頃、光はあの会社にいたんだ。光に会っていたら、私はどうなっていただろう。すれ違ってよかった、多分。
一杯目のビールを飲み干し、二杯目を注文して、光はなおもしゃべり続けていた。
「前の会社、六年がんばったんやけどな。リーダーにもなったし。」
船舶の部品を扱う仕事。光は商品を販売もするが、取り替えたり修理したりのメンテナンスをする仕事もしていた。専門学校で習った知識も生かせたし、精密機械が好きだから、性に合っていたと言う。
あの頃、ちっとも詳しく聞いていなかったけれど、光はまじめに仕事をしていたんだと、今ならそれがよくわかる。でも会社がつぶれてしまったのだから仕方ない。やっと入った次の会社は、アパレル関係で性に合わず、畑違いで、しんどかった。そんな時、ちょうど大好きなコーヒー喫茶のマスターが、店をたたんで田舎に帰るという話があって、マスターとはもともとなんだか気が合っていて、光がやるなら任せてもいいと言ってくれたのだそうだ。
「マスターの道楽で始めた店やから、あんまり儲けはなかったんやけど、」
と光はちょっと顔をしかめながら説明した。
「百合と相談して二人でやることに決めたんや。マスターはオーナーで、俺は雇われマスターとして。今はそこそこ儲かってもいるんやで。百合が一緒にやる言うてくれたし、二人でなんとかやれた。年中無休にして毎日がんばったんや。」
百合百合と言われるとさすがにちょっとつらかったけれど、私は興味深く聞いていた。あの時の、色白で細面の駅の女の人を思い浮かべながら。私が駄々をこねて光が広島で泊まった時、約束をすっぽかされて、光を振ったと聞いていた人。振ったふりして振られたことに、多分気づいていたんじゃないかななんて思えてきた。それとも光は最初から、私よりも彼女に心を許して、すべて彼女に話していて、合意の上の別れだったのだろうか。いや、本当は別れてなくて、ずっと百合さんと…?
活魚のメリーゴーランドと名づけられたメインディッシュが二杯目のビールと共に運ばれてきた。頭の中をぐるぐるといろんなことがかけ回ったけれど、私は百合さんのことは置いといて、今はとりあえず、懐かしい光との会話を楽しもうと思った。
「今日はお店はお休みなん?」
「いや、妹がみてくれてるんや。」
ああ、あの妹。
「妹さん、元気?」
最後に声を聴いたときのことがよみがえる。
「結婚してまあなんとか幸せに暮らしてる。旦那を尻に敷きまくってるけどな。そう言えばなんか、おまえに妙にライバル心のようなものを抱いとったな。」
ああ、そう言われればそうだった気がする。初めて会ったとき、私が光と二人でチャーハンを食べたこと、ちょっと根に持っているとか、一度聞いたことがあった。思えばあれからかな。神戸の家に行ったときにも、一人、面白くなさそうな顔をしていた。
光はビールをぐっと飲んでちょっと疑うように言った。
「おまえ、一回電話くれたか?」
私は少し首をかしげてどうかなというそぶりをした。
「あいつが『多分、あの、棟家いう人やと思う。結婚しました言うといた』て言うてたけど。」
私は今度は笑ってうなずいた。
「うん。した。痛烈なパンチだった。でも、おかげであれから仕事に打ち込めたよ。」
と本当のことを言った。
それから光は妹が百合さんにすごくなついていたこと、しっかり者で、今はどっちがマスターかわからないくらい主導権を握られていることなんかを話した。あの小柄なお父さんは、少しぼけて、今は妹夫婦が両親共に面倒みているらしい。
百合さんの身の上話も聞かされた。頑張りすぎる性格なのは、その生い立ちにも影響していた。子供の頃両親が離婚し、母親に育てられたけれど、その母は十二のとき死別。父親は再婚して別に暮らしているから高校卒業まで祖父母の家で育った。高校卒業して経理が学びたいと、働きながら専門学校に通っていたと言う。
古川のお寺には一度だけお参りに行ったことがあるのだけど、えらく気に入って、自分はこの、浅野家の先祖代々続く、海の見えるお墓に入りたいと言った。だから本人の意思に沿って、こっちに納骨をしたのだ。大阪にも分骨していて、お参りは大阪でもしているのだけれど、命日には毎年、こちらに墓参りに帰っているのだと言う。
光は転職を機に、神戸のアパートも引き払って両親と共に大阪で暮らしている。震災の前に大阪に移り住んでいたのだ。震災のとき、テレビ画面や新聞記事に死傷者の名前が出るたび、目を凝らして探したことを思い出す。光の名前がないことを。
光の話が一通り終わると、私は光に聞かれるままに、ツアコンのこと、京都でいろいろな仕事をしたこと、塾講師で長いこと教えていたこと、今教えてる子供がどんなにかわいいかなんてことをとりとめもなくしゃべった。ずっと独身で、今もフリーだということも、さりげなく織り交ぜて。
どんな男とつきあったか、どんな悲惨な恋愛ゲームをしていたかなんてことは、聞かれないし、今は言いたくもない。
いい結婚をして、いい夫、いいお父さんとして、幸せをつかんだんだね、光は。私はなんだかそれが自分のことのように嬉しかった。
三杯目の生ビールを注文して、光はぐっと本題に入ってきた。
「俺はあれからおまえを必死で忘れようとしてた。」
「あれから?」
私の質問に光はちょっと笑って、
「そやな。何回も忘れようとしたけど、ほんまに本気で忘れようとしたんは、おまえが、本気の相手ができたからもう電話してくるないうて言うた時かな。」
大学三年の春。春人の時。あれから本当に、一度も電話がなかった。
「結局あの時の男とはダメになったんか。」
真面目な顔になると泣きそうに見えるのは今も同じだななんて思いながら、真面目に聞かれた私の方は適当に答える。
「うん、広島に置いてきた。」
「三宮の時の男は?」
「あの会社に置いてきた」言いながらくすっと笑った。光はちょっと苦笑いのようなあきれたような顔をして
「その後は?」
まあ、いろいろあったけど、全部、そのまま置いてきた。広島に、神戸に、大阪に、京都に。逃げてきたのかもしれない。飽きてしまった男から、飽きてしまった場所から。別にどうってことないように、さらっと答えた。
「俺も、置いて行かれた男の一人やな。」
光が微妙に笑った。
「和尚からおまえの話を聞かされても、会いたいんか、会いたくないんかわからへんかった。もうこのまま会わんで終わるんやろなと思うとった。俺は、俺の中で、女は百合で終わりにしておきたかったんや。俺はおまえを忘れようとして、やっと忘れて、おまえのことが風化しとったのに、今更また、それを蒸し返そうとは思わへんかった。」
「うん。わかるよ。」
私だって、あえて会いたいとは思わなかったし。むしろ、光に、自分の幸せを重ねてた。
「私も光に、百合さんと、最後まで添い遂げてもらいたかったよ。私の分まで結婚の幸せを、味わってほしかった。」
私がそう言うと光はちょっと意外そうな顔をした。
「なんかおまえ、いい女になったな。」
なんて冗談なのか本気なのかわからないように笑う。
でもまたすぐに、百合さんのことを思い出して、遠くを見つめる顔に戻って、独り言のように言った。
「百合は癌が転移してること、医者から聞いて知ってたから、亡くなる三日前に俺に言うたんや。自分は本当に俺と会えて幸せやったと。俺に、これから、自分の分までちゃんと生きなあかんでってな」。
光は少しだけ目を潤ませた。私までもらい泣きしそうだった。
光は本当に彼女を愛していたんだ。そして、彼女も本当に光のことを愛していたんだ。私なんかかなうはずがない。本当の愛の力は崇高で決して誰にも侵せない。お互いを思いやる力ががっちりと絡み合って、ほどけない。時間をかけて、一つの塊になる。
デザートも食べ終わり、アフターコーヒーを飲んで、しんみりしてしまった私たちに、店員が閉店のラストオーダーを告げに来た。
「隣のバーで、飲むか?」
確かにまだ、何か話し足りない。ペダルに足をかけただけ。ペダルを踏みしめていないし、まだ漕ぎ出していない。このまま帰る気にはなれなかった。光に誘われて、店を替えて、私もお酒を飲むことにした。帰りは代行を頼めばいいからと。
出かける時、母に
「昔の友達に誘われたからこれから出かけてくる。多分、遅くなると思う。」
と言った。母は一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、
「まあ、ゆっくりしておいで」
と言ってくれた。その後、早口で
「もしかしたら、泊まるかも。多分帰るとは思うけど。」
とつけたすと、
「どこの人?」
と聞いてきた。
「大阪。」
ちょっと考えて、前に足を踏み出すように
「…お母さん、覚えてるかな。浅野光っていう人。」
なんとなく言ってみた。もう時効かなと思って。
母は「え、誰、」なんて言って、覚えていないふうで、首をかしげただけだった。上着とキーとバッグを持って言ってくるねとリビングのドアの前で振り返った時に、母はソファで足をこすりながら、
「もしかして男?」
光という名前だけでは性別の判断はつきかねる。私の名前もそうだけど。
「そう、男。」
そう言うと、母は目をキラっとさせて言った。
「もしかして、あの、高校の時、電話でいつもすごく楽しそうに話してた人?」
…そんな風に見てたのか。私はそんなに楽しそうだったのか。
「ほんとはあたし、家に遊びに行ったりもしてたんだ。」。
「ああ、そう。」
母はさほど驚きもしなかった。
過去の呪縛があっさり解ける。そして、母は独り言のようにぼそぼそと言った。
「たまに真っ赤な顔をして帰ってきたときは、会ってたんじゃないかと思ってたんよ。でも、なんか言えなかったんよ。あんたを信じてたから。」
さっきのことは忘れてるくせに、そんな昔のこと、覚えてるんだ。信じてたって、どういう意味でかな。結局騙していたわけで、もっと信用を失うようなこともしてたわけだけれど。いずれにしても、気づいたらもう呪縛は風化して、ぽろぽろにくだけていた。
母はショックを受けるどころか、なんだか意気揚々とし始めた。
「浅野って人、独身?今何やってるの?どこに住んでるの?どこで会うの?もしかして結婚…」
「もういい、ああ、うるさいうるさい。」母の言葉を途中で遮って「行ってきます」と背中を向けてドアを閉めた。母は後ろでまだ何か言っていたけれど、もう遠くて聞こえない。
母に、変な期待を抱かせてしまった。そんなんじゃないんだから。三十年経つと光の立場、大逆転だね。でも、母に話すと話がややこしくなるのは昔も今も同じだった。
二人で薄暗いボックス席に座って、私は地元名産という檸檬ワインを、光はブッカーズのロックを注文した。
「なんかこうして会うのって、不思議だよね。」
ぐっとムーディーな雰囲気になって、お酒も入って、私はふと浮かんできた場面を手繰り寄せていた。
「最後に会ったの、九州に出張の時だったね。」
あの時、運命が変わったのかな。それとも、どっちにしてもダメだったのかな。
「どんな気持ちだった?」
駅のホームで、光は笑って「じゃあ」って自分から背を向けたね。
「複雑やった。」
光は即答。あの時のことは何度もフラッシュバックしたのだろうか。思い出すそぶりも見せずに話し始める。
「おまえ、ついて来ないんわかったし。電話と違って、なんかもう一歩引いて、俺に興味なさそうやった。嬉しげに広島なんかに来るんやなかったと後悔した。俺、あの時、部品のトラブルでめちゃくちゃ仕事ハードやったんやで。」
九州出張までの一週間は毎晩午前様。本当は私に会うどころじゃなかったんだ。私は何もわかってなかった。
「電話だけのつながりの方が、安心できた。おまえを俺のものにしようとすると、俺はぼろぼろになってしまいそうやった。もうほんま、限界やったんや。」
「それを、百合さんが救ってくれたんだ。」
思わず口をはさむ。
「救ったというか…」
光はまた遠くを見て、百合さんを思い出す。百合さんの話になると、光の顔が少し切なげにゆがむ。刻んできた年月が、光の顔に、昔はなかった陰を作る。
「百合は安心できたんや。誰かさんと違ってな、俺だけを見てくれたし。」
いいよ、いちいち私を見なくても。もう時効でしょ。私は肩をすぼめる。
「百合は強かったけど、なんか不幸に慣れすぎた、かわいそうな強さやった。俺はおまえにぼろぼろにされたけど、俺は俺で百合を傷つけてばかりおったから、もう傷つけたくないと思うた。おまえは、一人で生きて行けると思うたから、本物に巡り合えて、そのままうまくやってほしいと思うてた。」
本物か。春人は、何だったのかな。楽しい思い出だけど、それ以上の何もない。春の幻。思い出すのはドライブだけ。春人の指も、唇も、光との鮮烈な記憶には勝てない。
「三宮で会うたとき、その時の男やないなと思うたけど、それはそれでよかった。おまえは隣に誰かいれば大丈夫。俺やなくても。それがわかったし。」
私はずっと黙って聞いていた。
「そうやったろ?」
光が私に念を押す。多分、そう。大丈夫だったよ。光がいなくても、さびしくなかった。誰かがいたら。光のようにしてくれる誰かがいたら。
やっぱり私は黙って笑った。光じゃなきゃだめだとは言い切れない。こっちに帰って来てから、ふと思い出すのはいつも光だったけれど、そんなの都合のいい言い訳。忘れていた時間の方が遥かに長い。
答える代わりにぽつりと言った。
「神戸に行った時に、会いたかったな。何度も電話したのに。」
あの時は懐かしい友達気分で。ただ、純粋に会って話がしたかったんだ。でも、光の方は、そんな軽い気分じゃなかったらしい。
「あの時、俺は百合から、妊娠したと聞かされた直後やったんや。そうやなかったら会いに行ってたかもしれんな。」
「おふくろから、おまえが今神戸にいると聞かされて、俺は迷った。でも、もう、同じことを繰り返したくはなかった。百合と、子供を守る責任があったし。もう、後戻りはできん。中途半端に会うても、おまえにも失礼やから。それに、やっぱ冷静に会う自信がなかった。会わへんかったら、冷静でおれた。」
「電話くらいしてくれてもよかったじゃん。」
少し口を尖らせた。再会して初めて光をなじった。光はふっと笑った。
「そやな。でもな、そうやって、電話して、また気持ちが高ぶって、そんな繰り返しやったから、自信がなかった。電話したら、多分会いに行ってたやろな。会ってしまえば心がおまえに戻ってしまう。もう百合に、おまえのことでつらい思いをさせたくなかったんや。」
もう百合に、おまえのことで、つらい思いを…
私はこんなにも光を揺さぶってきたんだ。自分の思うとおりに言動することで、ほんの軽いきまぐれで、光を傷つけ、百合さんまで苦しめてきた。光の深い苦しみに、今初めて本当の意味で気づいた気がした。
不思議だね。光には光の人生が、私には私の人生があって、もう二度と交じりあわないと思っていたけれど、時々絡まない程度に接近しながら、前に前に進んできていた。光はいい結婚をして、私は本物に巡り合うことなく、お互いに、相手の前をかすり抜けてきたんだね。私はなんとなく、岐路に立った時に、自分が好きな方に進んで、嫌なものからは逃げて、ぼんやりとここまで来たんだ。
思い描いていた理想の人生なんかじゃない。だけど、これも悪くないとは思う。どんな人生だって、ちゃんと意味がある。私の人生。光の人生も。そして百合さんの人生も。
酔ってきたかな、と思っていると、不意に光が私をまっすぐ見て言った。
「おまえに墓で会うたとき、俺は自分の気持ちが風化してないことに気がついた。六年経って、やっと百合がおまえに会うことを許してくれたような気がした。百合が俺を導いてくれたような気がした。おまえに会うことが、俺の人生やと思えた。だから俺は、寺を出てすぐにおまえに電話したんや。」
三階の311号室。光はシングルの部屋をとっていた。ベッドは最近の傾向で、セミダブル仕様。バーでワインを三杯飲んで、私はかなりいい気分になっていた。部屋で朝まで語り明かそうか、なんて言ってバーを出て、二人で部屋に入った。けれど、もちろんお互いその先を読めないような子供ではない。二人っきりになると、第三者の目を気にしたさっきまでのちょっと気負った気持ちのタガがぽろんと外れた。ベッドの脇に二人で座って、私は彼の肩に軽く頭をつけて言った。
「泣いていいかな。」
「おっ。おまえ、昔そんなこと、断らんかったやん。いつも、突然泣き出して、俺をおろおろさせてたやん。」
「おろおろなんてしてないじゃん。いつも大人な感じで、平然と私をあやしてくれたくせに。」
「どうしていいかわからんから、なんもできへんかったし、なんも言えへんかっただけや。おまえな、ずっと俺のことかいかぶってたやろ。おまえは俺を簡単に呼び捨てにするけど、俺は一度もおまえを名前で呼べんほど、照れ屋やったんやで。」
思いっきり目尻を下げて、アラフィフの光はよくしゃべる。そして、アラフィフの私も本当には泣かない。「なんだそれー」って、光の言葉に笑っていた。三十年近い年月が、ちょっとコミカルなエッセンスを運ぶのかななんて思っていたら、光はそっと私の頭に手を置いた。そして私を引き寄せて、私を確かめるように、ソフトタッチなキスをした。三回軽くキスをして、おでことおでこをくっつけて、私をぎゅっと抱きしめて、それから長いキスをする。震えるようなキスをする。
やっぱり…絶妙のタイミング。
唇が触れる瞬間。手が触れる瞬間。最初のこの瞬間が一番好き。
光はこの瞬間をだいじにしてくれるんだ。
その指。本物の指で。してほしかったよ。ずっと。
光の指で服をはがされ、私はベッドで昔とは違う、重力に素直な素肌を見せる。弾力のない年相応の体は恥ずかしいけれど、今の私はこれだから。お互いに、歩んできた年月の証だから。光は何も言わないで、ただ、私をゆっくりゆっくり愛撫する。上から下へ。昔のように、光の唇が下りてくる。
ふと唇がおへその下の方で少し躊躇するように止まった。傷跡は横一線にうっすらとしか残っていないのに、今まで誰もわからなかったのに、光だけは何かを感じたのかな。お腹の傷にそって指を這わせ、優しくキスしてくれた。
ずっと、忘れたふりして生きてきた。私が殺したお腹の子のこと。「できてたら堕ろせばいいじゃん」、何度も簡単にそう言ってきた自分を。私の堕胎は合法だった。だけど、何度も命を殺そうとした事実に変わりはない。未必の故意の罪。それはやっぱり、忘れてはいけないと、光のキスが教えてくれる気がする。
私は生きている。一人でも生きている。生きているからこうして光に会えた。でも、百合さんは死んじゃったんだね。
入退院を繰り返して死んでいった百合と二年前の父が交差して、死んだ受精卵とも交差して、私は切なくて、本当に泣けてきた。もしかして百合は自分の分身だったんじゃないかなんて思えて。そして百合に光を譲ってもらったから、今度は私が百合の分身として、光に尽くしてもいいかななんてわけのわからないことまで考えたりして。エチルアルコールが大脳新皮質に働きかけて、幼いイドの私が引き出しの中から這い出してくる。
「泣いたらええやん。ずっと我慢してきたんやろ。」
そうかな。あたし、がまんしてきたのかな。どうして光にはわかるのかな。
私はもうずっと泣いてない。泣けなくなった。大阪の産婦人科で、泣いて泣いて泣きつくして、その後は、ずっと平気な顔して生きてきた。父が死んだ時も、泣いてばかりの母をなぐさめて、不思議なことに、私はちっとも泣けなかった。泣きたくても、涙が全然出ないんだ。
「おまえ、ほんとは泣き虫やのに、今まで一人でようがんばったな。偉いな。」
光に頭をなでられて、そこにスイッチがあったように、せき止められた涙のダムが一気に決壊。私はバスタオルが必要なくらい、ワンワン泣いていた。裸のまま、ただ無心に泣きじゃくった。泣きながら光にすがって、何度も何度もキスを求めた。光のキスで過去の罪が、押しやったすべての悲しみが、中和できるかのように。髪に、目に、涙の筋に、光が優しい優しいキスをくれる。最後の一滴が流れて涸れて、私の嗚咽が終わるまで、光は私に寄り添ってくれる。
そして…
光の指が私の体を這う。体中が波のようにもどかしく、切なく甘く、揺さぶられる。これだ。この指だ。これに私はずっとずっと焦がれていた。もう二度と、味わえないと思っていた。光の指で、私は十五の頃に戻る。十五の快感が沸き起こる。まだ、私の中に、そんなかわいい感激があったなんて、そんなドキドキがあったなんて。
舌が私に絡まって、全部絡まって、もう、ほどけなくなるくらい、絡めてほしい。初めての時のあの、甘い甘い感激をもう一度再現しよう。最初から、時間をかけて…。
光の腕の中で迎えた朝は、白い朝陽に包まれて、不思議なくらい穏やかだった。
「今度、あの海岸に行ってみるか。」
光と最初にデートした場所。初めて私が私を感じた場所。
「あそこ、幹線道路になってるよ。」
近くに高速道路がつながって、あの辺りの海岸線は幹線道路として整備されていた。下りてみたことはないけれど、車でよく通る道だから、道路からは何度も見た。もう木も工場跡も何もない。でも、あそこに立った時の海の景色は変わらないと思う。海だけはあの時のままだ。
波打っては返っていく。そこからは出られない。海は広いけれど、波はそこで行ったり来たりを繰り返すだけ。空へ登ったりはしない。だけど、行ったり来たりでも、それが波だから、波が波であり続ければ、それでいい。
メル友から始めよう。再び始まる二人の恋。ときめきは色あせない。また体の関係が先行しちゃったけれど、それは私たちの常だからいいんだ。体だって、心だって、同じひとつの私だから。
「また、メールしてね。これからよろしく。」
そう言って、お互いの携帯番号を交換した。
ホテルを出るとすぐそこに海が見える。朝陽に照らされて深緑の翡翠のようにゆらゆらと海が輝いている。メタルピンクのムーブと、濃紺のパジェロが海岸線を右と左に分かれていく。お互いの今日に向かって。
今日はまだまだ続いていく。どこに向かっていくのかは、わからない。先のことなんて誰も知らない。約束もない。すべてはここから。いつだって今から始まる。そう、人生半ば過ぎたって、これからの未来はまだまだ続いていく。
<完>
最終話です。
読んでくれてありがとうございます。




