現在~優しく包み込む光
~現在
紙屋町西に新しくできたロイヤルホテルの屋上スカイレストラン。キャビア入りのクラブサンドイッチをほおばりながら、私はセリに聞いた。
「メリちゃん、あれからどう?」
「それがね、聞いてくれる? 彼と一緒に東京の大学に行って、一緒に住みたいなんて言うのよ。」
ちょっとしかめっ面。私は逆に口の端が緩む。
「そういうこと、親に言うんだね。」
「そうなの、最近の子はまったく悪びれもせず、言うんだな、そういうこと。」
「あたしらの頃は考えられなかったね。」
「そうそう、子供にそんな権利はないと教え込まれてたもんね。」
「パパはなんて?」
セリは夫のことを誰の前でも「パパ」と呼ぶ。メリちゃんが生まれて、おしゃべりできるようになってからかな。
「パパにはその件は秘密。言ったら烈火のごとく怒るに決まってるもん。」
「えー、あの温厚なセリのパパ(・・)が?」
本当に意外。セリの夫はいつもやさしく「どうぞどうぞ」と言っているイメージしかない。
「でも…」
と私はちょっと笑って言う。
「メリちゃんの気持ちは痛いほどわかるよね。だって、誰かさんも昔似たようなこと言うてたもん」
「えー?言ったっけ?覚えてないなあ…」
すっとぼけるセリに、
「あの時の彼に会いたい?」
結婚してから今まであまり触れなかった大学時代の彼のこと聞いてみる。セリは結局あの彼とは、就職してから別れたんだ。
「えー会いたくないよ。今更。まあ今のあたしがナイスバディでもっとイケてたら、会ってみてもいいんだけどね。」
確かに。月日の流れは正直だ。
「それに、向こうがお腹の突き出た禿げおやじにでもなってたら幻滅だし。」
想像して二人で叩き合いながら笑った。豪快な笑い声が店内に響く。
「それにさ、パパよりかっこよかったら、それはそれでまたちょっと悔しい。」
なるほど、案外複雑な既婚者心理。セリは思いついたように
「もしかして、ゆづはあの、神戸の彼に会いたいの?」
「ううん、あたしも別に…」
私にはいろんな人がいたのに、セリは私の心をちゃんと見透かす。
「今頃もしかしたらバツイチで独身かもしれないよ」
セリがふふっと含み笑いをする。
「どうかな…、それこそ禿げおやじかもよ。」
冗談で流したけれど、私は光には、たとえしょぼくれたおやじになろうとも、万が一ナイスミドルになろうとも、あの時のあの彼女との、愛を全うしてほしいと祈っている。できなかった私の代わりに。
あの頃、ただの子供だったから、子供なりに真剣に愛した。迷いながら、流されながら、私は精一杯生きていたのだと今になってやっとわかる。今はかけがえのない思い出としてただ懐かしく、甘酸っぱく、よみがえる。心と体をうまく保って、もう重く苦しい鈍い光や、血のような赤い影を感じない方法も身につけた。泣かなくてもうまくやっていける。一人の夜も笑って自分を慰められる。
だけど、赤い光をまともに浴びて、子供じみたおままごとのように、誰かにすがって大げさに、泣いて泣いて泣きつくす夜も、たまにはあってもいいかなとも思う。
光の性格や、顔はもう、薄ぼんやりしてちゃんとは思い出せないのに、指は、唇は鮮やかに蘇る。交わった男は十一人。男たちは一人、また一人、時の流れと共に私の頭からも体からもきれいに跡形もなく消えていった。だけど、たった一人、光の残像だけは、まだ消えない。最後の一人、そして最初の一人。私の心の奥で、ずっとずっと生き続けている。
女二人。ちょっとお洒落して、弥生冷たい風の中、束の間の広島旅行。母校は合併して共学となり、すっかりリニューアルして昔の面影はまったくない。セキュリティーが厳しくなって、もう自由に入れない、新しい門の前で記念写真を撮って、昔行った店を訪ねたりした。あの、「海岸通」はもうなくて、大きなホームセンターになっていた。
卒業して二十数年、私たちは時々あの頃の女子大生に戻って、はしゃいでみたりした。
もちろん、傍目にはそうは見えないだろう。けれど、心も体もずっと同じ、変わらないものでできているのだから。こうして思い出に浸って、引き出しの中をコッソリ開けて、しまっておいた自分を出してみたりして、私もセリもすっかりリニューアル。
広島駅で手を振って、セリは妻として母として、私はまた、母親と二人で淡々と、田舎生活を暮らすのだ。時々ちょっと息抜きをしながら、これから、ずっと。多分、死ぬまで一生。
ささやかなこの人生、めぐり逢ってたはずの本当の人と、愛を紡いで、織り上げていけばよかったのに。私には紡げなかった。残念な気持ちも少々。
子供相手の英語塾は学校のない時間にしかできないから、平日の昼間は手が空いている。英語の採点をしたり、勉強したりもしているが、庭に出たり、家をいじったり、紀行文といえるかどうかわからないような、ちょっとした文章を書いてみたりして過ごしている。
父が病に倒れ、母を支えるためにこの町に帰ってきたけれど、その父も、半年の闘病の末、亡くなった。今まで親孝行らしいことなんて何一つできなかったけれど、最後の半年、一緒にいられただけでも、少しは役に立てたかなと思う。あんなに毛嫌いしていたこの町が家が、私を優しく包み込んで私に安らぎを与えてくれる。私が手を伸ばし、つかもうとしさえすれば、何もかもが私の周りにあふれていることに気づく。
葬式と一周忌は盛大に行ったけれど、もう会社も畳んでしまったし、三回忌は身内だけの質素なものにするつもりだった。
おだやかな五月。月命日の十一日。早めに庭の水やりをして、これから花を買って、一人でお墓参り。足の調子の悪い母は今日は家で留守番。来月の三回忌の相談で、ちょっとお寺の方にも立ち寄る予定だった。ほころぶ雲の下、空を仰いで、今日はなんだか気分がいい。白いシフォンのチュニックに、うす紫のスキニーパンツ、メタルピンクのムーブに乗って。
緑のしきびに、白と黄色の菊を左右に挿してお墓の前で座って手を合わせ、いつものように「母と私を見守っていてください」と目を閉じた。お墓でも、神社でも、教会でもこの言葉だけを祈ることにしている。昔は「私を」だけだったけれど、今は「母」もつけている。
立ち上がると遠く向こうに海が見えて、その先には点々と海に浮かぶ山のように島が見える。幼いころから見慣れていたはずの景色だけれど、今こうして見ると、何物にも代えがたい、かけがえのないものに思える。
お墓の段々道をおりると、お堂に続く百メートルほどの細い下りの一本道がある。めったに人とすれ違うことはないのに、今日は珍しく、向こうからこちらに向かってゆっくり歩いてくる一陣に鉢合わせした。
黒い喪服に身を包んだすらっと細身の男性二人と、紺のざっくりとしたパンツスーツの杖をついたおばあちゃん。男性二人は背格好がよく似ているから多分親子だろう。若い方の子が、白いカサブランカと赤いアンスリウムを散りばめた花束と水の入った桶を持ち、父親らしい人が、杖をついたおばあちゃんを支えながら、歩調を合わせて歩いてくる。最初、自然なそのしぐさに、こちらまで優しい気持ちに包まれた。
だんだんと近づいてきて、すれ違いざまにちらっと目が合って、私はあっと息をのむ。
白髪交じり、ちょっと弾力がなくなったようだけど、ふわふわの柔らかそうな髪。少し背の高い、ちょっと猫背の痩せ型の人。深く刻まれた目尻のしわ。あの頃と変わらない、柔らかいまなざし。喉の奥からほろ苦いしずくが一滴とろりと胸に落ちた。
ただ、立って、見てることだけしかできなくて、少し会釈して、お互いなんだか不思議そうに、幻を見るように、半信半疑でそのまますれ違って行った。
頭から脳がぽっかり抜き去られたようで、振り返ることもできなくて、どう歩いているのかもわからない。ただ自律神経だけの力で、前に足を運んでいると、
「ああ、棟家さん、もうすぐお父さんの三回忌ですね。」
ちょうどお堂から出てきた和尚に声をかけられた。はっとして、急に我に返って、その件でちょっと相談したいと思っていたと告げると、和尚は、今から法要があり、お墓に行かなければいけないと言う。
これからあるのは大阪に住んでいる方で、六年前に亡くなった奥さんの七回忌だそうだ。まだ若いのに、長い闘病の末亡くなったそうだと、聞きもしないのに教えてくれる。お墓で拝み、その後お堂で法要を営むそうだ。
私は和尚が何を言っているのか、はっきりつかめないまま、忙しそうなことだけはわかったので、「それではまた電話します」と言って帰ろうとすると「ああ、そうそう、」とわざわざ振り向いて、和尚が告げた。
「その方の息子さんゆづるっていうんですよ、ひらがなで、『つ』に点々の、ゆ、づ、る。」
にっこり笑って和尚が遠ざかる。
法要が終わるまで待てばよかっただろうか。いや、それもおかしいし、家に帰るしかなかった。待ち伏せなんて歳でもない。なんだか大事なものがぐるぐると雲に巻かれて出てこない。よけてもよけても、真ん中がかすんで見えない。ダイニングでぼーっとしていると、壁掛け型の固定電話が久しぶりに鳴った。チカチカ十一桁の数字が光る。発信元は、090から始まる無登録の携帯電話。
体から風が起こり、血がざわっと上昇する気がした。気流が雲をさらっていく。見えなかったものが見えてくる。
「はい、棟家です。」
電話を耳に押し当てた。
「もしもし、あの、浅野と言いますが…」
やっぱり。全然変わっていない声。鼻涙管がツンとする。受話器を持つ手が小刻みに揺れる。
「…そちらにゆづるさん…」
「はい。あたし…ゆづるです。さっきは、あの…」
「久しぶり。元気か。」




