狼少年の新生活 3
「これで全部かな?」
「はい、ありがとうございます」
いつもなにかしら用がある時は、お兄さんたちが車を出してくれる。
だけど今日は突然だったからか、いや、大事な娘の出発だったからだな。お父さんが送ってくれて、荷物を運ぶのも手伝ってくれた。
無口なお父さんはすぐに去っていった。一応、中の様子をちらっと見たけど、余計な口出しは全然しない。いつきとはちっとも似てないけれど、優しいところは一緒なんだと思う。俺にもよく気を遣ってくれるし、お陰でずいぶん園田家の食卓にも馴染んだ。
ドアが閉まって、いつきはなんだか感慨深い顔をしているように見えた。
俺もあんな風だったかもしれない。ずっと暮らしてきた家を出て、一人きりになった時。
とはいえ、すぐに一路がやってきて初日から泊まっていったんだけど。良太郎も来たし、ライとリア、ノイエもしょっちゅう遊びに来た。たぶん、いつきよりも多く遊びに来たはずだ。
「荷物運ぶね」
やかましかったけど、おかげで寂しくなかった。俺も、いつきが寂しいと思わないようにしてやらなきゃいけない。
「あ、うん」
「これは服が入ってるの?」
「あ、ごめん。こっちは私が持っていくから」
「そう?」
慌てて持っていたのは、下着が入っていたからだったみたいだ。
俺もごめんねなんて口走って、台所に逃げこんでいる。
夫婦って、お互いの下着も全部把握するもんかな。するか……? いや、するよな。一緒に洗濯したり、干したり取り込んだりするだろうし。
じゃあ、恥ずかしがらなくてもいい、のかな。
とはいえ最初から、どんなパンツ持ってるんだよ、なんていうのもちょっと。幻滅されるに違いない。
お茶を二人分淹れて、テーブルの上に並べた。
家の中は静かで、寝室のドアの向こうからガタガタ聞こえてくるくらい。
あの音をいつきが立てているんだって思うと、とても幸せな気分だった。
「いつき、お茶用意したよ」
「あ、うん。すぐ行くね」
今日の夕飯、なににしようかな。
記念の日だし、どこかに食べに行ってもいい。
服の片づけなんていつでもいい。
そういえば、スケジュールはお互いに確認しておいた方がいいよな。
そろそろ春休みで、あの友達たちとどこかへ一緒に行くのかもしれないし。
「ホワイトボードとかあった方がいいかもね」
普通の会社勤めじゃないし、その方がわかりやすそうだ。
「夜、どこかに食べに行こうか?」
テーブルの向こうで、かわいい奥さんは上の空だ。
返事はなくて、マグカップを持ったまま動かない。
「どうしたの」
「ん?」
「疲れちゃった?」
俺が一人じゃさみしいと思って今日来てくれたんだろうな。
急がせちゃって悪かったかもしれない。
一番タイミングとしていいのは四月か、五月の後半くらいかなと考えていた。
新生活に合わせてか、社会人生活に少し慣れたくらいがいいかなと。
「ううん、なんかね」
「うん」
ああ、でも、本当にいいな、この風景。
テーブルの向こうに座ってるかわいいいつき。
俺の奥さんなんだよな。
これからは毎日、毎朝、毎晩こうして二人きりで過ごせるんだ。
「緊張しちゃって……」
緊張?
「今まではほら、玲二くんのところに来ても夜は帰ってたでしょ。それが普通っていうのが変だったのはわかってるんだけどね。でも、今日は帰らないんだなーって思ったらちょっと」
「ははは」
俺が思わず笑うと、いつきは恥ずかしかったのか頬を真っ赤に染めてしまった。
「俺、本当にうれしいよ」
「うん」
出会った頃はひとつに結んでいた長い髪は、少し短くなって肩より少し下まで流されている。
表情も大人っぽくなった。だけど、可愛いまんまだ。あの日好きになってしまった時のまま。
「えっと、夜ごはんだっけ」
「うん。今日は外に食べに行こう」
月浜までは歩いて十五分くらいで着く。
いくつか、雰囲気のいい店にも心当たりがあるし。
出かける時から、帰る場所まで一緒。
こんな当たり前を、ようやく初めて体験できる。
少し片づけをしてから、コートを着て、家を出た。
一緒のカギを持って、手をつないで。
明るい朝の道も、暗い夜道も、ずっと二人で歩いて行ける。
二人でイタリアンレストランに行って、帰りにスーパーに寄って買い物して。
真っ暗な家に戻ったら、もう九時になっていた。
ここから先はまったくの未体験ゾーンだ。
いや、夜通し居てくれたことはあったはあったけど、あの時俺は前後不覚に陥ってた。だから、うん。初めてだ。
部屋の暖房を入れながら、次にどうしようか考えていく。
風呂かな。一緒に入ろうって言っていいのかな。
緊張してるって、たぶんこの後の展開をどうしようかって部分でなんだよな。
じゃあいきなり風呂よりは、ワンクッションあった方がいいかもしれない。
「いつき、そこにグラスあるかな?」
「グラス?」
「昨日父さんがワインをくれたんだ。引っ越し祝いだって」
珍しく一路がなにか持ってきたと思ったら、父さんからだった。
少しリラックスしたらいい。少しだけ理性の働きを鈍らせたら、きっとちょうどよくなるだろう。
「私あんまり飲んだことないな、ワインって」
「俺もだよ」
「強そうだよね、玲二くんって」
「よく言われるけど、どうかな」
勧められるけど、あんまり大量には飲んだことはないんだよな。
一杯で頭がふわふわっとして、変なテンションになるのがわかるから。
友達同士でわいわい、じゃなくて、仕事で会った人とってパターンが多かったから、ヘマをしたくなくてまだたくさん飲んだことがない。
「乾杯しよう、いつき」
今日も大量に飲む必要はないんだ。いつきが酒豪だっていうなら、いくらでもあけて構わないけど、そんなこともないだろう。
今日は記念日だから。スタートだから。その始まりに、グラスをこつんとぶつけよう。
「二人の新生活に」
いつきが照れたような笑みを浮かべて、俺は心底幸せな気分だった。
傾けたグラスから入ってきた父さんからの贈り物は、少し甘くて、幸せな二人にぴったりの味だったと思う。
「おいしい、これ」
「そうだね」
「もう一杯飲んじゃおっか」
ああ、本当にかわいいな、いつきは。
十五歳の時よりもぐっと大人になったけど、まだかわいい。
大きな目がパタパタして、星とハートをまき散らしている。
よかった、人間になって。
どうなることかと思ったし、自信がなくて無理だってあきらめたりもしたけど。
最後なんか一日で二回も死んだ。
だけど、なんとか生き返って、こうして二人の生活を始められる。
「玲二くん、顔が赤くなってるよ」
酔ってる? だって。
「いや、……うん、どうかな……」
そろそろやめておかないと、ダメだよな。
このまま酔いつぶれて寝ちゃうなんてもったいなさすぎる。
やっと来たんだ、いつきが。
これまでの四年間で、一緒に旅行に行ったこともあるっていうのに、邪魔が入ったせいで結局キス止まりの俺のかわいい奥さんが。
いくら別居してるからって、そういう触れ合いが全然なかったなんて、世間は思わないよな。結婚してなくったってやれることを、結婚してまでまだやらないなんておかしいんだから。
「いつき、こっち来て」
グラスは置き去りにして、ソファにどんと座り、隣をたたいた。
いつきは頬をピンク色に染めて、素直にやってきてくれる。
いい匂いだ。
可愛い匂いなんだ、いつきは。
ずっと好きだった。特に、耳のあたりからする香りがたまらなくいい。
「いつき」
隣にちょこんと座ったいつきを押し倒して、大好きな場所に唇をつけていく。
夢にみていた、俺のしるしをつけるってやつを、実現していく。
「玲二くん、あ、ちょっと……」
「そうだ。いつきに謝っておきたいんだけど」
「なあに?」
いつ、どんな風に切り出したらいいかあんなに悩んでいたのに。
押し倒した姿勢のまま、酒の勢いに乗ったら簡単に言えた。
「預かったお守り、まだ持ってるんだけどさ」
「え? あ、あれ……。うん」
「今日だけは使いたくない」
「え?」
初めてだから、使いたくないんだ。
そう伝えると、いつきは明らかにうろたえていたけど、おかまいなしに抱き上げてベッドまで運んだ。
「あの、玲二くん、お風呂とか先に」
「もう我慢できない」
一緒にお風呂っていうのも正直、夢だったけど。
だけどもうダメだ。我慢の限界。あと一秒だって待ちたくない。
二人で選んだ大きなベッドには枕が二つ並んでいて、自分でおいてはみたものの、なんだか恥ずかしかったんだよな。
いつきもそう思ったみたいだった。いかにも、これから夫婦生活がここで始まるんですよって感じが出ていて、あからさま過ぎたんじゃないかと思う。
主に俺のせいなんだけど、変な夫婦だった。
夜まで一緒に過ごしても、帰っていっちゃうんだから。
泊まったって良かったはずなのに、律儀に父さんとの約束を守ってしまって。
本当はずっと、触れたくてたまらなかったのに。
「玲二くん……」
もう充分ってことにしよう。
もしも子供ができてしまったら、全力で愛してやろう。
これから新卒で入社するのにって怒られるかもしれないけど、もう、いい。あっちこっちに遠慮するのを、今日くらいは忘れたい。
体中に唇で触れて、指でなぞって、手のひらで柔らかさを確かめていく。
いつきの唇から漏れる甘い声にすっかり酔って、六年半越しの夢をとうとう叶えた。
途中でちょっと、スムーズにいかない部分もあったけど。
だけどなんだかんだで、やっと、ごく普通の夫婦になれたと思う。
俺の全部を受け入れて、いつきは優しい顔で微笑んでいる。
薄暗い部屋の中でも輝いて見えて、ぎゅっと、強く抱きしめて。
「愛してる」
自然と出てきた言葉に、いつきは「私も」って笑ってくれた。
気が付いたら朝だった。まだ早いから、カーテンの隙間から見える外は暗いけど。
だけど隣に、いつきが寝てて。
俺にぴったり寄り添って寝てるいつきは、ものすごくあったかくって。
俺がこっそり胸に抱いていた夢は、これから全部果たされていくんだろうな。
とりあえず、この後いつきが目覚めたら、一緒にお風呂に挑戦してみよう。
さらさらの黒い髪をなでながら、目を閉じた。
今、世界で一番幸せなのは俺たちで間違いない。
そう思いながら、もう一度浅い眠りに落ちていった。