狼少年の新生活 2
段ボールやゴミ袋を全部集積場に出したら、葉山君も一路くんも帰って行った。
「玲二くん、アパートの引き渡しはちゃんと終わったよ」
「ありがとう。助かった」
あとでお母さんにも電話しなきゃ、だって。
「家具が入ったら印象が変わったね」
一緒に見に来た時にはなんにもなかったから。
窓にはカーテンがかかっているし、ソファやテーブルもあるし。
それが全部、二人で選んだものっていうのがもう、ときめいて仕方ない。
「全部そろったかな?」
「どうかな。生活してみたらわかると思うけど」
「玲二くんならちゃんと全部そろえてるんだろうって思っちゃうな」
玄関から入って短い廊下を抜けて、リビングの入り口で二人で立っていた。
中は暖房で暖まっていて快適そのもの。
「あとはいつきが来てくれたら完璧になるよ」
玲二くんの腕が伸びてきて、抱き寄せられた。
そのまんま、キス。キス、キス、キス。
最後はソファに倒れこんで、唇をさんざん味わって。
「いつ来る?」
私の上には玲二くんが覆いかぶさっている。
荷物全然まとめてないんだよね。すぐに済むって思っちゃって、しかも卒業を控えて結構あわただしいから、また明日、明日、で遅れちゃって。
「えっと」
明日来れるかな。だけど、お父さんとお母さんになにも言ってない。
私たちはもう結構長い間夫婦だし、玲二くんは本当にまじめに、よくやっていてケチのつけようもないんだから、いつ家を出てもいんだろうとは思うけど。でも、けじめっていうか。ちゃんと挨拶しないでいきなり明日っていうのはどうなのかなって気が引けるところもあって。
「いつき」
返事に困っている私に、またキスの雨が降りそそぐ。
唇と頬に何度も何度も触れて、玲二くんは私をぎゅうっと抱きしめて、しばらく離さなかった。
離さなかったけど、やがてゆっくり体を起こすと、優しい顔でにっこり笑った。
「いつにするか決めようか。お父さんたちにもちゃんと挨拶しなきゃいけないよね」
うう、ごめんね、玲二くん。
「ありがとう」
「ううん、せかしてごめん」
急かされるのは、正直うれしい。
全然新婚さんじゃない私たちだけど、念願の同居だから。
私だって、朝目覚めた時から眠りにつくその瞬間まで玲二くんがいる生活にあこがれている。
四月までバタバタするけど、そんなことより、ずっと誠実に努力し続けてくれた旦那様を最優先しなきゃダメだよね。
「ごめんね、玲二くん、甘えちゃって」
「いいよ。いくらでも甘えて」
二十二歳になった玲二くんは、ものすごくかっこいい。
出会った時よりもずっときりりとしていて、頼れる男になった。
翻訳とか通訳の仕事をしてみたいって話していて、違うアルバイトもしていたけど、在学中にちゃんとあこがれの仕事をし始めたんだよね。
いつの間に話せるようになったのか、それとも最初から話せたのかわからないけど、いろんなところから仕事を受けて、ちゃんとこなしていた。
本が好きで、文章の表現も上手だから、翻訳の仕事もよくほめてもらっていたみたいだし。
私は全部知っているわけじゃないけど、うまく軌道に乗ったのはわかった。
ひとつひとつ、どんな人と、どこで仕事をするのかも、全部知らせてくれたし。
その結果が、この素敵な部屋なんだよね。
玲二くんはなにひとつ見失わなかった。
二人で暮らすための部屋を、一緒に作ってくれた。
あとは、私だけ。
私と、荷物だけ。
引っ越ししたってお知らせとか、書類の用意なんかがあるだろうけど。
でもそんなの、あとまわしでも構わないんだ。
手紙が実家に届いても問題はないし、苗字まで変わった玲二くんに比べたら絶対やることは少ないだろうし。
「明後日にしようかな」
「そんなに急でいいの?」
大きな手が私の頭を撫でていく。
優しくて暖かくて、力強い手。
私だけを愛してくれる、優しい玲二くん。
ずっと変わってない、きれいな瞳。
今日一緒に引っ越しちゃえばよかったのにな。
引き払うアパートのことは私が! なんて言って、そっちに気を取られすぎちゃった。
うまくやれば、全部同時にできたのに。
「ごめんね、玲二くん」
私が謝ると、また大きな手が私の頭を優しく撫でていった。
「いいよ。いつきは引っ越し初めてだろ。ゆっくりでも大丈夫。俺はここにいるから。最初は日帰りでも構わないよ」
それじゃあ、これまでとなんにも変わらない。
玲二くんが頑張って作ってくれた、私たちの居場所なんだもん。
二人で暮らさなきゃ、意味がないよね。
だけど家に戻ったら、玲二くんの言葉の真意がはっきりわかった。
二十二年間、ずっとここで暮らしてきたんだなあって思ったら、なんだか胸がずーんとしてきちゃって。
お父さんと、お母さんと、お兄ちゃんたちと弟と、六人で長い間暮らしてきた。
私は勝手に「結婚します!」なんて言って、それを許してもらって。
だけどそのあと、四年もずっと居座り続けちゃって。
学業も頑張ったし、就職活動もした。既婚者だって話したら大抵の会社はあんまりいい顔をしてくれなくて、難航したんだよね。子供はどうするの? って聞かれて、困ったこともあった。
ちっとも手伝えない私を、みんなで見守ってくれた。
励ましたり、気分転換させてくれたり。結局最後までアルバイトは親戚のところで、目立たないところでやる作業をさせてもらったんだよね。
頼りっぱなし、甘えっぱなしだった。
そんな私がとうとう家を出て、さみしい思いをするんじゃないかって考えてくれたんだよね、玲二くんは。
すごく嬉しいはずなのに、確かに、さみしさもあって。
念願の二人きりの暮らしが楽しみなのに、不安もあって。
洋服をばさばさ引っ張り出したまま、ぼやっとしてしまった。
これじゃあ、明後日に間に合わなくなっちゃう。
お父さんとお母さんにも、ちゃんと挨拶していきたいのに。
私の部屋、どうなるのかな。
もうなくなっちゃうのかな。
「引っ越しはもう全部済んだ?」
夜になったら当たり前にお母さんの料理が並んで、私も食卓のいつもの位置についている。
「うん、葉山君も手伝いに来てくれてて」
「玲二君なら心配いらないわよね、そもそも」
学生時代からずっとちゃんとし続けている義理の息子の信頼は厚くて、お父さんもお母さんも全然心配してなかったみたい。
借りていたアパートも本当にきれいに片付いていた。掃除を頼まれたけど、すぐに済んだし、傷なんかちっともなかった。
「じゃあもう、いつきも行かなきゃね」
お母さんの声は軽やかで、重苦しいセンチメンタルがあっさりと吹き飛ばされていく。
「楽しみにしてたでしょ、一緒に暮らせるの」
「うん……」
お兄ちゃんたちがやってきて、みんな一斉にご飯を食べ始めた。
だから会話は途切れて、私もあたまをごちゃごちゃさせたまま一緒に食べた。
男ばっかりの食卓はあっという間に終わって、私は慌ててお母さんの隣に並んで後片付けを手伝っている。
「なんだか散らかってるみたいだけど、荷物ちゃんとまとめてるの?」
「えっと、まだ、途中で」
「やあねえ。後で手伝ってあげるから、早く済ませちゃいなさい」
台所の片づけが終わったら、お母さんは本当に私の部屋へやってきて、荷物をまとめるのを手伝ってくれた。
ゴミ袋をいっぱい持ってきて、あきれたわ、なんて言いながら。
「てっきりウキウキで出ていく準備してると思ったのに」
「なんか忙しくって」
「今日から住めるってわかってたでしょ?」
お父さんもお母さんも、私が今日で出ていくって思ってたのかな。
そりゃそうか。だってもう、結婚してそろそろ丸四年になるんだもんね……。
「とにかく、必要なものだけまとめなさい。いらないものは捨てておくから、言ってちょうだい」
いつでもすぐに来られるし、ってお母さんは笑っている。
「この部屋はあけておくから、安心してね」
「いいの? あけといて」
「いいのよ。玲二君、海外に行くこともあるでしょ。そういう時とか、赤ちゃんが生まれる時なんかも来ればいいのよ」
「赤ちゃんって……」
「充だって草太だって、ひょっとしたらいきなり結婚相手連れてくるかもしれないから。とにかく一部屋空いてれば安心でしょ」
お母さんはずっと明るい顔をしていて、どんな思いで話しているのか、私にはまだわからなかった。
「玲二君は本当に偉いね。よく頑張ったわ」
「うん」
「お父さんとお母さんはここにいつでもいるから、困った時はすぐに言うのよ」
玲二くんには頼れる家族がいないから。
私はまだ、家族と離れたことがないから。
ただただ優しく背中を押してくれるお母さんに、伝えなきゃいけない言葉がある。
荷物をなんとかまとめて、遅い時間になってから電話をかけた。
「玲二くん、明日からそっちで暮らすね」
『明日で大丈夫?』
大丈夫どころか、これが一番自然な流れだったよね。
玲二くん、お待たせしてごめんなさい。
やっと正しい形になれるんだから、怖がってないでここから旅立たなくちゃ。
次の日、お昼に玲二くんがやってきて、二人で挨拶をした。
お父さんもわざわざ仕事を休んで、旅立ちのための時間を用意してくれた。
「すみませんでした、僕のわがままで四年もお世話になって」
玲二くんがこう切り出すと、お父さんはこんな言葉を返した。
「正直、こんなに早く結婚すると思ってなかったから複雑だった。だから、家にいてくれてうれしかったよ。四年も手元に置かせてくれて、ありがとう」
玲二くんが手をぎゅっと握ってくれて、私もこれまでのお礼を言えた。
まだまだ未熟な二人ですが、これから頑張って一緒にやっていきますって。
これからもよろしくお願いしますって二人で頭を下げると、お母さんは満面の笑みで、まかせといて! と言ってくれた。