狼少年の新生活 1
「へえ、いい物件見つけたんだな」
大学生活ももうすぐ終わりの、二月の中旬。
四年間一人暮らしをしていたアパートを引き払って、新居への引っ越し作業をしていた。
一人で暮らしていた俺の荷物はそんなにたくさんじゃないから、わざわざ業者を頼むまでもなくて、友人と兄貴に頼んで車で全部運んできた。
車を出してくれたのは良太郎で、教員免許を取って四月からは高校の先生になる予定。一路はすっかり森の暮らしに戻っていたせいか、月浜に近い新居の周辺をやかましいと怒っている。
「新築ってあこがれだよ。俺の家、ますます古くなってきてそろそろやばいかもしれない」
良太郎は段ボールをあけながら、ここに引っ越してこようかな、なんてつぶやいている。
「あの家もいいと思うけどな」
「俺もそろそろ一人立ちしたいって思うのよね。いつまでも実家っていうのもナンだし、玲二の家にももう入り浸れなくなるし」
大学に入る直前から一人暮らしを始めた寂しい俺のところに、良太郎はよく遊びに来てくれた。来なくても、寂しくはなかったんだけど。いつきが料理を作りに来て一緒に食べたりしてたから。
「玲二、これはどこ?」
「奥の部屋に頼むよ」
「なにが入ってる? 重たい」
「本だよ。あとは全部本だから、一路、お願い」
兄が来てくれるとわかったから、思いっきり本ばかりを詰めた箱を作った。
狼男なんだから平気だろうと思っていたんだけど、やっぱり重たいのか。
「園田ちゃんは今日は来ないの?」
「あとから来るよ。食べるものもってきてくれる予定」
いつきの家からすぐのアパートから、月浜の隣駅にできた新築マンションに移ってきた。新しい職場とか、交通の便とかを考えてこの辺りがいいと思っていたところに、できたばかりのマンションのチラシを見つけて、ここにしようと決めた。
俺たちは全然新婚さんではないんだけど、二人だけの暮らしがようやく始まるから。
ここにしようと話して、新しい両親にも相談して、ようやくだねって笑ってもらって。
それから、家具や家電を選んで散財した。このために一生懸命働いてきたんだから、ぱーっと使って。
二人だけのためのテーブルとイス、小さめのソファ、あんまり大きくない冷蔵庫と、大きめのベッド。お互いの家から持ち込むものを一覧にして、必要なものを買いそろえていく日々は、忙しかったけど幸せだった。
「これでおしまい」
一路が最後の箱を運んできて、汗だくになっている。
「ありがとう。助かったよ」
真新しい本棚に並べるのは後でいい。
三人で床に座り込んで、お茶を飲んだ。
「いいね、床暖房があるのって」
「これ、気持ちいい」
「一路、狼になるなよ」
もうすぐ家具が配達されてくるんだから。
「アパートの片づけはもう全部済んだの?」
「いつきに任せてるんだ。お母さんも手伝ってくれてる」
「お婿さんはこっちの担当なのね」
苗字を間違えることも、もうほとんどなくなった。
役所なんかで「立花さん」って言われたらつい反応しちゃう時もあるけど。
「いつから一緒に暮らすの?」
「悩んでるみたいなんだ。いつでもいいんだけどね。持ってくるのは身の回りのものだけみたいだから、今日みたいに車で運ぶつもりだし」
タイミングが半端なんだよな。これから卒業だし、就職も控えているし、春休みはなんだかんだ友達と約束が入るだろうし。実家の方がいろいろ楽なのは間違いない。みんなと同じ、独身の気分でいられるだろうから。
「今日からでいいのになあ、園田ちゃん」
俺もずいぶん前から園田ちゃんなんだけど、良太郎はほかにいい呼び名を思いつかないらしい。最初はいつきを奥さんなんて呼んでいたけど、やっぱり落ち着かなくて、もとに戻っている。
「そうだな」
「今日から来いって言えばいい。玲二、やっとできるんだから」
「なにができるんだ?」
止めたかった。一路はたまにこっちに遊びにくることはあったけど、基本的に森の住人だから。気を使った表現とはやっぱり無縁で、言葉を選んだとしてもすごくダイレクトになる。
「交尾だよ」
一番直接的な単語じゃなかったけど、意味合いは変わらない。
良太郎はからから笑って、俺の背中をばんばん叩いた。
「よかったな、玲二」
「そう、よかった。ようやくできる」
やめてくれよ、というセリフは間に合わなくて。
「ようやくってなんだ?」
「ようやく交尾できるんだよ。玲二はずっと我慢してた」
良太郎は一気に真顔になって、俺を見つめた。
「お前既婚者なのに童貞なの?」
そんなにハッキリ言わなくたっていいじゃないか、良太郎。
だけど、そうなんだよな。俺は世にも珍しい既婚童貞で間違いない。
「仕方ないだろ、一路が止めてくるし、ほかにも邪魔が入るんだから」
いつきが遊びに来て、一緒にご飯をたべて、隣に座っていいムードになった途端、頭に「ダメだよ、玲二。お父さんとの約束があるよね」って響く。
それに、ノイエの訪問も結構激しかった。
鳥の一家は近所に巣を作っていて、このあたりじゃ一番の力を持ったひな鳥はしょっちゅう遊びに来る。いまだに俺を慕ってきてくれる。小鳥の姿だったり、子供の姿だったり、とにかくやってきては「なにしてるの?」と問いかけてくる。
「かわいそうに。一路、やめてやれよそんなこと」
「僕だけじゃない。ほかにもいる」
「いいんだ良太郎。頼んでるから。とにかくこれからは控えてほしいって全方位に伝えてる」
俺はともかくとしても、いつきがかわいそうだからな。
そう話すと、なんだか知らないけどみんな「そうか」って言い出して、俺って一体なんなんだろうという気分になったけど、とにかく。
「今日で準備はほぼ完了だから。俺もほっとしたよ。ちゃんと四年で用意できてよかったと思ってる」
「めちゃめちゃ働いてたもんなあ」
学校に通いながら、時々新しい実家にも顔を出して、いつきとデートを重ねつつ、アルバイトに励んだ。
学費と生活費は用意してもらっていたけど、将来のための資金はゼロだったから。
二人で暮らそうと思ったら結構かかることがわかって、かなりの時間を労働につぎ込んだ。
いつきにはさみしい思いをさせたこともあって、けんかになったりもしたけど。
だって結婚してるのに、別居だし、指一本くらいしか触れてないんだから、怒って当然だ。
ありったけの愛の言葉をささやいて、なんとか許してもらった。
あの時は本当に、早く一線を越えてしまいたくてたまらなかったんだけど、体でごまかすっていうのがどうしてもダメな気がして。あのタイミングで初、というのもどうしても許せなくて、うん、あの日は本当に大変だった……。
「玲二、誰か来たぞ」
大きめの家具が運ばれてきて、どこに置いてもらうか指示を出した。
ベッド、ソファ、冷蔵庫、洗濯機、仕事用の机と、追加で買った本棚と。
全部済んだら、ごみだらけになってしまった。
用意したゴミ袋がなくなってしまいそうだ。
「バイト代全部使いきっちゃったんじゃないか?」
良太郎は心配してくれたけど、大丈夫。
一生懸命働いた甲斐があって、結構いろんな出会いがあったから。
しょっちゅうやって来られて迷惑はしていたんだけど、ノイエには感謝している。
ノイエはさすが、幸せの使者の息子なだけあって、時々羽根を落としていくんだけど、そのあとには必ずいいことがあった。
仕事を評価されたり、新しいお客を紹介してもらえたり、いつきがかわいい服でやってきてくれたり。特別にものすごくいいことばかりが起きるんじゃないけど、あの白い羽根にはきっとそういう効果があるんだと思っている。
「そっか。俺も誰か紹介できそうな人がいたら、声かけるからな」
「ありがとう」
良太郎にもなんだかんだ世話になりっぱなしだな。
俺は違うけど、いつきとは同じ大学で、困ったときには力になってもらったから。
当たり前なんだけど、既婚者とは思われないから、結構声をかけられたりしていたらしい。
粉をかけようとしてきた男は、大体良太郎が禍根を残さない形で追い払ってくれている。
「いつでも遊びに来てくれ」
「呼ばれなくても来るよ。でも、半年くらいは遠慮しようかな?」
「どうして遠慮するの?」
「いいから。一路もしばらく来ちゃだめだぞ」
午後三時近くなって、ようやくいつきがやって来てくれた。
飲み物と、食べるものをたくさん抱えている。
「わ、もう全部届いたの?」
「大体ね」
「園田ちゃん、はやく来てあげな。あんなでっかいベッドで一人寝はさみしいだろうからさ」
一路は黙ったまま俺をじいっと見つめている。
もういいだろう、兄貴は。一緒に寝るのはさんざんやったから、これからは遠慮してもらうぞ。