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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説

メンタルステッチ

作者: うわの空

 青白い顔をした彼女が診察室の扉を開くのは、これで何度目だろうか。

 僕は彼女の顔を見るなり、視線を左手首に移した。――いや、もしかしたら今日は右かもしれない。あるいは脚。


「本日はどうされましたか」


 とりあえずそう訊ねておくものの、彼女の用件はいつだって一緒だ。


「切り傷ができました」


 正確に言うのなら「切り傷を作りました」であることを、僕は重々知っていた。




 傷を見るのが怖い医者、というと頼りないとかおかしな奴だと思われるだろうか。

 僕は昔から、『傷』がとても怖かった。擦り傷でも切傷でも打撲でも、とにかく目に見える傷が怖くて仕方ない。『傷痕』ならば問題ないのだが、『生傷』を見せられると気絶しそうだった。自分のものはもちろん他人の傷ですら早く治ってほしくて、かいがいしく治療したり、他の人間が笑うような切傷(紙で切ったとか)にでも絆創膏を貼っていた。傷を放置できる人間が不思議で仕方がなく、そのような人間を見ると「早く治せよ!」と叫びたい気分にかられたし、実際に叫んだこともある。

 そんな僕が医者になろうと思ったのは単純明快で、自分の苦手な『傷』をできるだけ早く、綺麗に治す人間になりたいと思ったからだ。つまり、人のためではなく自分のためだった。誰かのために医者になったという同僚を、僕は心の底から尊敬する。


 傷を積極的に治療したい僕は、外科医になることを選んだ。問題は手術であり、治療の一環とはいえ自分が人に傷をつけるのだと考えるだけで泣きだしそうだった。僕にとって重要なのはメスではなく、縫合糸のほうだ。いかに素早く、綺麗に治せるかどうかが大切だった。

 努力の結果、外傷の治療だけはうまくなった。特に、自分の縫合技術は日本一だと自負している。なんなら縫合専門の病院でも立ち上げたいくらいだったが、需要を考えて「整形・形成外科」をかかげることにした。


 何故、人の傷がこんなにも気になるのだろう。いつから気になりだしたのかも、もう覚えていない。

 ただ、誰かの傷を見ると放っておけなかった。




 今まで散々見てきた、彼女の左手首を見る。彼女との出会いは印象的で、今でも鮮明に覚えていた。

 二年前の春、ここに訪れた彼女は「切り傷なんですけど」とだけ言った。包丁か何かで切ったのかと思った僕は、彼女が左手首を僕に向けた瞬間に『リストカットだ』と直感した。もちろん、左手首を怪我する人間だっている。なのに僕は彼女を見た瞬間、そう決めつけていた。そして事実、それはリストカットによる切り傷だった。

 彼女が袖をまくる瞬間、僕はわずかに身構えた。理由は簡単で、リストカットの傷は大抵『ひとつ』では済まないからだ。傷を見るたびに内心で絶叫している僕は、数秒後に見るだろう傷たちにそなえて呼吸を整えた。

 しかし、彼女の傷を見た僕は息をのんだ。深さだとか切り方だとか多さとか、それ以前の問題で。


 彼女は、自分の腕を自力で縫っていたのだ。


 恐らくは裁縫セットを使ったのだろう。黄色の刺繍糸――血で赤茶色に染まっているそれは、彼女の傷をがたがたに縫い合わせていた。人形のように祭り縫いにされたそれは、お世辞にもうまいとは言えない。当然だ。だって彼女は、自力かつ片手で縫ったのだから。


「片手だと玉止めができないって、縫ってから気づきました」


 深刻な顔で、冗談みたいなことを言う。僕は口を半開きにした。


「……これじゃ、くっつきませんか」


 不安という単語すら知らなさそうな平坦な声で、彼女は言った。――くっつくどころか悪化するだろう。化膿するのは目に見えている。


「このままだと化膿してしまいますよ。縫合の必要があります」


 僕はそう言いながら、彼女のカルテを見た。十六歳。


「今日、親御さんは?」


 訊ねると、彼女は首を振った。


「待合室にいます。散々怒られました。きっとしばらく、口もきいてくれない」

「失礼ですが、精神科か何かには通われていますか」

「はい、駅前のメンタルクリニックに。でもそこ、外科は併設されてないから」


 なるほど。それなら僕は、縫うことだけに専念すれば良さそうだ。家庭の事情に首を突っ込む必要もないだろうし、そんなことをして彼女の精神状態を悪化させるのもよくない。メンタルの事は、メンタルの専門家に任せるに限る。

 深呼吸し、改めて彼女の傷を見た。自力で縫われていても、ある程度の深さであることが分かる。傷の長さもそれなりだ。……自分の腕にこの傷ができたら、僕は間違いなく失神するだろう。

 彼女を診察台に案内しながら思わず、気になったことを訊ねた。


「自分で切ったり縫ったりして、痛くなかったの?」


 診察台に寝そべった彼女は、蚊の鳴くような声で「別に」とだけ言った。自傷について、痛くないと答える人間は多い。エンドルフィンの関係で、痛覚が麻痺しているのだろうか。

 局所麻酔の際に邪魔になるので、彼女お手製の祭り縫いは取り外した。その時ですら、彼女は痛いと言わなかった。とはいえ、縫合も麻酔なしでとはいかないだろう。


「イソジン、4-0、10ミリ」


 僕の言葉に、看護師はてきぱきと動いた。イソジンで消毒し、局所麻酔を打つ。痛みがない事を確認して、僕は縫い始めた。傷口が開いていることや部位も考慮し、垂直マットレス縫合を採用する。

 出来る限り焦らず、素早く、綺麗に、丁寧に。一針縫うごとに糸を切るのだが、糸を切る時も慎重にやる。どこかで手を抜くと、傷の治りが遅くなるのではないかという強迫観念のようなものがあった。

 そうして十二針縫ったところで、僕は顔をあげた。


「気分は悪くないですか? 終わりましたよ」


 十二針。等間隔で並べられた縫い目は、何故か僕の心を落ち着かせた。

 彼女は僕の顔をちらりと一瞥し、けれども何も言わなかった。看護師の手によってあっという間に包帯で巻かれ、見えなくなる線。


「化膿どめを出しておきます。傷の経過も見たいので、しばらく通院してください」


 早く綺麗に治ってほしいがため、僕は出来る限り通院するよう言ってしまう。僕の言葉に彼女は無言で頷くだけだった。


 大体の病院では一週間程度で抜糸するが、僕は傷の様子を見て、九日から二週間程度は待つ。そもそも縫ってから一週間というのは、傷口が緩み、開きやすくなっている時期でもあるのだ。決して油断はできない。「他の病院では一週間で抜糸でしたよ」と言われるたび、そこで無理をして傷が開いたらどうするのだと、僕は気が気でない。患者からすれば、僕はとても利己的な医者に見えるかもしれないし事実そうかもしれないが。

 彼女の傷は二週間、様子を見た。やがて表面も落ち着き、どう考えても安全だと判断できたところで十二針一気に抜糸をした。抜糸し、傷が開かなかった時ほど、僕がほっとする瞬間はない。

 ところが抜糸した次の日、彼女はまた僕の元へとやってきた。


「昨日抜糸した傷が、なにかありましたか」


 一抹の不安を抱えてそう訊くと、彼女は首を振った。


「切り傷ができました」


 いつも通りの仏頂面で、彼女はロングスカートをひらりとめくった。ふくらはぎに縦線が一本。縦線と称したが、そんな可愛らしいものではなく、口を開いていると言った方が正しいものだった。ふくらはぎの傷のように僕もまた、ぽかんと口を開いた。彼女は無表情だ。


「とりあえず、自分で縫うのはやめました。でもこれ、縫合した方がいいんですよね」


 それは質問と言うよりも、確認だった。僕は頷く。脂肪層まで見えているのに、放置するわけにはいかない。

 そうして彼女はまた、診察台で僕の処置を受けた。

 それからというもの、彼女は何度も何度も僕の病院を訪れるようになった。ある時は首だったし、ある時は腹だった。いずれも自傷だ。切る場所は、左手首で固定していないらしかった。




 今日の傷は左手首。血管とは垂直になるようにできた傷が二本、並んでいる。この手の傷は、治るのに時間がかかる。一方の傷が塞がろうとすると、もう一方の傷を引っ張ってしまうからだ。


「ふたつとも縫合ですね」


 僕はさらりと結論を出した。彼女は無言で頷く。ここの常連になれば、どの程度の傷で縫われることになるのか判断できるようになるのだろう。更に彼女は、独り言のように呟いた。


「イソジン、4-0、10ミリですか」


 僕は苦笑した。


「その通りですけど……できればそんな知識、覚えない方がいいと思いますよ。自分を傷つけることに、慣れてはいけません」

「でも」


 彼女は僕をまっすぐに見た。


「先生は、傷を縫うのが好きですよね」


 僕もまた、彼女を見た。相変わらずの無表情で、何を考えているのかは分からない。

 まさかとは思うが、依存されているのではないだろうか。彼女は、僕に縫合されたいがために切っている? ――まさか。

 彼女は、「私の事が好きなんですよね」とは言わなかった。「傷を縫うのが」と言った。それはある意味的確で、けれども間違えている。

 僕は縫合そのものが好きなのではなく、傷が治る瞬間が好きなのだ。


「先生はどうして、人を縫おうと思ったんですか」


 この言葉に僕はぎょっとした。「どうして外科医になったんですか」ではない。「どうして人を縫おうと思ったんですか」だ。彼女は確かにそう言った。


「……人を縫おうと思った、というのは語弊がありますね。父が外科医だったので、それの影響が大きかったんじゃないでしょうか」


 父が外科医だと言うのは本当だが、父の影響は全くと言っていいほどない。何故なら両親は僕が三歳のころに離婚しており、僕は母に引き取られたからだ。母はただのパートタイマーで、医療には一切通じていなかった。それに、小さな傷なんかじゃ動じない人でもあった。

 親の影響、という僕の答えを聞いても、彼女は無表情だった。

 かと思えば、すうっと息を吸った。


「先生は……本当は『治してほしい傷』が『自分の中に』あるんじゃないですか。でもそれを言えなくて、あるいは見つけやすい場所にその傷はなくて、だから他人の『見える傷』を治すことに必死になってるんじゃないですか。他人の傷と自分の傷を重ねて怖くなって、だから少しでも早く治ればいいと思ってる。綺麗に治したいと思ってる。――人の傷が治るのを見て、自分の傷も少し塞がったような気分になってるんじゃないですか」


 言葉を失う僕に、彼女は初めて笑った。


「私、中二病臭い」


 自分にツッコミをいれて、彼女は診察台へと向かう。僕は看護師に「いつもの」と頼む。看護師はもうとっくに慣れていて、「いつもの」が「イソジン、4-0、10ミリ」であることを知っていた。




「……私、精神科医になろうかな」


 施術後、彼女がぽつりと呟いた。


「どうして?」

「先生も、本当は縫ってほしいんでしょう?」


 診察台から起きた彼女が、僕の左胸に手を添える。


「ここ」


 そうして微笑み、本来ならば僕が言うべき言葉を口にした。


「――お大事に」

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