プロローグ
『銀河鉄道の夜』という本を読んだことはあるだろうか。単刀直入に言うと、私はその本が嫌いだ。
『銀河鉄道の夜』とは、かの有名な宮沢賢治が、何度も推敲を重ねた結果生まれた名作である。
数多くの人に愛され、何度も映画化やアニメーション化、演劇化が成されている、文句なしの不朽の名作だ。かく言う私も何度もプラネタリウムでこの作品を楽しんできた。
それなのに、私はこの作品が嫌いだ。名作を名作と称えはするも、嫌いなものは嫌いだ。正確に言うと、作品そのものが嫌いなのではなく、主人公のジョバンニが嫌いなのだ。
ジョバンニは孤独な少年である。家が貧しく、母が病で臥せっているために学校が終わればすぐに仕事へ行き、そのために友人はほぼ皆無。むしろいじめられていた。
そんな彼が私の陰気なところに重なり、フィクションの中の人物であるにも関わらず、私は彼をひどく嫌悪した。同族嫌悪というものだろう。実際は紙面を相手にするのに、私は鏡と向き合っている感覚がした。
私にも、少年ジョバンニと同じく、親しい友人と呼べる相手はほぼいない。いるとすれば、幼馴染みの同い年の女の子くらいだ。この本を読もうという気になったのも、その彼女から熱心に勧められたからである。
相手に強気に出られると尻込みしてしまう私は、上手い断り文句をつけることもできず、渋々ながらにページを開いた。
吐き気がした。不幸な運命にいるからと空想に酔い痴れる少年と、お熱い友情を誓い合う二人の少年達に。
私はリアリストだ。おとぎ話に満足する年齢はとうの昔に卒業している。絵空事を自身に重ねて喜びを感じるような幼稚な子どもではない。
私の苦い思いを理解したければ、一度本を手に取ってもらえるといい。あらかじめ言っておくと、読んだからといって私と同じ気持ちになるとは限らない。この感情は限られた人間にしか共感できない代物だからだ。
私がなぜこれほどまでにリアルについて拘るかは、ここで追究するべきことではなかろう。けれど知っていて欲しいことは、何者も関係なく、ただ私はジョバンニという存在を嫌悪したという事実だ。
後日、幼馴染みに期待いっぱいの瞳で「どうだった?」と感想を求められた時、私はただ憤りを込めた声で「ちっとも面白くなかった」と告げた。彼女は何か失敗したように、もの悲しげに睫毛を伏せて本を受け取った。
夜空を見上げても、星の海の中を泳ぐ鉄道などない。冷静に現実を見つめれば、そこにファンタジーなど存在しないと簡単にわかる。
私の中であの本は、憎き仇そのものだった。
私は理想が嫌いだ。