あんなところに山は無かった②
朝になっても、“山”は止まらなかった。
夜の間にさらに近づいている。
壁の外、ほんの数十メートル先まで赤黒い隆起が迫っていた。
臭いが、街の中に流れ込んでくる。
鉄と腐敗が混じった、生臭い匂い。風向きの問題ではない。存在そのものが、空気を汚していた。
人々は壁の上に集まり、黙ってそれを見下ろしていた。
もう誰も山とは呼ばない。
民兵が壁の補強を始めた。
石を積み、木材を打ち付け、即席の支えを作る。意味があるかどうかは分からなかった。
「少しでも時間を稼げれば……」
誰かがそう言ったが、その声には確信がなかった。
俺は門番の男を見つけた。
初日に話したあの男だ。壁の上で、無言で外を睨んでいる。
「……ここ、守れると思いますか」
問いかけると、男はしばらく黙ってから、首を横に振った。
「分からん。でも」
そこで言葉を切り、街の中を振り返る。
「守りたいとは思ってる」
それ以上、何も言わなかった。
昼前、“それ”が壁に触れた。
衝撃はなかった。
音も、大きくはなかった。
ただ、壁が歪んだ。
押されたわけじゃない。溶けるように形を失っていく。
壁の一部が地面へ沈んだ。
悲鳴が上がる。
民兵が武器を構えるが、撃てない。撃ったところで、何が変わるというのだろうか。
街の中に、肉が入り込んできた。
地面が柔らかくなる。
石畳の隙間から、赤黒いものが滲み出す。
「……逃げろ!」
誰かが叫んだ。
それが決断だった。
街は、一斉に動き出した。
荷物を持つ者、家族を抱える者、何も持たずに走る者。
俺たちも人の流れに身を任せた。
振り返る余裕はない。立ち止まれば足元が信用できなくなる。
市場の通りを抜けるとき、真白が足を止めかけた。
俺たちが世話になった宿屋がそこにあった。
あの時スープをくれた、何日もお世話になった女将さんが戸口に立っている。
女将さんは何か言おうとして、結局何も言えずに立ち尽くしていた。
真白は一瞬だけ目を合わせて、頭を下げた。
それで終わりだった。
街の外に出たとき、振動が一段強くなった。
背後で、何か大きなものが沈む音がする。
人々は丘の上まで逃げた。
息を切らしながら、全員が同じ方向を見る。
街が、消えていく。
壁はもう形を保っていない。
建物は崩れるのではなく飲み込まれていく。
肉の塊は、ゆっくりと広がり、街だった場所を覆っていく。
遠目にはただのなだらかな地形に見えた。
「……なくなっちまった」
健人が呟いた。
誰も返事をしなかった。
否定しようがなかった。
あれは街を壊したのではない。
ただ、上書きしただけだ。
人が住んでいた場所を、
生活があった痕跡を、
最初からそうだったかのように。
しばらくして、“それ”は動きを止めた。
丘のような形になり、ただそこに在り続ける。
あそこには二度と誰も近づくことはないだろう。
夕方、俺たちは歩き出した。
街の人々とは自然に別れた。
行き先を決める者もいれば、その場に座り込む者もいる。
それぞれが、それぞれの現実に向かっていった。
振り返ると、街のあった場所には赤黒い丘が残っている。
夕日に照らされて、静かに脈打っていた。
「……どうしようもなかったのかな」
真白が消え入りそうな声で言った。
俺は答えなかった。
健人も黙ったままだった。
世界は変わる。
誰にも相談せず、説明もなく。
俺たちは街があった場所に背を向けて歩き出した。
街があったことを知っている人間が、一人でも多く生き残るように。
それだけを、願いながら。




