我が家に理事の座だけは渡したくはない - 2
一一月に入ってすぐのこと。
「ねえ、勝、掲示板に排水管清掃のお知らせが張ってあって、指定された時間帯に在宅するようにって書かれているけど、その指定された時間ってどこでわかるのかな?」
妻が一階の掲示板に張られた排水管清掃のお知らせを見たのですが、作業員が来る時間がわからないという。普通は各戸の郵便受けなどに作業時間が指定された通知が入るものですが、我が家の集合ポストにも郵便受けにも入っていないようです。
「うちは該当しないのかもしれないね、転居したばかりで掃除の必要がないとかさ」
「なるほど! フルリフォームして配管もやり直しているから必要ないのかもしれないね」
リフォームされた状態で入居しましたが、売り主の不動産屋に聞いたところでは、もともとはカウンターキッチンだったたけど、キッチンの場所を変えて配管も変更している。つまり、配管の清掃が必要ないのかもしれないと僕も妻も考えたのです。実際にはキッチンの排水管は新設だけど、それ以外の屋内の排水管には手が入れられていないのですが。
「ねえ、勝、じゃあその日は実家に行ってきてもいい? お庭でイモ掘りしてくるよ」
「日曜日は僕は仕事だし、佳奈はゆっくりしておいで」
「よし! たくさん掘って、いっぱい持って帰ってきて、いっぱい食べて、そしていっぱいオナラするぞ!」
「オナラは遠慮するよ……」
「あら、私のフローラルなオナラは好みじゃありません?」
「オナラはオナラだろ……」
二週間後の日曜日に排水管の清掃が行われ、翌月曜日に郵便受けに一通の通知が入れられていた。
〝配管清掃はすべての住戸で一斉に行うもので、一戸でも清掃しないことで悪臭やつまりが発生することがあります。今回の排水管清掃で協力を得られなかった各戸は自費で排水管清掃を行い、清掃を行ったことを証明する領収証のコピーを管理員まで提出してください。〟
そして協力が得られなかった住戸の部屋番号が列挙されていた。もちろん我が家の番号も含まれている。
「自費で業者に排水管の清掃を依頼して、その証拠として領収証を出せってことみたいだな」
「だって、うちは時間の指定なんてされてなかったよ」
「これひょっとしたら、わざと排水管清掃の時間を知らせなかったのかもしれないな」
「え? わざと? いじめにあってる? 村八分? あっ、土尻さんが言ってたやつだ!」
たしかに古くからの住人たちがかたまって好き勝手に行う振る舞いは〝村〟そのものかもしれない。正確に言えば〝マンション八分〟と呼ぶべきかな。
「このマンションの古くからの住人たちは、僕や佳奈のことが気に入らないのだろうな」
「下のおばあちゃんとのことや、前の管理員さんを追い詰めたこととか?」
「そうそう、俺たちの仲間を邪険に扱いやがって! だったら仲間全員で仕返ししてやる! みたいな」
世間一般のマンションではお隣のこともわからないし興味がないというお宅が多く、無関心すぎることの弊害などが語られることもありますが、少なくともマンションブリーザ幕路の古くからの住人の多くは一致団結しているように思います。
ただし団結力が強すぎて、自分たちの意のままに行動してくれるお宅は別に良い、歯向かって来たり拒否してくるお宅は潰しにかかる、そんな昔の〝村社会〟が再現されているようにも思います。
「佳奈は前に清掃員に言われただろ、おとなしくして、理事や昔からの住人の言うとおりにしていれば快適に生活できるぞって。おとなしくしていないから、こういう目に遭ったということだろうな」
「相手はこんな作戦で実力行使に出てきたってこと?」
「そうだろうな、一月ほど前に選挙の戸別訪問で下の角畑さんたちを僕がたしなめただろ。たぶん古くからの住人たちはあれを宣戦布告と捉えているんだよ。だから向こうにすれば売られたケンカを買っただけみたいな感じなんだ」
団結力が強く、仲間がやられたから仕返しだ! そんなノリなのでしょう。まさしくマンション八分。
「でもさあ、通知書を配布するのは管理組合や管理員の仕事でしょ? それを放棄するのも酷いことだと思うよ」
今回の件ですぐに管理会社へ相談すれば良かった。以前の管理員といい、今回の管理員といい、嫌うのは勝手だけどこっちは金を払っているんだから仕事はしろって言えるわけですしね。今の管理員も古くからの住人たちの掌の上で踊らされているということでしょうか。
「管理員や管理組合にきちんと仕事しろ! って言ったら、今度はもっと酷い仕返しがあるかもしれないな」
「でも、やられっぱなしで我慢するのも嫌だよ」
「もちろん! いずれは仕返しするぞ!」
「うん、やられて黙っているわけがない! 倍返しだ! ところでいい方法ってあるの?」
「管理員に文句言って、管理会社に電話してじゃ前と同じだし、対策を練られているかもなあ」
「私また牧落さんや聖子さん(土尻さんの奥さん)に聞いてみるよ、たぶん同じような経験があると思うから。逆に倍返しでもっと酷いことされたらたまったものじゃないもん!」
「いつものことなのよ、お知らせや通知が入っていないなんて」
土尻さんのお宅でおしゃべりを楽しんでいた妻たち。
「土尻さんのお宅には入らないのね、うちは通知だけは入っているかな」
「牧落さんのお宅には通知は入るんだ、うちには騒音や振動とかの苦情のお知らせは入れ忘れないのにね」
清掃員さんが見張っていたのに、牧落さんのお宅には通知は入るのか。ちょっと不思議――。
「古くからの住人から見ると反対派になるのかな、古い住人とは逆な人たちだと認定されると通知なんて来ないのかもしれないわね。うちはギリギリセーフなのかな」
「ただの庶民派のつもりだったのに、転居してすぐに反対派に出世しちゃったのか……」
古くからの住人から見れば反対派になるそうだから、古くからの住人は体制派とか擁護派になるのかなと思っていたのですが、このマンションでの考え方に沿っているから自分たちで主流派と呼んでいるようです。どちらにも区分されないお宅は中立派だそうで、住人を三つに区分けしているらしい。
もちろん古くからの住人でも主流派ではないお宅もあるし、逆にまだ入居して数年だけど主流派のお宅もあるそうです。土尻さんは前者で最も古い住人のうちの一軒ですが、反対派のようですから。
「竹盛さんの場合はもう一つ違う意味も込められているのよ」
「聖子さん、どういうことなんですか?」
「理事の順番が回ってくるからよ」
このマンションの総戸数は一四四戸で一二戸ずつ一二のグループに分かれている。各グループから一戸ずつ二年任期で理事に選任されるのが基本で、来年初めに任期の切れる六グループで理事が交代する。
ただし賃貸のお宅は理事にはなれないし、貸し出している人も居住していないから理事にはなれない。七〇五号室から八〇四号室までのグループは今は七〇八号室が理事で来年交代。七〇九と七一〇号室は賃貸で入っているから、七一一号室が来年理事になる。
「え? うちに理事の順番が回ってくるんですか?」
「そっかあ、だから竹盛さんに圧力が掛かっているんだ」
主流派に目を付けられるとみんな同じ目に遭い、特に理事選出の前年は酷いらしい。我が家にも来年は理事の順番が回ってくるため、しばらくの間はいろいろな苦情に見舞われるという。ごみの出し方が悪い、分別できていない、音や振動、そして臭いのこと。酷くなると廊下を歩く足音がうるさいと苦情が送り付けられるという。
「それをやめさせる方法ってあるんですか?」
「うん、あるわよ。仕事が忙しくて理事会に出席できません、理事の選任は理事長に一任しますって届けを出せば丸く収まるわよ」
理事長に理事の選任を一任するという変わった制度が管理規約にあるため、一〇年以上も理事を続けている主流派住人が誕生するのです。
「理事の選任を理事長に一任すれば、理事長が好きな理事を選ぶことができる。簡単に言えば理事長たちの思いどおりに理事会を運びやすくなるのよ」
「そうやって仲良しグループの人たちが理事にずっと居座って、好きなようにマンションを運営しているのですか? だから今は圧力を掛けてくるんだ」
「そういうことなのよ、近いうちに今の理事長のお仲間住人が訪れると思うわよ」
主流派の中でも理事長に近い一派の住人が我が家へやってきて、次期理事会の理事になれる権利を理事長に一任してほしい、そういうお願いでやってくるということです。
「うちの旦那は土日は仕事だから、理事が回ってきたらどうしようかなって思っていたのですけど、まさかこんなに早く回ってくるとは思わなかった、どうしようかな……」
「大丈夫よ、うちはあと一年理事だから、竹盛さんが理事会に出てもバックアップするわよ。と言ってもうちはほとんど主人が出席するけどね」
「聖子さんのお宅は今理事なのですか、だったら人任せにせずに理事しようかな……」
「うちも来年から理事なのよねえ、これまではずっと一任してたけど今度は出てみようかな……」
「牧落さんのお宅も来年からですか! だったら私も理事を頑張ってみようかな。一緒に出ましょうよ!」
仕事から帰宅すると、妻に真っ先に来年理事が回ってくることを伝えられた。
「でもね、牧落さんも来年からで、聖子さんはあと一年理事だから、勝が出席できない時は私が出るよ」
「佳奈が出るの? 本当に?」
「うん、〝佳奈、行っきまーす!〟一部の人の勝手な振る舞いを許せないから」
しかし来年大規模修繕工事が実施されるというタイミングで、我が家に理事が回ってくるとは――。
ただ前回の大規模修繕工事のように、見積りの時点で相場より高いなんてことは避けなければいけない。だってあらゆる物の値段が上がっている昨今、今の管理費や修繕積立金の徴収額だけでは絶対に足りなくなる未来が見えている。
なのに前回の工事のように相場より高い金額で工事を実施したら、本当に近い将来お金が足りなくなって、とんでもないことになるはずだ。まさかすでに相場より高い見積もりを了承しているなんてことはないだろうな……。
「いきなり各戸に多額の一時金の負担とか、管理費や積立金を大幅に値上げしなきゃ維持できなくなるなんてなったら、今度はマンションを売ろうにも買い手が見つからないなんてことになるよ」
「そっかあ……、今って管理費はどんな感じになっているんだろうね」
九月に入居したところなので、我が家では現在の管理費や積立金の状況がわからない。決算や予算はこのマンションでは二月の総会で資料が配られる。
「前回の大規模修繕工事でなぜ高い工事費になったのかは知りたいな。それと、積立金以外の管理費は正当に使われているのかも知りたい。そのあたりにずっと理事を続けたい人がいる理由がありそうだしね」
「そうよね、今の理事さんたちがどういうことをしているのか、全然わからないもんね」
「それでもって、管理員や清掃員がなぜ今の理事たちにとって都合よく動いているのか、そのあたりもできれば調べたいよ」
「うん、〝真実はいつも一つ!〟理事になってできるだけ調べて、改善する部分は改善していきたい。これから先もこのマンションで暮らすわけだしね」
「本当にそういうこと、これから先の我が家の命運まで握っているからな」
「うん、私できるだけ探ってみる」
「がんばれ、佳奈探偵!」
「私は〝竹盛佳奈、探偵さ!〟」
一二月に入ると我が家に対して様々な苦情が出ていると管理員に通告されたり、直接手紙としてポストに入れられることも。
〝いくら昼日中であっても、六階の方はお年を召し屋内ですごすことが多いのだから、うっかりであっても物を落とさないように気を付けてください。いきなり頭上からの音と振動で心臓が止まりそうになる。〟
〝掃除機を掛ける時間はもう少し考えてほしい。六階の方は毎朝一〇時は亡くなったご主人を偲ぶ時間だから、その時間帯に掃除機に掛けないようにしてほしい。〟
〝廊下を歩くときは足音を立てずに歩いてほしい。靴を擦りながら歩くためかその音がかなり響いてくる。〟
〝早朝や夜九時以降に走り回る音が響いてくるが、いったい何をしているのか。もう少し集合住宅に住んでいるという自覚を持って生活してほしい。〟
ある日、下からドタバタというかなり大きな足音が聞こえてきたので妻と六階へ行って確認すると、角畑さんのお隣の六一〇号室から子供の奇声と走り回って響く音が聞こえてきた。
当然すぐに角畑さんに逆にクレームを入れ、うちではなく隣なのだから隣に文句を言えとインターホン越しで怒鳴ったりもしましたが、それでも苦情は止まりません。
「佳奈、これが理事長に一任するかどうかって話だよな」
「うん、私たちはこういうことが起きるよって事前に聞いていたから落ち着いていられるけど、何も知らずに濡れ衣まで着せられたら、この家を出るか我慢するかの選択になっちゃうよね」
「本当に、こんな仕打ちを受ける理由を何も知らなければ、精神的に病んじゃうぞ。賃貸で入っている人は転居すればいいけど、買って入っている人は簡単に動けないからなあ」
「絶対に負けないもん! 右京さんみたいに〝必ず、追い詰めてみせます〟」
「しかし、こんな調子じゃ子供ができても育てられないよな」
「うん、本当に……、でも欲しがりません、理不尽な古くからの住人に勝つまでは!」
かなり寒くて手足が冷え切った状態で仕事から帰って来た一二月のある日曜日。暖まるためにココアを飲んでくつろいでいるところにインターホンが鳴った。
妻が出ると一〇〇一号室の徳原さんで話があると言う。日曜日の夜一〇時だから普通は急用でもなければ訪れてはこないはずだが、僕が帰宅する時間帯を狙って来たのでしょう。
「こんな時間に何の用事かな?」
「一〇〇一号室の人って市長選の時に投票依頼してきた人だろ?」
「でも今日来ているのは男の人だけど、旦那さんなのかな?」
「だいたい察しはつくよ」
そう言って妻といっしょに玄関先まで歩いて行き、対応することにしました。
「こんばんは、夜分遅くすみません。来年二月ですが新理事会の発足がありまして、順番だとGグループからは竹盛さんのお宅が理事になるのです」
「そうですか、私か妻のどちらかが理事会に出席すればいいんですよね」
「はい、そうなのですが、理事長に一任することで別の方に理事をやってもらうこともできますので……」
「ですから、私か妻のどちらかが出席すればいいんですよね」
初めから理事長に理事の選任を一任してほしくて来たのはわかっていたけど、僕がそう簡単に理事の座を譲ると思っていたのかな。それとも、ほかの主流派住人の誰かに、我が家の理事の座を奪い取って来いとでも言われていたのかな。とにかく執拗に理事の座を手放すように説得してくる。
「竹盛さんは大手スーパーの、それもあの大きなショッピングモールの副店長をされているそうですから、なかなか理事会活動は難しいのかなと思いまして……」
「ちょっと待ってください、なぜあなたは私の勤務先や役職までご存じなのですか?」
「そのようにお聞きしましたから……、えっと、連絡する必要があるので管理員から……」
「おかしいですね、そんなに詳しくは居住者名簿に書いていませんよ」
僕が居住者名簿に書いたのは、社名と本社の所在地、それと連絡先として会社で持たされている携帯の番号だけ。だから、勤務している店舗名や役職名は、管理員室内に保管されている居住者名簿を見たところでわからないのです。
「いえ、あの、本当に管理員から聞いたのですが……」
「そうですか、個人情報をねえ」
今回の理事の話をするだけで、そんなに簡単に管理員が個人情報を他の居住者に話したというのは大問題です。居住者名簿には個人情報保護法を順守する旨が明記されています。僕は居住者名簿を提出する前にコピーしてパソコンに保存しているのですぐに確認することもできます。
さすがに個人情報の取扱い方が杜撰すぎるので、管理会社に詳細を報告して調査してもらう必要があると考えました。
「あの、とにかくですね、理事長に一任していただければ……」
「理事会には妻が出席できますから、理事長に一任する必要はありませんので」
僕は挨拶もせずに玄関のドアを閉めて、リビングへ戻った。
「ねえ、勝、さっきの勝の個人情報だけど、あれって……」
「うん、ごみ袋を開けた清掃員が調べた情報だよ。たぶん管理員室に別の居住者名簿があるんだろうな」
「女スパイのジェーン・スミス清掃員の仕業よね。〝まいうー〟って言うアンジェリーナ・ジョリーめ! でも元はと言えば、私が書類を全部そのままごみとして出したのがいけなかったんだよね、ごめんね、勝」
「いや、逆に良かったのかもしれないよ」
「どうして? 全部ばれちゃってるよ」
ごみ置き場にごみとして捨てた時点で所有権はなくなっている。ただし捨てた人には管理責任があるし管理する権限がある。毒物を捨ててそれを食べた散歩中の犬が死んだ場合、捨てた物だから所有権はなく責任もないとはならない。
清掃員がごみ袋を勝手に開ける行為は分別のチェックなどで仕方がない面はある。しかし中身を見て勝手に個人情報を広めたり、管理員室で保存するのはプライバシーの侵害に当たる可能性がある。
もしも戦うとなると民事裁判でケリを付けなきゃいかない。
「裁判……」
「そこまではするつもりはないけど、ただプライバシーの侵害を平気で行っていることだけはたしかだ、さっきの徳原さんの発言で証明されたわけだよ」
「さっきの会話もボイスレコーダーに記録したの?」
「もちろん、ここの居住者や管理員たちと会話する時は必ずボイスレコーダーに記録しているよ。言った言わないでもめずにすむからね」
「〝アチャチャチャチャ……、お前はもう死んでいる!〟って感じで追い詰めていっているんだね」
「正攻法で真正面から戦っても、管理員や清掃員、そして主流派住人には勝てないと思うからな」
「野村監督が言ってたもんね、〝奇策だけでは勝てない。正攻法とうまく組み合わせ、弱者の戦術を用いながら、采配をふるっていかなければいけない。それが強者に勝つための方法だ〟相手は百戦錬磨の連合軍、わが竹盛軍は弱者だもんね。上手く組み合わせなければ勝てないもん」




