清掃員はスパイだった? - 2
翌日、牧落さんのお宅でお茶していた妻は、清掃員に脅しのような言葉を掛けられたことを話した。
「うちはそこまで露骨に言われたことはないけど、八階の土尻さんは同じようなことを言われたと聞いたことがあるわよ」
「それって、古くからの住人側に妥協しろ! みたいな意味で言われるのですか?」
「ええ、土尻さんのご主人は以前理事長ともめたことがあるのよ。前回の大規模修繕の工事費の見積りが高すぎるから、他の業者にも見積りを依頼するべきだと進言したのだったかな……、土尻さんを呼びましょうか?」
牧落さんは土尻さんにメッセージを入れると、すぐにやってきた。
「あの、初めまして、七一一号室の竹盛と言います」
「私はちょうど真上の八一一号室に住んでいます土尻と言います、物音とか気になったりしていませんか? うるさかったら遠慮なく言ってくださいね」
「今まで一度も気になったことはありませんよ、それに集合住宅ですからある程度の音は仕方がないですしね、お互い様ですから」
集合住宅で自分のことだけを考え、自分の考えを相手に押し付けて生活しようとするから、住人間のトラブルに発展するわけですね。何もかも我慢しての生活なんて絶対に無理だし、だからと言って一切妥協せずに生活すればトラブルに直結します。〝お互い様〟と言う言葉は死語なのでしょうか……。
「竹盛さんが昨日、清掃員さんに脅しのような言葉を投げ掛けられたらしいのよ、だからこのマンションではどのようなことが起きているのか、知ってもらうのもいいかなと思って……」
土尻さんのお宅はこのマンションができてすぐに入居したので最も古くからの住人ですが、他の古くからの住人とは反りが合わないのか、ここ一〇数年ほどの管理組合のやり方に異議を唱えているお宅です。
前回実施された大規模修繕工事では、当時の相場よりかなり高い見積りを出してきた当時の理事会に対して、もう一度別の業者の見積りを取るように進言したものの却下され、臨時総会でも理事会側が提示した高い見積りの案が通り、結果として多額の一時金も徴収された。
我が家と同じように土尻さんのお宅も管理員や昔からの住人達による嫌がらせが多く、駐輪場へのバイクの乗り入れ禁止のほか、騒音や振動の苦情を申し立てられるし、定期的に行う排水管の清掃や屋内の消防設備点検などの日程が知らされないなど、さまざまな被害を受けているという。
下の角畑さんからの苦情は何か言われたのかと土尻さんに聞かれ、転居前に玄関の鍵を交換したり家具や家電品を入れていると管理員を通じて苦情を言われたり、排水音がうるさいから夜八時以降の入浴はやめろと言われたことを伝えると、
「七一一号室は入れ替わりが激しいのよ。みんな六階の角畑さんに追い詰められて出て行っちゃうの。排水に異臭のするものを流したでしょ! うちまで匂ってくるでしょ! とか、いろいろな難癖を付けてくるわよ」
「そんなことまで言ってくるのですか? 今から憂鬱になっちゃいそう……」
このマンションの六一一号室の鬼門は上で、その鬼門に乗っかっている七一一号室は一般人は住んじゃいけないお部屋なのかもしれない――。
「土尻さん、今年は選挙があるから、あまり何も言ってこないかもしれないですよね」
マンションで何か選挙でもあるの? ミス・マンションブリーザ幕路を決める選挙なら出てみようかな――。
「そうそう、今年は市長選挙があるから、終わるまではおとなしくしているわ。その代わりこの候補者に入れてください! ってしつこく訪問されるわよ」
選挙って普通の議員さんとかの選挙なんだ、何かのグループとか団体で動員されているのかな、でも――。
「あの、角畑さんって足が悪くて歩くのも大変なんですよね」
「そんなの嘘よ、マンションから離れた場所で会ったら驚くわよ。普通に元気よく歩いているし、応援している立候補者の演説では大きな声で声援しているから」
「そうなんですか? 私も旦那も完全に騙されていたのかも……」
僕は玄関先まで普通に歩いてきた角畑さんを見て以降、この人の足は悪くなんてないと思っていたのですが正解だったようです。
「あの、清掃員さんはどうなんですか? よく監視しているし、ちょっと脅されたりしたから……」
清掃員は動き回って情報を入手してはマンション中にその話を広めていく、言ってみれば歩く放送局です。こういう人に内緒事を知られると、翌日にはこちらが知らない人にまで話が知れ渡り、迷惑を被ったり恥ずかしかったりするわけです。
「あの、それって、ごみ置き場のごみ袋を開けて情報を探したりもしますか?」
「もちろん、あの人はとにかくどこからでも情報を得ようとするのよ」
やっぱりそうやって給料明細や会社に関する書類を見つけては情報収集しているんだ、恐るべき女スパイのジェーン・スミス!――。
「古くからの住人の誰かが清掃員さんに、竹盛さんのお宅の情報が欲しいと言ったのかもしれないわね」
「今までの七一一号室の方って、言われたままおとなしくしている方ばかりだったけど、竹盛さんは明確に角畑さんにノーを突きつけたでしょ。それで狙われたのかな」
「旦那は理不尽なことに対しては、徹底的に対抗するタイプなもので……」
「うちの主人が感心していたわよ、一度会って話がしてみたいとも言ってたわ」
「牧落さんのお宅にお邪魔していたんだけど、うちの真上の八一一号室の土尻さんも呼んで、さらにこのマンションの深い闇の話を聞いたんだけどね……」
仕事から帰宅した僕は、前回の大規模修繕工事の金額の話から清掃員や角畑さんの話まで、妻が聞いてきたいろいろな話を聞いた。
「一〇年以上前の大規模修繕工事だけど、来年また修繕工事があるのに詳しい話が出てきたらまずいだろうな。まさか裏でお金が動いているとは思わないけど、長い間、理事を続けている人が何か企んでいるかもしれないな」
「マンションの理事会の一部の人だと思うけど、マンションを私物化している気がするの。かなり悪質だと思うし、よく表沙汰にならないものだと逆に感心するよ」
「本当にこれまでに転居していった人から、何らかの情報が漏れても不思議ではないんだけど」
大規模修繕工事の見積りが相場より高かったのに、その額で工事が行われたために一時金が徴収されたそうだが、どうして誰も文句を言わなかったのかが不思議だ。でも多額の工事って所有者の投票で可決されなきゃ実施されないわけだし、みんなが賛成したってこと? 僕には理解できないマンションだ。
そして清掃員が情報を集めているのは、我が家のことを知りたがる古い住人がいるからという話に妻が、
「古い一部の住人が反社の人で清掃員さんに、守ってもらいたかったら金を出せみたいな世界なのかな。お金ではなく各戸の情報を渡すとか、反社の人にとって都合よく動くことがお金の代わりになっているとか」
「そういう感じかもしれないな。しかし、こんなことが起きているとは夢にも思わなかったな」
「もうスーツをビシッときてサングラスを掛けた〝タカアンドトシ〟にレパードで乗りつけてもらって、拳銃をバンバン撃ってもらって突入してもらわないと解決しないわね。私はカオルでしょ、だから勝はトオルね」
「佳奈、それ〝タカアンドトシ〟じゃなくて、〝タカとユージ〟の間違いじゃないか?」
「そっかぁ! 〝タカアンドトシ〟だと〝欧米か〟になっちゃうね」




