管理員と古くからの住人の連合軍 - 2
「勝、いってらっしゃい! 新居から出勤するお気持ちは?」
「今までの朝とはちょっと違って、新入生にでもなった気分だよ」
昨日入居し今日からはこの新居から出勤します。まだ九月初めでかなり暑く清々しいとは言えない気候ですが、新居からの初出勤は気持ちとしては清々しいものです。
今日は九時出勤で七時までの勤務。昔は毎日一三、四時間働くのが当たり前だったけど、棚卸や売り場の配置換えのほか、大幅な商品入替えなどがなければ居残ることはほとんどありません。シフトで一二時間勤務の日もあるけどそれは変形労働時間制のためで、その分短縮時間勤務の日もあるなど上手く帳尻を合わせています。
ただ職場の人手不足は深刻で残業で残ってもらわないとお店が回らないのですが、本社からは社員には極力残業させずにパート従業員で回すように言われていますが、実際には社員もフル稼働してもらって何とか営業できている状態です。ただし店長は管理職で年俸制、残業時間はカウントされませんからほぼ時間無制限で働いています。僕の副店長という職名は本来はチーフに相当する職種で、店長の仕事の一部を受け持つようになったために職名が変えられたけど管理職ではない。でも単価が高いから副店長だけは残業をするなと本社から言われており、結局どっち付かずの副店長の僕だけが定時で帰ることが多いという、変な状態になっています。
駅前まで歩いて駐輪場に止めておいたスクーターにまたがり、勤務先まで風を切りながら走っていく。はじめて寝泊まりした新居、見慣れぬ風景、いつもとは違ってスクーターで出社。何もかもが新鮮で新しい生活が始まったことを実感する。それに、電車通勤よりバイクで通勤するほうが何だかいいなとも思った。
スクーターは同僚の女性社員が預かってくれることになり、ヘルメットは妻が使っていた物を手渡した。僕が今朝被ってきたものはロッカーの上に乗せ、いつになるのかわからないけどスクーターを返してもらう時まで放置することに。
仕事が終わり、帰りは電車なので駅へ向かって歩いた。いつもの癖で下りホームへ上がってしまいましたが、新居は職場からだと上り列車に乗車しなければいけません。仕事から帰宅する時のリズムが出来上がっているのでつい間違ってしまいました。
これまでとは逆方向へ帰るので、電車に乗っても今まで聞き親しんできた車内の放送とは違うので違和感を覚える。それに降りる駅はあと何個かなと考えたりするので、今までのようにリラックスしながら乗車するのではなく、不思議な緊張感を漂わせながらの仕事帰りとなりました。
家に帰ると妻が、
「勝、おかえり! 仮面ライダーになった気分で職場まで行くのはどうだった?」
「電車で行くより楽かもしれないな。バイクは同僚の女性に預けておいたよ。管理員は何か言ってきた?」
「ううん、何も」
管理員は何の動きも見せなかったようです。本当に消防法に半地下状態の駐輪場にガソリンが入ったバイクは止められない、に該当する条文があれば今日すぐにでもコピーして持参するはずです。まるで昨日で話はもう終わった、我が家なんて相手する必要がないと思われているのかな。それともただ見下していて、このまま黙ってフェードアウトすれば問題ないと思われているのだろうか。とにかく管理員に馬鹿にされているとしか思えません。
「ねえ、勝、残りの片付けをしながら思ったんだけど、このマンションって変わった人がいっぱい住んでいるのかな」
「管理員はこのマンションに住んでいるわけじゃないけど……」
でも下の角畑さんは変わっている気がするし、鍵を受け取った日に管理員用のトイレから出てきて妻にぶつかった人も変わっている。たしかに変わった人がいっぱい住んでいるのかもしれない。
とりあえずは仕事の疲れを洗い流そうと思い、通勤着のポロシャツやジーパンを脱ぎ捨てて浴室に入った。
昨夜はシャワーだけで済ませたので初めて浸かる浴槽。今までより浴槽がかなり広いし浴室全体のカラーもなんだか落ち着く色だ。しばらくは〝初めて〟が続くので感動したり戸惑ったりもするけど、やがて慣れてすべてが日常になっていくわけだ。
快適に暮らすためには早くすべてが日常になり〝普通〟になることが必要だけど、そうすると新鮮味は完全に失われる。常に新鮮味を求める人は転居を重ねるのかな。僕は落ち着いた生活を好むので、早くすべてが日常になってほしい。そんなことを考えたり、この浴室の売りの一つのミストサウナを使ってここ数日の疲れを癒した。
勤務中に小腹を満たすために、売り場のサンドイッチやおにぎりを買って休憩中に食べるので、家に帰ってからはいつも軽食で済ませている。でも浴室からダイニングテーブルまで歩いてくると、お造りとビールが並んでいた。
「ここ最近の忙しさもとりあえずはひと段落したし、引越しのお祝いも兼ねてご苦労様って言うことで、ね」
お互いのタンブラーにビールを注いで乾杯し、いい気分になったところで二人でベッドに潜り込んだ。
「ねえ、勝、これ見てよ! 六階の角畑さんがうちの集合ポストに手紙を入れていたんだけどさ、何だか一方的で朝から腹が立つんだけど!」
妻が一階の集合ポストまで新聞を取りに行くと手紙も入っていたらしく、その文面を見て憤慨しています。
〝夜八時を過ぎての入浴はやめてください。排水管を流れる水の音で目が覚めてしまい、朝まで寝付けませんでした。あなた方にとって夜八時はまだ早い時間かもしれませんが、私にとっては深夜の時間帯です。よその家の人間の安眠を妨害するような行為はやめてください。六一一号室、角畑恵子。〟
夜八時は深夜だから入浴するなという苦情です。もちろん一般的に深夜と呼ばれる時間帯に入浴して排水音がうるさくて眠れないという苦情ならば平謝りしますが、今時小学生や中学生でも塾から帰って来る時間が九時とか一〇時を回ってることも普通だし、それからお風呂に入ればもっと遅くなるのになんて考えてしまい、ちょっと一方的な苦情だなと思ってしまう。
妻はそれにプラスして、足が悪くて部屋の中の移動にも苦労し、インターホンに出るのも大変で玄関先まで行けないと言っている人が、六階から一階まで降りてわざわざ手紙を入れていることにも憤りを感じていた。エレベーターがあるので一階へ降りることはできるだろうけど、玄関先まで行くのが大変と言っている人が、六一一号室からエレベーターまでかなりの距離を歩いて行けるって、いったいどういうこと? と思ってしまうと。
郷に入れば郷に従えというのもわかるけど、管理員は入居時期によって差をつけ、下の角畑さんは夜八時は深夜だから入浴するなと文句を言うなど、結局は自分たちにとって都合の良いルールを後から入居した人に押し付けているだけ。まったく理由にもなっていないと思う。
「管理員と古くからの居住者の連合軍が、マンションブリーザ幕路の一部を侵略した竹盛家に対して奇襲攻撃を仕掛けてきたみたいね。連合軍対竹盛家の戦いが今始まる!」
仕事柄、クレーム処理はほぼ日常の業務の一環で対処法は身に着けています。こちらの従業員やテナントで入っているお店側の非であれば、とにかく頭を下げ続けることだってしています。ただし、難癖だったりあまりにも理不尽な要求であれば僕は徹底的に交戦します。そのおかげで同期入社の中では最も出世が遅くなっていますが、なんでもかんでも要求を受け入れるのも間違いだと思っているので、この考え方を変える気はありません。
「今日は早上がりで昼過ぎに仕事が終わるから、家に帰ってから反撃しに行くぞ!」
「こちらがおかしなことをして怒られたのなら謝りもするけど、夜八時にお風呂に入っただけで文句を言われたらたまったものじゃないわ! 〝悪党はボコる! どつく! 吐かせる! もぎ取る! すなわち佳奈と勝の総取り! 悪党とは等価交換の必要無し!〟だよね」
今回はこの先も住み続けることになるはずの自宅での話ですから、理不尽な要求に屈する必要なんて微塵もありません。六階の角畑家に宣戦布告されたのですから負けるわけにはいきません。本当に等価交換の必要性も感じません。
仕事の間もずっとどうやって反撃に出ようかと考えていたので、今日の短縮勤務はいつにも増して短く感じました。帰宅すると一時二〇分、カバンなどを置いて着替えもせずに敵陣地内へ攻め込みます。
妻も戦う気満々で付いてきました。階段で一つ下の階へ降り、角畑さんのお宅の前に立ちます。今日はかなり腹が立っているので、どうしてもインターホンを押す間隔が短くなってしまいます。いつもならば一回押してしばらく待つのに七、八回は連打していました。
「勝、その押し方は高橋名人ばりね」
激しくインターホンを鳴らしたためか、いつもよりかなり早くインターホンに出た角畑さん。
「七階の竹盛です、お話があるのですが」
またインターホン越しでの話で終わるのかと思っていたら、玄関先まで出て来られました。杖を突くといった状態ではないし、足腰が弱っているようにも見受けられません。それどころかお年のわりにはかなり元気なように感じるのですが、気のせいかな。
「夜八時にお風呂に入るなとはどういうことですか? 深夜でもなく、今時子供でも塾から帰ってきたらもっと遅い時間になりますよ」
「私は朝が早いもので、八時には床に就きます。八時過ぎに排水管の音がすると眠れなくなりますから、それでお願いしただけです」
角畑さんの言い分がまったくわからないわけではない、でも七一一号室で生活する者は、六一一号室の角畑さんの生活リズムに合わせろと言われるのも違うだろう。だから僕は当然そのようなお願いは拒否しました。すぐに引き下がるような人ではないことくらい、苦情の手紙を直接入れてきた時点でわかっています。当然のごとく、こちらは迷惑を掛けられているから指摘しているだけ、そもそも集合住宅で生活する場合は、下の階のお願いをその上の階に住む人は守らなければいけない義務があると言ってきた。いつからそんな義務ができたのかは知らないが。
そして必ず言うであろうと思っていた言葉を角畑さんも発しました。私はあなた方より古くからここに住んでいる。そして先に住んでいる者の権利が優先される。だからあなた方は私からの申し出を受け入れる義務がある、そんな簡単なこともわからないのか、と。
あとから入ってきた者が偉そうにするな、こちらはお前より古くから住んでいるんだぞ。まるで先住権とも言うべきこの言い分ですが、意外とこういう考えを持つ人は多い。もちろん集合住宅だから音や振動について気を付けるのは当然だと思いますが、一方的に不利な条件を呑む必要もないと僕は思う。
「このマンションの管理規約に午前〇時以降の入浴や洗濯などは控えるようにと書かれています。この範囲であればお互いさまとして受け入れるべきものではないですか? もちろんこの時間内であればいくらでも大きな音や振動を出しても良いわけではありませんが。それとも管理規約以上のものを要求し続けますか? 要求するのならば、その理由となるものを示してください」
「何を言っても屁理屈で返すような人に、私が何を言っても無駄なようですね!」
「私は屁理屈ではなくこのマンションの規約を示しているだけ、私よりあなたのほうが相当屁理屈を並べていると思いますけど」
僕がそう言うと、怒りながらドアを閉めた角畑さん。これで今日の戦闘は終了です。
「ねえ、勝、会社でもさっきみたいな感じでお客さんを追い詰めていくの?」
六階から七階の自宅に戻ると、妻が僕に聞いてきた。
「そうだな、理不尽なことや勝手なマイルールを振りかざす人には、客だろうと関係なくやり込めるよ」
もちろん譲歩できるところは譲歩するが、何もかも受け入れる筋合いはまったくないし、実際のところ店ではその時点で客ではなく営業妨害をするただの迷惑な人間として僕は認識する。
「どうりで慣れているはずだわ……、でもさあ、先に住んでいる人の意見が優先されるって賃貸ではよくあるけど、分譲マンションでもあるんだね」
そういうルールは賃貸住宅でもないけど、先に住んでいる人が自分の意見を主張したいだけだ。長く住んでいるから自分の考えや生活リズムは当然優先されると思い、周りの者は自分に合わせるのが当然だと考えるのだろう。もちろん譲歩できる範囲では協力はする。お風呂は夜一二時以降はやめてほしいと言われれば配慮はするが、さすがに八時に寝るからそれ以降は風呂に入るなは横暴だ。
「このマンションってそんなに排水音が聞こえちゃうのかな? まるで木造のアパートみたいよね。立派な図体して中身はすっからかんの建物なのかな」
僕は妻のこの言葉に激しくうなずいた。
特に古い団地などでは上下階で同じ位置に水回りの設備を設置し、ストレートに真下に向かって排水管を設置することもあり、この場合だと屋内に排水音が響くことは十分考えられる。しかしマンションでは、床下のコンクリートを這わせるように排水管が部屋から外へ出され、そこで排水管の本管に合流する形が多いはず。となると、屋内で排水音が聞こえるとすれば自宅内で大量に水を流した時、または外の本管からと言うことになる。
「コンクリートがあまりにも薄すぎて、排水音が聞こえてくるのかな?」
なるほど、それならば排水音が部屋の中で聞こえるはずだ。でもそれほど薄ければただ歩くだけで足音が響いてきそうだが。
今日は帰宅時間が早かったから六時には入浴したけど、帰りが遅い日は一一時なんてことも珍しくはない。それも飲みに行って遅くなるのではなく純粋に仕事で遅くなるだけなのに、帰宅して寝る前にシャワーも浴びにくいとなるとまた問題なんだよなあ。
夜、気になったので、外廊下に面している寝室の窓を開けてみると、上の階から流れてくる排水音はたしかに聞こえてくるが、僕にはまったく気にならないレベルだし、時折上の階の人が何かを床に落とした音のほうがよく響いてくる。もちろん音量の大小ではなく排水音自体が嫌いなのかもしれないが、それならば窓を閉めれば何も聞こえてはこないのだが。
それに我が家にだけ八時以降の排水について注文を出しても意味はなく、七階から最上階の一三階までのお宅にお願いしないと、六階の角畑さんのお宅の前の排水管に水は流れますからね。ついでに六階に降りて角畑さんのお宅を見ましたが、予想どおり外廊下に面する窓が開けられていました。日中は開けられていなかったので、夜寝る時だけ開けているのかもしれない。
昨夜は八時以降はトイレにも行かなかったけど、翌朝再び六階の角畑さんから苦情の手紙が入れられていた。
〝昨日もまた夜九時ごろに入浴されたようですが、どうしてあなた方ご夫妻は私の睡眠の妨害をするのですか。あなた方にそんな権利はありません。とにかく、私の睡眠の妨害をしないでください。六一一号室、角畑恵子。〟
「下の人、とりあえずうちに文句を言いたいだけみたいね」
僕が手紙を読みテーブルに置くと、妻は呆れたようにその手紙をごみ箱に投げ捨てましたが、僕は拾い上げて畳んでからパンチレスのファイルに綴りました。
下の角畑さんは、自分が住む部屋の上には誰も住んでほしくはないと思っているのかな。そして、少しでも早く出て行ってもらい空き家にしたいと考えているのかな。上に住まわれるのが嫌ならば自分でこの七一一号室を購入してずっと空き家にしておくとか、どこのマンションでもいいから最上階を購入して住めばいいのに。
今日は一〇時まで仕事だったので家に帰ると一一時近くになっていましたが、気にせずに入浴しました。今日はエレベーターを六階で降りて角畑さんのお宅を覗いてから帰宅したのですが、しっかりと窓は閉められていました。一一時ごろの排水音なんて窓を閉めて就寝しているから聞こえず、翌日の朝は苦情の手紙は投函されていませんでした。




