新管理員エルキュール・ポアロ登場 - 2
臨時理事会は平日午後だったのに、第一一回目の通常の理事会はこれまでと同じように一〇月の第三日曜日九時に開かれました。今日も理事会は妻に任せて僕は仕事です。
うちは今は妻が働いていないから理事会に出席できるけど、以前のように共働きになったらうちも出席できなくなるかもしれない。そうなると理事選出辞退届を出して主流派に〝一議席〟をただで差し上げることになるのかな。今の時代に誰もが日曜日に休めるだなんて考えられないし、もしも世の中のみんなが日曜日に休めるようになれば、今享受している利便性は崩壊するだろう。
「では、第一一回理事会を開催いたします、まずは先日から来ておられる管理員の挨拶からです」
「はじめまして、この度新しく管理員として働かせていただきます寺間と申します。この一週間は田割様に研修についておりましたので、週明けの月曜日から本格的に仕事をさせていただきます。至らぬところも多々あると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
すごく真面目で堅い人ってっていう感じで、管理員っていうタイプじゃないなあ――。
「前回の臨時理事会で多くの方にご賛同いただきました、大規模修繕工事の監理業務を素山建設設計にお任せする件ですが、一週間前の土曜日に正式に契約を結びました。これでようやく専門家の目で修繕工事の進捗状況全般を見ていただけることになります」
理事長も藤本さんも嬉しそうだなあ――。
次にバイク置き場の話になり、約九〇台駐車可能で現在は七七台が契約している。藤本さんたち主流派理事にすると、本当はもっと契約台数が少なくて赤字になれば良かったのにと思っているのかもしれません。しかし念願の素山建設設計と正式契約を結んだことでそんなことはどうでも良い、そんな笑顔にも見えました。
大規模修繕工事の進捗状況のほか、各戸のベランダ防水工事施工のためにベランダに置いてある物の一時撤去のお願いと、防水工事を行う日時を条川工務店から指定した手紙を各戸に配布し、日時の変更希望も受け付けることが確認されました。
ほぼ報告だけに終始した理事会だったので、反論の声が出るということもなく静かに終えました。
「寺間さん、ぐっとやってください。今日は新管理員就任の歓迎会ですから」
新しい管理員の寺間さんを近くの居酒屋へ誘い、ささやかながら歓迎会を開いていた藤本さんたち主流派理事たち。理事長や前理事長など主流派の主要メンバーが管理員をもてなす変わった光景ですが、このマンションではいつもの光景のようです。
「ありがとうございます、管理員として赴任した際にこのような宴会を開いていただいたのは初めてで、ちょっと戸惑ってます」
「管理組合、特に理事会と管理員は協力し合ってマンション運営を行っていくわけですから、同じ仲間として歓迎するのは当たり前ですよ、どうぞ飲んでください」
当然ですが藤本さんたち主流派理事が管理員をもてなすのには理由があります。
「ところで、管理員って正直なところ実入りはもう一つじゃないんですか?」
「まあ、それは仕方がないかなと思ってやってますよ」
「でも少しでも収入を上げたくはないですか?」
「もちろん、一円でも多いほうがいいですよ」
そこまでを聞き出した藤本さんは早速寺間さんの耳元で何やら呟き、話を聞き終わった寺間さんはニヤッと笑ってうなずいた。
一方の僕は仕事から帰宅していつものように妻との話を展開しますが、理事会は管理員の紹介とバイク置き場の契約台数の事、大規模修繕工事に関する話だけで平穏無事に終わったようです。
「藤本さんたちは、素山建設設計と契約を結べたからそれで満足しているんだろうな」
新しい管理員の印象は、管理員と言うよりは銀行員とか役場の窓口に座っている人のような感じで、西杉さんが言うような管理費の調査のために来た捜査員には見えなかったという。
「新しい管理員さんには、こちらからは何も言わないほうがいいのかなって思うんだけど」
「今のところ管理費の不正経理を調べに来た人だという確証がないし、用心するほうが絶対にいいと思うよ」
西杉さんによる情報を信じないわけではないが、用心深く接することに越したことはない。自分たちの考えなどを下手に話して、マンション中に広められたらたまったものではないから。
「そうでしょ? でも、今の主流派の高笑いを何とか打破したいんだけどなあ、そのきっかけもないし……」
「条川工務店の山本社長や紅阪工事事務所の岡田さんとのパイプを切らないようにして、主流派の出方を探って突破口を見つけるしかないだろうな」
今でも週に最低一度は詰所にお邪魔して話をするようにしている。主流派の事や工事に関する話以上に、雑談するために寄っている感じです。堅い話ばかりしていてもその関係は続かないですし、フランクに、友達と言う感じで話し掛けるほうがその関係は続くと思うから。
「ねえ、土尻さんとはどういう距離感で付き合うのがいいのかな?」
土尻さんのご主人の話を西杉さんから聞いてから、奥さんに対しても警戒感を抱いてしまう妻。奥さんと話をしていると楽しいけど、どうしてもマンションや主流派の話になってしまい、言ってはいけないことを言い出しそうで困ると言う。
大規模修繕工事や素山建設設計の話になって、土尻さんのご主人って一人っ子なんですね、なんて言ってしまいそうになったらどうしようと妻は真剣に悩んでいたので、素山建設設計に決まったからもうこのマンションのことはどうでもいいかなと思うと、次に会った時に最初に土尻さんの奥さんに言えばとアドバイスを送った。
「最初に相手に一発食らわせてダメージを与えて、そこから世間話に持ち込めばいいんだね」
とにかく現状は誰と誰が繋がっているという確実な証拠がないために、マンションの住人も管理員に対しても疑心暗鬼を生じてしまう。妻はずっと家にいるから、どうしたって悪い方向へ考えがちになる。
「〝やれやれだぜ〟とんだマンションに来ちまったぜ。〝確実! そう、コーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実じゃッ!〟ってくらい誰がどの件と繋がっているってわかればいいんだけどなあ」
数日後、午後からの出勤なので家でくつろいでいた朝一〇時過ぎのこと。
「おはようございます、管理員の寺間です。ご主人がおられるときにお宅へうかがいたいのですが、ご都合の良い日をお聞かせできればと思いまして」
インターホンが鳴り妻が出たのですが、その主は管理員の寺間さんでした。妻が僕に目で合図をしてきたので、僕はOKと指で返した。
「今、主人はいますし、来てもらってもいいのですけど……」
「ありがとうございます、では五分ほどしたらおうかがいします」
インターホンを切った妻に僕が、
「あの話し方だと僕に用事があるのかな?」
「それっぽいけど、何の用事なのかは言わなかったわね」
そんな話をしていると再びインターホンが鳴り、僕と妻の二人で玄関先へ出ていくと、
「お休みのところすみません」
「休みではなく、午後から仕事です」
ぶっきらぼうに返事をした僕。おそらく怪訝そうな顔をしているのでしょう、僕の顔を見る管理員はやや強張った表情をしているように見えた。とにかく僕も妻もこのマンションに関係する人たちに対して、好意的に接することができなくなっている。〝マンションブリーザ幕路恐怖症〟という病気にでも罹患したのかな。
「この度、当マンションの管理員を任された寺間と申します」
管理員は挨拶しながら名刺を差し出してきたので、
「竹盛と申します」
とだけ言って、僕も名刺を差し出し交換した。玄関先ではなくうちへ上げても良かったのですが、まだ信用しきれないから玄関先で立ち話をすることを選択した。
「竹盛さん、だいたいの話は清掃員の西杉からうかがいました。今回の大規模修繕工事以外でも何かおかしいと思われることはありますか」
「まあ、おかしいと思うことは多々ありますけど……」
「そうよね、おかしなことだらけっていう感じよね……」
寺間さんは、先日の理事会の後に理事長たちが主催の歓迎会に参加したと言い、その場で藤本さんから管理費の横流しに協力してほしいと言われたそうです。寺間さんは今回、そのような不正の調査のために管理会社から派遣されているが、ここまでストレートに伝えられたことは過去になく病巣の深さに驚いたという。
僕に対して横領や裏金の証拠ともなるべき証言を話しても問題はないのか、僕には疑問だった。今聞いた情報が嘘か本当かはわからないが、とにかく僕に適当に吹き込んで何かを聞き出し、藤本さんたち主流派理事に情報を流すために近付いてきたのかと思ったのです。
寺間さんは僕から情報を聞き出すつもりはまったくないし、そもそも急に現れた管理員に対して警戒感を抱くのも普通の反応。今日は寺間さん本人がどのような人物なのかを説明に来ただけだと言う。
「多少は西杉さんからの説明を妻を介して聞いていますけど……」
「先ほどお渡しした名刺はこのマンションでの管理業務用のもので、私は実はですね……」
そう言うと別の名刺を僕に差し出し、それを受け取った僕を見ながら何やら資格証のようなものを提示してきた。その名刺には税理士法人の名前とともに寺間さんが取得している公認会計士などの資格の名前が並んでいて、提示してきた資格証は税理士やマンション管理士を示すものだった。
寺間さんは税理士法人に所属しており、管理会社からの依頼で管理員になりすまして、大規模修繕工事でのリベートの受領のほか管理費の不正使用などを調査する仕事をしているという。これ以上詳しいことは何も言えないらしい。
「でも僕に話したことで、寺間さんのことがマンション中に知れ渡ったら調査どころではなくなりますよね」
寺間さんは僕を信じていることと、先日の藤本さんの言動でこのマンションで今どのような不正が行われているのかはだいたいわかったそうだ。このあとは関係帳票類の確認が主になるそうで、管理員室に残る帳票類のほか、管理会社で保管されている帳票類の調査もあると言う。ただし今回の件はマンションブリーザ幕路の調査だけでは済まないので、解決までにはまだ時間がかかるらしい。
「このマンションだけではない?」
「ええ、調査対象は十数棟のマンションになりますから」
「あの……、守秘義務とか、大丈夫なんですか?」
寺間さんは何も言わず、ニコッとしながら頭を下げ、管理員室へと帰って行った。
時間にして二〇分にも満たなかったが、このマンションで何かすごい動きがあることを聞いた。でもにわかに信じられないし、そんなドラマの中ではありそうなことが現実に起きるとも思えない。そもそも潜入調査なんて、いかに誰にもそれとわからないように行動するものなのに、自分から調査しているとかこういうことを言われましたなんて言い出すことはないはず。
逆に我が家を試しているのかなと疑ってしまうのです。寺間さんが我が家にだけ言ったことがマンション中に広まっている、だから竹盛は信用ならないやつだみたいな感じで。
「今後も管理員が訪ねてくるかもしれないけど、こちらからは何も言わずにただ話を聞いておけばいい。とにかくこちらからは何も言わない、ヒントも与えない、佳奈、これで行こう」
「〝狂った人間に対する最良の答えは沈黙だ〟ってトルストイも言ってるし、あの管理員さんがもしも狂っていたら、やっぱり沈黙が最適よね」
「今回の騒動が解決して、寺間さんが本当に潜入調査をしている人だったとわかれば、普通に話せばいいんだし」
「そうよね、それまでは挨拶くらいはするけど、こちらからは話し掛けないようにすればいいんだよね」
「そうそう、清掃員の西杉さんだって最初は主流派の手下だと思って警戒していたけど、あれと同じだよ」
このマンションに住みだしてからは、どんどん人を信じることができなくなる僕と妻。悲しいことかもしれないけど、迂闊に人を信用してはダメだということをこのマンションで教わってしまったのです。




