お金のためならどんな手を使ってでも - 3
一〇月の第一日曜日に急遽臨時で第九回目の理事会が開かれることになり、いつものように妻が出席しました。議題は大規模修繕工事の監理業務を行っていた敷上設計と契約を解除したけど、今後も工事の監理業務は必要だとして素山建設設計と契約を結ぶ意向だが、理事の率直な意見をうかがいたいとのこと。
「敷上設計のほうから契約を解除したいと申し出があったと前回の理事会でお聞きしましたが、それは間違いないですね」
理事長の冒頭の挨拶や今日の議題と臨時理事会を招集した理由を説明し終わると、すぐに土尻さんが質問をぶつけました。理事長は敷上設計側から監理業務を続けることはできないと申し入れがあり、理事会や管理組合としては苦渋の選択であり、仕方がなく渋々契約の解除を認めたと説明しました。
もちろん妻は、理事長が真っ赤な嘘をついていると思いながら聞いていましたが。
土尻さんは理事長の答えに対して、相手方からの契約解除なのだから違約金は受け取ったのか、そして前回の大規模修繕工事で工事費吊り上げの疑惑がある素山建設設計を、なぜ敷上設計の後釜として監理業務の委託を行おうとするのかを質しました。
言われみれば当然ですね、相手方からの契約解除ですから違約金を請求するのも当然だし、前回の大規模修繕工事での素山建設設計の工事費吊り上げ疑惑を訴えていたのも土尻さんですから。
ただ理事長からの回答は想定問答集でも用意していたのか反論しにくい回答で、監理業務だけを請け負う会社は少ない中、素山建設設計に藁をもすがる気持ちでお願いしたところ快く引き受けてくれた。敷上設計に関しては設計指示書の作成など尽力いただいたのは事実だし、苦渋の決断で契約解除に至ったのであると思われるから違約金は請求せず、これまでの業務に対する対価はすべて支払った。
また素山建設設計はかなり安い金額で監理業務を請け負ってくれる予定で、敷上設計一社にコンサル業務すべてを任せるよりも、結果的には安くなると説明した。
やっぱり主流派ははじめからこの展開に持ち込むつもりだったんだ、はじめから敷上設計は当て馬として契約していたんだ、と妻は思ったようですし、いつまでもそんな噓が通用するはずはないとも思ったようですが、理事会での展開は主流派の筋書きどおりに進んでいきます。
大規模修繕担当の横江さんが、素山建設設計は損するとわかっているが、これまでにマンションブリーザ幕路にはお世話になっているからと引き受けてくれた、だから何とかこの理事会での承認を得られないかと訴えた。
「私は素山建設設計でいいと思います、最初から素山に任せておけばこんな事態に陥らなかったのに」
牧落さんは安定の素山建設設計推し。こういうところを見ているとやはり、牧落さんは素山建設設計の社長の妹かなと思ってしまう。それに妻すれば父の会社に送り付けられた悪口の手紙の件、あれは牧落さんではないかと疑っているので、どうしてもネガティブな目で見てしまいます。
「そもそもですが、監理って必要ですか?」
工事に入る前にマンションの状態を確認し、補修や修繕する箇所を把握して設計や仕様を決める業務は必要だけど、工事に入ればあとは施工会社に任せても問題ないのでは。そもそも一戸建ての補修工事で監理業務をお願いすることはないと、中立派の大久野さんが質問した。
妻も大久野さんの質問を聞いて、たしかに施工会社に任せておけば大丈夫じゃないかと思ったらしく、それこそ施工後は一〇年間の保証を付けさせるとか、お金を掛けずにできる対策があると思ったらしい。
大規模修繕担当の横江さんは当然のごとく反論し、素人の管理組合では工事の状況を正しくはチェックできないのだから、専門家に任せるのは当然。そしてマンションの修繕工事にかかる費用が莫大なのだから、監理業務を付けるほうが良いに決まっていると。
たしかにマンションの場合は億というお金が動くこともあるので、言っていることは理解しつつも、
「一戸当たりの修繕費用はマンションのほうが安いですよね」
大久野さんの返しに、妻は心の中で激しくうなずきました。
さらに大久野さんは、そこまで執拗に監理業務を行う会社を付けたがっているのは、施工会社をまったく信用していないのだと主張しているようにしか聞こえないと、横江さんに対して追い打ちを掛ける。妻は両施工会社の責任者と話をしたから、私にすれば素山建設設計のほうが信用できないよと思った。
ここで引き下がれば主流派が描いた筋書きから外れてしまう、それだけは阻止しなければという様子がうかがえる横江さん。監理業務の一戸当たりの負担額は小さいから使わない手はないといった、あやふやな回答しかできなかった。
「私はまったく納得できないなあ……」
大久野さんは賛成しかねると言った態度のまま話を終わらせたが、監理する素山建設設計が手を抜いたらどうするのと、監査役の松尾さんが横江さんに質問した。
「それはないですよ、素山建設設計はきちんとした会社ですから」
この回答に対して、施工会社はきちんとしていないから手を抜くが、監理する会社は手を抜かないというように聞こえるが、それだけ信用できないのならば、施工会社も契約を解除すればいいのではないかと再び質問。
「そう言うことは言っていませんけど……」
防戦一方になる横江さんに対して松尾さんは、施工会社にしろ監理業務を行う会社にしろ手を抜くようなことはないと思っているから、監理する会社なんていなくとも問題なく工事は進捗する。少しでも支出を抑えるためにもどことも契約せずに、このまま工事を進めればいいと発言。
横江さんは何かあってからでは遅いし困るとやや小さ前の声で反論はしましたが、松尾さんは前回の大規模修繕工事が相場に比べて二、三割高くなったのは素山建設設計が原因だし、そんな会社を理事長や大規模修繕担当の二人がやたらと推すことに違和感しかないと、ストライクゾーンに剛速球を投げ込んできました。中立派の大久野さんや松尾さんの目にも、素山建設設計は黒に近いグレーと認識されているようです。
前理事長の藤本さんをはじめ主流派はみんな素山建設設計推しなのかと思っていたら、なんと主流派の中では伏兵の筒井さんが、素山建設設計の監理業務には疑問があると発言したのです。長い間理事をされている方は、誰よりもこのマンションのことをよく知り最善を尽くされているとは思う。しかし、素山建設設計の監理業務に関しては疑問に感じることがある。
前回の大規模修繕の際にはベランダの防水工事が施工不十分でやり直しになったそうだが、再施工で訪れた作業員の方にかなり粗悪なシートを使っているし、下地処理も雑すぎると指摘されたという。それも筒井さんのお宅だけではなく何軒かのお宅で同様に再施工が行われ、いずれも同じ指摘があったという。
主流派の筒井さんまでが反対に回った。防水工事の再施工があったんだ、さすがに普段は主流派を推している方でも、これで素山建設設計を信用しろと言われても無理だよね――。
妻はそんなことを思ったのですが、ここまで黙って話を聞いていた土尻さんのご主人が、なぜ素山建設設計をそこまで推すのか、この中に関係者でもいるのかと声を出したのですが、理事長からの返答は関係者はいない、あくまで仕事ぶりを評価して推しているだけだと答えたのですが、
あれ? 土尻さんのご主人も、素山建設設計の関係者がこのマンションに住んでいることは知っているはず、主流派の人を揺すぶって聞き出す作戦だったのかな、それにしても牧落さんは表情一つ変えないけど、素山建設設計の社長の妹って牧落さんではないのかな――。
妻はいろいろなことを考えながら黙っていたようです。
再施工まであるほど雑な工事だったのに追加徴収があったのはおかしい、元々の見積りが安かったからだ、いや最初の見積りから相場より二、三割は高かったといった論戦は続きましたが、
「えっと、議論は尽きないようですが、ここで素山建設設計への契約について採決に移ります」
これ以上話をすると素山建設設計との契約が危うくなると思ったのか、理事長が強引に採決に移る。素山建設設計との契約に賛成の理事は挙手するように促される。
「待ってください、そもそもこの問題は総会で区分所有者全員からの賛否を問うべきものじゃないのですか?」
大久野さんが疑問に思って質問したのですが、
「総会開催となると監理業務をお願いする会社決定までの時間がかかりすぎますので、今回は緊急に理事会で決定するべきだと思った次第です」
理事長に続き管理会社の田割さんが、
「コンサル会社のほか施工会社決定の際の総会資料に、万が一契約継続が不可能となった場合には、理事会によって新たな契約先との締結を決定する場合があると但し書きが入っておりました。総会の資料をお持ちの方はご覧ください」
土尻さんは持参した総会の資料をめくると、たしかにその一文が入っていることを確認した。
でも、そんな決め方で良いの? ちょっといい加減すぎない? でも管理会社の方がそう言っているから問題ないのかな?――。
こんな決め方が良いのか悪いのかさえわからない妻は、黙っておくしかなかった。
改めて理事長に、素山建設設計との契約に賛成の理事は挙手するように促されると、挙手したのは主流派七人中五人と牧落さんの六人、挙手しなかったのは五人、中立派の松尾さんは監査なので投票に参加できず、
「六対五ですので素山建設設計との契約は決しました」
理事長や藤本さんが満面に笑みで嬉しさを表したのですが、妻が質問をしたいと手を上げた。このまま可決されるとマズいと思ったようです。
「素山建設設計の件は決しましたので、他に何かあればどうぞ」
笑いをこらえようとしない理事長は、笑顔のまま妻に向かって話しました。
素山建設設計の件ではありません、この理事会のことでお話ししたいことがあると切り出すと、笑顔のままの理事長がどうぞと答える。
「ではお聞きしますが、この理事会の場でウソを報告するのはいいんですか?」
それはさすがに許されることではない、という理事長の言葉を引き出した妻はすかさず、
「敷上設計の西田さんは、こちらから契約を解除することはないとおっしゃってましたよ」
一瞬驚いたような表情を見せた理事長に対して妻は、管理組合から契約解除を申し出てきたとこの耳ではっきりと西田さんから聞いたと告げた。
理事長だけではなく、藤本さんをはじめ主流派理事たちがそろって落ち着きをなくし、キョロキョロと辺りを見回したり、理事会の冊子を何度もトントンと音を立てて机に当てて揃える仕草をしたり、妻の顔を睨みつけてきたりもした。そんなことを気にする様子も見せずに妻は、
「信義則に反するので契約を解除すると、川田さんと横江さんに言われたとはっきりとお聞きしました」
声が出せない主流派に対して大久野さんや松尾さんは、それは真実なのかと妻にたずねてくるので、先日主人と二人で敷上設計へ行き、担当だった西田さんに詳細に聞いてきたと答える。
落ち着きをなくしていた主流派の人たちは我に返ったのか、妻に反撃を仕掛けてくる。出鱈目を話してはいけない、作り話をするなと一斉に声を荒げる。その様子を見た妻はポケットからボイスレコーダーを取り出し、みんなに見えるように掲げてから、今からすべてを再生して聞いてもらいましょうかと、まるで急所を突くように低い声で話した。
そんなものがあるはずはないと、まだ抵抗を続けようとする藤本さんですが、
「敷上設計と契約を解除する前から素山建設設計が後釜だと言っていたようですね、やっぱり理事長さんたちにとって素山建設設計は何か都合がいいんですか? その部分だけここで再生しましょうか?」
大久野さんや松尾さんでさえ信じられないといった言葉を発しましたが、実際に録音しているので妻はまったくひるみません。
「素山建設設計と契約してもいいですけど、これまでのマンション会計をすべて専門的な人に見てもらうほうが良いのかなという気はしています。だって私は帳簿類を見たって何が何だかわかりませんから」
妻のこの言葉に顔から笑みは消え失せて強張らせる主流派の人たち。先ほど可決した素山建設設計との契約でしたが、集会室にはそんなことを忘れてしまうほどの激しい衝動に見舞われたような、鈍器で頭を殴られたような、魂を吸い取られて殻だけになったような、とにかく今日理事会で話し合われたことが一瞬ですべて吹き飛んでしまったような、虚無な空間と化してしまった。
「あの……、今日の採決は中止します。改めて臨時理事会が必要ならばまた集まっていただきます。御足労いただきありがとうございました」
理事長が閉会を告げると、みんなが呆然とした表情をして集会室を出て行った。
祝勝会のつもりで予約していた夕方の居酒屋で、理事会のショックから立ち直れずに愚痴をこぼし続ける主流派の理事たち。こういう時に人の本性が現れるもので、前理事長の藤本さんや理事長の山下さんは、妻が敷上設計に行ったという話はハッタリであり、土尻からの入れ知恵だと自分に言い聞かせて自分たちの筋書きは破綻していないと信じ込もうとした。楽観的な考え方に逃げ込もうとする人たちです。
それに対して会計の溝口さんは、妻は本当に乗り込んで行き会話を録音しているように思う、ひょっとするとハッタリかもしれないが、ここは本当に乗り込んで行ったものとして対策を考えるべきだと発言した。主流派の中では少ない悲観的にものごとを捉えようとするタイプのようです。安全志向ではあるものの、主流派の中では頭を取ることはできず、常に三番手や四番手にしか座れないタイプかもしれません
溝口さんの発言を聞いてもなお楽観的な山下さんに対して、藤本さんはすぐに軌道修正を図る。ここは溝口さんの意見に従い、竹盛や土尻は敷上設計と接触を図ったものとして対処すべきだと判断を覆した。藤本さんには臨機応変さも備わっているらしい。
副理事長の川田さんは、土尻や竹盛が条川工務店や紅阪工事事務所と接触していないか心配なようで、敷上設計から聞いた話を両社に漏らしていたら、さらにまずいことになるかもしれないと藤本さんに相談するが、山下さんや大規模修繕の横江さんが我々が手を回しているから大丈夫だと断言する。
ここでは藤本さんの楽観的思考が顔を出したわけです。ただし、念には念を入れることも必要として、それぞれの監督者にさらに袖の下を渡しておくように指示を出し、主流派の理事以外とは接触ししないように、もしも接触を図ってきたらすぐに連絡するように釘を刺しておけと命令する。このように楽観的思考に加えて、臨機応変な対応もできるから藤本さんは主流派の頭に位置しているのかもしれません。
「最悪のケースですが、素山建設設計と契約できなかった場合のことも考えるほうが良いですか?」
川田さんは心配性なようで、藤本さんにたずねたのですが、
「素山建設設計と契約することだけを考える。契約できなかったら〝あの人〟が黙ってはいないだろう」
「たしかにそうですね……」
〝あの人〟とはいったい誰なのだろうか、清掃員の西杉さんが以前に話していた〝黒幕〟のことだろうか。土尻さんも僕も、主流派の後ろに隠れる黒幕の存在には気付いてはいない。
夜一〇時半ごろに仕事から帰り、妻にお茶を入れてもらった。妻と向かい合わせになるように席に着き今日の理事会の様子を聞いた。
今日の臨時理事会がなぜ招集されたのかはわかっているので、素山建設設計との契約は可決したのかをたずねると、六対五でいったん可決したものの、妻の猛攻によって採決自体がなかったことになったのか、何も決まらずに理事会を終えたという。
「ボイスレコーダーの音声も聞かせたの?」
「ボイスレコーダーは再生しなかったけど、本当に焦っていたわよ。ついでにこれまでの帳簿類を会計に詳しい人に見てもらってもいいかもって言ったしね」
なるほど、それだと主流派はこれまでの悪事がすべてバレると焦るだろうし、いくら採決でいったんは素山建設設計との契約が認められたとしても、そのまま推し進めることはできないだろう。
「へえ、佳奈、本当に頑張ったんだね!」
「〝うほほーい! 勝にほめられちった〟」
上手く止められたことも良かったけど、それ以上に今日は敷上設計との接触しか話さなかったというからさらにファインプレーだと思った。この先、僕や妻が条川工務店や紅阪工事事務所との接触を図るはずと思った主流派は、必ずこれらの施工会社に対して圧力を掛けると予想している。
ただ大手の自走式駐車場メーカーの一次下請けの紅阪工事事務所は、おぞらく主流派の圧力には屈しないだろう。問題は条川工務店だ。現場の責任者を社長が務める規模の会社だから、受注した工事の一件一件の重みが紅阪工事事務所とは比べ物にならないほど重いはずだ。
契約の破棄を主流派にちらつかされたら、いくら工事に真摯に向き合う社長であっても屈してしまう可能性は高い。そこに現金を握らせようと主流派が近付けば、従業員のためにも渋々受けざるを得ないかもしれない。
「〝人間よりは金のほうがはるかに頼りになりますよ。頼りにならんのは人の心です〟なんて言うからね、いざとなれば、あの条川工務店の社長でもお金のほうに付いて行くのかも……」
「またすごく深い言葉だな」
妻は祖父から聞いたという小説家の尾崎紅葉の言葉を締めの一節に選んだ。僕もその言葉を聞き、たしかにお金に負けない強い心なんて常人は持ち合わせているはずはないと思ったし、僕が岡田社長の立場だったら主流派に屈してしまうだろうとも思った。
とにかく妻には、条川工務店や紅阪工事事務所との接触については何も言わないほうがいいし、会話を録音したボイスレコーダーの存在も内緒にしておくようにお願いした。
「それとさあ、素山建設設計の社長の妹というのも気になるんだよね」
今日の理事会でも牧落さんは素山建設設計推しだったらしい。ただ理事会で関係者がいるのではないかと言う話になった時にも牧落さんは顔色一つ変えなかったようだから、見込み違いなのかもしれないという思いもある。
ひょっとすると素山建設設計の社長の妹が主流派の黒幕で、それは牧落さんだったら? それを知る手掛かりがまったくないからお手上げだし、調べようがないしなあ。
「〝誰にでもできる事とできねェ事がある。佳奈にできねェ事は勝がやる。勝にできねェ事は佳奈には無理だ〟だから勝はすべてを頑張れ! 私は言われたことだけを頑張るから!」
「サンジの言葉か、でも佳奈、楽しちゃダメだよ、とにかく頑張ってみなきゃ……」
「〝嫌なこと、不得意なことは一切やらずに、得意なことだけをやるようにしていた〟って本田宗一郎さんも言っているんだから、私はできることと勝に言われたことだけ頑張るんだ」
「まあ、邪魔されないよりはいいのかな……」




